夕礼拝

だれが世に勝つか

「だれが世に勝つか」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第44編1-9節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第5章1-5節  
・ 讃美歌:513、538

 今日与えられました御言葉、ヨハネの手紙一5章1節~5節は、一回さらっと読んでもみても、簡単にはわからないといいますか、一つ一つの文章は、大変簡潔に語りきっているのですが、どの文章もなぜそのように語れるの?そのように言い切れる理由はなに?とこの筆者に問いたくなるような文章が多いと思います。例えば、1節、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」という言葉が書かれています。この文章の構造、文法自体はなにも難しくありません。しかし、「イエス様がメシア救世主であると信じる人は皆、神様から生まれた者です。」と言い切られても、なぜ、イエス様がメシアであると信じるものは、神様から生まれた者なの?信じたらどうして、神様から生まれたことになるの?という私たちの疑問が置き去りにされたまま、「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」という、また「なぜ?」という疑問が湧いてくるような、ヨハネの言葉が続いています。なぜヨハネがこのように、淡々と一つ一つの文章を言い切って、この手紙に書いているかと言いますと、それは、この手紙がヨハネの教会に送られたものであるからです。ヨハネの教会に属する人々は、ヨハネによる福音書のイエス様の言葉を元に、信仰を養っていまして、かつ彼らが洗礼を受けてクリスチャンになる前の、洗礼を受けるための準備教育の時に、このヨハネによる福音書のイエス様の言葉を学びを続けていたので、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」とヨハネがこの手紙を書くこの内容は、彼らにとっては、自明の事であって、細かな説明が不要な事柄でありました。しかし、今現在この言葉を聴くわたしたちには、少しばかり難解です。ですから、わたしたちは今日この言葉を聴くときに、ヨハネの福音書に書かれているイエス様の言葉を共に聞きながら、今日与えられました御言葉を聞いていくことにしましょう。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」とありますが、先ほどありましたように、わたしたちはこのヨハネの言葉の理由が知りたくなります。それは、なぜ神様から生まれた者は、イエス様を救世主メシアとして信じる人のなのか?という問いです。この言葉を語るときに、書き手のヨハネと、読み手のヨハネの教会の人々が前提としているヨハネによる福音書の言葉は、ヨハネによる福音書1章12節13節の言葉です。それは12節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」続く13節で「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とあるこの言葉です。これが前提であると聞いても、わたしたちはすんなりと「よくわかりました。」とヨハネに応えることができる人は少ないと思います。「イエスがメシアである」と書かれている、そのメシアという言葉は、原文ではキリストとなります。そこで原文に忠実に訳すとここは「イエスがキリストである」となります。イエスはキリストであると聞いても、わたしたちは「それはイエス様のフルネームでしょ。山田は花子であるっていっているようなものじゃん」というように考える人がいるかもしれません。イエス様のキリストという名には、そのイエス様の存在を表す意味が込められており、イエス様の存在そのものを表しています。キリストというのはギリシャ語なのですが、これをヘブライ語に置き換えますと、その言葉に相当するのが「メシア」です。メシアという言葉は「油注がれたもの」という意味です。ヘブライ人は「油注がれたもの」を「神様がお選びになった、私たちを救う救世主」と考えていました。ですから、これを踏まえて考えると、「イエスはキリストであると信じる人は」と言っている言葉は、「イエスはわたしの救い主であると信じる人は」という意味になります。
 「本当にイエス様は自分を救ってくださる」「イエス様はそのような方だ」と信じている人は、ヨハネによる福音書1章12節が語る、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々」に該当します。ここで言と言われているのは、イエス様です。「イエス様は、自分を(イエス様を)受け入れた人、その名(イエス・キリストという名)を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と書いています。イエス様御自身が、「私を救い主と信じるものは、神の子となる資格を与える」とおっしゃっています。
