夕礼拝

約束された聖霊を注がれて

5月28日(日) 夕礼拝 ペンテコステ
「約束された聖霊を注がれて」 副牧師 川嶋章弘
・ヨエル書第3章1-5節
・使徒言行録第2章29-42節

ペンテコステを迎えて
 ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。本日の夕礼拝では、使徒言行録が語るペンテコステの出来事に聞いていきます。ペンテコステの日に起こった出来事は、使徒言行録2章1節に始まり42節に至るまで語られています。弟子たちが集まっているところに聖霊が降り、聖霊で満たされた弟子たちが色々な国の言葉で「神の偉大な業」(11節)を力強く語り出した。私たちはこのことがペンテコステの日に起こったと思いがちですが、このことだけが起こったのではありません。42節までに語られていることのすべてが起こったのであり、その全体を通して聖霊が降り教会が誕生したことを語っているのです。本日は29節以下で語られていることを中心に、聖霊が降り教会が誕生した恵みを共に味わっていきたいのです。

ペトロの説教
 一体、ペンテコステの日に何が起こったのか。このことが本日の箇所の33節に実に簡潔に語られています。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」。「あなたがた」とは、2章の冒頭で、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ…家中に響いた」と言われている、その物音を聞きつけて集まって来た大勢の人たちのことです。彼らは集まって来ると、弟子たちが自分たちの故郷の言葉で「神の偉大な業」を話しているのを見聞きして、驚き、戸惑い、あるいは嘲ったのです。
 本日の箇所の29節から36節までは、その大勢の人たちに対して、使徒たちの代表としてペトロが語った説教の後半部分です。このペトロの説教は全体として、このとき一体何が起こっていたのかを説き明かしていますが、その中心が先ほどお読みした33節の「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」といえます。ですから私たちは33節を中心として、この説教の後半部分に目を向けていきたいのです。

ダビデの言葉
 「それで、イエスは神の右に上げられ」とペトロは語ります。主イエスが神の右に上げられたこと、すなわち主イエスの昇天は、主イエスの十字架の死と復活と切り離すことができません。だからペトロはこの説教において「それで、イエスは神の右に上げられ」と語る前に、29-31節で、主イエスの十字架の死からの甦りを語っているのです。
 その冒頭29節に「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます」とあります。これは、直前の25-28節で引用されている旧約聖書詩編16編7-11節の説き明かしです。ペトロは25-28節で、ダビデの言葉として16編7-10節を引用していますが、27節に「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない」とあります。これがダビデの言葉であるならば、ここで「あなた」とは主なる神様で、「わたし」とはダビデ自身を指している、と読むのが普通です。つまり「主なる神様は、ダビデの魂を陰府に捨てておかれないし、ダビデを朽ち果てるままにしておかれない」と読むのです。平たく言えば、ダビデは死んだままではなく、その死体が朽ち果てることもない、ということです。しかしペトロはこのダビデの言葉をダビデ自身について語っていると読むのは間違っていると言います。その理由が、ダビデは「死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言え」るからです。要するにダビデは死んで葬られ、その死体は朽ち果てたのだから、27節で引用されているダビデの言葉は、ダビデ自身について語っているのではない。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず」の「あなた」は主なる神様に違いないけれど、「わたし」はダビデ自身ではあり得ない、とペトロは語ったのです。

