夕礼拝

主が共におられるなら

「主が共におられるなら」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第13章1-14章45節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第3章7-19節  
・ 讃美歌:120、392

四十年の延期  
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の民数記からみ言葉に聞いています。民数記には、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、神様が遣わして下さったモーセの導きによってエジプトを出て、神様の約束の地、乳と蜜の流れる地カナンへと荒れ野を旅していく、その様子が描かれています。本日はその13章と14章の長い部分を読むわけですが、ここに語られているのは、イスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに近づき、その地を偵察した時のことです。主なる神様が奴隷であった彼らを解放し、約束の地を与えて下さる、その救いのみ業の実現がいよいよ見えてきた、目前に迫ってきた、そういう状況に、この時イスラエルの民はいたのです。  
 ところが、この救いの実現を目前にして、イスラエルの民は大きな罪を犯してしまいます。その結果、目前に迫っていたはずの、約束の地に入ることは、四十年延期されてしまったのです。彼らはそれから四十年間、荒れ野の苦しい旅路を続けなければならなくなったのです。そのことを告げているのが、14章26節以下の主のみ言葉です。その中の32、33節にこうあります。「しかし、お前たちは死体となってこの荒れ野で倒れる。お前たちの子供は、荒れ野で四十年の間羊飼いとなり、お前たちの最後の一人が荒れ野で死体となるまで、お前たちの背信の罪を負う」。ここに、四十年という年月の意味が示されています。それは、「お前たち」と言われている今のこの世代の者たちが皆死んで、子供たちの世代になるまで、ということです。今のこの世代の者たち、それはエジプトでの奴隷状態からモーセの導きによって脱出し、荒れ野を旅してきた人々です。彼らは、これまでに読んできたように、神様の大きな力によるエジプトからの解放を体験し、様々な危機的状況の中で神様がその都度助けて下さったことを体験し、天からのパンであるマナによって養われてきました。神様の豊かな恵みを体験してきたのです。それにも関わらず彼らは常に神様に不平不満を言い、事あるごとに「こんなことならエジプトにいた方がマシだった」などと言ったのです。同じことが、約束の地を目前にしたここでも起りました。神様はそのような彼らに対して激しくお怒りになり、お前たちは約束の地に入ることなく皆荒れ野で死ぬ、約束の地に入るのはお前たちの子供たち、次の世代の者たちだ、とおっしゃったのです。このような結果をもたらしてしまった彼らの罪とは何だったのでしょうか。

約束の地の偵察と報告  
 それが13章に語られているのですが、ここには、約束の地カナンに近づいた彼らが、その地を偵察したことが語られています。それは神様の命令によることでした。1、2節にこうあります「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない」。このご命令によって、各部族の指導者が偵察に派遣されました。何を偵察するのかが17節以下に語られています。18?20節を読みます。「その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい」。十二部族の指導者たちはこの命を受けてカナンの地を四十日にわたって偵察し、その地の果物を持ち帰りました。エシュコルの谷から持ち帰った一房のぶどうは、23節にあるように、棒に下げて二人で担ぐほど大きなものでした。そのように、この約束の地カナンはまことに豊かな、恵まれた土地であることがこの偵察によって分かったのです。そこは、27節に語られているように、まさに「乳と蜜の流れる所」でした。主なる神様は以前から、あなたがたに「乳と蜜の流れる地」を与えると約束して下さっていました。まさにそのような地が目の前に広がっていることを、彼らは確かめて来て報告したのです。  
 しかし彼らは、それとは別のことも報告しました。28、29節です。「しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます」。つまり、この地は豊かなところだけれども、そこには大層強い人々が、堅固な町を構えて住んでいて、とてもそこを我々のものにすることなど出来そうにない、と彼らは言ったのです。彼らはさらに32、33節でもこう言いました。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのはネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」。ネフィリムというのは、創世記6章の初めのところに出てくる、天使と人間の間に生まれた人々であり、普通の人間よりずっと強く大きい人々です。この地に住んでいるのはそういう人々の子孫だと彼らは言ったのです。それは彼らが、この地の人々がとても強く、自分たちなどとてもかないそうもないと感じた、ということでしょう。彼らはそのように報告して、人々の心を挫いたのです。

