主日礼拝

その石を取りのけなさい

「その石を取りのけなさい」  神学生 三浦きょうこ

・ 旧約聖書: ヨブ記 第42章1-6節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第11章17-45節
・ 讃美歌: 137、294、358


 昨年の4月6日、受難週、早朝祈祷会から、横浜指路教会での、わたくしの神学生としての一年間の実習がはじまりました。そして、今年度末、あと残りちょうど半月となりましたが、再び受難週に、その実習を終えようとしていることに、深い感銘を覚えます。昨年度のその最初の主日、朝早くから、青年たちが(たしかあの時は大西陽子さんでしたが)奨励をなさっていて、「とてもすてきな教会だなぁ」と驚きと喜びをもって参加したのでした。ことしもまもなく受難週。人々は棕櫚の葉を振ってイエスを、王として、エルサレムへ迎え入れるのです。そして、主イエスは十字架と復活への道を歩むことになります。
そのような主イエス・キリストの十字架と復活を思い、悔い改めつつ過ごすレントの季節に歩んでおります今日、あたえられました聖書箇所は、ヨハネによる福音書11章ラザロの復活の物語です。

しるしの福音書
 ヨハネによる福音書は、しるしの福音書とよばれることがあります。それは、他の3つの福音書のように短い喩えや奇跡物語によってではなく、しるしをじっくりと語っていくからです。そのしるしは、2章のカナの婚礼からはじまり、今日のラザロの復活まで7つあります。
 それぞれのしるしによって示される出来事は、大きく弧を描きながら上昇していき、神の本質を指し示していきます。ヨハネ福音書が語りかけるこのしるしによって、私たちは神の栄光について、そして神とイエス・キリストの本質について知らされていくのです。そしてしるしが回を重ねるごとに、イエスを信じる人々のそして、拒む人々の緊張感が増していきます。本日のラザロの物語は、死人が復活するという、イエスがエルサレムに入られる前の、最後のしるしです。

サンドイッチ構造
 この物語は、11章から始まっていますが、その前の行10章42節を見てみますと、こうあります。「そこでは、多くの人がイエスを信じた」。そして、また、本日の聖書箇所、最後の節、45節にも「ユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とあります。「多くの人が信じた」ということばに、はさまれてサンドイッチのようになっていることに注目したいと思います。どうして、それほど多くの人が信じるようになったのか、その物語に目を向けてみましょう。

物語前置き
 しるしの行われた場所は「ベタニア」と呼ばれる村です。ベタニアという地名は、「悩む者の家」「貧しい者の家」という意味をもっていました。そこは、いつもイエスがエルサレムに行くときの宿にしているところでした。エルサレムから3キロほど、歩いてほんの三、四十分のこの地に、イエスはやって来たのでした。前の10章39節には、「ユダヤ人たちはまた、イエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」とあり、11章8節には「ユダや人たちが、ついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに」とありますから、イエスはしるしを起こす度に、よくも悪くも広く人に知られるようになっていました。そして今やユダヤ当局からは、指名手配された人として、緊張のただ中にあったのです。そのような危険な状況であるにも関わらず、ラザロの姉妹たちは人を介して、イエスに、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのです。それを聞いたイエスは、危険を承知でベタニアの愛するラザロのもとに向かったのであります。イエスにとって、ベタニアに行きラザロを復活させることは、十字架への第一歩を踏み出すことでした。

物語
 17節、物語は、「さてイエスが行ってご覧になると」とはじまりますが、原文には「ご覧になる」「見る」という意味の単語はありません。ここでは、イエスは来て、ラザロが4日間墓にいることに気づいた、わかった という意味でしょう。
この前の11章5節で、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」とあります。同じ所というのは、10章40節に「再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」とありますから、身の安全のため、ヨルダンの向こう側に滞在されていたのでしょう。そこで、ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間滞在され、ユダヤに行くことを神のみ旨であると信じてから、出発をなさいました。ベタニアに着いた時、ラザロはもう墓に四日も置かれていましたから、完全に死んだ状態にありました。

