夕礼拝

死と復活を予告する

「死と復活を予告する」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第62編1-13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第16章21―28節
・ 讃美歌 : 527、572

主イエスの目的
 本日はご一緒にマタイによる福音書第16章21節から28節をお読みしたいと思います。主イエスは「このときから」ご自分がこれからエルサレムに行き、そこで多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活するということを前もって弟子たちに打ち明けられえました。これを主イエスの「受難予告」と言います。この「受難予告」はこの後に、二度に亘って繰り返されます。主イエスは三度、ご自身の受難の予告をされました。本日はその一回目ということになります。21節には、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあります。主イエスは、ご自身がこれから、十字架における苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することに「なっている」と言われました。「なっている」ということは、自分の意志ではないということです。神様がそのようにお定めになっている、そのようなご意志であるということです。神様がそのことを既に計画されているということです。主イエスがこの地上に来られたことの目的は、まさにそのことであります。主イエスは最初から、十字架へと歩まれていたということです。そして、この時から主イエスの近くにいた弟子たちに、このことを打ち明けられたのです。

このとき
 本日の箇所の最初にあります「このとき」というのは、どのような時を指しているのでしょうか。それは、その直前に語られている「とき」であります。13節以下の所です。主イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方に行ったとき、15節ですが、主イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。そこで弟子たちを代表して答えたのはシモン・ペトロであり「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。これは、ペトロの信仰の告白であります。主イエスこそ、約束され、待ち望まれた救い主メシアであり、生ける神の子、まことの神であられるという信仰を言い表したのです。主イエスはこのペトロの信仰の告白に対して、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と祝福の言葉を語られました。更に主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。主イエスを信じる者の群れである、教会はこのペトロに与えられた信仰の告白を基礎として、これに基づいて歩んでいくということが示されました。この時が、本日の「このとき」ということです。弟子たちに信仰を与えられた「とき」ということです。主イエスこそ、生ける神の子、待ち望まれた救い主であるという信仰を告白した「とき」ということです。そして、この信仰が与えられた「とき」に、主イエスはご自分の受難の予告をされたのです。

信仰の告白と受難の予告
 この2つの事柄が密接に結びついております。主イエスこそ、生ける神の子であられ、待ち望まれた救い主メシアであられるということは、主イエスの十字架における苦しみと死、そして復活されるということであります。救い主イエスの救いの御業は、主イエスの十字架における死と3日目における復活において成し遂げられるということです。生けるまことの神が、人間となられ、十字架において苦しみを引き受けられたのです。そこに救いが示されたのです。しかし、このことは弟子たちにとって、理解しがたい、受け入れ難いことでありました。主イエスの受難の予告を聞いたペトロは、22節にありますように「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」とあります。ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と言いました。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した人です。ペトロは、主イエスこそ、救い主メシアであり、生ける神の子であると信仰を告白しました。そのペトロがここでは、主イエスの言葉を否定しました。いさめたのです。主イエスへの信仰を告白したペトロも、主イエスのご受難の予告を理解できなかったのです。主イエスは待ち望まれた救い主メシアであり、生ける神の子である、十字架において苦しみと死を受けられるということなど、あるはずがない、と思ったのでしょう。ペトロは、弟子たちは、主イエスこそ、人々を救い、神としての力と栄光を持ち、人間に臨まれる方であると信じていたのです。それは、主イエスの受難の予告、十字架において苦しみと死を受けられるということは矛盾すると思ったのです。ペトロもまた、当時の人たちと同様、イスラエルの民を解放する栄光のメシア、救い主を待ち望んでおりました。ところが、主イエスは自分たちの期待に反して、人々から捨てられ、殺される、苦難のメシアとしての道を、御自分の口から告げられたのです。ペトロはそんなことがあってはならない、あるはずがないと考えたのです。ペトロにしてみれば、主イエスを思って、愛する先生を思って、全くの善意から出た行動を取ったのです。ペトロの思い、行動は、主イエスにとっては人間の思いであったのです。ペトロは「メシア」救い主、という言葉で、この世の救い主、メシアを理解していました。主イエスはイスラエルの民を解放する栄光のメシアである、そうであって欲しいと考えておりました。大切な自分の先生がどうか死なないで欲しい、そんなことがあってはならい、と思ったのです。自分の思いや自分の願い、自分が良いと思っていることに基づいて行動をしたのです。自分の考えから、主イエスを非難し、たしなめようとしたのです。

