夕礼拝

神の安息

「神の安息」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第2章 1節-3節
・ 新約聖書; マルコによる福音書、第2章 23節-28節

七日目
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記の始めのところにある、神様による天地創造の物語を読み進めてきました。創世記第一章には、神様が天地の全て、この世界と人間を、六日間かけてお創りになったことが語られていました。本日ご一緒に読む第二章の一~三節には、その次の七日目のことが語られています。ここからが第二章になっていますが、聖書の章や節はもともとあったものではなく、後から便宜的につけられたもので、内容的には、本日のところまでが、第一章一節以来の天地創造の物語なのです。さらに厳密に言うと、四節の最初の一行もこの続きに入ると考えられています。一章一節で、「初めに、神は天地を創造された」と始められた創造物語は、二章四節の「これが天地創造の由来である」でしめくくられているのです。

完成の日
 さてそういうわけで、本日の箇所は、天地創造物語の最後の日、七日目のことを語っているわけですが、この七日目はこれまでの六日間とは全く違う日になっています。ここには、神様が何かを創造された、ということが全くありません。語られているのは、一節にあるように「天地万物は完成された」ということです。二節にも「第七の日に、神は御自分の仕事を完成された」とあります。何かを創ったのではなく、創造の業の全てが完成されたのです。第七の日は、天地万物の完成の日なのです。
 これは私たちの感覚からすると少しおかしなことです。完成する、というのは、最後に残っていた何かを創って、それで完成する、ということなのではないでしょうか。そういう意味では、六日目に、最後に人間が創られた、それで創造のみ業は完成したのではないでしょうか。私たちの感覚からすると、天地創造が完成したのは六日目なのです。そういうことは昔の人々も感じていたようで、既に紀元前に旧約聖書がギリシャ語に訳された時に、この二節は「第六の日に、神は御自分の仕事を完成され」と数字を変えて訳されました。第七の日は、その後にある「御自分の仕事を離れ、安息なさった」ことだけに当てられたのです。つまり、完成は六日目で、七日目は安息の日、と考えたわけです。その方がすっきりする、とも思えます。けれども、もともとの聖書の言葉はここにあるように、神は第七の日に天地創造を完成されたとなっているのです。そしてそこには、深い意味が込められているのです。

安息による完成
 最後に残った何かを創ってそれで完成、という感覚からするとここはおかしい、と申しました。確かに、何か形あるものを創造する、ということであれば、それは六日目の人間の創造で終っています。しかしそれとは別の意味で、神様はこの七日目に大切なことをなさっているのです。その大切なことによって、天地創造のみ業が最後の完成に至ったのです。その大切なこととは、二節の言葉で言えば、「御自分の仕事を離れ、安息なさった」ということです。三節にも、「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさった」とあります。「離れて、安息する」これが、神が第七の日になさったことです。神は創造の業を離れて安息なさったのです。そのことによって、天地創造のみ業は完成に至ったのです。天地創造のみ業は、最後に人間が創られてそれで完成したのではありません。その完成は、神の安息において実現しているのです。私たちが生きている、生かされているこの世界は、神様の安息において完成した世界なのです。そのことをここは語っているのです。ですから二節を「第六の日」に読み替えてしまうことは間違いです。天地万物の完成と神の安息とを結びつけるために、ここはどうあっても第七の日でなければならないのです。

祝福と聖別
 神様が安息なさった、とはどういうことでしょうか。さすがの神様も、天地の全てを創造するという大仕事をするとくたびれて休息が必要だった、ということでしょうか。そういう話ではないでしょう。神様の安息は、ただ休んだ、休息をとったこととは違います。それは三節の後半を読むことによってわかります。そこには「第七の日を神は祝福し、聖別された」とあります。このことは神の安息と別のことではありません。「すべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」のです。神の安息が根拠となって、祝福、聖別がなされているのです。つまり神様が安息なさったというのは、ご自分が疲れたから休むためではありません。この日を、ということは完成されたこの世界全体を、祝福し、聖別して下さるために、神様は安息なさったのです。神様はそういう日を、七日目に設けて下さったのです。神の安息によってこの世界は完成されたと先程申しましたが、それは言い換えれば、神の祝福、聖別によってこの世界は完成された、ということなのです。

