夕礼拝

安心して行きなさい

「安心して行きなさい」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:レビ記 第15章25-27節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第5章21-43節
・ 讃美歌:220、433

<ガリラヤへ>  
 二週間前の夕礼拝では、イエスさまが弟子たちを舟に乗せ、ガリラヤ地方から湖の向こう側、ゲラサ地方というところへ行って、悪霊に取りつかれた男を救って下さった、という出来事について聞きました。
 しかし、そのゲラサ地方の人々は、主イエスに出て行って欲しいと言ったので、主イエスと弟子たちは、またガリラヤ地方に戻ってこられました。それが、今日の21節の「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」ということです。

 ゲラサ地方は、主イエスや弟子たちユダヤ人にとっては、異国の地です。そこの人々は、主イエスの力を恐れ、受け入れませんでした。しかし、ガリラヤ地方では、主イエスが神の国の教えを語り、病の人を癒し、悪霊を追い出して下さる、ということが人々の間で広まっていましたので、大勢の群衆が主イエスを求めて押し寄せてきたのです。

<二つの人生の苦しみ>
 今日の聖書箇所は、そこで起こった二つの物語が同時進行で語られています。
 まずは、会堂長の一人であるヤイロという人です。会堂長とは、ユダヤ人たちの礼拝所の責任者です。会堂長は、安息日の礼拝の奉仕者を指名したり、建物設備の管理などをします。大事な役目であり、人々の中でも尊敬を集めている人が選ばれました。ですから「会堂長」とは、人々に一目置かれる、権威も名誉もある役職でした。

 この会堂長ヤイロの娘が、死にそうになっていました。おそらく医者にもかかり、あらゆる手段を尽くしたに違いありません。しかし、どうしてもよくなりません。
 42節に、「少女はすぐに起き上がって歩きだした。もう十二歳になっていたからである」とあります。少女はたったの十二歳。死んでしまうには、あまりに若く、短い人生だ、と感じます。
 娘を何とか助けたいヤイロは、主イエスのお姿を見るなり、「足もとにひれ伏し」た、とあります。名誉ある地位を持っていた会堂長ヤイロですが、そんなものは娘を助けるためには何の役にも立ちません。ヤイロは主イエスなら、きっと娘を治して下さる。助けて下さる。そう望みをかけて、大勢の群衆の中で、プライドも何もかも打ち捨て、主イエスの足もとにひれ伏して、ただひたすら救いを願い求めたのです。

 さて、もう一人は、十二年間も出血の止まらない女です。ヤイロの物語の途中に、この女の物語が置かれています。
 「出血が止まらない」とは女性特有の病で、今日お読みした旧約聖書のレビ記によれば、「汚れている」とされる病です。病の間、彼女はずっと汚れており、彼女に触れた人も汚れる。使ったものも汚れるし、他の人が、彼女が使ったものに触れるだけでも、その人は夕方まで汚れる。それが律法で定められていました。
 ですからこの女は、他の人々と共に生活することが出来ず、交わりを持つことが出来ず、公共の場所に出ること、つまり礼拝に参加することも出来ませんでした。ユダヤ人は、神を礼拝することが中心の共同体ですが、彼女はその共同体の交わりの外で、生活をしなければならなかったのです。
 病の苦しみと共に、人々との交わりを絶たれた孤独な生活が十二年間も続いていた。女にとっては果てしなく長く感じる年月でしょう。彼女にとっては、病そのものの苦しみよりも、そのことによって共同体から疎外されていることの方が、深刻で辛い苦しみであったかも知れません。

 さて、この十二歳の娘が死にそうな会堂長ヤイロと、十二年間も出血の止まらない女。
 共通点は十二年という歳月です。しかし、それぞれの立場によって、十二年という年月はとても対照的に捉えられます。幼い娘が死ぬとなっては、十二年は「なんと短い人生だろう」と思われますし、病と孤独の中にいる女にとっては、十二年は「なんと長い年月だろう」と感じられます。
 また、対照的と言えば、礼拝を司り、人々から尊敬を集め、慕われている会堂長ヤイロと、礼拝から除外され、汚れのために人々から遠ざけられている女、という点も対照的です。

 しかし、この両者に共に起こったことは、このように全く違う十二年間を歩み、全く違う生活をしてきた者たちが、今、どちらも苦しみと悲しみの真っ只中にあり、そこに主イエスがやって来られた、ということです。苦しみの中で、主イエスと出会った、ということです。
 今日は、この二つの物語のうち、女の物語に焦点を当てたいと思います。

<主イエスに救いを求めた出血の止まらない女>  
 さて、会堂長ヤイロが、死にそうな幼い娘を助けて欲しいと主イエスに訴えでて、主イエスはヤイロと一緒に彼の家に向かって出かけられました。  
 大勢の群衆も、主イエスに従い、押し迫って来た、とあります。これから起こることを目撃しようと付いてきたのでしょうか。そして、この群衆の中に、あの「出血の止まらない女」が紛れ込んでいました。

