夕礼拝

十二人を遣わす

「十二人を遣わす」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第1章4-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章1-6節
・ 讃美歌:52、534

十二人を遣わす
 私が夕礼拝の説教を担当するときにはルカによる福音書を読み進めてきました。本日から9章に入ります。その冒頭1節にこのようにあります。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」。ルカによる福音書6章12節以下では主イエスが弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名付けられたことが語られていました。その使徒と呼ばれる十二人の弟子たちを主イエスは呼び集めたのです。使徒とは「遣わされる(た)者」を意味します。6章12節以下で主イエスによって選ばれた十二人が、本日の箇所でいよいよ遣わされようとしているのです。彼らは選ばれてすぐ遣わされたのではありません。選ばれてから遣わされるまでしばらく時間がありました。その間、これまで見てきたように彼らは主イエスと共にいたのです。主イエスは十二人に「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」と言われていますが、それはこれまで主イエス御自身が行ってきたことでした。直前の8章26節以下では、主イエスは悪霊に取りつかれていたゲラサの人から悪霊を追い出し、40節以下では、十二年間出血の止まらない女性を癒し、会堂長ヤイロの娘を甦らせたことが語られています。十二人の弟子たちは主イエスと共にいて、その教えを聞き、悪霊に打ち勝ち、病を癒し、死者を甦らせる主イエスの御業を間近で体験しつつ、遣わされる日に備えて学びと訓練の時を過ごしていたのです。

遣わされる日のために
 少し話が逸れますが、本日をもって夏期伝道実習を終えられる廣瀬祥史神学生が実習にあたり持ってきてくださったものがあります。それは最新版の「2022年度版東京神学大学学校案内」です。その冊子の中には通学生の代表として廣瀬神学生のインタビューも載っていますので興味のある方はぜひご覧ください。学校案内だけでなく「2023年度東京神学大学入学者選抜の手引き」という案内も持ってきてくださいました。内容としては今年度の入試について書かれているのですが、その表紙に大きな字で書かれている言葉があります。それが「遣わされる日のために」です。「東京神学大学入学者選抜の手引き」は小さな字で右上に記されているだけで、この案内のタイトルは「遣わされる日のために」であると言っても過言ではありません。このタイトルだけ読んでも、すぐには入試の案内と分からないのではないかと思いますが、しかしその一方で「遣わされる日のために」というのは、神学校がどのような場所であるかを的確に言い表しているとも思います。十二人の弟子たちが選ばれてから遣わされるまでの間に、主イエスの教えを聞き、その御業を間近で体験しつつ備えたように、神学校においても「遣わされる日のために」備えて学びと訓練の時を過ごすのです。ただ神学の学びをするだけでなく、教会での奉仕、あるいはこのような夏期伝道実習での学びと奉仕を通して、神の御業に仕える教会の働きを間近で体験しつつ備えていきます。そのように「遣わされる日のために」備えている神学生のことを覚え、私たちは祈りをもって支え続けていきたいのです。

ペンテコステ後の使徒たちに向けて
 さて、本日の箇所で十二人の弟子たちは遣わされますが、しかしすぐ後の9章10節で彼らは主イエスのところに戻ってきます。ですからこの派遣は一時的なものであったと言えます。十二人の使徒たちが(一人は入れ替わりますけれども)本当に遣わされるのは、主イエスが十字架で死なれ、復活し、天に昇り、聖霊を送ってくださった後のこと、つまりペンテコステの後のことです。ルカ福音書の続きである使徒言行録1章8節では、天に昇られる直前の主イエスが弟子たちにこのように言っています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。使徒たちは、ペンテコステの後にユダヤとサマリアの全土へ、地の果てに至るまで遣わされるのです。そのとき主イエスは天におられますから、遣わされる彼らは主イエスのところに戻ってくることはできません。本日の箇所で主イエスは、そのペンテコステ後の使徒たちの歩みをも見据えているのではないでしょうか。弟子たちは知る由もありませんが、主イエスは御自身の十字架の死と復活、その昇天の後に、聖霊が降って彼らが遣わされるのをご存知なのです。ですからここで主イエスは、このとき遣わされる弟子たちに向けて語っていると同時に、将来、ペンテコステの後に、地の果てに至るまで遣わされる弟子たちに向けて語っているのです。