神の祝福
 神様の祝福によってこの世界は完成された、それが第七の日の持つ意味です。神様の祝福は、これまでの天地創造の課程において何度か与えられていました。一章二二節に、「神はそれらのものを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ』」とあります。これは水の中に住む動物や鳥に対する祝福です。また二八節には、人間に対する祝福が語られています。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。どちらの祝福にも、「産めよ、増えよ」という言葉があることに注目したいと思います。子供を産み、増えていくこと、つまり繁殖することは、生き物としての営みの基本的なものです。そのことを神様が祝福し、喜び、奨励して下さっているのです。それは、人間や動物が命を持ち、生きていくことへの神様の大いなる肯定です。神様が私たちに、「生きなさい、あなたは生きていってよいのだ、あなたが生きることを私は望み、喜ぶ」と宣言して下さっているのです。それが神様の祝福です。そういう祝福を、神様は、天地創造の完成として、この世界の全体、天地万物に対して与えて下さっているのです。そのことは、一章三一節の、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という言葉ともつながりがあります。それまでにも、神様が何かをお創りになり、それを見て「良しとされた」ということが繰り返し語られてきました。神様はお創りになったもの一つ一つを見て、「これは良い、良くできた」と言われたのです。そしてその最後のしめくくりに、人間が創られ、その人間も含めた、創られたもの全てを御覧になって、「極めて良い、とても良くできた」と言って下さったのです。神様の目から御覧になって、この世界は、人間は、とても良いものだ、神様はこの世界と私たちを、そういう肯定的な目で、喜びをもって見つめていて下さり、この世界が存在し、私たちが生きて行くことを喜んで下さっている、それが、神様の祝福なのです。

神の聖別
 その祝福と並んで、「聖別された」と言われています。これは「聖なるものとする」という意味ですが、それは神様が特別にご自分のものとする、ということです。聖書において、「聖なる」という言葉の意味は、清く正しく汚れがない、ということではなくて、神様のものとして取り分けられた、ということです。人間がこれは清いと判断したものが聖なるものなのではなくて、神様が、「これは私のものだ」と言われたものが聖なるものなのです。神様があるものを指して、「これは私のものだ」と言って下さることが「聖別する」ことです。ですから神様は、天地創造の完成において、創られたこの世界を、「これは私のものだ」と宣言して下さったのです。その神様の宣言は、子供がおもちゃを取り合って「これは僕のだ」と言っているような、あるいは恋人を誰かと奪い合って、「彼は私のものよ」とか、「彼女は僕のものだ」などと言っているようなこととは違います。神様がご自分のものと宣言されるということは、そのものに対して最後まで徹底的に責任を持ち、愛し、守り、支え続ける、そしてその課程の中で場合によっては怒り、懲らしめ、罰をお与えになることもある、そのように神様が愛をもって徹底的に関わって下さるということです。神様が第七の日を聖別されたというのは、この日に完成されたこの世界を、そのような意味でご自分のものとして下さり、この世界とそこに住む私たちと愛をもって徹底的に関わって下さるということを意味しているのです。それゆえにそれは先程の「祝福する」と表裏一体をなしています。神様が、お創りになったこの世界を良いものとして肯定し、喜び、愛をもって徹底的に関わって下さる、そういう関係を打ち立てて下さったのです。それが、七日目の神の安息の内容であり、その神の安息によってこの世界は完成されたのです。

