主日礼拝

十字架を負って

「十字架を負って」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第15章16-32節
・ 讃美歌: 182、280、511

主イエスの受けた苦しみ  
 イエス・キリストが十字架の死刑の判決を受け、兵士たちに引き渡され、処刑場であるゴルゴタの丘へと引かれていき、手足を釘打たれて十字架につけられた、マルコによる福音書におけるその場面を本日ご一緒に読みます。主イエスがお受けになった苦しみは、私たちがそれを余すところなく感じ取ることなど不可能ですが、しかしできる限りの想像力を傾けて、その苦しみの実態に迫りたいと思います。

兵士たちの暴行  
 主イエスを裁き、死刑の判決を下したローマ帝国ユダヤ総督ピラトは、主イエスを鞭打ってから十字架につけるために引き渡しました。そのことが先週読んだ最後の所、15節に語られていました。十字架の処刑はローマの兵士たちによって行なわれます。主イエスはその死刑執行人に引き渡されたのです。主イエスの裁判は総督官邸の外で行われ、そこに群衆たちも詰めかけていたわけですが、判決を受けた主イエスは、処刑の準備のために一旦総督官邸の中に引いて行かれました。そこで先ず鞭で打たれたのでしょう。「鞭打ってから、十字架につけるために」と15節にあったように、十字架の処刑は鞭で打つことから始まりました。さらに官邸の中で兵士たちによって、主イエスに対する集団リンチがなされました。死刑が決まって引き渡された囚人に対しては何をしてもよかったのでしょう。主イエスは兵士たちの残虐な楽しみのためのいけにえとされたのです。そういうことは十字架の処刑のたびに行われていたようですが、主イエスの処刑においてはよりエスカレートした仕方でなされました。「部隊の全員を呼び集めた」と16節にあります。部隊の全員の前で、主イエスへの暴行、虐待がなされたのです。それは主イエスが「ユダヤ人の王」と自称しているというかどで訴えられ、有罪とされたからです。ユダヤ人の王を自称するということは、ユダヤに対するローマの支配を否定することですから、ローマにとっては徹底的に弾圧すべき反逆者です。だから主イエスに対するリンチは部隊の全員による苛烈なものとなったのです。兵士たちは激しい憎しみと残虐な喜びとによって主イエスをいためつけたのです。彼らがしたことは単なる暴行ではなくて、精神的な虐待でした。主イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼したのです。紫の服というのは、当時王のみが着ることのできたものでした。ここでは、兵士たちの赤黒いマントをそれに見立てて着せたということでしょう。また王冠の代りに茨の冠をかぶらせました。鋭い刺のある茨の冠をかぶせられることによって、主イエスは頭から血を流したのです。「血しおしたたる主のみかしら、とげに刺されし主のみかしら」という受難の讃美歌はこの場面を歌っています。このようにして兵士たちは、主イエスを王として仕立て、「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼をしてからかいました。そのようにからかいつつ、19節にあるように「何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」のです。茨の冠をかぶった頭を棒でたたかれた主イエスの顔はまさに血だらけになったでしょう。肉体的にも精神的にも、すさまじい暴行を受けたあげくに、主イエスは十字架につけられるために外に引き出されたのです。

ゴルゴタへの歩み  
 十字架の処刑が行われるのは、エルサレムの城壁の外にあったゴルゴタという所でした。その意味は「されこうべの場所」だったと書かれています。それはされこうべに似た形の丘だったからだとも言われます。十字架につけられる死刑囚は、その丘の上まで、自分のつけられる十字架を担がされて歩かされたのです。自分が釘打たれて磔にされ、殺される、その十字架を背負わされ、歩かされることも、この処刑の残酷さの一つでした。  
 21節には、その主イエスの十字架を、シモンという人が替わって担がされたことが語られています。それについては後でまた触れたいと思いますが、ここで先ず見つめておくべきことは、主イエスがもはや自分で十字架を担ぐことができない程弱っておられたということです。主イエスがどんな体格をしておられたかを聖書は全く語っていませんが、決してそんなに丈夫な人ではなかったのだろうと思います。とにかく主イエスは、鞭打ちを受け、大勢の兵士たちによる暴行虐待をも受けて、もはや十字架を背負って歩くことができないくらい衰弱しておられたのです。主イエスの十字架の上での死は、通常の場合よりもかなり早かったことが他の福音書の記述から分かりますが、それは、それだけ衰弱が激しかったことを物語っていると言えるでしょう。  
 ゴルゴタ、されこうべの場所に着いて、いよいよ主イエスは十字架につけられようとしています。手と足を太い釘で十字架に打ち付けられ、その十字架を立ててつり下げられるのです。手足の痛みと出血とによって次第に弱っていって死ぬのを待つというのは、長い間苦痛を与え、じわじわと殺すという最も残酷な処刑方法です。そのために、さすがにその苦痛を和らげるためのものが用意されていました。23節に「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした」とあるのがそれです。感覚を麻痺させて苦しみを少なくするためにそれが与えられたのです。しかし主イエスはお受けにならなかった、とあります。それは主イエスが、十字架の苦しみを、父なる神から与えられる杯として、その全てを飲み干そうとしておられることを意味しています。主イエスは十字架の苦しみを少しも割引なしに、自らそれをとことんまで嘗め尽くそうとされたのです。

