主日礼拝

愛が私を駆り立てる

「愛が私を駆り立てる」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第108編1-7節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第5章11-15節
・ 讃美歌: 205、18、484

 パウロは、5章11節で神様に対する畏れを知っていると述べています。パウロは神様に対して畏れを抱いています。それは次に書かれている文章にあるように、自分が「神様にありのままに」知られているからだそうです。パウロは自分を「ありのまま」に知られることは、おそろしいことであると感じていました。この「ありのまま」というのは、あの「ありのままの~姿見せるのよ~?」の歌のような、本当の自分の思いややりたいことを隠していたが、しがらみを解き放って、自分のやりたいように生きるということではありません。ではパウロの「ありのまま」とはなんだろうかと考えるのですが、それは一旦おいておきまして、パウロがこの「ありのまま」をコリントの人に知られたいと思っていると語っていることに注目したいと思います。そして、さらに自分を推薦したいから「ありのまま」を伝えたいのではないと断りをいれていること、その次の文ではパウロのありのままを伝えることで「わたしたちのことを誇る機会を提供している」と言っていることも注目に値します。パウロの「ありのまま」をコリントの人々が知れば、コリントの人々は自分の教会の牧会者としてパウロを誇ることができる。つまり、それほどまでに、パウロの「ありのまま」はすごいということをわたしたちは、想像できます。確かに、パウロは、すばらしい回心体験を持っており、信仰者となり、すべてを捨てて、また危険な思いまでして、イエス様を伝道するために何度も旅にでている。たくさんの教会を生み出すことに携わっていた。異邦人の救いのために伝道した。教会に対して何枚も手紙を書き、励ましたり、勧めをしたりした。わたしたちは使徒言行録や新約聖書の数々のパウロの手紙を読むだけでも、パウロのすごさを知ることができます。しかし、パウロがここで、コリントの人に伝えたかった「ありのまま」は、どうやら、そのような敬虔深い、信仰に熱心な姿ということだけではなく、そこには、どうやら自分の弱さも含まれているようです。パウロが、4章で自分自身のことを土の器だと言っていたように、彼は、自分自身が脆く欠けの多いものであると認識していました。パウロは信仰者となってもなお、自分に弱さがあるということを、痛感しておりました。そのことをローマの信徒への手紙7章で語っています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」パウロは自分の内には、善がないといっています。善いことではなく、悪いことを行ってしまう自分がいるということをパウロは言っています。パウロは、自分には弱さしかないこと、悪いことを行ってしまう自分しかいないという、その「ありのままを」語っているのです。しかし、その弱いパウロが、善いことをしている。ここには大きな矛盾があります。善いことをできないはずのものが、善いことしている。実は、その矛盾に、神様の栄光が現れるのです。つまり、パウロが善いことを出来たとするならば、彼は善が自分の内にはないと言っていますから、「それは自分自信の内なる力によってではない、すべて神様の外からの働きが内に宿り行っているのだ」ということを、証明しているということです。パウロがコリントの人々に誇って貰いたかったことは、パウロ自身のことではなく、弱いパウロを通して働かれる神様の御業です。そのために、パウロは自分自身のありのままの弱さをさらけ出し、また自分がこれまで神様に導かれるままに行ってきたすべてのことを「ありのまま」に伝えるのです。わたしたちは、弱さを伝えることも、恥ずかしくてあまりしませんし、それだけでなく、自分が神様の導きのもとで行ったことを他の人に伝えることをあまりしません。それを伝えることで、なんだか、善いことをしたという自慢になるかもしれない。それで自分を誇ることになるかもしれないと考えてしまいます。イエス様も山上の説教において、施しをするときは、右の手をすることを左の手に知らせてはならないと例えられたように、人にそれを見せびらかすようなことはだめだと思っていますから、自分の働きを、他の人には伝えません。しかし、パウロは今日わたしたちに教えてくれています。「罪人であるわたしたちは、そもそも善いことを成していくことできないものだ。それなのに、そのわたしたちが今、善いことなせている。ということは、そこに神様の働きがあるに違いない。だから、あなたがたも、自分の弱さを認めること、その弱い自分を通して働かれる神様の御業を、喜び、伝えなさい」と。パウロは今日私たちに教えてくれています。    