絶望の中にある民に
 創世記第一章を中心とするこの天地創造物語が生まれたのは、紀元前六世紀、いわゆるバビロン捕囚の時代である、ということをこれまでに繰り返しお話ししてきました。バビロニア帝国によって国を滅ぼされ、多くの者がその戦いに倒れ、エルサレムの神殿も破壊され、生き残った者たちも多くが敵の都バビロンに捕虜として連れて来られている、そういう苦しみ、絶望の中にいるイスラエルの民に向かってこの天地創造物語は語られたのです。そういう背景の中で読むときに、この創造物語のメッセージが浮かび上がってきます。主なる神様こそがこの世界を創造し、混沌の中に秩序を与え、人が生きることのできる世界を整えて下さった、そして最後に人間を創り、祝福して下さった、それは、たとえ現実がどんなに絶望的な、暗い、希望の見えない状態にあっても、この世界は神様によって、根本的には良いところとして創られており、私たちの命、人生も、生きるに値するものなのだ、ということです。これまで読んできた第一章は、絶望の中にある民にこのように語りかけているのです。本日の第七の日も、そこにおいて大きな意味を持っています。捕囚の民は、国を滅ぼされ、他国に連れて来られて、民族の存亡の危機の中にあります。そのような状況の中で、彼らは、安息、平安を失っているのです。異国の地で、自分たちの国を滅ぼした人々の蔑みを受けながら、屈辱に耐えつつ、生きて行くために必死になっている彼らは、本当の意味で休むことができないでいるのです。そういう安息を失った民に対して、この天地創造物語は、この世界が主なる神様の祝福と聖別における安息によって完成されたことを告げています。それは、主なる神様の民であるあなたがたは、この神様の安息、その祝福と聖別にあずかることによって、まことの安息を得ることができる、本当の休みを得ることができる、という宣言なのです。

安息日
 神様の民が、神様の安息、祝福と聖別にあずかるために与えられているのが、週の七日目の安息日です。神様がこの第七の日を祝福し、聖別されたのは、この日を安息日として、他の六日間とは区別された、ということでもあります。週の七日目は、神様によって、特別な日、安息日として定められているのです。ここは明らかに、出エジプト記第二十章八~一一節の、十戒の第四の戒め、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」、と対応しています。この安息日の掟は、「戒め」として読むと、私たちの生活を束縛し、義務を与える命令のように思われてしまいますが、しかし安息日の掟の目指すことは、私たちが、あの神様の祝福と聖別によるまことの安息、平安にあずかることなのです。まことの安息、平安は、自然に得られるものではありません。あるいは、ただ休日があればそれで安息や平安を得ることができるわけでもないのです。神様が天地創造の七日目に、すべての創造の業を離れて安息し、この世界を祝福し、聖別して下さった、そしてご自分の民をその安息にあずからせるためにその日を安息日として定めて下さった、その日に、神様のみ前に出て礼拝を捧げ、神様の祝福を受け、「あなたは私のものだ」という聖別の恵みにあずかることによってこそ、私たちは安息、平安を得ることができるのです。そのための日を、毎週一回、神様が私たちに与えて下さっている、それが安息日です。この安息日を神様を礼拝する日として守ることによってこそ、私たちの生活に、人生に、神様の安息にあずかる場ができるのです。

安息日を守る戦い
 このことは、バビロン捕囚の苦しみの中にある民にとってはさらに切実なことでした。彼らは、異教の神々を拝む人々の中で、その支配を受けて生きているのです。当時の戦争は神と神との戦いですから、戦いに負けたということは、イスラエルの神よりもバビロニアの神々の方が強かった、というのが常識的な捉え方です。だから、負けた民の神はいつしか忘れ去られ、歴史から消えていったのです。しかしイスラエルの民は、この天地創造の物語に語られているように、主なる神様こそが、天地の全てをお創りになり、支配しておられる方だと信じ、そこに希望を見出していきました。その希望を確認する場が、週の七日目の安息日だったのです。神様が天地創造の七日目に、この世界を祝福し、聖別して下さった、その神の安息による世界の完成を覚え、それにあずかる安息日こそ、彼らが捕囚の苦しみの中で神様の安息にあずかることができる唯一の場だったのです。バビロニアの人々が全く違う生活習慣に生きている中で、イスラエルの民は、週の七日目の安息日を守るための信仰の戦いを戦ったのです。安息日は彼らにとって、自然に与えられるものでも、掟によって守らなければならにものでもなく、自らの安息のために戦い取るものだったのです。安息日を守る戦いを通して、イスラエルの民は、捕囚の苦しみの中で、民族としての一体性、絆を確認し、守っていくことができたのです。

