夕礼拝

断食

「断食」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第35編11-16節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章16-18節
・ 讃美歌: 220、497

 
赦されたものとして、喜びに生きることをイエス様はわたしたちに望まれています。イエス様はわたしたちのすべての罪を赦されました。わたしたちはイエス様に罪を赦されたものですが、今もまだ罪を犯してしまいます。そのためにわたしたちは嘆きや悲しみます。自分の罪のため、愚かさのため、弱さのために嘆きます。しかし、イエス様は今日、わたしたちに「あなたはもはや嘆かなくて良い、泣かなくて良い、むしろ喜びなさない」と言われます。イエス様は、わたしのために、犠牲となり十字架で死にわたしたちの罪を赦してくださいました。そのイエス様が、わたしたちを見捨てず今共にいてくださる。赦されたものとして、喜びに生きることをイエス様はわたしたちに望まれています。  
 このわたしたちの嘆きと悲しみと大きく関係していることが、今日共に聞いたマタイによる福音書6章16~18節で教えられている断食です。断食について、イエス様が山上で弟子たちやイエス様について来た群集たちに教えられたのです。この断食は、先週まで共に聞きました主の祈りの前に書かれている、二つの善い行いの続きとされています。一つ目は施しをすること、2つ目は祈ることでした。3つ目におかれているのが、この断食です。わたしたちの教会の習慣では、施すこと、祈ることというのは意識されていますが、実際に断食を行うということはなされていません。寿地区センターで奉仕する活動をする教会員はいます。また教会として祈祷会を毎週行っています。しかし、指路教会は断食をする会などはありません。教会としても馴染みのないものです。むしろいまは、世の中の方が、断食を取り上げていることが多い。断食ダイエットや断食デトックスなどというものがあるそうです。そこには、宗教的な意味はあまりなく、目的は痩せることであり、また自身の健康を保つためになされていることです。つまり、一言で言えば自分のために断食をしているということです。自分の体をよく見せるために、自分がいきいきと健康に生きるためにしているのが昨今の断食です。しかし、実は、イエス様が今日の箇所で断食を批判している一つのことは、形はちがいますが、現代の人が行っている断食と同じ問題点を指摘されています。それは、大きく言えば、他者の目を気にして自分のために断食しているということです。16節で指摘されている偽善者の断食は、人に見てもらおうとする断食でした。それは己の敬虔深さを他者に魅せつけるための断食でした。自分の敬虔深さの表現としての断食をしていたのです。当時なされていた断食には、色々な種類や意味がありました。ユダヤ教では、公の断食日にする断食や誰かが亡くなって喪中の間にする断食などは、複数人や共同体で公に行っていました。  

イエス様が生きた時代のユダヤ教徒の断食の習慣と意味  
イエス様が生きた時代のユダヤの人々は、そのような公の断食だけでなく、個人的な断食ということをしていました。今日の16節以下で取り上げられている断食はこの個人的な断食についての事柄であると考えられています。この個人的な断食の意味は、一つは悲嘆と悔い改めの表現として、2つ目は謙遜の行為として、3つ目は祈りを強化するための行為としてでありました。これは当時相当な人気があったそうです。個人的な断食をとても極端な仕方で行うことによって、聖人の評判を獲得することができたとも言われていました。
当時、敬虔な行いに対して熱心であるとされていたファリサイ派の人々の中で、あえて人の多い日を狙って断食をしていた人がいました。それはイエス様がルカによる福音書18章9~14節語っておられる、「ファリサイ派と徴税人の譬え」の中にでてきます。その譬えの中で、ファリサイ派の人は祈りの中で「わたしは週二度断食し」と言っています。この二度の断食は、街の市場が開かれる月曜日と木曜日のことだと考えられています。街の市場が開かれるときは、街の人だけでなく地方からも人がきて、たくさんの人が集まります。その日を狙って断食をすることで、多くの人に自分が断食していることを見せることができ、その敬虔深さをほめられることができたそうです。その日を狙うというだけではなく、街に集まった人に、自分が断食しているということを見逃さないようにさせるために、断食の時のルールの体を洗わないということだけでなく、あえて髪をみだし、あえて汚れている粗末な服を着て、不健康そうに見えるように顔を白く塗って顔が青白く見えるようにしていたそうです。断食の日には、食べることの他に、飲むこと、洗うこと、油を塗ることも、性的な関係をもつことを禁じられていました。その食べない飲まないことを際立たせるために、顔を青白くしたり、またイエス様が16節で指摘されているように、「顔を見苦しくする」こと、つまり「断食がとても苦しい」ということを顔で表していたりしたのです。当時の一部の人々は、断食という行いを、自分がいかに神様の前に嘆き悲しみ悔い改めているか、また神様の前で謙遜であるか、熱心にいのっているかということを、隣人に表現するために行っていたのです。当時の一部の人々は自分の敬虔深さを示すための手段として、断食を行っており、それは自分のためでした。  
 イエス様は、16節でそのことを批判されたのです。18節でイエス様は、人に見せるのではなく、「隠れた所におられる父なる神様」に見て頂きなさいと勧められておられます。これは、言い換えるならば、神様との関係において、神様に向かって断食しなさいということです。それは、断食の本来の意味に立ち返って断食しなさいということです。それは、自分の罪を嘆き悲しむために、またその罪を悔い改めて神様の方に向くために断食せよということです。断食するということは、その名の通り、食を断つことです。わたしたちは、本当の苦しみや悲しみの中にあると、食事をすることができないほどに苦しみ悲しみ嘆きます。そのような、断食はその嘆きや悲しみを表現するためになされていました。それは、自分は神様の前に罪を犯している罪人であるという悲しみの表現のためです。神様のみ心に背き、逆らっている、自分の思いだけで生き、他者を傷つけている、神様をいないものとする、都合のいい道具のように神様を扱う、そういう道を歩んでしまっている者であるということを、心から悲しみ、嘆く。ユダヤの人々においては、断食はそういう思いの表れとして位置づけられていたのです。  
 しかし、それらを他者に見せつけるためになされるのは、イエス様の仰るとおり間違いです。人に対して、自分の罪を嘆くことが断食ではありません。断食は神様と自分との関係の中で、行われることです。それは神様のみが、自分の嘆きや悲しみの原因となっている罪を拭い、赦し、また罪を犯さぬ者としていってくださるからです。ですので、隣人に断食をしている姿を見せてもなににもならないのです。