主イエスの復活を指し示している
 では、「わたし」とは、誰を指しているのでしょうか。ペトロは30節でこのように語っています。「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」。ダビデの言葉は、ダビデ自身について語っているのではなく、「彼から生まれる子孫の一人」について預言しているのです。ダビデが知っていた神様の誓い、神様が自分の子孫を王座に着かせてくださるという誓いは、預言者ナタンを通してダビデに告げられたものです。旧約聖書サムエル記下7章5節以下に預言者ナタンがダビデに告げた預言が語られていますが、その12節に「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」とあり、また16節に「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」とあります。ダビデの死後、おおよそ400年後に王国は滅亡しましたが、王国滅亡後もイスラエルの人たちは、この神の誓いは失われていないと信じ続けました。ダビデの子孫からメシア(救い主)が生まれ、そのメシアによる支配が実現する、という神様の誓いとして信じ続けたのです。ですからナタンを通してこの神様の誓いを知っていたダビデが預言した「彼から生まれる子孫の一人」とはメシア(救い主)、すなわちキリストにほかなりません。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない」の「わたし」とは、キリストのことであり、このダビデの言葉はキリストについて預言している、より正確にはキリストの復活を預言しているのです。だから31節で「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」と言われているのです。ペトロはここでもう一度詩編16編10節を引用し、このダビデの言葉は、キリストの復活を預言していると告げました。キリストこそ陰府に捨てておかれず復活させられたのであり、しかも体を持たずに復活させられたのではなく、朽ちることのない体を持って復活させられたのです。十字架で苦しみを受け死なれた主イエス・キリストは、朽ちることない体を持って復活させられ、新しい命、永遠の命に生きておられる。ペトロは自分たち十二人がこのことの証人、このことの目撃者であると語っているのです。

主イエスの昇天を指し示している
 ダビデの言葉が主イエスの十字架の死からの復活を指し示していると説き明かした後で、ペトロは「イエスは神の右に上げられ」と語りました。主イエス・キリストは十字架で苦しみを受けて死なれ、三日目に甦り、そして天に昇られ、父なる神の右におられる。このすべてが「イエスは神の右に上げられ」という言葉に詰まっています。そしてペトロは主イエスの昇天についても同じようにダビデの言葉が指し示していることを34-35節でこのように説き明かしています。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』」。このダビデ自身が言った言葉とは詩編110編1節の引用です。この言葉において、神様が「わたしの右の座に着け」と告げた相手である「わたしの主」とは、天に昇らなかったダビデ自身ではありえません。別の人を指し示しているのです。その人こそ主イエス・キリストであり、ダビデは主イエス・キリストこそ神の右の座に着かれる方である、と預言したのです。

約束された聖霊を注がれて
 このように33節を挟むようにして、ダビデの二つの預言が実現したと語られています。聖霊が降ったことは、復活の預言の実現を語る29-32節と昇天の預言の実現を語る34-35節に挟まれた33節で語られているのです。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」。復活された主イエスは四十日に亘って弟子たちに現れ、彼らに聖霊が降るのを待つよう命じられました。1章4-5節で主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と命じられていますが、この「父の約束されたもの」こそ聖霊にほかなりません。また8節でも主イエスは弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われていました。主イエスが天に昇られた後、弟子たちはこの主イエスのお言葉を信じ、「父の約束されたもの」である聖霊が降るのを待ち続け、求め続けました。復活の主イエスに出会ってなお、彼らは自分たちが主イエスを裏切り、見捨て、逃げ出したことに打ちのめされていたに違いありません。自分たちの取り返しのつかない罪によって、彼らは生きる力を失っていたのではないでしょうか。まして主イエスの復活の証人になれるなんて思えなかったはずです。主イエスを裏切り見捨て逃げ出した罪人である自分たちに、主イエスの救いを証しする力があるはずはない、と思っていたからです。しかし主イエスはそのような彼らの上に聖霊が降ると、彼らは力を受けて地の果てに至るまで主イエスの復活を証しするようになる、と約束されたのです。そして主イエスのお言葉通り、天に昇られた主イエスが約束された聖霊を父なる神から受けて、弟子たちの上に注いでくださいました。主イエスが「約束された聖霊を御父から受けて注いで」くださったとは、父なる神様と子なる主イエス・キリストが、弟子たちの上に聖霊を注いでくださったということです。父なる神と子なるキリストから約束された聖霊を注がれた弟子たちは、自分たちの内にある力によってではなく、聖霊に満たされることによって、主イエスの十字架と復活による救いを力強く宣べ伝え始めます。「あなたがたは、今、このことを見聞きしているのです」とは、まさにこのとき、天に昇られた主イエスの注いでくださった約束された聖霊に満たされて、ペトロが主イエスによる救いを力強く宣べ伝えているのを、人々が目の当たりにしていた、ということなのです。