人間の営みを離れて
 私たちは今この社会において、週に一日かあるいは二日、休日を与えられています。しかしそういう休日があることで、本当の安息を得ることができているでしょうか。休日に仕事を離れてスポーツや趣味に没頭して気分転換をし、元気を出してまた次の仕事に戻っていく、ということは確かにあります。しかしそういうことによって私たちの魂に本当の休みが得られているでしょうか。思うに、私たち人間は、自分で自分に休みを、安息を与えることができない者なのではないでしょうか。本当の休み、安息は、神様によって与えられるものなのです。神様の祝福を受け、「あなたは私のものだ」という宣言を聞くことによってこそ、私たちは本当の安息を与えられるのです。神様はこの安息を私たちに与えるために、天地創造の七日目に、創造の仕事を離れて安息され、お創りになったこの世界を祝福し、聖別されました。そして週の七日目を安息日として下さったのです。神様がその日に仕事を離れて休まれたのは、私たちがそれに倣って仕事を離れ、人間の営みを離れて、神様のみ前に出て、その祝福にあずかる時を持つためです。人間の業、働きをやめて、神様のみ前に出て、その祝福を受ける時を持つことがなければ、私たちはまことの安息、平安を得ることができないのです。

私たちの安息日
 私たちが今日、人間の業、働きをやめて神様のみ前に出るために集まっているのは、週の七日目の土曜日ではなく、週の最初の日である日曜日です。教会はその初期から、日曜日に共に集い、礼拝を守ってきたのです。それは日曜日が休日だったからではありません。日曜日が休日になったのは、この日に礼拝を守るキリスト教が社会の主流になった紀元4世紀になってからです。それまでは、教会もまた、異教の生活習慣の中で、日曜日の礼拝を戦い取ってきたのです。教会の安息日が旧約聖書の時代の土曜日から日曜日に変ったのは、主イエス・キリストによる救いの出来事によってです。神様が極めて良いものとして完成して下さり、七日目に祝福して下さった天地万物は、人間の罪によってその祝福を失ってしまいました。それゆえに今私たちが生きているこの世界は、決して極めて良い状態にはないし、人間の罪によって引き起こされる悲惨な出来事が相次いでいます。あの七日目に神様が与えて下さった祝福も聖別も無効になってしまったように思えます。しかし神様はそのような私たちとこの世界とに、あくまでも愛をもって徹底的に関わって下さったのです。そのために独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって、神様の祝福の下で新しく生きる道を開いて下さったのです。今や神様の祝福は、この主イエスの十字架と復活によって私たちに与えられています。神様はこの主イエスの十字架と復活によって、神様に背き逆らってばかりいる罪人である私たちに愛をもって徹底的に関わって下さり、私たちをご自分の祝福の内再び置いて下さり、私たちをご自分のものとして聖別して下さるのです。この主イエスの復活の日である日曜日に、教会は礼拝を守り、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命の約束にあずかりつつ歩んでいます。主イエス・キリストの救いのみ業によって、今や私たちには、主の日、日曜日が安息日として与えられているのです。主の日の礼拝は、私たちが守らなければならない義務ではありません。また、安息日である日曜日にはこういうことをしなければならないとか、こういうことはしてはいけないという掟があるわけでもありません。本日共に読まれた新約聖書の箇所、マルコによる福音書第二章二七節において主イエスが言っておられるように、安息日は人のために定められたのであって、人が安息日のためにあるのではないのです。しかし安息日が人のために定められたのは、私たちが、主イエス・キリストによって与えられる神様の祝福と聖別にあずかって、まことの安息を得るためです。私たちが自分の思いによってこの日を休日として過ごすことによっては決して得ることのできない安息、平安が、主イエス・キリストとの出会いと交わりの場である礼拝によって与えられるのです。それゆえに、今のところの続きの二八節には、「だから、人の子は安息日の主でもある」と言われているのです。人の子主イエスは、私たちに本当の安息を与えて下さる、安息日の主です。主イエスとの出会いと交わりを与えられる礼拝に連なることによって、この日は、私たちのためのまことの安息日となるのです。

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