十字架の下では  
 主イエスを十字架につけた兵士たちは、その十字架の下で、主イエスの服をくじ引きにして分け合ったと24節にあります。死刑囚の着ていた服は兵士たちの役得となっており、くじ引きで誰にそれが当るかを彼らは楽しんでいたのです。十字架の上で死に臨み、極限の苦しみを受けている主イエスの下でこのような楽しみが行われるというのは、まことに無神経で鈍感な、そして残虐なことです。しかし考えてみれば、私たちのこの世における様々な営みは皆このようなものだと言わなければならないかもしれません。私たちのために、私たちの罪を背負って、主イエスが十字架にかかって苦しみ、死んで下さったのです。私たちの人生は、日々の生活は、この主イエスの十字架の苦しみの下で営まれているのです。しかしその私たちの生活が、主イエスを忘れ、その苦しみと死とを思うことなく、自分の欲望や楽しみを追い求めるものとなっているとしたら、それはこの兵士たちが十字架の下でくじ引きを楽しんでいたのと同じことだと言わなければならないのです。

主イエスをののしった人々  
 主イエスが十字架において受けた苦しみは肉体的な苦痛だけではありません。26節には、主イエスの十字架に掲げられた罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれてあったことが語られています。それはピラトが書かせたものです。罪状書きまでもが、あの兵士たちの嘲りと同じように、主イエスを侮辱し、からかうものでした。また27節には、主イエスと共に二人の人が十字架にかけられたが、彼らは強盗だったとあります。その後の28節は、後からの加筆であると考えられていて、今は本文から外されて98頁に置かれています。そこを見ると28節は「こうして、『その人は犯罪人の一人に数えられた』という聖書の言葉が実現した」となっています。犯罪人たちの一人として十字架につけられたこともまた、主イエスに加えられた苦しみの一つだったのです。そして29節以下には、十字架の上で苦しんでいる主イエスを人々がなおも嘲り、侮辱を加えたことが語られています。そこを通りかかった人々が「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」とののしりました。また主イエスを十字架の死へと追いやった張本人である祭司長、律法学者たちも主イエスを侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と言いました。この二つの嘲りの言葉には共通するものがあります。いずれも、主イエスがご自分をメシア、つまり救い主であると言っておられたことを取り上げており、お前が本当に救い主なら先ず自分を救ってみろ、奇跡を起こして十字架から降りてきて見せろ、救い主なら出来るはずだ。それが出来ずに無様に十字架につけられているお前は救い主などではないのさ、と言っているのです。祭司長たちはさらに、「他人は救ったのに、自分は救えない」とも言っています。それは、「お前は他人を救うとか言っていたが、自分を救うことすらできないお前に他人を救えるはずがないではないか」ということです。「だから、お前がこれまでしてきたことは全て失敗だった、何の意味もなかったのだ。お前は自分も他人も、誰一人救うことなどできずに虚しく死ぬのだ」、彼らは主イエスをそのような絶望の内に死なせようとしているのです。

