夕礼拝

憐れみ深い人々

「憐れみ深い人々」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第23章1-8節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章7節
・ 讃美歌 : 288、304

後半の幸い
 主イエスは山の上に座われ、集まってきた群衆たちに向かって語りかけられました。この山上の説教における八つの幸いの内、既に四つのところが終わりました。ちょうど前半の四つの幸いを聞きました。この山上の説教における主イエスが語られる幸いとは、この主イエスの語られる幸いとは、この世におけるいわゆる幸いと呼ばれるものとは異なるものです。主イエスはこの山上の説教において、全く新しい幸いな生き方について語られました。そして、その新しい幸いな生き方へと人々を招いたのであります。まず、最初に三節の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とあります。自分の中には何もない事を認め、ただ神に寄り頼み、神の御手から良き物を受け取ろうとする、そのような心の貧しさに生きることの幸いを聞きました。次に、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」とありました。私たちは自分一人だけで嘆かず、自分の傍らに寄り添って、自分と一緒に嘆き悲しんでくださる方を見出して、この方に悲しみをぶつけ、神に向かって悲しむという幸いであります。三番目には「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」とありました。私たちは、悪事を謀る者のことで苛立たず、怒りを捨て、力を捨てて神の前に静まり、主のくびきを共に負うことで柔和さにおいて悪に打ち勝つ者の幸いを聞きました。第四番目では「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」とありました。自分の中に義がないことを認め、自分の正義を振りかざすことを止めて、ひたすら神の義を飢え渇くように求める人の幸いについて聞きました。私たちもまた一人の罪人としてそのことを聞いたのであります。そのようにして神の祝福に生きることは何と幸いことでしょうか。

憐れみ
 本日から、後半の幸いについて聞きたいと思います。その後半の最初に挙げられているのが、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」とあります。「憐れみ」という言葉はあまり良い響きのする言葉ではないでしょう。「憐れみ」とは誰かのことをかわいそうに思って、何かをしてあげること、慈悲、同情という意味です。憐れむ側と憐れまれる側の人間がいるということです。憐れむ側、憐れみをかける側の人間が上に立ち、自分より下にいる人間に施しをしてあげるような意味合いが出てくるのではないでしょうか。憐れまれる側の人間とは、何かいたたまれなくなってしまうでしょう。憐れまれるというのは、自分が何か見下されているような気持ちになってしまうのではないでしょうか。自分は人様には同情されたくない、人から憐れまれるような人間にはなりたくないという風に、複雑な思いになってしまうことも起こるのです。困った時はお互い様と言うように、素直に人の親切を受ければ良いのですが、今は自分が助けられるけれども、その相手が困った際には自分が助けなければらないと思ってしまいます。また、その時に素直に人を助けることができるのかと思ってしまいます。おせっかいにはなってしまわないであろうかなどと考えてしまうものです。おせっかいになってしまうという理由で、何もしないということもあります。また、私たちは本当に助けを必要としている人を目の前にして、私たちが本当に憐れむことができるでしょうか。私たちは口では大きなことを言っても、実際の具体的な場面に出会うと憐れみの薄い人間になってしまうのです。
 「憐れみ」という言葉は英語ではmercyと言われる場合がありますが、もう一つはcompassionとあります。
Compassionとは他者と情熱を共にするという風に訳すことができます。Comとは共に、passionとは情熱ですので、他者と情熱を共にするということであります。情を同じくする、だから同情ともなるのです。同じような意味では、共感するということにもなります。このpassion「情熱」という言葉の元々の意味は「苦しむ」という言葉です。ですから、この「憐れむ」ということはただ上に立って下の者に何か施しをしてあげ、自分は痛くも痒くもないということではなく、「共に苦しむ」ということです。他者と苦しみを共にするということであります。他者の苦しみを共に負う、共に担うということです。共に嘆き、共に悲しむということです。そして重荷を共に負う。あまりにも重くなりすぎて、もうその人が今にも潰れそうだというときに、その重荷を一緒に担いであげる、一緒に担うということが「憐れむ」ということです。共にその重荷を担ぐのですから、自分も傷を受けます。それがcompassion、共に苦しむということです。自分も一緒に傷を受けるのです。それゆえに「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人、自分の周囲にいる、自分が助けるべき、様々な場面において弱さを覚えている人、その意味で小さい人に気づく感性を持っている人であります。自分の周囲に隣人を見出し、隣人となることができる人であります。憐れみを持つ、隣人になるとは、そのように憐れみを持つということです。