指導者たちの罪  
 民数記はここに、この偵察に行った人々の罪を見つめています。それはどういう罪なのでしょうか。彼らは、自分の見てきたこと、感じたことを正直に語ったのだと言えるでしょう。それが何故罪なのか、それを知るためには、彼らが何のために偵察に遣わされたのかを考えなければなりません。先程読んだように13章1節で主は「わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」と命じておられます。カナンの土地を彼らに与える、という主のみ心は既にはっきりと示されているのです。イスラエルの十二部族それぞれの指導者がこの地の偵察に遣わされたのは、主が彼らに与え、住まわせて下さろうとしているその地を、それぞれの部族の指導者である彼らがしっかり見て、そこがいかに素晴しい所であるかを確認し、それぞれの部族の人々にそれを伝え、民全体がますます喜びと希望をもって神様の約束の地への歩みを整えて行くためだったのです。ところが彼らは、むしろ人々の心を挫くようなことをしています。人々が神様に信頼して、喜んで、力を合わせて歩んでいくようにすることが使命なのに、むしろ逆に神様の約束を疑わせ、信頼をぐらつかせ、動揺させているのです。何故そうなるのか。それは彼ら自身が神様の約束を本当に信じていないからです。神様に信頼していないからです。カナンの地の人々が強く、町は堅固であるのは事実でしょう。それに比べてイスラエルの力は貧弱であるのも事実でしょう。人間の力関係を冷静に判断すれば、この地に入ることはとても無理だ、というのが当然の結論になることも確かでしょう。この地を偵察することをお命じになった神様は、そういう現実を彼らにしっかり見つめさせ、把握させようとしておられるのです。しかしそのことによって神様が彼らイスラエルの指導者たちに求めておられるのは、その現実の中で、神様の約束をしっかりと見つめ続けることです。人間の様々な問題や弱さ、立ち塞がる敵の強さという現実から目を逸らすのではなく、しかしその中で神様への信頼を決して失わないことです。そして動揺する人々を支え、神様への信頼を説き続け、神様がお示しになる道を歩み続けるように導くことが彼らの使命なのです。ところが彼らは自分自身が神様への信頼を失い、動揺し、民の勇気を挫いてしまっている、そこに彼らの罪があるのです。

民全体の罪  
 指導者たちの罪によって民全体が混乱に陥ります。その様子が14章の初めにあります。「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。『エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。』そして、互いに言い合った。『さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。』」。指導者たちの罪が民全体の罪となりました。先程も述べたように、イスラエルの民はエジプト脱出以来、もう駄目だと思われるような様々な場面で、神様の力強いみ手による救いを体験してきたのです。にもかかわらず彼らはなお神様に信頼せず、約束を信じないのです。そしてあろうことか、奴隷とされていたエジプトへ帰ろうと言い出したのです。

主が我々と共におられる  
 このような民の反逆の中で、偵察に行った十二人の内の二人だけは違うことを言いました。エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアです。カレブは13章30節で「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」と言いました。また、民全体の反逆の中でのカレブとヨシュアの言葉が14章6節以下にあります。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」。しかし次の10節にあるように、人々は彼らを石で打ち殺そうとしたのです。

主の慈しみにすがって  
 その時、主の栄光が現れ、モーセに語りかけました。11、12節です。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」。このどうしようもないイスラエルの民はもう滅ぼして、モーセから新しい神の民を興そう、と主は言われたのです。それに対してモーセがイスラエルの民のために神様を説得した執り成しの言葉が13節以下です。15、16節を読みます。「もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば、あなたの名声を聞いた諸国民は言うことでしょう。主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と」。モーセは、イスラエルの民の罪を赦していただくために、神様を脅すようなことを言っています。「もしあなたが今この民を滅ぼしたら、人々は、あの神は自分の民に約束の地を与えることができなかったので困って荒れ野で滅ぼしてしまったのだと嘲笑いますよ」と言っているのです。神様に対してこんなことまで言えるモーセは大したものだと思うわけですが、それができるのは彼が神様ご自身のみ言葉に信頼しているからです。17節以下で彼はこう言っています。「今、わが主の力を大いに現してください。あなたはこう約束されました。『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください」。モーセがここで持ち出している神様の約束は、出エジプト記の34章6、7節で主ご自身が宣言なさったことです。主なる神様は、罪に対しては怒り、罰を与え、父祖の罪を三代四代まで問う方だけれども、しかし同時に憐れみ深く恵みに富む方であり、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、罪を赦して下さり、慈しみを幾千代にも及ぼして下さる方であることを自ら語られたのです。罪を問うのは三代四代だが、慈しみは幾千代にも及ぶ、そこに、罪に対する怒りにはるかに優る神様の慈しみ、恵みが示されています。モーセはこの神様の慈しみと恵みに信頼して、失礼を顧みず、主にすがっているのです。このような執り成しをこそ主が待っておられることをモーセは知っているのです。

罪の結果  
 主は20節で「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」とおっしゃいました。イスラエルの民の忘恩の罪を主はここでも赦して下さり、民を滅ぼすことを思い止まられたのです。しかし主はここで、その赦しと共に、彼らが犯した大きな罪の結果をイスラエルの民に負わせました。21節以下にそのことが語られています。「しかし、わたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている。わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度(とたび)もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない」。このようにして、最初に申しましたように、イスラエルの民が約束の地カナンを与えられることは、今の世代が死に絶えるまで、四十年延期されてしまったのです。「こんなことなら荒れ野で死んだ方がましだ」と言った者たちはその言葉通りに荒れ野で死ぬことになり、そして彼らが主を疑い「妻子は奪われてしまう」と言ったその子供たちは、主の導きによって約束の地に入ることになったのです。