 13節でパウロは、「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」と言っています。パウロが「わたしたちが正気でないとするならば」と言っているのは、自分に起きたありのままを語る時に、その中で、常人では考えられない、普通では無いこともあったからでしょう。それが何なのかははっきりしてはないのですが、二つばかりのことが考えられます。一つは、この手紙の12章に、パウロが「自分は第三の天にまで引き上げられた」と言っているところがあります。おそらく何か我を忘れた状態と言いますか、普通じゃない状態になった時に、そのようなこと第三の天のことを知ったのでしょう。もう一つは使徒言行録の26章に、パウロがアグリッパ王と総督フェストゥスの前で、裁判を受けて弁明をするところがありますが、フェストゥスがそのパウロの言葉を聞いていた時に、あまりのパウロの弁明の凄さに、激しさに「パウロ、お前は頭がおかしい。」と言ったということが書かれています。そのようなことを考えますと、パウロの行動や言動の中には、常人には考えらないことがあったのではないのかと思います。それに対してパウロは「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためである」と言います。神様のために「正気ではなくなると」言っています。「正気ではなくなる」というのは、「気が狂っている」という言葉であり、とても激しい言葉です。ここは、あまりに神様に熱心であるから気が狂ったと取れる、文でもあります。しかし神のためにと訳されている言葉は、「神にあって」とも訳すことができます。    

 わたしたちが、神様を信じて、神様の力によって歩むときに、普通の常識から考えると、とても考えられない行動や言動をしている時があるのではないかと思います。時には、正気じゃないかなと思われるようなことをしているかもしれません。洗礼を受けるということもそうです。キリスト者の家庭に生まれてない人が家族に、突然洗礼を受けるまたは受けたと伝える時、この子は大丈夫だろうかと心配されます。洗礼を受けたことを家族に気持ちわるいと言われた人も私は知っています。洗礼を受けることでさえ、普通では考えられないことです。わたしが伝道者となるということを、母に伝えた時、母に泣かれました。父には突然どうしたと、心配されました。信仰を持つ父母の目にも、わたしは普通に見えなかったのかもしれません。イエス様もガリラヤで伝道しておられて家に戻られた時に、身内の者が「気が変になっている」と言って、イエス様を取り押さえたという話があります。神様のために、神様にあって生きている人は、時に、そういう人には理解されないことを行うことがあります。パウロは、自分にもしそういう行いや言動があったら、それは、神様のゆえである。神様と共に生きていることからなっていることだと言っています。しかし、そうかといって、いつでも変なことばかりして、人に対して非常識な言動ばかりしていたとしたら、これは大変困ります。しかし、彼は、気が確かであるのならば、それはあなたがたのためである、と言っています。そういう普通じゃないこともあるけれども、わたしは牧者として伝道者として、非常に確かな判断をもって、一人一人のために心遣いをしているというのです。コリントの信徒への手紙一を読みますと、パウロが教会の人々に対して本当に確かな判断、あるいは深い心遣いをもって行動していることがよく分かります。そういうパウロの生き方が、いったいどうして生まれてくるのか?それが14節に書かれております。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」と書かれています。    

 わたしは、この言葉がとても好きです。しかし同時に、この言葉を読む時、大変な不安を感じます。この「愛が自分を駆り立てる」という言葉の「駆り立てる」という言葉は、「強く迫ってくる」という意味を持っています。大変な不安というのは、イエス様の愛が強く自分に迫っているということを、心の底から実感できたらいいなあと思いながら、同時に自分の気持ちを振り返った時に、イエス様の愛に本当に感動すべきであるのに、案外、感動していない自分に気付いて、「これで信仰者と言えるのだろうか」と常々思ってしまうからです。だからこの言葉をとても愛しながら、しかもこの言葉に恐れを感じながら過ごしていました。しかし、これは、この言葉に対するわたしの理解が十分でなかったからだと思います。それは、「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」ということを、「わたしたちがキリストの愛を実感する」というように、理解したところにわたしの誤りがあったのです。もちろん、キリストの愛を強く実感するということは、望ましいことです。しかし、実感できないから、自分は救われていないとか、自分の信仰はダメだというふうに思うならば、それは違うでしょう。パウロがここで言っていることは、そういうわたしたちの実感とか、わたしたちの感動とかいうことではなく、「キリストの愛がわたしたちに迫っている」という「事実」です。わたしたちが感じようが感じまいが、わたしたちが感動しようがしまいが、そういうことにはかかわりなく、キリストの愛が強くわたしたちに迫っています。その「事実」を、パウロは、ここで言っているのです。その「事実である」ということに「気付いた時に」わたしたちは、自分の弱さを受け止めることができます。  

 その後にこう書いてあります。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」この言葉は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる」はどういうことなのか、その内容を言っています。わたしたちは、神様の愛とか、キリストの愛となどを聞くと、何かの「愛情」と考えがちです。しかし、キリストの愛というのは、情や思いだけではなくて、「行い」でもあります。イエス様が、わたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架の上に死んで下さったという、その「行い」において、またその「行いの事実」を伝える「聖書の言葉」を聞いて、その愛がわたしたちに強く迫ってくるのです。この「すべての人のために」と訳されている言葉は「すべての人に代わって」とも訳すことができる言葉です。わたしに代わってイエス様が亡くなった、そのイエス様の死においてわたしが死んだことになる、この「事実」こそ、「キリストの愛がわたしに迫っているということ」の内容です。自分の弱さの元である罪を代わりに負ってくださり、十字架の死をもってゆるしてくださった。今もなお罪を持ち、罪を犯す、わたしを見捨てることなく、ゆるし、ささえてくだる。ささえてくださるだけでなく、神様のみ業をこの自分を通してなそうとしてくださる。ありのままの弱い自分では、本来イエス様とは共にいることができないのに、そのわたしから離れることなく、とことん共にいてくださる。内にいてくださる。間にいてくださる。神様の栄光のために、必要としてくださっている。これらに表わされている「愛」がパウロを駆り立てているのです。この愛に支えられているから、パウロは、ありのままに知られている弱さも自分のありのままの働きを、語ることができたのです。この愛が、迫ってくるから、語らざるを得なくなったのです。わたしたちもこの愛に今迫られ、駆り立てられています。    