主イエスが求めるもの
 この「憐れみ」を主イエスは大事にしたのです。主イエスはこの憐れみをとても大事にしたということは主イエスの御言葉からも分かります。少し後のマタイによる福音書の第九章の十二、十三節にこのようにあります。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスが求められるのは憐れみであっていけにえではないというのです。これは旧約聖書のホセア書の引用であります。神様は喜ばれることは、ただ形ばかりで心のない動物の犠牲を献げるような表面的なことではなく、形式的な行いではなく、むしろ助けを必要としている隣人のことを思いやる、その人の重荷や苦しみを共に担おうと、そのような憐れみのことであります。それが、神様が喜ばれるものであります。ただ形ばかりの、心ない、動物の犠牲などとそういうものではないでしょう。そのような憐れみに生きることを神様は望んでおられるのです。この言葉を主イエスは弟子たちに教えたのであります。同じような言葉がもう一つあります。同じくマタイによる福音書の第二十三章二十三節にこうあります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」このような主の言葉があります。律法の中で最も重要なこと、それは正義、慈悲、誠実だと言いまして、この正義と並んで出てくるのが慈悲、すなわち「憐れみ」であります。ここに「薄荷」とあります。これは香りの良い、芳香剤であります。「いのんど」と言うのはせり科の薬草であり、香辛料にも使われます。サラダに加えるととても良い香りがするというようなものであります。茴香とは香りの強い薬草であり魚料理などに用います。これらは薬草でありますので「ごく少量」のものです。律法によりますと、全て大地から採られたもの、野菜と言うものはその十分の一を献げよとありますので、ファリサイ派の人たちはこのような少量の薬草や香辛料も律法に書いてあるから十分の一を分けて献げていたのです。ごく少量の、ほんの僅かなものの分量を量って献げていたのです。それなのに、肝心の憐れみを示さなかったのです。最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしたのです。憐れみの心を忘れていたのであります。主イエスはこのようなことに問いかけたのであります。けれどもこのことは、ただ律法学者やファリサイ派の人たちだけに当てはまるのでしょうか。この姿は私たち人間のあり方をよく現しているのではないでしょうか。自分の生き方にあまり関係のないことであれば、私たちは気を配ることができるかもしれません。けれども、自分のことになると、他者に対する態度とは一変します。思わず身を引いてしまったり、あるいは知らない振りをしてしまうのであります。つまり、自分とあまり関わりのない薄荷やいのんどや茴香のことであれば、十分の一に測るなどのいわゆる、細かな配慮が出来るのに、人に対しては配慮が出来ないのであります。憐れみの心を持つことができないのであります。即ち、共感し、苦労を分かち合うということを私たちは欠けてしまうのではないでしょうか。主イエスは語られました。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」憐れみに生きる人は幸いであり、その人は憐れみを受けるといいます。主イエスがこの「憐れみ」という言葉を大切に用いながら、今この山上の説教で語られた、その言葉を私たちは受け止めたいのであります。けれども、ここで主イエスは「憐れみの心を持ちなさい。」とは言ってはおられません。憐れみの心を持てば、憐れみを受けるようになるとは、おっしゃってはいないのです。自分の力で努力して憐れみの心を持つ人間になろうなどと主イエスはおっしゃってはいないのです。人間が自分の努力をして憐れみの心を持つ人間になっていくということではないのです。なぜ、人間の側に憐れみというのは全く存在しないのです。