自分の願望ではなく
 そのようなペトロの言葉に対して主イエスは厳しい反応をされました。23節です。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロは主イエスから「サタン」と呼ばれました。サタンは、悪魔、人間を神から引き離する力です。主イエスは神様から、使命を与えられこの地上に来られました。その神の御心、神のなさろうとする、ご意志から人間を引き離そうする力がこの「サタン」です。主イエスは声を荒げて、ペトロをお叱りになったのです。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」。主イエスの厳しいお姿が記されています。人となられた神の御子を、そのなすべき務めである十宇架の道から引き離すために、十宇架の道に立ちはだかるペトロは、自分ではそれと気づかずに、サタンのように振る舞いをしたのです。ペトロは主イエスを愛していました。主であり先生である大事な方が、苦しみ、捨てられ、殺されるという話に耐えられなかったのです。その思いは人間の思いであって、神の思いとは異なったのです。そして「邪魔をする」者となっていたったのです。
 主イエスは「サタン、引き下がれ」とペトロを叱って言われました。続けて「わたしの後について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。と言われました。「引き下がれ」という言葉を「私の後ろに退け」となります。この「私の後ろに」という言葉は、主イエスがペトロたちを弟子として招かれた時の言葉でもあります。4章9節でありますが、「わたしについて来なさい」というのは直訳しますと「従いなさい、わたしの後ろに」となります。主イエスは、ペトロをその本来の位置に立ち戻らせようとされたのです。主イエスの後ろです。それが、ペトロと弟子としての本来の位置であるのです。主イエスのお言葉、自分を捨てるとは厳しい命令です。本当に自分を捨てることができるとしたらすごいことです。むしろ私たちは自分にこだわり、自分で自分を立てて行こうとする生活の中で、疲れ果ててしまうのです。本当は捨ててしまいたいのに、なかなか捨てることのできない醜い自分があります。いやな自分、惨めな自分があります。そういう自分を抱え込みながら、途方に暮れてしまうのです。

十字架を背負い
 また、私たちの人生には、色々な出来事が起こります。誰もが老いて行きます。突然の病気や、問題などによる苦しみが起こります。誰かのせいにすることのできない苦しみもあります。何故自分にこのような苦しみがふりかかるのか、説明のできない苦しみです。そのような苦しみによって、私たちの人生はしばしば脅かされるのです。信仰によって、それらの出来事を受け止めるのです。神様が独り子主イエスの命を与えて下さり、赦して下さいました。苦しみの中で私たちを支えていくのです。たとえどのような苦しみに脅かされていても、私たちの命は、神様が本当に大切なものとして導き、支えていて下さるものなのだ、ということを信じることができるのです。その時それらの苦しみを忍耐して生きることも、主イエスに従うものの背負う十字架となるのです。主イエスの十字架において示された神様の恵みに、まことの命があることのです。そのことを信じて、信頼し、生きる時に、私たちの受ける全ての苦しみは、主イエスに従う者の背負う十字架となるのです。そのお方が引き受けて下さるのです。

再臨を待ち望む
 更にマタイによる福音書は続けて、27節において「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。と語ります。主イエスの十字架の死によって、神様が私たちを救って下さり、私たちにまことの命が与えられました。そのまことの命は、この世の終わりに、主イエスが父なる神様の栄光の内にもう一度来られる、その時に約束されていることです。27節ではそのことが語られています。主イエスがもう1度来られる、再臨において行われる裁きのことを意識されています。28節に、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」とあることもそれを示しています。主イエスが再び来られることを恐れるのではなく、喜びをもって待ち望むのです。神様が「それぞれの行いに応じて報いる」と言われているのがそれです。このことは、十字架にかけられて殺され、三日目に復活した神様の独り子主イエス・キリストこそが、全世界を裁く方であられるということを語っています。そのご支配と力は、今は隠されているけれども、世の終わりには必ずそれが顕わになり、裁きが行われるのです。その裁きは、主イエス・キリストによる裁きなのです。私たちはこの神様の裁きに確かな希望を置いて、それぞれに与えられている十字架を背負って、主イエスの後に従いつつ、生きるのです。

復活へと
 主イエスに従うとき、私たちの負うべき十宇架があります。十宇架の主イエスに従い、復活の栄光にあずかるために、私たちはそれぞれに最もふさわしい務め、担うべき十宇架を主が備えて下さるのです。負いきれない重荷を背負って、苦しみながら行くのではありません。主イエスが先立って歩まれる道は、十宇架を経て復活へと続きます。私たちが主イエスの後に従って歩む道もまた、十宇架から、復活へと至るのです。私たちの歩む道は茨にふさがれたような道であるかもしれません。先頭を行かれる主イエスがその道を切り開き、私たちが歩けるように、踏み固めていてくださるのです。主イエスご自身がまことの命の道となって、父なる神と私たちを確かにつないでいてくださいます。そして、やがて終わりの日には、その道の向こうから、主イエスが、御父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共にお出でになるのです。とこしえに主の御名を讃える天の礼拝を慕い求めながら、私たちは、この地上において、礼拝から礼拝へと、主イエスの後に従う歩みを続けます。私たちは主イエスが備えてくださる御言葉に養われつつ、御国への旅を続けて行くのです。

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