断食してみて色々考えたこと  
 わたしはこの説教の準備の途中で、断食とはなんだろうかと考えている時に、わたしは一度も断食をしたことがなかったということに気付いたので、この前の金曜日に実際に断食をしてみました。それはただ一回、お昼を抜くということです。嘆きや悲しみの表現のための断食であるとか、悔い改めのためとか、祈りのためとか、そういうことは一切に考えずに、お昼を抜きました。イエス様が断食をすることを他者に気づかれずとあったので、教会で事務のお仕事をしてくださっている主事さんたちに、心苦しかったのですが、家に戻って食べますと嘘をついて、その後、イセザキモールを、空腹を抑えながらぶらぶら歩きました。ここで、一つ気付いたのが、共同体で生きている時に、それは誰かとの関係の中で生きている時に、気付かれずに断食することの難しさです。嘘を付かないと、食べない理由を語れないのです。お腹が空いていないとか、違う所で食べるとか、そういう事実と違うことを言わなければ、断食できないことに気付きました。それは、信仰者としてどうだろうかと思いました。本当に誰にも気づかれず断食するとなると、それは他者との関係から出て、一人となった時にしかできないと気づきました。もう一つの気がついたことは、神様から与えられている恵みに対してのことです。それは、神様は日々のわたしたちの糧である食べ物をも与えてくださっているし、与えてくださろうとしているのに、それを自分の意志で拒否していいのかということです。わたしが金曜日に断食した時、それは神様に対して反抗の意志の現れではないかと不安になりました。お腹が空いていて、なにかを食べて満たしたいからそのような言い訳を考えたのではなく、イセザキモールの飲食店の看板に書かれている食事が美味しそうにわたしを誘ってくるから考えたのでもなく、断食は本当に神様の恵みの拒否にはならんだろうかと思ったのです。実際にその時は、あらゆるイセザキモールの誘惑を避けて、昼食を抜くことができましたが、そこでわたしが気付いたことは、断食の不自然さでした。嘆きや悲しみのために、食事を断つということは、一見よさそうに思えますが、そこには、神様の恵みに対する拒絶があるのではないかと思いました。与えられている関係の中で嘘をついてまで行う断食、主の祈り日々の糧をお与えくださいと言っているのに、自分でそれを拒む不自然さ。それを感じました。本当に食事もノドに通らないほどに苦しくて、自然に食べられなくなるということはあると思います。しかし、あえて、意識的に断食するということは、神様の与えて下さろうとしているかもしれない恵みを拒否することで、なぜそこまでして嘆きや悲しみを表現しなければいけないんだということを考えました。自然に、食べられなくなるほど苦しんだ時だけ、その時に嘆き、祈ればいいじゃないか。しかし、そうすると、断食という行い自体が不必要になってしまいます。イエス様は、不必要なことを、わたしたちに教えようとされているのでしょうか。それは違うでしょう。  
 イエス様は、断食するならば父なる神様に向かって断食しなさいとわたしたちに教えられておられます。それは、つまり自然に食べられなくなるほどの苦しみの時だけでなく、食べることができなくなってはいない時も、嘆きや悲しみを神様に伝えさないということです。嘆くのは自分たちの罪のために嘆くと先ほど申し上げました。そうすると普通に食事できるときのわたしたちの苦しみや嘆きというのは、なにかどおってことのない小さな罪の行いをしたという時にすることかと言えばそうではありません。わたしたちの罪に大きい小さいはありません。わたしたちが、自分勝手に生きること、神様を忘れて生きること、他者を傷つけること、これらはどれもわたしたちがすべての人が持っている一つの罪によってなされていることです。わたしたちは、これらの罪が日常茶飯事すぎて、あまり苦しくならず、食べられなくなるなんてほどの罪じゃないように思っています。しかし本来は、この罪のために、嘆くほど苦しまねばならないのです。行いの大小に関わらず、そのような悪い行いをさせる罪のために、わたしたちは死なねばならない存在になってしまっているのです。その罪や死が、いつの間にか、当たり前すぎて麻痺しているのか、嘆くことを忘れています。親しい人の死を目の当たりにした時、突然の別れを経験した時、わたしたちは嘆きます。しかし、その死や別れの根拠となっている罪に対しては、関心がないのです。  
