主日礼拝

絶大な働きをなさる神の力

「絶大な働きをなさる神の力」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第8編1-10節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第1章15―23節
・ 讃美歌:502、390、572

はじめに
 私が主日礼拝の説教を担当する日は、エフェソの信徒への手紙を読み進めております。「エフェソの信徒への手紙」はエフェソという地域にある、いくつかの教会に宛てて書き送られた手紙です。この手紙の内容は時間を越えて、場所を越えて、空間を越えて、私たち一人ひとりにも語りかけます。この手紙の第1章1節には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」とあります。ですので、この手紙は古くから使徒パウロが書いたものであると考えられて来ました。今日では研究が進み、パウロの影響を受けた別の著者によるものであるとも言われております。けれども、ここでは伝統的な考えに従って、また言いやすいようにパウロの手紙として読んで行きたいと思います。
 本日は第1章15節から23節をご一緒にお読みしたいと思います。15節は「こういうわけで」と始まります。「こういうわけ」とは、3節から14節までに書かれていることを受けています。3節から14節では「神の栄光をたたえる」という言葉が繰り返されて来ました。「栄光」という言葉は神様について用いられていられます。私たちにとって「神の栄光」を表すこと、栄光に仕えることが、一人ひとりの与えられた使命であるということが言えます。一人ひとりの使命と言うことは、教会全体の使命と言うことにもなります。3章の21節には「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」とあります。神様に栄光が帰されるとは、神様が神様として、崇められ、礼拝される、ということです。私たちが造られた目的、存在する目的は、神様に栄光が帰される、神様を神様として礼拝するということです。そして、また教会もそのような目的を持って存在をしているのです。
 パウロはこの手紙を格調高く、緊張感を持って書き出し始めました。そして、本日の箇所からエフェソの教会の人々に、より親しみを込めて、ぐっと近づいていったように見えます。16節は「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」とあるように、パウロは祈る度に、エフェソの教会の人々のことを思い起しているのです。祈る度にエフェソの教会の人々のことを思い起こすということによって、パウロの教会に寄せる思いが現れています。

感謝と祈り
 このように、祈りの度にエフェソの教会の人々のことを思い起こしたパウロの心の中には2つのことが思い浮かんで来ました。その一つは「感謝の思い」と、もう一つは「彼らのための祈り」です。15節から18節の前半には感謝の思いが記されています。お読みします。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」(15~18節a)パウロは祈る度に「感謝の思い」を抱きました。その理由は、ただ今お読みした箇所では、エフェソの教会の人々の信仰と愛を聞いたということです。この彼らの愛とは、ここでは具体的なことは分かりませんが、同じ教会員同士のことではなく、すべての「聖なる者たち」に対するものであると記されています。エフェソの教会の人々の信仰、そしてそれにもとづく分け隔てない愛の業、ということを聞いてパウロは、何よりもまず神に感謝の祈りを捧げたのです。そうせずにおられなかったのです。
 またもう1つはエフェソの人々に対する祈りということです。エフェソの人々のための祈りということです。それは、17節にありますようにありますように、エフェソの教会の人々が「神を深く知ることができるように」なって欲しいという執り成しの祈りでした。
 エフェソの教会の人々の信仰と愛の業のことを耳にして、感謝を捧げた後、更にそのように彼らのために神に祈ったということは、信仰と愛だけでは不十分であるということではありません。そうではなく、彼らの信仰と愛について聞いたからこそ、彼らがもっと「深く」神を知るようになることを祈るのです。
 パウロのエフェソでの伝道の様子を記している使徒言行録第20章の31節には、このようなパウロ自身の言葉が記されています。お聞き下さい。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」パウロはエフェソの教会のために心血を注ぎました。信仰と愛では不十分だということでなく、その反対で更に一層、信仰と愛とに生きて欲しい、と祈り願ったのです。まさにそのためにこそ、神の恵みの働きについて、もっと「深く」知って欲しいとパウロは祈り、願ったのです。

信じることと知ること
 「神を深く知る」とはどういうことでしょうか。「知る」ということが信仰や愛の業よりも大切であるということはありません。しかし、少なくとも信仰や愛と同じくキリスト者にとって「知る」ということが大切なことであるというパウロの考えが本日の箇所には示されています。そうでなければ、パウロはエフェソの人々のために、神を「知ること」を、また「深く知ることを」神に願い求めることはしなかったでしょう。
 信仰者、キリスト者の歩みは「神を深く知ること」(17節)できるようにする、「神を深く知る」ことへ向かって進んでいかなければならないということです。パウロの祈りとはそのことを願う執り成しの祈りなのです。
 「神を深く知ること」について17節以下を読んで参りたいと思います。17節から19節です。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(17~19節)この17節から19節では、信仰における「神を知る」ことの大切さが示されております。この部分では「神を深く知る」「心の目が開かれる」あるいは「悟る」という色々な言葉で「知る」ことの大切が説かれています。しかし、この「知る」ということに対して私たちは誤解があるかもしれません。私たちの「信仰」ということの理解において、信じることや愛することに比べて、「知ること」ことがあまり大事なことだと考えられていないのではないだろうか、ということです。「知る」ということは、実際には人間の側の働きのことが考えられます。また「知る」ためには私たちの知識、理性、合理的な思考というのが自ずと要求されます。しかし、ここでは「知る」ことは、人間の側の働きとは考えられておりません。人間の知識、知性、理性というのが直接求められてはいません。17節をもう一度見てみたいと思います。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」とパウロは祈ります。私たちが「知る」ということも神の働きなのです。神がその霊をもって、御自身のことを私たちに知らしめてくださいということです。私たち皆、そのように祈り、願うしかないのです。信仰における「知る」とはそのようなことです。
 また「心の目を開いてくださるように」とあります。この言葉は直訳しますと「心の眼が光に照らされて」となります。「光に照らされて」即ち神の光に照らされて初めて見えるのです。悟るため、知るために私たちの心を、心の目を神様の光のよって照らして下さい、ということです。
 ある神学者は「理解するために信じる。」という言葉を残しました。信じるために知るのではありません。知るために信じるのです。知識を重ねていけば信仰に行くのでありません。本当に神について知り、その恵みを悟るためには、まず信じなければならないのです。信じて神を知るのです。エフェソの教会の人々が更に神を深く知ることへと進むことをパウロは切に祈り、願っているのです。そのことを神様に執り成しているのです。私たちもまた、信じて、愛して、そのようにして神とその恵みを更に深く知るようにと願いたいものです。

