夕礼拝

新しい革袋に

「新しい革袋に」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第58章3-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第2章18-22節
・ 讃美歌 ; 17、411

 
はじめに

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」。主イエスが語られた言葉です。主イエスのこの御言葉の前後、マルコによる福音書2章~3章6節までの間には主イエスと人々の間の論争が記されています。そして、その最後、3章6節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。この主イエスとファリサイ派を代表とした人々との論争は、人々が主イエスを「殺そう」という思いを抱くことによって終わるのです。人々は、主イエスを理解しようと努めて様々な問いを発しました。しかし、その結果、主イエスを亡き者にしようとする思いが生まれてきたのです。人々は、主イエスを受けいれることが出来なかったのです。そして、人々が殺意を生み出すまでに至る論争の半ばで主は、この言葉を語られたのです。ここには、主イエスを受け入れるために、私たちがどのような態度でいなければならないかが語られています。私たちが福音を受け入れるのは、私たちが新しいものとされなければならないというのです。

断食についての論争

本日お読みした箇所は、断食についてのやり取りが記されている箇所です。最初の18節には「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」とあります。私たちの信仰生活において、文字通り、食事を断つ「断食」はなじみのないことかもしれません。しかし、一定の期間、食べ物を断つことが宗教上の掟として定められているということは珍しいことではありません。旧約聖書の律法にも断食は記されています。そこでは年に一度、定められていた贖罪日に「苦行をする」という定めがあり、断食のことが言われています(レビ16:20)。何故人々は、断食するのでしょうか。その理由は、宗教や時代において様々です。しかし、聖書において「断食」とは、自らの罪を省みて、神に罪を告白するため、又、神に対して、悔い改めをあらわすためになされるものでした。そのような悔い改めの思いが、食を断つという形になってなされるようになったのです。
 ここには、「ヨハネの弟子たち」と、「ファリサイ派の人々」という二種類の人々が出てきます。ヨハネというのは、主イエスの道備えをした洗礼者ヨハネのことです。マルコによる福音書の最初の部分にはヨハネが「いなごと野蜜を食べていた」と記されていますが、彼は、非常に禁欲的な生活をしながら、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのでした。主イエスに弟子たちがいたのと同じように、この洗礼者ヨハネにも従う弟子の集団がいたのです。彼らは、ヨハネがそうしていたように、禁欲的な生活を送っていて、当然熱心に断食をしていたのです。又、「ファリサイ派の人々」は律法を守ることで救いを得ようとしていた人々で、断食も欠かしませんでした。しかも、彼らの中でも厳格な人々は、週に二度も断食していたようです。旧約聖書の律法が定めているよりもはるかに多く、規則正しく断食をなしていたのです。しかし、主イエスの弟子たちは、断食をしていませんでした。聖書を読むと、主イエスや弟子たちが断食するお姿よりも、むしろ様々な人と共に食卓を囲んでおられる姿が記されています。
そこで、人々は、断食を重んじている「ヨハネの弟子たち」や、「ファリサイ派の弟子たち」と、断食を重んじていない、「主イエスの弟子たち」の姿を比べて、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたのです。

慣習化された断食

 しかし、ここで、断食を厳格に守っている人々が、真に悔い改める思いを持って、断食をしていたかと言えば、決してそうではありません。特に、主イエスを殺そうとするようになる、ファリサイ派の人々がそうでした。主イエスはその教えの中でファリサイ派の偽善を指摘して、人に見てもらおうとしてする善行や断食を否定しました。又、マタイによる福音書には、ファリサイ派の青年が祈りの中で、自分の正しさを主張して、自分は週に二度断食していることを述べている箇所があります。他人と比べて、自分がしっかりと、「断食」を守っていることを誇って、それによって、救いの確かさを得ようとしていたのです。当時のファリサイ派の人々にとって「断食」は、自らの正しさ、救いの確かさを得るための手段となっていたのです。そこでは、確かに食事を断つという行為はなされていましたが、神の前での、真実な「悔い改め」ということがなされていなかったのです。信仰は私たちの心の内のことだけではなく、人間の生活の中で形を持つものです。そのような中で信仰が、慣習化される時に、信仰が本来の意味を失って形骸化されてしまうということがしばしば起こるのです。「悔い改め」のためになされるべき「断食」が、それ自体で一つの目的となってしまい、それをしていることが、自分の救いを確かめることになってしまうのです。そこでは、肝心な悔い改めがどこかにいってしまうのです。
私たちの信仰生活において、文字通りの断食をするということは、滅多にありません。しかし、ここで起きている「信仰の慣習化」とでも言うべき事態は、イエス・キリストの福音を信じているものの信仰生活においても起こり得ることです。もちろん、信仰生活の中で、自らの信仰を実践するために守るべきことを定めて、それを守るように努めるということは決して悪いことではありません。しかし、そこで、その信仰を生きるための慣習が、手段ではなく目的となってしまうのであれば本末転倒以外のなにものでもありません。祈りの仕方、礼拝の守り方、献金の捧げ方等、信仰生活のすべてにおいて、そのようなことが起こりうるのです。それらのあり方によって私たちが周囲の人と自分を比べて、自分のしていることをしていない人々を非難したり、自分のしていないことをしている人々を見て、自分の足りなさを嘆いたりすることが起こりうるのです。そこまでは行かなくても、そのようにして他人と自分を比べる中で一喜一憂することがあるのではないでしょうか。それは、決して、福音に生きているということにはなりません。それは、信仰を「慣習化」することにつきまとう、私たちの罪といって良いでしょう。そこにあるのは、喜びではなく、まさに、苦行としての信仰生活でしかありません。
 この時、人々は、しっかりと「断食」をしているヨハネの弟子たち、ファリサイ派の弟子たちと、それをしていない、主イエスの弟子たちを見比べて、主イエスに対する批判をしています。もしも、この時、「断食」が真の「悔い改め」の思いから、なされていたのであれば、その行為について他人と見比べることはなかったでしょう。しかし、実際は、断食が慣習化される中で、他者との比較の中で、自分の救いを確かめ、他の人々を裁くためのものとなってしまっているのです。