 イエス様が神様に向かって断食をすることを勧められておられるのは、わたしたちのそのような、罪の深さを忘れてしまう弱さのためであるのではないでしょうか。イエス様は心の底から断食を望んでおられるとは思いません。そこには、神様の恵みに対する拒否という神様との関係の不自然さがあるからです。しかし、自分の罪深さを忘れてしまうわたしたちのために、本来の罪深いものが体験する絶望、それによる食べ物が喉を通らないほどの嘆きを、断食をすることを通して、疑似体験させてくださろうとしているのではないでしょうか。それは本来あるべき罪人の姿が断食にはあるということをも意味しています。こちらから恵みを拒否するなんてレベルではなく、罪人であるわたしたちは、本来は神様の恵みを受けるにも値しない、与えられることのないはずの存在なのです。神様を忘れて自分だけで生きていた罪人である自分が、そのままで状態であるならば希望はありません。わたしたちは罪を持っているので死ぬのです。死は絶望です。  
 イエス様は、その断食を神様に心を向けてしなさいと言われています。18節で、父なる神様に見ていただくように言われているのはそのことです。そこにわたしたちの救いがあります。わたしたちの罪人の行き着く先の死という絶望、人が生きている目的をもすべてを飲み込んでしまう死という絶望に対する嘆きを、神様に向かって表現しなさいとイエス様は言われているのです。それは、なぜか。それは、その絶望に対する解決をお与えくださる唯一の方が父なる神様だからです。罪人であるわたしたちを赦し、罪人ではなくて正しい者と認めてくださる方。その罪を拭ってくださる方。死という絶望を復活と永遠の命という希望にかえてくださる方が父なる神様だからです。その父なる神様がそのわたしたちの嘆きを唯一受け止めてくださる方だからです。父なる神様はわたしたちが何をしたのでもなく、絶望を希望に換えるために既に働いてくださいました。わたしたちがその嘆きを断食して表現したり、祈ったりする前から、その罪の問題を解決してくださいました。それはあの2000年近く前に起こった、ご自分の愛する唯一の子であるイエス様を十字架にかけて犠牲とすることによってでした。そのイエス様の犠牲によって、わたしたちは希望を得ることができたのです。イエス様を救い主として信じ告白し、洗礼を受け、イエス様と共に生きるものは、そのイエス様の十字架による罪の赦しに与りと復活と永遠の命を与えられる約束に希望を持つことができるようになったのです。  
 今日イエス様がこの山上において断食を通してわたしたちに教えようとされているのは、ただ断食をしなさいということではなくて、自分の罪を嘆き、神様の前にたって自分が真に罪人であることを知りなさいということです。イエス様は、その罪のために嘆き、暗い顔して、後悔し続けなさいとは言われていません。今日まだ触れていなかった17節には「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」と書かれています。断食をする、つまり自身を罪人と認め嘆く時、暗い顔やしかめっ面をするのではなく、頭に油を付け、顔を洗いなさいと言われます。これは、ユダヤ教の普段通りの行いです。つまり断食をしていないように生きろということです。罪人として嘆いて暗い顔して生きるのではなく、むしろその汚れた顔を水で洗い、顔を輝かせるための油を塗りなさいということです。この「洗い」と「油」を洗礼のことを暗示させていると考えている注解者もいます。また喜びの祭りのための化粧を表していると考えている注解者もいます。つまりこの教えは、単に断食を人の目から隠せということだけではないと思うのです。「頭に油をつけ、顔を洗う」、それは、ただ断食をしていない普段通りの生活をする、ということではなくて、むしろ、自分の救いを喜び祝い生きなさいということではないでしょうか。つまり、罪人であることの嘆きを隠して歩むというのではなくて、嘆きを聞く前から解決してくださった、その救いを喜び、祝いつつ歩むことをイエス様は求めておられるのです。わたしたちは、洗礼を受け信仰者となった後も、罪を犯してしまうものです。ですから、嘆かなければならないほどの罪を未だにもっているものです。だから、わたしたちは父なる神様に向かって悔い改めを持って嘆きます。しかし、嘆くのは父なる神様に向かってだけでよいのです。ことさらに暗い顔をして、自分は罪を真剣に嘆いているというような生き方をすることではなくて、わたしたちは、イエス様によって罪の赦しを与えられた喜びと祝い、復活と永遠の命の希望に喜んで生きるのです。イエス様は今日赦されたものとして、喜びに生きることをイエス様はわたしたちに望まれています。

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