夕礼拝

偶像から離れよ

「偶像から離れよ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書 第2章6-22節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第5章18-21節  
・ 讃美歌:404、484

 わたしたちは、悪の支配にあるかのようなこの世を生きるときに、またその悪の力に直面した時に、自分から偶像に近づいて行きます。その偶像は誰が作ったのか。それはわたしたち自身です。苦しみ、恐れ、破れ、それらに直面したとき、わたしたちは自らの手で造った偶像を拝み始めます。苦しいこと、悲しいこと、忍耐をしなければいけないことを向き合うことをやめて、偶像に夢中になります。真の神がどなたであるかを、忘れ、偽りの神を拝み始めます。偽りの神である偶像は人を、生かしません。むしろ、偶像は真の神からわたしたちを引き離し、滅びるものとします。しかし、偶像がわたしたちの方へと近づいてくることはできません。なぜならば、主イエス・キリストが守ってくださっているからです。そのような、わたしたちを滅びに至らせるような悪い者の手から、守ってくださっています。しかし、その主イエス・キリストの守りの内にいながらも、わたしたちは、世の中で、苦しみ、困難に直面した時に、その守りの円の内側で、自らの手で偶像を作り、拝み、その守りの内側から出ていこうとしてしまいます。
  今、神様は、わたしたちに、この自作の神、偽りの神である偶像から離れなさいと注意をされています。神の子どもたちとされた、信仰者、キリスト者、そして今偶像を拝んでしまっているすべての人に向かってこの言葉が与えられています。今、わたしたちは、偽りの神、自作の神を拝むのでなく、真の神であられる、主イエス・キリストと共に歩み、主イエスキリストを信じて、生きる、主イエス・キリストを礼拝して生きるものになりなさいと勧められています。
 「偶像を避けなさい」、これがこのヨハネの手紙一の最後の言葉です。ヨハネはこの手紙の最後の最後で、励ましの言葉を述べるのでなく、注意をうながす勧告の言葉を書いています。今まで、ヨハネはこの手紙で、光の子、神の子どもたちと呼ばれ、そのようにされているイエス様を信じるものである信仰者は、イエス様があらゆる悪の者に勝利されているので、イエス様を信じるあなたがたも既に悪に勝っている、その勝利に共に与っている、だから大丈夫だ。イエス様を信じて、イエス様との交わりを持つあなたたちはもはや、滅びるものでなく、永遠の命に生きるものだから、そのようなものとして、隣人を愛して、赦して歩む道を歩みなさい。既にあなたがたは信じて生きるものとなったのだから、大丈夫だ、だからこれこれのことをやりなさい、しかしこれこれのことは自分の力でできないから、神様を頼って、神様の霊である、聖霊を頼って、変えられながら歩みなさい。大丈夫だ。とこのように、励まし、勧めている言葉が多かったのです。
 聖書にある他の手紙の最後は、結びの言葉として、主があなたがたと共にいてくださるようにとか、あなたがたに恵みがあるようにとか、恵みが共にあるようになど、このようにこの手紙の読者に主の恵みがあるように祈っているような、結びとなっています。
 それらに比べると、このヨハネの手紙一は異彩を放っています。最後の最後で、「偶像を避けなさい」との勧告で終わります。今までこの手紙をわたしたちは読んできて、大丈夫、大丈夫と言うメッセージを聞いてきたわたしたちにとって、最後もわたしたちを安心させる「偶像が世にはびこっているが、大丈夫である、なぜならば主なる神があなたがたと共にいてその偶像を粉々に砕いてくださるのだから」というような、メッセージが最後にくること期待します。しかし、そう書かれていない。ですから実は、ヨハネが、最後に神様が共にあって偶像を滅ぼされるから大丈夫だ、とそう書かないことに、意味があります。
 「偶像」というのは、滅ぼしても、滅ぼしても生まれるものです。では誰がその偶像を生み出し続けているのかと言えば、それは人間です。今、神様が偶像を完全に滅ぼすのならば、この世に偶像を生み出し続けている人間を、滅ぼさなければなりません。ですから、神様は偶像を完全に滅ぼすことができる力をお持ちであるのですが、滅ぼされないのです。