主イエスの答え

 主イエスは人々に対して、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と言われます。ここで、主イエスはご自身を「花婿」にたとえられました。聖書には、しばしば、婚礼のたとえが出てきます。旧約聖書においては神と神の民の関係が花婿と花嫁の関係にたとえられています。新約聖書には、救い主であるキリストが花婿としてこられるということが記されています。主イエスが終わりの日に来られる時のことが婚礼にたとえられているのです。ここで、主イエスは、自らを「花婿」とすることで、真の救い主であることを示しているのです。自分が今ここにいるということこそ、真の救いの到来であることを示しているのです。それは、待ち望んでいた結婚式のように、人々にとって「喜び」以外の何ものでもないのです。
 「主イエスの弟子たち」とはどのような人々かと聞かれれば様々な答え方が出来ると思います。しかし、今日の聖書が語る御言葉にしたがって言えば、それは「婚礼の客」であると言うことが出来ます。花婿である主イエスに招かれて、共にお祝いの宴についている人々なのです。結婚式のお祝いの宴において、食事が振舞われているのにも関わらず、今は断食中だからと言って、断る人はいないでしょう。実際、婚礼のお祝いの時には、断食はしないのが慣習であったようです。
 ここで、「花婿が一緒にいる」という時の「一緒にいる」という表現は、インマヌエル「神は我々と共におられる」ということを示しています。主イエスの「弟子たち」とは、この神との祝宴の交わりの中で、喜びに生きるものなのです。そこには、「断食」という律法を守ることではなくて、救い主である主イエスが共にいてくださるという、確かさの中で、救いの恵みを喜ぶということが起こるのです。主イエスが共におられることによって、今すでに、神の支配が成就している、「時は満ち、神の国は近づいた」という恵みに生きることなのです。ですから、ここで言われているのは、結婚式という喜びの席で断食などはしていられないということだけではありません。主イエスが共におられることによって、新しい時がやってきており、律法の慣習から自由にされたのだと言われているのです。その主イエスが共におられる、神の支配が世に表されたということの中で、断食など、まったく意味がなくなるのです。

「断食する時」

 しかし、主イエスは、続けて「花婿が奪い取られる時」が来ると語ります。主イエスが十字架につけられて世を去る時のことです。そして、その時にこそ、「イエスの弟子たち」は断食するというのです。それは、真の「悔い改め」をなすということです。
 主イエスと共に歩んだ弟子たちは、ただ宴の時の喜びの中を歩み続けたのではありませんでした。主イエスが一緒にいる喜びと共に、主イエスが世を去られた時に起こった「悔い改め」をも経験することになったのです。主イエスは、弟子たちから見捨てられて、お一人で、十字架の上で苦しまれつつ世を去られました。この出来事の後に、弟子たちが抱いた思いは真の悔い改めでした。主イエスを十字架につけてしまった。又、主イエスが十字架につけられる時にその場から逃げ去ってしまった。しかし、そのような者の罪の贖いのために、主イエスがお一人で苦しまれたのだということを知らされる時に、人々は、真に悔い改めるのです。「悔い改め」というのは、私たちの信仰生活における慣習から生まれてくるものではありません。断食を慣習化して自ら救いを得ようとするところにあったのは、真の悔い改めではありませんでした。自分の救いを確かめたいあまりに人と比べて人を裁く思いでした。悔い改めは、主イエスと共にいたものが、主がこの世を去られた十字架を前にして初めて生じるのです。「悔い改めて、福音を信じなさい」ということは、十字架を抜きにしては起こり得ないのです。しかし、ここで言われている断食は、ファリサイ派の人々の断食とは、まったく異なるものです。主イエスが共にいてくださることの喜びを経験したものが、その喜びに支えられつつ、主イエスの十字架を前にして悔い改めるのです。私たちは、主イエスに従う歩みの中で、文字通りの食を断つことはないかもしれません。しかし、その歩みの中で、喜びと共に、十字架の主イエスの姿を前にして自らの罪を悔い改めるということが必ず起こるのです。