三幕設定
 今日の箇所は、大きく分けて三つの場面、舞台で言えば、三幕に分けることが出来るでしょう。
一幕目は、マルタとイエス。二幕目は、マリアとイエス。三幕目は、ラザロの復活です。
まずは、一幕目、17節、
 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ておりました。当時、ユダヤの習慣では、人が亡くなると一週間、葬儀が続き、人々は残る家族を慰めるためにその家を訪れました。身内を亡くした家族を慰めることは、大切なこととされていましたから、いろいろな人々が多くこの家を訪れたにちがいありません。4日目であるこの時は、まさに混雑最高潮であったでしょう。ところで、マルタとマリアの年齢順は聖書には書かれてありませんが、本日も一般的に言われるように、マルタを姉、マリアを妹として話しをすすめてゆきたいと思います。そんな混雑最高潮の時にも、しっかりと采配をふるっていた姉マルタは、イエスの到着を知り、とるものもとりあえず、村の入口まで迎えに行きました。しかし、妹マリアの方は、愛する弟を失った悲しみに心を奪われて、立ち上がる気力もなく、家の中で沈み込んでおりました。
 先月2月に、ルカによる福音書のマルタとマリアの箇所の藤掛牧師の説教をお聞きになった方は、思い出されるかもしれませんが、マルタとマリアは異なった性格を持っていたようです。弟の死から大きなショックを受け、悲しみでいっぱいなところは同じですが、マルタは理性と意志によって悲しみを抑え、当面の事情に応じて的確に行動しているし、一方、マリアは悲しみで胸がいっぱいで、ほかのことには手が着かない様子です。

マルタとイエス
 で、マルタですが、イエスを見て、開口一番、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っています。マルタは、『あなたがわたしたちの知らせをお受けになったとき、どうしてすぐに来てくださらなかったのですか。あなたは手遅れになるまでそれをほおっておかれたのですね』と言いたかったのでしょう。しかし、続けて、マルタは信仰の告白をします。「あなたが神にお願いになることは何でも、神はあなたにかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」この言葉に対し、イエスがラザロの復活をお約束になると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えます。マルタにはイエスの語られる言葉の意味がわかりません。マルタが最初に言った「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という言葉は、イエスとマルタとの関係を示していると思われます。われわれ女性は、時折、一番好きな人に「あなたなんか、大嫌いよ」などという逆説的愛情表現をいたしますが、これもそれに近いのではないかとわたくしは思うのです。世の男性方は、女性の言葉の意味には気を付けて下さい。言葉の使い方に関して言うなら、女性のみならず、男性もまた、信じたいという願望に対して、相手に逆のことを投げかけたりすることがしばしばあります。「君はまさかこんなことをしようと思っているのではないよね」などと言って、実はこんなことをして欲しくないという意志表示をしているのです。その反対に、「君はこんなことはしないと信じているよ」などと、自分の願望を押しつけようとすることもあります。
何にしても、ここでのマルタの気持ちは、これまで、さまざまなところで病人の癒しを行ってこられたと伝え聞いているその人、主イエスが、彼女の兄弟、主が愛しておられたラザロにおいては、癒しをなさらなかったことに対する失望であるし、つづく信仰の告白は、そうであってもイエスを信じる信仰表明と言えるでしょう。マルタにとって、ラザロが死んだという出来事と自分が主を信じる信仰とはここではうまくつながっていません。

 そんなマルタにイエスは答えます。「わたしは復活であり、命である」。わたしは、死に打ち勝つ者、すなわち復活であり、死に支配されない命、永遠の命である。つづくマルタはイエスの「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」との問い掛けに答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。この力強い信仰告白は、マルタが、主イエスがメシアであり、その救いは終わりの日の復活において実現すると信じていたことを示しています。

マリアとイエス
第二幕目に入ります。
 さて、マルタはそのように言ってから、家に帰り、マリアを呼び、慰めに来ていたユダヤ人たちに聞こえないように、こっそりと耳打ちします。「先生がお呼びです」と言うのです。マルタは、彼女が今すべきことを彼女の持ち前の機転のよさで察したのかもしれません。悲しみにうちひしがれていたマリアはその一言にすくっと立ち上がります。そのマリアが出て行く姿に、ユダヤ人達は、「墓に泣きにいくのだろうと思い」マリアを慰めるため、後を追うことになります。しかし、マリアが行ったのはイエスのところでした。墓ではなく、イエスの所を目指したのです。自分の悲しみでいっぱいのマリアは、「イエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足下にひれ伏し」とあります。マリヤは必死でイエスをめざして歩き、イエスの姿を目にしたとたん、その足下にひれ伏しました。そして、祈るように、主イエスを崇めつつ、そして、これも開口一番、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とマルタと同じ言葉を言ったのです。