それを見たら信じてやろう  
 祭司長たちが主イエスを侮辱して語ったこの言葉は、私たちの心の中にもある思いなのではないでしょうか。ここに集っている私たちは、主イエスを救い主と信じているか、あるいはそのような信仰を得たいと多少なりとも思っている者たちです。私たちは祭司長たちのように主イエスを侮辱しようとは思っていません。しかし主イエスを信じているあるいは信じようとしていると思っている私たちがしばしば求めているのは、自分を救うことができ、その力によって私たちをも救うことができる力強い救い主です。しかもその場合の「救う」の内容は、私たちが臨み、期待している救いです。私たちが願い、望んでいる救いを、自分にも人にも与えることができる力強い方を私たちは救い主として求めているのではないでしょうか。つまり私たちは自分なりの救い主のイメージを持っていて、そのイメージに合う主イエスを求めているのです。そのような思いから語られているのが、あの祭司長たちの「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」という言葉です。こういうことを見たら信じてやる、こうなったら信じてやる、という思いを私たちもしばしば抱きます。例えば、世界に様々な悲惨な出来事が起り、多くの人が命を奪われるような現実を神は何とかできないのか、そのようなことを阻止できない神は信じるに価するのか、という疑問です。それは非常に深刻かつ切実な問いであることは確かですが、しかしそのように問う時に私たちの中にあるのは、人間を悲惨な出来事から救うことが神の義務であるとする思いです。そこでは人間が主人で、神は人間に仕える僕とされているのです。自分の役に立つ僕は大切にするが、役に立たない僕は捨ててしまう主人のような思いで神を、主イエスを見つめている、ということが私たちにもあるのです。その時私たちは、十字架の上で苦しんでおられる主イエスをさらに侮辱して、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」と言った祭司長たちと同じことをしているのです。主イエスの十字架の苦しみは、私たちのこのような思いによってまさに極限に達しているのです。そして本日の箇所の最後の所、32節の終わりには、一緒に十字架につけられた犯罪人たち、強盗たちまでもが、イエスをののしったとあります。このことによってマルコは、「自分を救ってみろ」と言った通りかかった人々も、「十字架から降りるのを見たら信じてやろう」と言った祭司長たちや律法学者たちも、十字架の主イエスをののしったことにおいてこの強盗たちと同じだということを描き出しているのです。同じ思いを持つ私たちも、です。  
 ここまで主イエスの十字架の苦しみを見つめてきました。それは肉体的な苦しみのみならず、侮辱、嘲り、ののしり、悪意や無理解による苦しみです。そして主イエスにその苦しみを与えているのは、私たち一人一人の中にもある思いです。主イエスは私たちの罪のゆえの苦しみを、私たちの救いのために背負って下さったのです。そしてその苦しみを少しも和らげようとせずに嘗め尽くして下さったのです。本日の箇所に語られているのは、そのような主イエスの最後のお姿なのです。

神の救いのご計画  
 本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第22編を選びました。この詩はいろいろな点で、主イエスの十字架の場面とつながっています。最もはっきりしているのは、この次の所になりますが、主イエスが十字架の上で最後に語られた言葉、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」が、詩編22編の冒頭の言葉だということです。しかしそれだけでなく、この詩の8、9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」は、本日の29、30節の、通りかかった人々が頭を振りながらイエスをののしり、「自分を救ってみろ」と言ったことと結びつきます。「頭を振りながら」とあるのはこの箇所から来ているのです。またこの詩の19節「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」は、兵士たちが主イエスの服をくじ引きにして分けたことと結びつきます。主イエスの十字架において起ったことは、この詩編22編に預言されていたことの成就、実現だったのです。主イエスの極限の苦しみが、旧約聖書に前もって予告されていたのです。ということは、これは予期できなかった突発的な出来事ではないということです。主イエスがこのような苦しみを受けて死ぬことを、父なる神様はそのみ心において計画しておられ、それを予告しておられたのです。神様はそのようにして、私たちのための救いのみ業を行なって下さったのです。つまり神様による救いのみ業は、自分を救うことができずに十字架にかけられて極限の苦しみと悲惨さの中で死ぬ、その主イエスによって実現する、それが神様のみ心でありご計画だったのです。「ユダヤ人の王」という罪状書きも、兵士たちが「ユダヤ人の王万歳」と敬礼して嘲ったことも、実は真実を言い当てていたのです。十字架にかけられて死ぬ、この主イエスをこそ、神はユダヤ人の王として、つまり神の民のまことの王として、神の救いにあずかる者たちが従うべきお方としてお立てになったのです。

キリストの苦しみによって与えられた救い  
 この神のみ心、ご計画を信じることが私たちの信仰です。具体的には、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とが私たちの罪のための、私たちの身代わりとしての苦しみと死であったということ、主イエスは私たちが期待しているような強い者としてではなく、私たちの罪を背負わされ、罪人である私たちが裁かれて絶望の内に死ななければならないはずの十字架の死を引き受けて、その苦しみを嘗め尽くして下さることによって私たちのまことの王、救い主であって下さるのだ、ということを信じることです。それは、自分が思い描いている救いのイメージにこだわり、こういう救い主なら信じてやる、と言っているのとは正反対のことです。神による救いは、独り子主イエスが、私たちの罪を背負って、また人間の罪のために引き起こされる悲惨さ、苦しみを余すところなく背負って、十字架のすさまじい苦しみと死とを引き受けて下さったことによって与えられたのです。