み言葉に信頼して生きる  
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第3章7節以下は、この民数記13、14章の出来事を、主イエス・キリストを信じる信仰者のための教訓として見つめています。イスラエルの民が四十年の間荒れ野の旅を続けなければならなかったのは、彼らが主のみ言葉を聞きながらそれに信頼することなく、心をかたくなにしてみ言葉に従わなかったからであることが見つめられています。私たちも、神様のみ言葉によって生かされています。み言葉によって私たちは、神様がその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって罪の赦しを与えて下さったことを知らされています。また主イエスの復活によって、神様の恵みが死の力にも既に勝利しており、世の終わりに主イエスがもう一度来て下さる時には、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという約束をも、み言葉によって与えられています。このみ言葉に信頼して生きることが私たちの信仰なのです。しかし私たちが日々直面しているこの世の現実は、このみ言葉に信頼して生きることを妨げる力に満ちています。イスラエルの民がそうであったように、強い敵が待ち構えており、それに比べて自分の力は取るに足りない、こんなことでは約束の地を手に入れることなどとうてい出来そうもない、と思うようなことばかりなのです。しかしそのような目に見える現実の中であのカレブとヨシュアは、神様のみ言葉に信頼して、「主が我々と共におられる」ことを信じて歩みました。私たちも彼らに続いて、主が示して下さる道を恐れずに進んでいきたいのです。また民をそのように導くことこそ指導者として立てられている者の務めなのです。

主の鍛錬の時  
 このことと並んで、私たちはここからさらにいくつかのことを聞き取ることができると思います。その一つは、神様の赦しと裁き、あるいは慈しみと厳しさということです。ここにはその両面が示されています。それゆえにイスラエルの民は、滅ぼされてしまうことはなかったけれども、罪のもたらす結果を背負って四十年間荒れ野の苦しみを負うことになったのです。私たちはともすればこれを、赦すと言いながらこのような罰をお与えになるのでは全然赦していないではないか、と考えてしまいます。しかしそうではありません。イスラエルの民に与えられたこの四十年の荒れ野の歩みは、罪に対する罰であると同時に、その苦しみを通して神様が彼らを、真実な神の民へと鍛え、教育して下さる時でもあるのです。神様による罪の赦しの恵みというのはそのように、私たちを正し、鍛え、教育して下さる恵みでもあります。罪の赦しの恵みをいただいた私たちは、その恵みの中でこのように神様によって鍛えられていくのです。それゆえに、キリストを信じて洗礼を受け、罪の赦しの恵みにあずかった私たちの歩みにおいても、私たちの罪のもたらす苦しみがなおあります。赦された私たちはなお荒れ野を旅していくのです。その苦しみを、神様の赦しに支えられた訓練の時、試練の時として受けとめていくことが大切なのです。

主が共におられなければ  
 ところがイスラエルの人々は、自分たちの罪の結果である苦しみを自分の力で解消しようとしたのです。それが14章39節以下に語られていることです。彼らは、主によって告げられた四十年の延期の宣言を受け入れることができずに、自分の力でこの地を手に入れようと暴走したのです。「さあ、主が約束された所へ上って行こう。我々は誤っていた」と40節にあります。しかしモーセはそれに対して、「あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない。敵に打ち破られてはならない。行く手にはアマレク人とカナン人がいて、あなたたちは剣で倒される。主に背いたから、主はあなたたちと共におられない」と言いました。その言葉の通り、彼らは惨めな敗北を喫したのです。主を信頼せず、目に見える現実のみを、人間の力関係のみを見つめて主のみ言葉に逆らった彼らの罪のゆえに、もはや主は彼らと共におられなかったのです。主が共におられないなら、人間の力をいかに結集して努力したところで、約束の地を得ることはできないのです。

主のみ業は世代を超えて  
 しかしこのことは、主がイスラエルの民から全く離れ去ってしまわれたということではありません。主はその赦しのみ心によって、これから四十年続く荒れ野の旅において、彼らと共に歩み、彼らを神の民として鍛え、そして次の世代の者たちを約束の地へと導き入れようとしておられるのです。ここに、もう一つの大事なことが示されています。主なる神様はここで、エジプトの奴隷状態からの解放を体験した者たちが皆荒れ野で死んだ後、その子供たち、次の世代の者たちに約束の地を与えると宣言なさいました。神様の救いのみ業はこのように、世代を超えて実現していくのです。このことにも私たちは注目しなければなりません。神様の救いは、自分一人の人生の中だけで与えられ、完成するものではないのです。もっと長い目で見ることが大事です。天地を造り、今も導いておられ、そして将来、独り子イエス・キリストの再臨によってこの世を終らせ、神の国を、私たちの救いを完成して下さる神様を信じる私たちは、自分の人生を、何十年かの地上の歩みにおいてのみでなく、もっとずっと長い、大きな視野の中で見つめることができるのです。神様の救いのみ業は、私たちが生まれる前から、私たちの先祖たちや信仰の先達たちにおいて働いていたし、私たちの死んだ後も、私たちの子供たちや孫たち、また信仰における後輩たちに受け継がれていくのです。私たちの人生は神様のこの世代を超えた救いのみ業の中に置かれているのです。自分一人の人生においては、そのみ業が十分に開花し、実を結ぶことがないかもしれません。しかしそれでも、神様は私たちと共にいて下さるのです。み言葉を信じ、神様の約束に信頼して生きるならば、私たちは、主が我々と共におられる人生を歩むことができるのです。

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