 マルタとマリアの行動はまったく違いましたが、しかし、発した言葉はまったく同じ言葉でした。主がベタニアを訪れるまで、この二人の姉妹は「主がここにおられたら‥」と、涙がかれるまで、何度もくり返し口にしてきたのにちがいありません。「主がここにおられたなら…」この問いは、わたしたちの問いでもあります。いま、この苦難の時、この孤独の時、なにもかも上手くいかないとき、主がここにおられたなら、こんなはずでは…」とわたしたちも考えることがあるのではないでしょうか。  33節、イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人もラザロの死を悲しんで泣いているのをご覧になり、「心に憤りを覚え、興奮して言われた」とあります。この「憤る」という言葉は、非常に感情的な言葉ですが、この表現がイエスに当てはめられているのは、新約聖書中ではこの場面以外にはあと一箇所しかありません。あとの一箇所とは、イエスに触れていただくために、つまり祝福を受けるために、人々がこどもたちを連れて来たのを弟子たちが「そんなことでイエスをわずらわすな」と叱った時に、「こどもたちをわたしの所に来させなさい。妨げてはならない。」と言って「憤られた」とある、そのところです。(Mk10章)今日の箇所でも、主イエスは、心の深いところでひどく憤慨し、心かき乱され、そして言われました。「どこに葬ったのか」と。では、なぜここでイエスは憤られ、心をかき乱されたのでしょうか。
 そのことに関して、多くの学者たちにいろいろ説明がなされてきました。司教クリュソストモスによれば、『この時イエスは、死人に同情するご自身の人間的情感に対して怒りを感じられたのである』とか、カルヴァンによれば、『死の力に対して憤激されたのである』とか、マイヤーという神学者によれば、『マリヤの真の涙とユダヤ人たちの偽りの涙と見比べて憤りを覚えられたのである』とかいわれます。
少し前の11章4節で、主イエスは、「ラザロの病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とラザロの復活をすでに約束しておられました。しかし、そのように断言しておられた主イエスの言葉の意味を、誰もほんとうにはわかりませんでした。わたしたちは、続く節と一緒に、イエスの感情を考えてみたいと思います。
 憤り、興奮したイエスの「どこに葬ったのか」という問い掛けに、人々は、「主よ、来て、ご覧ください」と言います。ここで、イエスは、涙を流されました。イエスが涙を流された場面は、これも福音書の中には他に一箇所しかありません。ひとつはやがて崩壊するであろうエルサレムの町並みを眺められた時、これは将来イスラエル、特にエルサレムを襲う悲劇を予見して感極まっての涙でした。今回の場面は、少し事情が異なります。イエスは、もらい泣きをしたのでしょうか。わたしたちが喜ぶときはともに喜び、泣くときは共に泣く。イエスはそういうお方でありましたから、多分、イエスは、マリヤがどんな言葉をもっても慰めることが出来なくなっていたのを見て、彼女と共に悲しみ、彼女と共に泣かれたのかもしれません。そこには、また、ご自分のこれから受ける十字架の死への思いが、ラザロの死と重なって、感極まり、さらに憤られ、涙されたのかもしれません。人々は、あのイエスがハラハラと涙するのをご覧になり、ある者は、イエスの涙にラザロへの愛の深さを読み取り、またある者は、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と考えたのでした。人々の反応はいろいろでありました。

 さて、第一幕と第二幕を振り返ります。マルタとマリアにみられる共通点はなんでしょうか。それは、イエスを神の子メシアだと告白したマルタも、そののち、イエスの足に香油を注ぎ、イエスの死への弔いの用意をするマリアも、ラザロが復活させられるという主のお約束を具体的にわかってはいないということです。姉妹は、墓に葬られた愛する兄弟ラザロのことで胸がいっぱいでした。そして、人々もまた、ラザロの姉妹をなぐさめることでいっぱいでした。