 25節には、この女が経験してきた壮絶な苦しみが語られています。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にもたたず、ますます悪くなるだけであった」。婦人科の病は医者にかかるだけでも億劫です。でもなんとか治りたいと思って、多くの医者にかかったのに、ひどく苦しめられるだけであった。しまいに全財産も失い、病はますます悪化した。病と、経済的な貧困と、そして何より、社会で人々と共に生きられない孤独と悲しみの中にあったのです。

 先ほどもお話したように、この病は「汚れ」とされ、人々と共に礼拝に参加することが出来ませんでした。ですから、このような病の者は、神の恵みから落ちてしまった、と考えられていました。29節や34節に出て来る「病気」という元の言葉は、「鞭」という言葉から出来ています。当時の人々は、病気は、神が刑罰として与えた鞭だと考えていたのです。
 しかし、神の罰だと言われても、なぜこのような目に遭わなければならないのか、本人にとっては理不尽に思われることだったに違いありません。
 何が悪いのか、どうすれば良いのか。彼女にとっては、病の苦しみに、さらに重い苦しみが加えられていました。病が癒える見込みがないということは、汚れた者としての孤独な生活が生涯続くということです。それは将来に何の希望も見出せない、絶望的な気持ちであったと思います。

 病気の苦しみは本当に辛く、耐え難いものがあります。そしてそこには、将来への不安や心配が、より大きな苦しみとなって圧し掛かってきます。生活が変わってしまう。経済的にも苦しくなる。これからどうなっていくのだろう。今現在の痛み苦しみと共に、将来の不安に対する精神的な苦しみは、大変なものです。
 さらに、社会での居場所を失うということは、さらに大きな痛み、苦しみです。わたしたちの社会でも、そういったことはあります。社会での役割を失うこと、人との交わりが絶たれ、疎外され、その共同体での居場所を失うこと。自分の存在する場所がないということ。それこそ、深い悲しみであり、人として生きていく上での深い根本的な苦しみとなるのです。

 この女は、そんな深い苦しみの只中に、孤独に生きていたのです。
 病の苦しさと、人々の冷たい目と、孤独の中で過ごした十二年という苦しみの歳月。これが、さらにこれからもずっと続いていくのだろうか。この生活には終わりがないのだろうか。
 しかし、そんな不安と絶望の日々の中に、主イエスがやって来られたのです。

 この女は、主イエスが宣べ伝えておられる神の国の福音や、力ある御業についての噂を聞いて、この方なら自分を救って下さるのではないかと考えました。27節には「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。

 しかし、この女は、会堂長ヤイロのように、人前に出て、なりふり構わず大胆に乞い願うことは出来ませんでした。なぜなら汚れているので、こんな大勢が集まる場所に出て来ることも、他の人に触れることも、本来は許されなかったからです。
 もし主イエスに正面から近づこうとするならば、群衆に叱責されてしまうでしょう。また、群衆の中に入れば、彼女に意図せずに接触した人々も汚れてしまうのですから、人々がどんなに怒るか分かりません。主イエスに近づくことは、とても勇気のいることでした。
 それでも何とか主イエスに触れたかった女は、自分を隠して、身を小さくして、人々にも、そして主イエスにも気付かれないように、群衆に紛れて後ろから近づき、そっと手を伸ばして、主イエスの服に触れたのです。

<主イエスとの交わり>  
 すると、「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。女が「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思った通り、いやしが与えられたのです。
 女は喜んで、密かにその場を去ろうとしたでしょう。そうして、自然に病が「いやされた」ということにして、汚れを清める贖いの儀式をすれば、共同体に戻ることができるのです。
 もし主イエスにいやしてもらった、と言えば、いつ主イエスに会いに行ったんだ、いつ人前に出て来たんだ、主イエスにも、他の人にも汚れが移るじゃないか、とうるさく言われ、大騒ぎされてしまうかも知れません。  

 ところが、女は密かに去るわけにはいきませんでした。主イエスが、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われたのです。  
 大勢の群衆がひしめき合い、押し迫っている中で、主イエスの服に触れている人は何人もいます。しかし、主イエスは、御自分から力が出て行ったことを感じられ、癒しを求めて触れた、一人の女を見つけようとされたのです。  

 女はすぐに、主イエスが自分を捜しておられる、と分かりました。33節には「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」とあります。  
 女は、主イエスに触れて、この方がどなたかがよく分かりました。主イエスが神の力をもち、服に触れただけでもいやしを与えることの出来る、恐れるべき方であること。しかも、その方に汚れている自分が触れてしまったこと。そして、その方がすべてをご存知で、自分を捜しておられるということ。そのことに、震えるほどの恐れをもって、御前に進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話したのです。  

 すると、主イエスは34節にあるように、このように言われました。
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」  

 「あなたの信仰があなたを救った」。これは、どういうことなのでしょうか。この女が、強い信仰を持っていて、信じ抜いていたから、癒しが与えられたのでしょうか。主イエスを信じる女の信仰が、すばらしいものだったから、それに応えて下さったのでしょうか。    