 イエス様を救い主と信じるということは、わたしたち自身の罪を認めるということになります。イエス様はわたしたちを何から救ってくださる方なのかというと、それは罪の支配からです。わたしたちは、自分ではどうすることもできない罪の力に支配されています。世界の始まりの時、わたしたち人間は神様に造られ、神様と共に同じ場所で、生きていました。しかし、人間が神様の約束を破り、神様を恐れ、逃げ、隠れて、神様から離れてしまいました。神様の約束を破った理由に人の罪の根があります。人は、神様のようになりたいと思い、神様のようにすべての主、すべての主人になりたいと思っていました。すべての主人になるということ、それは神様の主人にもなりたいということです。それは、神様を僕にして、自分が神様の上に立つということです。
 わたしたち人は、今でもその罪の根によって、神様の上に立ちたいと思うことがあると思います。それは、神様を自分の都合の良い神様にして従わせているような錯覚に陥って満足することです。無病息災や商売繁盛を願うだけで、ご利益しか求めないようなならば、それは、自分の願いを叶えてくれるランプの精のように、自分の好きなときに呼び出す奴隷のようにしか神様を考えていないということになります。また罪を犯しているという自覚があるにしてもないにしても、人は神様をどこかで恐れ、神様から身を隠し、無関係を装おうとする性があります。ですから、自分と神とは無関係であると考えている人も、罪とは無関係ではないのです。神様を忘れ去ってもいい存在にしているという時点で、その人も罪の支配の中にあると言えるでしょう。
 わたしたちはそのような罪の支配を自分の力で破ったり、自分の罪による行動を、自制したりすることはできません。宗教改革者のルターは、自分の罪に気付き、修道院に入り、修道者となって、世から離れ、あらゆる欲望から離れ、自分を制御しようとしましたが、罪深い行いはしなくなっても、罪の思い、心の中の欲望や、心から現れる罪深い思いはどのようなことをしても、なくならないということを悟りました。わたしたちも、罪の行いはしていないかもしれないけれども、心の中はどうでしょうか。ルターは、心の中にもある自分の罪を、自分を鍛えたり、修行したりする行いでは克服できませんでした。しかし、ルターは、罪からの救い確信することができました。それは、ただその自分の罪のために十字架に掛かって、罪の支配から解放してくださったイエス様を信じる信仰によってだということに気付きました。ルターはイエス様が罪から救ってくださる救い主であるということを信じました。ルターはイエス様を信じる信仰を、自分の経験や知恵によって手にいれたとは考えませんでした。その信仰も神様が与えてくださったと信じていました。
 今日、午前中の主日礼拝において洗礼式があり二人の姉妹が洗礼を受けました。洗礼が意味するのは、イエス様とつながってイエス様と共に十字架に掛かって死に、イエス様と共に復活して、新しく生まれるということです。ここでの「新しく生まれる」はもう一度母のお腹から生まれなさいとか、心を新たに心機一転新しい自分を生きようと自分で決断することでもなく、神様から生まれます。わたしたちはイエス様を信じる信仰を与えられた時、新たに神様から生まれます。神様から生まれるというと、神様のお腹から飛び出して生まれるというイメージを持つ方がいるかもしれませんが、そうではなくて、むしろ逆にイエス様に結びつくということです。イエス様に結ばれるために、わたしたちは信じますという信仰告白をします。神様は、わたしたちがイエス様を信じる信仰を与え、その信仰によって、わたしたちを神様のもの、神様のこどもにしてくださいます。ですから、わたしたちがイエス様を信じ、わたしたちが神様のこどもたちになるということで、神様から生まれたものと認められ、神様は本当に自分の子としてくださいます。これがヨハネの語る「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」ということの意味する所です。

 1節後半「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」とヨハネは手紙でこのように、事実を述べます。しかし、わたしたちはまた、「なぜ生んでくださった神様を愛する人は皆、神様をから生まれた者を愛することになるの?」という疑問を持つと思います。ここで言われている、神様から生まれた者というのは、イエス様のことではありません。神様から生まれた者は、信仰者たち、神様のこどもたちのことです。ですから、この文を意味を加えて訳すると、「神の子どもたちは、神様を愛します。神様を愛するものは、神様から生まれた神の子どもたちをも愛します」ということになります。なぜ神様の子どもたちは、神様の子どもたちを愛するということになるのでしょうか。一つは家族愛の形がここに表れていると思います。