第三幕 石をとりのけなさい
 今日の物語のクライマックス第三幕に入ります。38節「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。いよいよ、イエスは、愛する者を葬ってある墓へ来ました。墓は洞穴で、石で塞いでありました。当時、ユダヤでは火葬ではありませんから、屍体は香油をぬり亜麻布でくるんだまま置いてあったのでしょう。石は、野獣などの侵入を防ぐためのものでした。また、墓荒らしなどを防ぐためであったかもしれません。墓は、死の支配する領域です。しかし、イエスは、石を除けて、ラザロの死の領域に踏み込みます。人々に「その石を取りのけなさい」と言われるのです。それを聞いたマルタはとっさに「主よ、四日もたっていますからもうにおいます」と反応します。人々にとって、もうラザロは死んでいるのです。そのままであれば、死の支配にまかせるしかないラザロの身体でした。あれほど、熱く主をメシアだと告白するマルタも、この時点では、今、ここで、主がラザロを復活させると信じてはいませんでした。彼女の視線は、天ではなくひたすら地を見つめ、死を思うことで悲しみの中にあり、死の支配に包まれ、天を仰ぐのを忘れています。彼女は、悲しくて仕方がなかったのです。
 しかし、それに対し、主は静かに確信をもって、語ります。40節「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。あなたがたは、希望のない死ではなくて、わたしたちの想像を越える神の救いの出来事を、今、ここで見ることが出来る、とおっしゃるのです。墓を塞いでいる石というのが、死の支配領域への封印と言えるのなら、イエスはそれを取りのけなさいと言われます。主イエスにより促された人々は、その石をとりのけました。そして、次にとったイエスの行動はどうだったでしょうか。そのことに注目したいと思います。イエスは、天を仰ぎ感謝の祈りを献げたのです。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いて下さることを、わたしは知っています」。この祈りは、ラザロの復活を人々が見たあとに祈った祈りではありません。イエスは、人々が石をとりのけた後すぐに、祈られたのです。続いて、「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」とおっしゃいました。イエスがラザロの復活のしるしを願われたのは、明らかに、ご自分の名誉や名声のためではありませんでした。周りにいる人々のため、ラザロの死という出来事を通じて集められた民が、信じるためでした。イエスの祈りは、神の力を求める祈りでした。しるしとはまさに『神によって答えられたイエスの祈り』のことでありました。

神のため
 イエスはただ神の栄光を求められ、イエスのなすことはすべて、神の力によるものであり、神の栄光のために計画されたものでした。イエスが行動されたのは、神によってであり、神のためでありました。
 ラザロはこの祈りののち、墓から出てきます。イエスは、ここで神を信じるということがいかなることなのかを、わたくしたちに示します。信仰をもって神のためにイエスが祈るとき、神にお出来にならないことはなにもないことをイエスは教えています。イエスが願えば、いつも神はイエスの願いを聞いて下さるのです。なぜなら、イエスは神のために、祈っているからです。

復活への希望
 主イエスは、この物語で、神の力をお示しになりました。感謝して主イエスが祈ったとき、神にすべてを託したとき、すでに神の息はラザロの身体に吹き込まれ、ラザロは起き上がりました。わたしたちは、この物語により復活は真実であるという確かさを知るでしょう。この物語から、ラザロを復活させたのと同じ神の力が、主イエスご自身を復活させるという確信を得ることが出来ます。わたしたちの涙するときにともに涙を流される、イエスはそういうお方ですから、わたしたちもイエスとともに、イエスのように復活できると信じることが出来るのです。わたしたちは、このしるしが、主イエスの復活をわたしたちが信ずるためになされたことを理解します。このようにして、多くの人々が信じました。主の十字架への第一歩はこのように踏み出されました。マルタやマリアにとって、復活の約束の本当の意味はわかりませんでした。わたしたちもまた、しかりだと思います。しかし、わたしたちは、神の力の確信によって、わたしたちに与えられている復活の希望に歩むことを、許されています。そして、復活は終末の問題だけではなく、今、既に与えられている復活への希望の中を、光の中を、主とともに歩むことであるということを、ラザロの物語はわたしたちに教えてくれています。

祈ります。
天の父なる神よ。わたくしたちは、レントにあって、あなたの復活を思いつつ、罪の悔い改めの季節を過ごしています。あなたは、復活であり、まことの命であります。わたしたちが固く立ちたいと思う信仰を、何を言っているか理解しないわたしたちに、頭で理解しようとして右往左往するわたしたちに、「その石をとりのけなさい」というお言葉で、主に立ち返らせてくださいます。あなたに出来ないことはなにもありません。死人をも復活なさるその力の中に、わたくしたちは 生きています。死に打ち勝つ信仰を与えてくださり感謝します。わたしたちは、あなたがあなたの愛するひとり子、主イエスの祈りに必ず答えてくださることを知っています。わたしたちを解き放ち、そして、行かしめたまえ。  主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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