私たちの新しい生き方  
 自分が思い描いている救い主を求めることをやめて、神が遣わして下さったイエス・キリストを信じて、その十字架の苦しみと死とによって神が与えて下さった救いを信じる時に、私たちの生き方は変わっていきます。生まれつきの私たちは、自分が強い者、立派な者になろうとしています。それによって自分の人生を切り開き、願いを叶え、充実した人生としようとしています。そういう思いによって私たちは、自分を救い、人をも救うことのできる強い救い主を待ち望んでいるのです。しかし神が私たちに与えて下さる救いは、強い者、立派な者となる力を与えることではありません。むしろ、どうしようもなく弱い者であり、立派なになり得ない罪人である自分、そしてそれこそが、私たちがこの世の生活において必死に自分を取り繕い、表面を飾っている全てのメッキがはぎ取られた所に現れる本当の自分であるわけですが、その弱い罪人である本当の自分が、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって担われ、赦され、支えられている、それこそが神の与えて下さる救いなのです。その救いを私たちに与えるために、神の独り子である主イエス・キリストが人となってこの世に来て下さり、本日見てきた十字架の極限の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。その救いにあずかって生きる時に私たちは、自分が強い者、立派な者、自分をも人をも救う力のある者になることを求めることをやめて、主イエスと共に、主イエスが私たちのために背負って下さった十字架の苦しみのほんの一端を、背負っていく者となるのです。主イエスはこの福音書の8章34節で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。主イエスに従っていくことが信仰者の歩みですが、それは自分の願っている力や栄光を求めていく歩みではなく、十字架の死への道を歩まれた主イエスの後に続いて、自らも十字架を背負って歩むことなのです。

十字架を負って  
 本日の箇所に登場しているキレネ人シモンは、そのことを身をもって体験した人でした。彼は主イエスの十字架を兵士たちによって無理やりに背負わされ、ゴルゴタの丘まで、主イエスと共に歩かされたのです。それは彼にとって、たまたまそこにいたために突然降って湧いた災難でした。「なぜ自分がこんなことをしなければならないのか」と嘆いたことでしょう。しかしこの体験が、彼のその後の人生を全く新しいものへと変えたのです。このシモンは「アレクサンドロとルフォスとの父」であると語られています。それは、この福音書が書かれ、読まれた教会において、この二人の息子たちがよく知られている人物だったことを示しています。「あのアレクサンドロとルフォスの父であるシモン」ということです。彼の二人の息子たちはこのように初代の教会の信者だったのです。それは、このシモン自身が後に、主イエス・キリストを信じる者になったことを暗示しています。彼は主イエスの十字架を背負わされるという突然の災難によって、十字架につけられるためにゴルゴタへと歩む主イエスのお姿を見つめつつ、主イエスと共に歩むという体験をしたのです。また主イエスがつけられる十字架の重さを自分の体で実感し、十字架につけられた主イエスの苦しみを間近で見たのです。そういう体験をした彼が、後に、主イエスの復活を伝え、主イエスこそ救い主であると告げ知らせる教会の教えを聞いた時、彼の中であの災難が、特別な意味を持つ体験として光を放つようになったのです。ふらふらになってゴルゴタへと歩み、悲惨な苦しみの中で死んでいった主イエスのあの苦しみは、罪人である自分の救いのために主が味わって下さった苦しみだったことに、自分が背負った主イエスの十字架のあの重さは、主イエスが背負って下さっていた自分の罪の重さであり、それを赦して下さる神の愛の重さだったことに、彼は気づかされたのです。そのことを知った彼は、今度は自分から進んで、十字架を背負って主イエスに従う者になりました。彼は洗礼を受けてクリスチャン、教会に連なる者となったのです。彼の二人の息子たちも、この父の信仰を受け継いでいったのでしょう。  
 私たちがどんなに想像力をたくましくしても、主イエスが十字架においてお受けになった苦しみのほんの一端にしか触れることはできません。むしろ私たちは自分が主イエスに深い苦しみを与えている者であることを思い知らされるのです。しかし私たちがその苦しみのほんの一部でも主イエスと共に背負って、主イエスに従って歩んでいくならば、主イエスの苦しみが自分のための苦しみであり、その苦しみと死とによって主イエスが、どうしようもなく弱い罪人であるこの自分を赦し、救って下さり、担い、支えていて下さることを、身をもって体験していくことができる。主イエスを信じ従っていく信仰者の歩みとはそういうものなのです。

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