 今日共に聴きました旧約聖書のイザヤ書2章8節には「この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す。」と当時のイスラエルの状況を描いています。偶像は、人の手の業、指で造ったものです。その、自分の手で造った、像を拝んで、ひれ伏していたということがイザヤ書で記録されています。また出エジプト記で、モーセがシナイ山に行って十戒の板を神様から貰いに行く時に、その山のふもとにいたイスラエルの民が、指導者のモーセがいなくなってしまったから、わたしたちを導く神々を作ってくださいと、モーセの兄アロンに頼み、それをアロンが受けて、民の持っている金を集めて、若い雄牛の像を造り拝んでしまうという記事が書かれています。イスラエルの民は、たびたび偶像を作ってしまいます。そして、神として拝むということをします。どんな時に、そのようなことをするかと言えば、それは、民が恐れや、不安、苦しみの中にある時です。出エジプト記では、指導者のモーセがいなくなって、帰ってくるのを待ちきれず、不安になり、自分たちで偶像を作ってしまい拝んでしまいます。
 実は、わたしたちも、同じようなことをしてしまっています。自らの手で偶像を作るようなことをしてしまっています。 
 わたしたちは、自分の病気、人生の不遇、仕事がうまくいかなくなる、学業がおろそかになる、人間関係の壊れ、家族関係が壊れ始めるといったような、世の中での苦悩と出会うときに、本当に苦しくなります。その時に、身近にあるものを、偶像に仕立て上げ、それに逃げたくなります。それに、夢中になっていれば、その現実から目をそむけることができるから、造ったものがなにか自分に元気を与えてくれるからなど理由は様々でしょう。
 偶像は、英語にするとアイドルです。わたしは中学時代、高校受験のシーズンに入り、急にモーニング娘に夢中になりました。ありとあらゆる、モーニング娘の登場する番組を録画していたり、CDを買ったりした記憶があります。そして、それを見たり、聞いたりして夢中になっていたと思います。おそらく、高校受験のプレッシャーを忘れるためだったのでしょう。高校に入学してからは、モーニング娘に対する興味はほとんどなくなったので、高校受験のストレスと関係があったのだと思います。これはまさしく、アイドル、モーニング娘を自分の心の中で、偶像として、逃げ場にしていたのだと思います。拝んだりはしていませんでしたけれど。 このように、わたしたちは極度の不安にあるときや、苦しみに在るときほど、熱中して、それに逃げてしまうことがあると思います。そして、その対象を、時に神格化すらしてしまい、神と崇め、憧れることすらあります。その対象はすべてです。それが、人でも、スポーツでも、音楽でも、物でもなんでも、人は偶像に仕立てあげてしまいます。人は、自分の心であらゆるものを、偶像にしてしまうのです。それは神様から選ばれ、神様と共に歩んでいたイスラエルの人々でさえも、偶像を造っていましたから、神様のこどもとなった信仰者であれば偶像を作らなくとは言えません。宗教改革者カルヴァンは「人間の心は、まさしく偶像を作り出す工場である」と言いました。今も人間は偶像を生み出し続けていますし、またその偶像を崇拝してしまっています。
 本日の御言葉の5章19節「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」この世全体が悪い者の支配下にあるとは、この世が悪しき力の下に、まだあるということでしょう。イエス様が十字架にかかり、悪に勝利された。しかしこの世はまだ悪しき力の支配下にあるというのは、どういうことかと思う人がいると思います。イエス様は十字架で死なれて悪に勝たれた、ということは、戦に例えられるでしょう。イエス様が、戦で悪の国の王様兼総大将が倒した。王様を失えば、国として存立できませんし、総大将を失えば軍隊を動かせません。そこで悪の国は、事実上負けです。しかし、戦に勝った直後は、今まで、悪の国の支配下にあった町や村などはまだ解放されていません。イエス様の領土として、悪の国から解放されることは約束されているけれども、実際はその悪の国のものたちがまだ町や村にいて、統治している状態。これが今の世の状態でしょう。わたしたちは、イエス様に属するものと言われています。その悪の国の支配下にあったわたしたちを、イエス様は十字架上で勝利され悪に勝ち、その国の民ではなくて、イエス様の国の民としてくださいました。ですから信仰者の国籍は、神の国となります。今住んでいるこの世は、事実上は勝利されたイエス様の領土なのですが、まだ戦の直後なので悪の国のものたちがまだいて、幅をきかせている状態なのです。