神の力と教会
 何を知るのか、何を悟るのかということについて、3つの事柄が17節から19節において示されています。今はその最後のものだけを取り上げます。それは「神の力」です。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」です。「神の力」を知る、それを悟る、パウロはエフェソの教会の人々のために祈っています。私たちは「神の力」を知ると聞きますと、何か特別な体験や経験がないと、そのようなことは起こらないと考えてはいないでしょうか。自分の歩みにおいて、そういう体験がないか探し求めることもあります。「機械仕掛ケノ神」という言葉があります。自分が困ったときに必ず登場して困難を解決してくれる便利な神ということです。多くの場合、神の力を経験しないというのではなくて、むしろ神の力として受け取るだけの感受性、感じるとる力が私たちにない場合が多いのです。
 旧約聖書のヨブ記にヨブという人が登場します。ヨブはある日突然、すべての財産を失い、自分も耐え難い皮膚病に苦しみ、神様にその嘆きを訴えます。愚痴るのです。しかし、物語の最後に、神様に文句を言うことの高慢さを悟り、知り、悔い改めをします。自分は何もかも、財産も家族もなくし、自分も病気で苦しんだ。けれども神様は命そのものを取り去ることはなさならなかった。自分は生きている。自分は生かされている。生きることを許されている。そこに現れている神様の恵みに目が開かれたのです。ヨブはそれまで、いのちが与えられているということに現れている神の恵みの力を見ることが出来なかったのです。私たちもまたそのようなものではないでしょうか。神の力、神の恵みの力に気付かない。私たちはかえって、自分が持っていないものに、ここにないものばかりに目が奪われて、神の力が見えず、神様に嘆くのです。そこであらためて問いたいと思います。神の力はどこに働いているのでしょうか。20節から23節です。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(20~23節)パウロはエフェソの教会の信仰者に対して働く神の力を悟ることを願いながら、その神の力を説明するにあたり、主イエス・キリストの復活に言及しています。そして、更に教会のことを語っております。私たちは「神の力」と聞きますと、自分のことや自分の周辺の生活のことを考えないでしょうか。パウロは神の力を主イエス・キリストにおいて見ているのです。そして、教会において「神の力」を見ているのです。パウロはここで、主イエス・キリストにおいて働いた神の力を、復活から始まる一連の出来事として一気に、一息で語っております。復活させ、ご自分の右の座に着かせ、足元に従わせ、そして頭として教会にお与えになりました。そうなりますと、教会にキリストが教会の頭として与えられました。そして、そのような方、教会の頭として、私たちを保ち、そして治めておられるということを、このことが神の力ある働きそのものをであり、そのことを私たちが知る、知らないに関わりなく、神の力が現に、今働いておられるということになります。主イエス・キリストは教会の頭、主であります。そして、同時に世界の主であられるということです。22節には「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」とあります。すべてのものの主であるキリストを教会にその頭としてお与えになりました。この箇所で記されておりますように、キリストが天にあって神の右に座しておられるということは、いっさいのものの主としておられるということです。すべてのもの、万物の主が教会の主でもあるのです。そのことは、教会の信仰の告白と証しにおいて明らかになっております。また23節では「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。聖書の中には「教会」を現す比喩、表現がたくさんあります。少し先の第5章では教会が「キリストの花嫁」という表現で記されています。本日の箇所にあります「キリストの体」という表現は有名なものであると思います。主イエス・キリストがこの地上を、この時間の中、1つの形をとって歩んでおられる、それがキリストの体としての教会であるということです。
 私たちの目に見える教会は人の集まりです。それも罪人の集まりです。しかし、それが全てではありません。教会には見えない聖霊が今、この時も働いているのです。目に見えない、信じるべきことなのです。信仰の目で教会を見るならば、教会はキリストの体なのです。更に23節では「教会」は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。ここで、すべてにおいてすべてを満たしている方とは神であります。キリストの体としての教会において、神が満ちておられるのです。教会は主イエス・キリストが生きておられる、共同体であるということです。この主イエス・キリストを頭、主とする私たちの交わりが神様の御自身の現臨、今生きて働いておられる場とされていることを、私たちは共に思い起こし、また共にこの出来事を証しをするために、この場より遣わされたいと思います。

関連記事

TOP