 幼子が母親のお腹から生まれて、幼子は父と母とに愛され、育まれ、その後に、父と母とを愛するようになります。そして、同じ父と母から生まれ、育まれた兄弟は、父と母から愛されます。その子は、父と母が愛している兄弟をも愛するようになります。この家族愛の理想の形が同じように、キリスト者として新しく誕生させてくれた父なる神様を愛し、共に父なる神様から生まれた、父なる神様の愛する兄弟姉妹であるキリスト者を愛するようになるということで語っている側面があります。
 もう一つの深い理由は、神さまのこどもたちは、イエス様につながったものであるということと関係しています。わたしたちは、信仰が与えられイエス様とつながります。洗礼式では、そのことをキリストの体の一部となるといっています。神様のこどもたちは、キリストの体の一部であります。ということは、その神様のこどもたちを愛するということは、キリストの体を愛するということになります。そしてそれはキリストを愛するということになります。キリストを愛するということは、同時に父なる神様を愛しているということです。キリスト教では、わたしはイエス様は好きだけれども、父なる神様は嫌い、聖霊なる神様は好きというように、三位一体の神様をバラバラに愛することはできません。従って父を愛するものは子を愛し、子を愛するものは父をも愛する、ということです。ですから生んでくださった父なる神様を愛するものは、子なるキリストを愛する。子なるキリストを愛するものは、キリストの体の一部である兄弟をも愛するのです。従って、逆に言えば、父なる神様を愛しているのに、神様からうまれた信仰者である兄弟を愛せないというのは、同時に神様を愛するものではないということになってしまいます、
 なぜヨハネはこのヨハネの教会の人に自明の事柄を手紙で書いて、自分の教会に送ったのでしょうか。それは、ヨハネの教会の人々の中で、「神様を信じて愛しています」と言っているのに、その同じ神様を信じる兄弟姉妹を愛さない人たちが、いたからです。その矛盾に対して、ヨハネはこの信仰の基礎を自分の教会の人たちに提示したのです。
 わたしたちにも、ヨハネはこのことを再確認せよと言っています。信仰者であるものたちは、自分の兄弟姉妹が目に見える形であたえられています。その兄弟を愛さないということが、神様をも愛さないということにつながっているということを考えなさいといっています。では、信仰者でない人なら、別に愛さなくていいのかというと、そうではありません。神様が愛し信仰与えようと思う人は、「今は信仰者でない」だけかもしれないからです。後に信仰者となる人も、神様の目では既に神様のこどもです。わたしたちには、誰が神様のこどもであるかはわからないので、わたしたちの隣人はすべて愛する対象です。しかしこれは大変なことであるなぁとわたしたちは考えてしまいます。隣人とすべてということは、この世界のすべての人を愛しなさいということであるかと思ってしまうと思います。隣人というのは、自分が出会っていく範囲の人のことです。この世のすべての人と、わたしたちは出会うことはできません。わたしたちの生涯で、会話するようになるくらいの人との出会いは、個人差はありますが、だいたい5000人程度だそうです。世界の人口と比べると、なんと少ないことでしょうか。その5000人の中で、自分が友人となるくらいの深い付き合いをする人は、数えられるくらいしかいないと思います。その「人々のことを愛しなさい」と神様は言われているのです。
2~3節「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは,神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」2節の「このことから明らかなように」と言われる「このように」というのは原文にそって訳すと、「次のことで」となります。従って、2節の初めは、「次のことでわたしたちに明らかになるのは」という文章になり、続く言葉が、わたしたちに明らかになる事柄です。それは、私たちが神様を愛し、その掟を守るときに、自分が神様の子どもたちを愛しているということが明らかになるということです。