神の救いの歴史の中で聖霊に導かれて歩む教会
 ペトロが人々に、そして私たちに告げているのは、主イエスの十字架の死と復活、昇天、そして聖霊の降臨は、(旧約)聖書のみ言葉の実現であるということです。それは、主イエスの十字架の死と復活、昇天、聖霊の降臨が旧約聖書と切り離すことができない、ということにほかなりません。旧約聖書と新約聖書は一貫して神の救いの歴史を語っているのです。この神の救いの歴史の中で、ペンテコステに聖霊が降り教会が誕生しました。使徒言行録を読み進めて行くと分かるように、誕生したばかりの教会は、また使徒たちの伝道は聖霊のお働きによって導かれていきます。その意味で使徒言行録は、使徒たちの活躍を語っているのではなく聖霊のお働きを語っているのです。ペンテコステに始まり2000年を超えて続いているキリストの教会は、神の救いの歴史の中を聖霊によって導かれて歩んできました。私たちの教会はその最前線にいるのです。私たちはしばしば困難や危機に直面するとき、目の前のことにばかりとらわれ、自分たちの力を頼みとしてなんとかしようとしてしまいます。しかしペトロの説教を通して示されているのは、私たちの教会が、天地創造から始まる神の救いの歴史の中に入れられ、十字架で死なれ、復活され、天に昇られた主イエス・キリストが注ぎ続けてくださる聖霊の導きによって歩んでいる、ということです。まさに今、コロナ禍によって傷つけられたキリストの体である教会の再建という困難な道を歩んでいる私たちは、ペンテコステにこのことをこそ受け止め、困難の中にあっても聖霊のお働きと導きを信じて歩んでいきたいのです。

十字架の死から聖霊の降臨に至る一続きの出来事
 ペトロの説教は、主イエスの十字架の死と復活、昇天、そして聖霊の降臨が一続きの出来事であることをも示しています。それは、ただ十字架の死の後に復活、復活の後に昇天、そして昇天の後に聖霊の降臨が順々に起こった、というだけではありません。主イエスの十字架と復活、昇天、聖霊の降臨を通してこそ、イエスが主であり、メシアであることが示された、ということです。ですからペトロは、この説教をこのように締め括っています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。このことは、主イエスが十字架で死なれ復活し、天に昇られ聖霊を注いでくださったから、神様がイエスを主とし、メシアとした、ということでは決してありません。神様が世に遣わされた、メシア(救い主)である主イエスが、私たちの罪をすべて担って十字架で死んでくださり、その死に打ち勝たれて復活され、天に昇られて聖霊を注いでくださったのです。しかし私たちが、イエスは私たちの主であり、私たちの救い主(メシア)であると知ることができるのは、主イエスの十字架の死から聖霊の降臨に至る一続きの出来事を通してです。そのことを通してのみ私たちは本当にイエスが私たちの主であり、救い主であると知ることができるのです。別の言い方をすれば、十字架の死と復活だけを見つめていては、つまり昇天と聖霊の降臨を見つめることなしには、主イエスが救い主という信仰を私たちは確かのものにできない、ということです。なぜなら昇天と聖霊の降臨を見つめることなしに、今、天におられる主イエスが、聖霊のお働きによって地上に立てられた私たちの教会と、地上に生きている私たちと共にいてくださり、導き支え守っていてくださる、ということは分からないからです。主イエスの十字架と復活による救いの恵みの中を歩みとは、天に昇られた主イエスが注いでくださる聖霊の導きによって歩むということです。その歩みの中で、私たちに主イエスを救い主と信じる信仰が与えられ、日々、確かなものとされていくのです。