 そうではなかったと思います。女の病は、これまでどんな医者にかかっても、全財産をつぎ込んでもダメでした。女は恐らく、わずかでも望みがあるなら何でもした。主イエスに、もしかして、と、一縷の望みをかけたのです。  
 そしてそれは、自分の病を癒して頂きたい、という、誰もが心から望むけれども、しかし、まったく自分の願いのために神の力を求める、ご利益信仰的な思いだったのではないでしょうか。  

 わたしたちは、神さまを、自分の願いを叶えるため、苦しみを取り除くために、求めることがあります。その願いは、切実であり、心からの必死な願いです。
 神にこそすべてを求め、訴えることは大切なことですが、しかし、神というお方は、わたしたちの願いを叶えるために存在する方ではありません。わたしたちが、自分の希望のままに神にしていただこうとすることは、自分が神のように振る舞って、神を従わせようとすることです。
 神は、わたしたちをお造りになった方であり、すべてを支配なさる方です。この神を礼拝し、神の呼びかけに応え、神との交わりに生きること。それが、神がわたしたちに求めておられることであり、また「信仰」に生きるということです。

 そう考えると、この女の行動は、決して正しい信仰という訳ではありません。神にお応えしよう、従おう、と思って主イエスの許に来たのではなく、ただ自分の病の癒しを願い、可能性に願いを託し、必死に求め、主イエスに触れた、ということなのです。

 しかし、主イエスは、このように触れて来た女の病を癒し、しかもそれで終わらせませんでした。密かにそこを離れようとしていた彼女を捜し、御自分の前に立つことを求められたのです。
 ここで確かに、女は主イエスに見出され、主イエスに面と向かって出会いました。そして、女は自分のことを主イエスに語ったのです。ここで、主の呼びかけに女がお応えする、相互の関係が始まりました。神の御子である主イエスとの交わりは、神との交わりです。
 この、神との交わりこそ、神が与えて下さる「信仰」であり、救いです。人のまことの癒しであり、回復なのです。  
 自分本位な思いで主イエスを求めて来たとしても、主イエスはその女の思いも、存在も、まるごと受け入れて下さいました。そして、女をご自分の前に呼び出して下さるのです。
 その主イエスの呼びかけに応え、主イエスとの交わりを与えられた、それこそが、この女のまことの救いであったのです。

<安心して行きなさい>  
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」「わたしと出会い、わたしに見出され、わたしを知ったあなたは、もう癒された。救われた。」「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」主イエスはそのように言って下さいました。  

 主イエスとの関係を与えられた女は、もう汚れた者、礼拝から除外される者にはなり得ません。これから先、病気になることも、貧しさを味わうことも、人間関係の破れを経験することも、年老いていずれ死ぬということもやってくるでしょう。しかし、どんな歩みをしていこうとも、この女はもう主イエスと共にあり、神との交わりに生きていく者となったのです。生涯、神を礼拝して歩む人生を与えられたのです。それこそ、神に造られた人間として、まことに健やかに、元気に暮らす、ということなのです。

 主イエスは、この後、すべての者の罪を背負って十字架で死んで下さり、そして神に復活させられ、わたしたちに永遠の命と復活の約束を与えて下さる方です。この方が、わたしたちとずっと共にいてくださる。復活の主イエスは、病も、死も、何も引き離すことのできない関係をわたしたちと結び、その交わりの中に新しく生かして下さいます。だから、「安心して行く」ことができるのです。

 「安心して行きなさい」は、「あなたは平和の内に行きなさい」と訳すことができます。聖書のいう「平和」は、神との間に与えられる「平和」です。神から離れ、神との関係を持たずに生きてきた罪が、主イエスによって回復させられ、神との間に「和解」を与えられ、神との平和の内に生きていくことができる、ということです。
 出会って下さった主イエスが、祝福と、神との交わりに生かして下さることを保証して下さった言葉です。「安心して行きなさい。」わたしたちも、この御言葉を聞き、主イエスとの交わりに生き、平和の内に歩んでいくことができるのです。

 わたしたちが最初、主イエスを求めるその動機は、決してまっすぐなものではなかったかも知れません。救いを、自分の都合の良いものに思っていたかも知れません。
 しかし、主イエスが出会って下さる時、主イエスはわたしたちの弱さも、罪も、破れも、すべてを受け止め、名を呼んで御前に立たせ、わたしたちをまことの救いへと、神との交わりの中へと、招いて下さるのです。
 この方の招きにお応えし、わたしたち自身を御前に差し出し、主イエスとの関係が始まる時、わたしたちには、望んでいた以上のものが与えられます。それは、主イエスご自身です。そして、痛みも苦しみも悲しみも死も、すべてを覆い尽くして下さる、癒しの御手の中に置かれて、まことに平安に歩んでいくことができるのです。神を礼拝する者として、歩んでいくことができるのです。
 今日あずかる聖餐も、主イエスがわたしたちのために十字架で肉を裂き、血を流して罪を贖って下さったことを覚え、今生きて天におられるキリストと一つにされていること、この方との交わりに生かされ、この方がいつも共にいて下さることを、確かにされる時です。
 この恵みのもとで、わたしたちはまた「安心して行きなさい」と、それぞれの人生の歩みへと送り出されていくのです。

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