ペンテコステ後を歩んでいる私たちに向けて
 それだけではありません。ペンテコステ後の使徒たちに語りかけているということは、同じくペンテコステ後を歩んでいる私たちに語りかけているということでもあります。自分たちを使徒と同じように考えることはできないと思うかもしれません。確かに聖書において、使徒は復活のキリストに会うことができた特別な人たちです。しかしその使徒たちの働きを受け継いできたのが代々の教会であり、その教会に連なる人たちなのです。それでも、遣わされるのはそれこそ神学生や牧師にしか関係ないことだと思うかもしれません。しかしそうではないのです。牧師や神学生だけではなく、使徒の働きを受け継いでいる教会の肢である一人ひとりが主によって遣わされていくのです。その私たち一人ひとりに向けて、ここで主イエスは語ってくださっているのです。

神の国を宣べ伝えるために
 主イエスが弟子たちを遣わす目的は、「神の国を宣べ伝え、病人をいやす」ことにありました。2節に「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」とある通りです。本日の箇所の終り6節にも「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」とあります。弟子たちはなによりもまず神の国を宣べ伝えるために遣わされるのです。これまでほかならぬ主イエス御自身が神の国を宣べ伝え続けてきました。8章1節では「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」と言われています。主イエスと共に町々、村々を巡った弟子たちも、主イエスに倣ってこの地上においてすでに神の国が始まっていることを伝え、主イエスによる救いの良い知らせを告げ知らせるために遣わされるのです。

病人をいやすために
 さらに加えて「病人をいやすために遣わす」と言われています。「病気をいやす」ことが、1節から6節までの短い箇所の中で繰り返し言われています。1節には「病気をいやす力と権能をお授けになった」とあり、2節には「病人をいやすために遣わす」とあり、6節にも「病気をいやした」とあります。なぜそのように「病気をいやす」ことが強調されているのでしょうか。この福音書の著者であるルカは医者であったから、病気をいやすことに興味があり、そのことを強調しているのではないか、と言われることがあります。そうかもしれません。あるいは直前の8章40節以下で、出血が止まらない女性の癒しと会堂長ヤイロの娘の甦りが語られているので、それに続くこの箇所でも病気をいやすことが強調されている、と考えることもできます。そしてそうであるならば、それは単に奇跡的に病を癒すことを強調しているのではなくて、主イエスとの出会いを通して、血を流して尽きていく命がくい止められ、死の力が打ち破られることを強調しているのです。主イエスは病人を治療する医者として十二人を遣わしたのではありません。もちろんそのようなこともあったに違いありません。しかし主イエスと出会うことによってこそ、病や死の恐れと不安から解放されて本当に生きることができる、なによりもそのことを告げるために十二人を遣わしたのです。

何も持って行ってはならない
 主イエスは十二人の弟子たちを遣わすにあたり、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」と言われました。実はこの十二人を派遣する出来事については、ルカ福音書だけでなく、マタイ福音書とマルコ福音書にも記されています。マルコ福音書を見てみるとこのように言われています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」(6:8-9)。マルコでは「杖一本のほか何も持たず」と言われていますから、杖一本は持って良いということになります。しかしルカでは「杖も…持ってはならない」と言われているのです。またマルコでは「帯の中に金も持たず」とは言われていますが、お金を持ってはならないとは言われていません。しかしルカでは一切お金を持ってはならないと言われているのです。このようにルカ福音書では、神の国を宣べ伝えるために遣わされる弟子たちに対して、その伝道の旅には徹底的に「なにも持っていかないこと」が求められているのです。