主なる神こそ
 それは、なぜなら神様こそまず第一に憐れみ深い方であるからです。憐れみ深い神がその憐れみを他ならないこの私たちに指し示して下さったのであります。神様こそ、私たちに憐れみを与えられるお方であるのです。イスラエルの人たちが良く言う「憐れみ」というのは言葉の言い回しはこうであります。「主なる神様。憐れみ深く、恵みに富む神。忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪とその人過ちを赦す方」と神様を呼ぶのです。主なる神様は憐れみ深く、恵みに富む神だと、こういう言い方であります。何よりも、神様こそが憐れみ深い方であります。そしてその憐れみが目に見える形で、人格を取って現れたのが主イエス・キリストであります。イエス・キリストというお方は、私たち罪人に向けられた神の憐れみであります。この憐れみである主イエス・キリストは私たち人間のために何を語られたのでしょうか。主イエスがこの山上の説教の中で語られていることは、先ずこの神の憐れみの中にあなた方は置かれている、という祝福の宣言であります。あなた方はこの憐れみの中にいるのだという幸いであります。
この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられているのです。それはイエス・キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けているのです。 7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということであります。
主イエスはこの神の憐れみの中に置かれた人間だという祝福の宣言を与えこの憐れみを生きるようになりなさい、と言うのです。

憐れんでやりなさい
 主イエスのお語りになった譬え話にそのことが現れております。18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」であります。ある王様、主君が借金の決済をし始めた。一人の家来は一万タラントン、一タラントンとは一日分の給与の六千日分と言われますから、一日分の給与によるのですが、その六千日分、更にその一万倍ですから、巨額な額になります。主君はこの家来に、自分も妻も、子も、持ち物を全部売って返済するように求めました。けれどもそれはできない。家来はひれ伏して、どうか待って下さいとしきりに願ったのです。すると主君は彼を憐れに思い、二十七節にあるように「憐れに思って」彼を赦し、その巨額の借金を帳消しにしたのであります。この家来はどんなに喜んだことでしょう。けれどもその喜びも消えない内に、外に出て家に帰る途中に仲間に遭いました。この仲間は自分から借金をしている。その額は僅かな百デナリオンであります。ところがこの巨額の借金を帳消しにしてもらったばかりの男が、この僅かな百デナリオンの借金をしている者を赦すことが出来ないのでありました。決して許さず、牢に入れ、返すまで承知しなかったというのであります。報告を受け主君はこういう仕打ちを聞きいて彼を呼び出しました。「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』」そういいました。この主君の言葉「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」とは、今私たちに語りかけられている言葉です。私たちは既に大きな憐れみの中に置かれているのであります。それを受け止めているのであります。私たちは自分では決して償うことができない罪、負債を、キリストの十字架の死によって赦して、帳消しにされたのです。私たちの罪は赦され、到底返済しきれない人生の借金を、主イエスの十字架によって赦されているのであります。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、主イエス・キリストの十字架の死であります。そこに神の深い憐れみの出来事があるのです。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債、罪のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となることです。百デナリオンはこの家来が赦してもらった金額と比べると僅かな額でありますが、百日分の賃金でありますので決して小さい額ではありません。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、赦さなければならないと言うのは苦しみと損害を伴います。自分にとっては何一つ有益ではないかもしれません。私たちはどう考えても損失を受けることにしかならない、という場面に出会います。何一つ良いことなど見出せない、思わず神様に恨みつらみ、嘆きを言いたくなるときがあります。そのような場面において私たち自身の憐れみ深さが問われていくのです。そこでなお、憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみを与えらていることを知ることであります。その神様の憐れみに応えて生きようとするのです。憐れみ深い者として生きる。それは神の憐れみの心を既に与えられている者であるからです。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができます。そこにこそ、私たちの幸いがあるのです。

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