新しいぶどう酒は新しい革袋に

 主イエスは、断食をしない弟子たちを非難した人々に対して、二つのたとえを語ります。一つは、布地のたとえです。「誰も織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。」と言われています。「織りたて布」というのは、「まだ晒していない」という意味合いの言葉です。まだ晒していない布は最初に洗った時にひどく縮むために、そのような布で継ぎ接ぎをすると、洗った時に古い布地を引っ張って破くことになるのです。もう一つは酒と革袋のたとえです。新しい酒というのは、まだ発酵作用が活発に行われているために、伸びきった古い革袋に入れると、袋は破れてしまうのです。これらのたとえは、これだけで聞くと、「古いものに下手に新しいものを加えて古いものを台無しにしてしまわないように注意しなさい」という格言にも聞こえます。実際、そのような格言としてこのたとえが語られる場合もあるのです。しかし、主イエスは、ここで、そのようなことを言われているのではありません。主イエスは最後に「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われています。ここでは、新しいものは新しいものに入れなくてはいけないということが言われているのです。
 「新しいもの」とは主イエスご自身です。マルコによる福音書では、主イエスがはじめて教えられた時に、その教えを聞いていた群衆が、「権威ある新しい教えだ」と言って驚いたことが記されています。主イエスの語られる御言葉、主イエスがこの世に来られたという出来事自体が、「新しい」ものなのです。ですから、それを聞き、受け入れる私たちも又新しくされなければならないのです。この時、人々は、「断食をする」という律法によって、律法を守っていない主イエスとその弟子たちを非難しました。それは、救い主として来られた主イエスを古い革袋のままで、受け入れようとしたためになされた非難です。この非難が主イエスを殺そうという計画を引き起こします。そのような計画は、「古い革袋」に「新しいぶどう酒」を注いだ結果起こることなのです。

昨日までの行いに終始する私たち
 私たちは、一方で、「新しく」なることを望んでいます。今の自分を変えるということ、自分が変わるということについて関心が向けられます。自己を変革するためのハウツー本が多く売れ、自己啓発セミナーのような類のものが流行ったりします。新しい自分を見出すために、自分探しの旅に出る人がいますし、様々な経験をすることで、新たな才能を開花させようとする人もいるでしょう。今の自分に不満を感じ、自分が変われるものなら変わりたいという願望が心のどこかにあるのだと思います。しかし、もう一方では、「新しく」なることが出来ない、新しくなることを望まない私たちがいるのではないでしょうか。私たちがなしてきたことが変化することに対して不安を抱き、自らが変えられることを恐れるのです。変化しない確かなものを自分自身の内に持ちたいと思うのです。
 信仰生活においてもそうです。信仰を慣習化してしまう時、そこには、新しくなることを拒む私たちがいるのではないかと思います。そのような中で日々新たに、主イエスの御言葉に聞き、それを受け入れるということをしなくなってしまうことがあるのです。
 この態度の背後には、神によって与えられる救いをも自らの内に所有したいと思う私たちの思いがあるように思います。信仰を慣習化するということで起こっていることは、私たちが、救いを自分の内に所有しようとすることによって、神の救いを「古いもの」としてしまうことであるといってよいでしょう。救いにおいても、自らの手に何かを握り締めていたい。そのような思いが古いものにとどまろうとするということになって現れるのです。私たちは、豊かな救いの経験、御言葉に打たれて新たにさせられる経験をします。確かに、その経験は、すばらしいものです。しかし、私たちはその経験に留まり続けることは出来ません。その、素晴らしい信仰の経験を、救いの確かさを自らが所有するための根拠とすることは出来ないのです。そこで新しく聞くことをやめてしまい、御言葉を自分で所有して、それを古いものにしてしまうのであれば、それは、福音ではなく、一つの律法となってしまうことでしょう。信仰生活の中では、福音も、自分自身で所有しようとすることによって古いもの、律法としてしまうことが起こるのです。

新しく聞く

 私たちは、いつも新たに、主イエスと出会わなければなりません。神の支配、神の国は、私たちが所有してしまうことが出来ないものなのです。
主イエスの到来は、古きに固執する、私たちの中への神の支配の新しさの到来です。この方によって、古いものは過ぎ去り、新しいものが来るのです。新しいぶどう酒のために新しい革袋を用意しなければならないように、私たちの信仰生活は、常に、新しくされていなければなりません。そのために、常に「新しく聞く」ということが必要です。
 主イエスに従うものたちは、主イエスが再び来られる終わりの時を待ち望みつつ歩みます。その時とは真の神の支配が完成する、婚礼の時です。その時に至るまで、私たちは、新しいものを受け入れるために、新しくされ続けるのです。主イエスの弟子の歩みは、すでに、主イエスが共にいてくださるという婚礼の喜びの中で、未だ来ていない終わりの時における婚礼の宴を待ち望む歩みなのです。その歩みにおいて、私たちは、自分が救いの確かさを所有するのではなく、神のご支配が、私たちを保って下さることに信頼して、御言葉によって常に新しいものとされつつ歩むのです。この新しさの中で、私たちは、主イエスと共に喜んで歩みたいと思います。

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