貧しくなりなさい?
 ルカによる福音書において、このように伝道に際して「なにも持っていないこと」が徹底して求められているのは何故なのでしょうか。このことにおいて何が見つめられているのでしょうか。一つの捉え方として、主イエスが「何一つ持っていくな」と言われたのは「貧しくなりなさい」ということだ、という捉え方があります。確かにルカ福音書4章16節以下で、主イエスがナザレの会堂で朗読されたイザヤ書の御言葉は「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(4:18)でした。そして主イエスは「この聖書の言葉は…実現した」と言われたのです。そうであるならば「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、福音を伝える人も相手と同じように貧しくなって、「なにも持たずに」伝道する必要がある。主イエスが「何一つ持っていくな」と言われたのはそのことを見つめている、と捉えるのです。

神様のご支配に信頼する
 けれども私は、伝道の旅に「なにも持っていかない」ことといわゆる「貧しくなる」ことは違うと思います。むしろここで見つめられているのは、自分の持ち物に頼るのではなく、徹底的に神様と神様の御支配に信頼することではないでしょうか。これから主イエスによって遣わされようとしている。それも目的のない気楽な旅ではなく、神の国を宣べ伝えるという大切な使命が与えられている旅です。十分準備して出発したいと思うのは当然です。杖は、旅の途中で折れてしまうかもしれないからもう一本持っていったほうが良いだろうか。袋(これは今で言えば旅行用のナップザックですが)は何リットル入るのにしようか。お金と服の着替えは多めに持っていかなくては、とあれこれ考え自分なりに万全の準備をして遣わされていきたいと思うのです。しかし主イエスはそうではないと言われます。自分が準備したものや持っているものに頼り、それらを支えとするのではなく、すべてをご支配していてくださる神様がその旅を導き、支え、必要なものを備えていてくださることに信頼し、自分の持ち物を何一つ持たずに遣わされなさいと言われるのです。そしてそうでなければ、本当に神の国を宣べ伝えることはできないのです。神の国を宣べ伝えるとは、神の国について解説したり説明したりすることではありません。そうではなく私たちの歩みをご支配していてくださり、それも好き勝手にではなく愛の御心によってご支配していてくださり、支え守っていてくださる神様にあらんかぎりの信頼を寄せて生きていくよう伝えていくことです。そのように生きていく歩みに神様が本当に必要なものを備えていてくださると伝えていくことです。そうであるならば、まず神の国を宣べ伝える人が神のご支配に信頼して生きていなければ、そのことを伝えられるはずがありません。自分の持ち物を支えとしている人が、神の国、神のご支配を語ったところで、誰も耳を傾けてくれないのです。

自分の能力や経験を頼みとせず
 さらに言えば、このことは単に伝道の旅に出かけるときの「持ち物」についてだけ言われているのではありません。手ぶらで旅をすれば、それで良いということではないのです。主イエスが「何も持って行ってはならない」と言われているのは、持ち物に留まらず、私たちの能力や経験をも含みます。私たちは自分の能力や経験を頼りとして、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせるのではないからです。言い換えるならば、私たちは能力や経験があるから遣わされるのではないし、逆にそれらがないから遣わされないのでもありません。先ほど、使徒は特別な人たちだと申しました。しかしそれは、彼らが特別な能力や経験、あるいは立派な信仰を持っていたから主イエスによって選ばれ、主イエスによって遣わされたということではありません。本日の箇所で遣わされていく十二人は、その後、一人は主イエスを裏切り、ほかの十一人も皆、主イエスの十字架を前にして逃げ出してしまうのです。そのように罪深く、弱く、欠けの多い者であるにもかかわらず、主イエスは十二人を、そして私たちを一方的な恵みによって選んでくださり遣わしてくださいます。福音を告げ知らせるとは、自分の力によらない神様の一方的な恵みによる罪の赦しを伝えることであり、その大きな喜びを伝えることです。だからこそ私たちは自分の能力や経験を頼みとするのではなく、救われるに値しない私たちを救ってくださった神様の大きな恵みを頼みとして福音を告げ知らせるのです。