 15節「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」ここから、「わたしに代わって死んで下さったイエス様のためにわたしは生きるのだ」というパウロの決意を感じることができます。この15節を、単純に聞けば、「キリストの愛を知り、それを受け、それに感動して、一生懸命に頑張らなければいけない。自分の欲を捨てて、必死になって、精進をしなければいけない」というように聞こえる言葉でもあります。しかし、そのような意味にこれをとりますと、また、ここでわたしたちは、ああ、自分はダメだという壁にぶつかってしまいます。わたしたちは、イエス様がわたしの為に死んで下さったから頑張らないといけないなーと思っても、なかなかそうはいかない。いつも疲れを感じる。そして自分の信仰はだめじゃないかと思い「破れ」を感じる。そのように悩みます。  
「ために」という言葉は目的を表す言葉です。自分の幸福、自分の野心、自分の理想などそういうもののために生きるというのが、自分のために生きるということです。わたしたちは、そういう自分のためにではなく、イエス様のために生きるべきだということはよく分かります。しかしそれができない。日曜日はイエス様のためにと思っていても、月曜日なったら、早い時は日曜日の夕方くらいから、「イエス様のために」を忘れて「自分のため」になってしまうことがある。そこにわたしたちの悩みと弱さがあるのです。    

 しかしローマの信徒への手紙でパウロが語っていたように、わたしたちのその弱さは、無くすことができないものです。この肉体をもって地上を歩んでいるのならば、必ずその弱さを持ってしまうものだとパウロは認めています。しかし、パウロは、信仰者の真実を、ガラテヤの信徒への手紙の2章20節で、こう語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」わたしたちの心や行い、信仰心、体、そのすべては弱いけれども、洗礼を受け、イエス様と一つになったわたしたちの内には、「ありのままの弱いわたし」が生きているのではなく、真に強い「イエス様」がわたしの内に生きているとパウロは宣言しています。わたしたちが、「イエス様のため」に生きることができるとすれば、それは、イエス様が「わたしたちのために」、わたしたちの内に住んでくださっているからです。  
 イエス様がわたしたちのために、死んでくださり、わたしたちのために復活してくださり、そしてわたしたちのために、洗礼の際に与えられる聖霊を通してわたしたちの内に住んでくださる。  
 わたしたちがどう感じるか、どう頑張るか、ということではなくて、神様がイエス様に於いて、どのような救いを与えて下さったかということを「はっきり知る」。それをわたしたちが「認める」。それを「受け止める」ところから、わたしたちは、「イエス様のために生きる」信仰生活が始まるのです。そのことをはっきり認めないで、ただ自分の感動や、自分の情熱でもって、何か理想的な生活をしようとすれば、必ずその歩みの先で躓いてしまうでしょう。イエス様が十字架において、わたしたちのためにわたしたちに代わって死んで下さった。復活してくださった。そして、今もなお、神様の栄光をお示しになるために、わたしたちの隣人を救うために、わたしたちの内にいてくださり、わたしたちを用いてくださる。弱さを用いてくださる。その迫ってくる愛の真実を受け止めるのです。    

 この真実を知ることによって、この「神様のみ業」が、わたしたちの生活の中で少しづつ具体化され、実を結んでいきます。そういう願いを持って、パウロは、この言葉をわたしたちに語っているのです。これは、コリントの教会の人だけではなくて、今日のわたしたちも語っています。わたしたちは、しばしば「自分のために生きる」という過ちを犯しがちであります。そして、そのために、躓いたり、悩んだりいたします。しかし今、ゆるし、受けいれ、共にいてくださるキリストの愛を、「真実」として受け入れたとき、その弱さもまた、赦されていること、さらに用いられていることを知ります。弱さをも用いてくださる愛にわたしたちは駆り立てられる。弱さをゆるされた愛により、わたしたちの弱さが弱さでなくなります。キリストの愛により、わたしの弱さが神様の御業の栄光を示す強さとなります。わたしたちには、務めが与えられています。神様の栄光を映し出す務めです。神様の栄光をわたしたちが映し出す。その栄光を見た人が、神様に出会う。それは、すべての人がキリストの愛に生きるためです。今、愛がわたしたちを駆り立てています。

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