 ですが、今日の御言葉の18節で「神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」とあるように、イエス様がその、今この世にはびこっている悪のものたちが、イエス様の国の民のものに手を出さないよう、守っていて下さるということが、書かれています。終末の時、終わりの時に、今天におられるイエス様が再びこの世に来て下さる時、その時は、すべての悪いものは、一掃されています。この世が完全に、神様の支配下になるときが来ます。今は、その終わりの時を待っています。しかし、今は、無力に成った悪いものがこの世で、力あるもののように振舞っています。時に、わたしたちはその悪が、この世では並ぶものがない絶大な力を持つと考え、怯え、おののき始めます。そこで、勝利された真の神様を見つめるのではなくて、自分が作り出す偶像を見始めるのです。
 偶像を見ても、偶像を拝んでも、偶像にその身をささげても、なんの意味もないばかりか、その道は、滅びに至る道です。偶像は、人を生かしません、むしろ滅びに至らせます。人は、偶像を神のようにします。しかし、それは神ではありません、偽りの神です。では、わたしたちが、本当に頼らなくてはいけない、見つめなくてはいけない、礼拝しなければいけない真の神様とはどなたなのか。それはイエス様です。その真の神様を知ることができる力を、イエス様ご自身があたえてくださったと、20節で語られています。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。」「わたしたちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」イエス様こそ、偽りではない、真の神様であり、滅びではなく永遠の命をわたしたちに与えてくださる方です。
 イエス様は、その生涯を通して、わたしたちにつながりなさい、そして永遠の命に与りなさいと呼びかけておられます。わたしたちはイエス様とつながって、神様のものとして頂き、交わりをもたなければ、永遠の命に生きることはできません。イエス様とつながるということは、イエス様を信じて、イエス様と共にこれから人生を歩むということです。イエス様と交わるということは、イエス様を信じますと告白し洗礼を受け、教会となり、礼拝において神様から言葉をきかせて頂き、祈りと讃美と感謝をもって神様に応えてわたしたちから声をかけること、それが交わりです。このつながって、交わることを神様はわたしたちに求めておられます。そのために、悪と罪の支配下にあったわたしたちを救い出すために、イエス様を十字架にかけ、犠牲にして、悪に勝利され、わたしたちを神の国の民としてくださったのです。わたしたちを救い出すために、愛する子の命を差し出されました。それほどまでに、わたしたちを招いておられます。
 その招きに応えて、イエス様と共に生きる時、わたしたちはもはや悪や闇の力がこの世にあったとしても、恐れることはなくなります。なぜならば、その悪の力はイエス様に勝つことができないし、悪に勝たれたイエス様がわたしたちを守って下さると言ってくださっているからです。ヨハネによる福音書17章12節でイエス様このように言っておられます。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」今も、イエス様はわたしたちと共にいてくださって、わたしたちを悪から守っていてくださいます。
 今イエス様は父なる神様と共に天におられます。では天にいたら守ることができないじゃないかと思う人がいると思います。17章11節でイエス様はこのように言っておられます。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」イエス様は天に行かれる前に、全能で力ある父なる神様に、わたしたちを悪から守ってくださるように願いしてくださいました。そして、父なる神様は、今わたしたちを守り、導くためにキリストの霊であられる聖霊なる神様をこの地上にお遣わしになっておられます。聖霊なる神様がわたしたちを今守ってくださっています。
 また守りの内にあるものは、苦難や苦しみ、人間関係の破れの内にあるときに、偶像に逃げ、偶像に解決を求めなくてよいのです。偶像は解決を与えません。神様が解決を与えてくださいます。光の子である、キリスト者は、神様の内にあって偶像を造ってはなりません。光の内に、闇を持ち込むようなものです。神様のこどもたちでも、この世にあるものを偶像のように、仕立て上げ、それに惹かれて、光の内からでてはなりません。わたしたちの光は、イエス様です。悪の力が強大に思える時も、苦しいときも、なにもかもわからなくなるようなときも、偶像に逃げてはなりません。向かうべき、見つめるべきは、イエス様です。子たちよ、偶像を避けなさい。
 祈りましょう。

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