自分自身の存在と生き方に関わる
 そのようにして十二人は、そして私たちは、何一つ持たずに遣わされ、また自分の能力や経験を頼りとするのではなく、神様のご支配に信頼し、神の国を宣べ伝えます。そのとき誰もが神の国を信じ受け入れるかというと、そうではありません。5節でこのように言われています。「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」。「あなたがたを迎え入れない」とは、家に入れずに追い返してしまうということではなく、主によって遣わされた者が宣べ伝えている神の国を受け入れないということであり、告げ知らせている福音を拒むということです。そのときは、その人たちへの「証として足についた埃を払い落としなさい」と主イエスは言われるのです。「足についた埃を払い落とす」のは、相手に対して埃一つとして関係がないことを示すジェスチャーです。使徒言行録13章の終りで、パウロとバルナバがピシディア州のアンティオキアから追い出されるときに、実際「足の塵を払い落とし」たと語られています。その意味をパウロとバルナバは直前の46節でこのように語っています。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」。つまり遣わされてきた人と馬が合わなくて、あるいはその人のことが好きになれなくて、その人を受け入れられず拒んだということではなく、神が語りかける神の言葉を拒み、「永遠の命を得るに値しない者」としてしまっている、主イエスに結ばれて新しい命を生きるに値しない者としてしまっている、と言われているのです。主によって遣わされる人は神の国について説明するのでも解説するのでもありません。神様に全幅の信頼を寄せ、そのご支配を信じて生きる新しい命、新しい生き方を伝えます。そうであるならば、聞く者たちもそれを単に説明や解説として聞くのではなく、自分自身の存在と生き方に関わることとして聞くことが求められるのです。そうでなければ、主イエスによる救いを告げる福音は、たとえ聞いてはいても、埃一つとして自分と関わりのないものとなってしまうのです。

主によって遣わされる
 本日の箇所を読み進めてきまして、なお私たちは自分自身を見つめるならば、主によって遣わされることへの不安や恐れを拭い去ることができないのではないでしょうか。備えなしに遣わされる不安や恐れがあります。神様のご支配に信頼しきれない自分がいます。だから色々と理由を作って遣わされるのに抵抗しようとするのです。かつて預言者エレミヤも主によって遣わされるのに抵抗しようとしました。共に読まれた旧約聖書エレミヤ書1章6節で、エレミヤはこのように言っています。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。私たちもエレミヤと同じです。「神様、私は若者に過ぎませんから」とか、逆に「私はもう高齢ですから」とか、「私は忙しくて余裕がありませんから」、「私は遣わされた先で何を語ったら良いのか、どうしたら良いのか分かりませんから」。そのように色々と理由を並べて抵抗するのです。しかしそのようなエレミヤに、そして私たちに神様は言われます。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」(7節)。私たちは「若者に過ぎないから、もう高齢ですから」と言ってはならないし、「忙しくて余裕がありませんから、何を語ったら、どうしたら良いのか分かりませんから」と言ってはならないのです。しかしそのように神様が言われるのは、神様が私たちの不安や恐れに関心を持っていないからではありません。そのような不安や恐れはたいしたことない、と言われているのでもありません。神様は私たちの不安や恐れを私たち以上に知っていてくださいます。だからこそ神様は私たちに「わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」(8節)という約束を与えてくださっているのです。私たちが遣わされた先で何を語ったら良いか、どうしたら良いか分からなくても、「わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける」(9節)と約束してくださっているのです。
 主によって遣わされる私たちは自分の不安や恐れを見つめるのではなく、この神様の約束を見つめていきたいのです。神様に全幅の信頼を寄せ、そのご支配を信じて遣わされる歩みは、私たちが自分の力で自分の不安や恐れを押し殺す歩みではありません。なお不安や恐れを抱えていたとしても、神様が与えてくださっている約束にこそ目を向け、私たちを愛し、必ず救い出してくださる神様に支えられて、私たちは遣わされたところで神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせていくのです。主によって遣わされ、主によって支えられて、神のご支配を信じて生きることの本当の慰めと喜びを証ししていくのです。

関連記事

TOP