大いに心を打たれ
 37節以下では誕生したばかりの教会について語られています。聖霊が降り、聖霊に満たされ弟子たちが主イエス・キリストによる救いを宣べ伝え始めたところに教会が誕生しました。その誕生したばかりの教会に、41節にあるように、三千人ほどのメンバーが加えられたことも、同じペンテコステの日に起こりました。37節に「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とあります。「これを聞いて」とは、これまで見てきたペトロの説教を聞いて、ということです。人々はペトロの説教を聞いて大いに心を打たれたのです。それはペトロの説教に感動した、感銘を受けたということではなく、自分たちが自分たちの救い主である主イエス・キリストを十字架につけて殺した、ということが心に突き刺さったということです。自分たちの罪に気づかされたのです。でもどうしてよいか分からない。だから「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたのです。

罪を赦され、賜物として聖霊を受ける
 38節でペトロはこのように答えています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。この訳だと分かりにくいのですが、ここでペトロは二つの命令と二つの約束を語っています。ペトロが命じたのは、悔い改めることと、それぞれがイエス・キリストの名によって洗礼を受けることであり、ペトロが約束したのは、罪を赦されることと、賜物として聖霊を受けることです。悔い改めるとは、神様の方に向き直ることです。ペトロの説教を聞いて、自分たちが神様に背き、神様からそっぽを向いて、主イエスを十字架につけて殺したことに気づかされた彼らに、神様の方に向き直り、そして洗礼を受けなさい、と言ったのです。そのように悔い改めて洗礼を受けることによって、自分たちの救い主である主イエスを十字架につけて殺したという取り返しのつかない罪さえも赦され、弟子たちに注がれたのと同じ聖霊を賜物として受けることができるのです。
 この約束がペトロの説教を聞いた人々に、そして私たちに与えられています。私たちもみ言葉の説教を通して、自分たちこそが神に背き、自分たちの救い主である主イエスを十字架に架けたことに気づかされ、悔い改めて洗礼を受け、賜物として聖霊を受けました。そのことによって私たちは教会のメンバーとなり、教会の肢とされたのです。主イエスの十字架と復活によって、主イエスを十字架に架けて殺したという取り返しのつかない罪が赦され、天に昇られた主イエスが注いでくださる聖霊の賜物を与えられ、私たちは救いの恵みの内に生かされています。そのように生かされている者たちの群れが、教会なのです。ペンテコステの日に教会が誕生し、生まれたばかりの教会に洗礼を受けた者たちが加わっていきました。そのときから今に至るまで、悔い改めて洗礼を受け、罪を赦され賜物として聖霊を受けた者たちが、教会へと加えられ続けているのです。

聖霊のお働きを信じて歩む
 42節にあるように、教会とは、その誕生のときから「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な」者たちの群れです。ペンテコステの日に誕生した教会は、使徒の教えを語る説教を聞き、主イエスを中心とした相互の交わりに生き、パンを裂くこと、つまり聖餐に与り、そして祈る群れとして歩み続けてきたのです。しかし三年に亘るコロナ禍は、私たちが聖餐に与ることを妨げ、相互の交わりに生きることを妨げてきました。一年ほど前から聖餐に与ることが回復され、この後も聖餐に与ることが許されています。しかしなお相互の交わりは妨げられている。ペンテコステの日に誕生した教会の本来の姿が、なお損なわれているのです。私たちの教会はなお危機に直面しています。しかし危機の中にあっても、十字架で死なれ、復活され、天におられる主イエス・キリストが、私たちの教会に聖霊を豊かに注ぎ続けてくださり、その聖霊のお働きによって私たちの教会を絶えず導いてくださっています。私たちはこのことにこそ信頼し、困難の中にあっても絶望することなく、希望をもって、忍耐して歩んでいくのです。そのようにして2023年度を歩んでいく私たち教会の歩みに、ペンテコステの日と同じように、聖霊が豊かに注がれ、神様が恵みのみ業を行ってくださるのです。

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