ここに出てくる「掟」という言葉、これが何を指すかというと、これは主イエスが最も重要な掟として二つにまとめてくださったもの、つまり「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12章29~31節)です。神様を愛すること、そして隣人を愛すること。これが守らなければならない掟です。この掟を守る時私たちは、兄弟姉妹、隣人を愛することになる。そして神様を愛するとは、3節で「掟を守ることである」とヨハネは言っています。したがって、兄弟姉妹、隣人を愛するという掟を守ることが、神様を愛することだということです。これは先ほどいったように、神の子どもたちを愛することで、キリストの体を愛することになり、子を愛するものは、父を愛するものであるからなのです。
神様を愛する時、掟を守って兄弟姉妹を愛する時に、わたしたちは、自分たちが兄弟姉妹を愛していること、また同時に神様をも愛しているということを知らされ、気付かされるのです。
 ですから、わたしたちは神様だけしか愛せない、兄弟姉妹しか愛せないということにはならないのです。さらに、これは神様だけを愛せば、兄弟姉妹を自動的に愛しているということではありません。この手紙で、ヨハネは、「互いに愛し合いなさい」、「兄弟を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」ということを強調しています。そこには、やはり、神様だけを見ることに熱心になっていて、隣人を忘れがちになるわたしたちへのメッセージが込められているのです。神様だけを見て、あなたを見上げて歩みたいということを、信仰者は祈ることがあると思います。それは、ある意味で良い祈りだと思います。今までは、世の中の心騒がせることがらばかりに目を向けていた、自分の事柄ばかりに目をむけていたので、神様、あなただけを見上げて歩みたいという敬虔な告白的な祈りであると思います。しかし、ヨハネは、この「神様を見つめる」だけでなく、「神様見つめる」というのは同時にそのこどもたちにも目を向けているということですよ。と私たちに教えてくれています。
そして「神様の愛するこどもたちにも目を向けなさい、そして近づいて交わりなさい」といっています。そして、近づいて、交わりを持つと、喧嘩したり、気まずい関係になったりすることがあります。しかし、そこで「自分が神様に赦されたことを思い出して、兄弟姉妹をゆるしなさい」と言っています。近づくこと、交わりを持つこと、ゆるすこと、これが愛です。愛するということです。イエス様が私たちにしてくださったことです。
 ヨハネは、「神の掟は難しいものではありません。」と語っていますがが、どうでしょうか。神様を愛すること、隣人と交わったり、ゆるしたりすることは、難しくないでしょうか。本当に難しいと思われる方もいるでしょう。正直に言えば、私も難しいと思います。
どこかで、あの人とは関わりたくない、許したくないということが出てきてしまいます。
でも、ヨハネは「難しいものではない」と語ります。
 なぜ、この「難しい掟」を難しくないと、ヨハネは言うのでしょうか?わたしたちが、隣人を愛する時に、難しくなるのはやはり、ゆるすという時が一番難しいことであると思います。自分で、神様が自分を愛して赦してくれたのだから、我慢しよう我慢しよう、この人を赦そうと考えているときには、もうイライラが募って、しまいには自分が苦しくなってしまい、こんなに自分を苦しめるほど、我慢させる相手が憎いということに成ってしまうと思います。そうなると大抵は、もうその人にも会うのが嫌ということにまで成ってしまうと思います。
 実は、よく考えると、相手をゆるす、愛すということを困難にしているのはわたしです。わたしたちは、クリスチャンになったから、この掟を知ったからといって、自分で相手をゆるすということはできません。掟に従って、愛そう、ゆるそうとすると、どんどんその困難さを自覚すると思います。掟に従わなくても、愛すこと、ゆるすことは、簡単ではありません。わたしたちが、人を愛するということ、人をゆるすということをする時、わたしたちは自分たちの限界を突破しています。わたしたちは、わたしたち自身の中に、相手を愛することができる才能であったり、力であったりは備わってはいません。そのようなことができるようになっている時には、わたしたちはもともとわたしたちの内にはなかったものが働いて、人を愛すること、人をゆるすことができるようになるのです。もともとは、自分になかったもの、それはイエス様に対する信仰です。信仰が与えられた時、わたしたちの内に来てくださった方がおられます。それは、聖霊なる神様です。わたしたちが、愛すること、ゆるすことができているとき、それはわたしたちの信仰の力でそのようにできているのではありません。信仰の力で努力するとなりますと、またいつまでも「難しい」という所から抜け出せません。聖霊なる神様が自分の内側で働いてくださって、また相手の間を取り持ってくださって、ゆるすこと、愛することができるようになります。私が頑張って信仰深くなるという話ではありません。わたしたちの信仰は、この聖霊なる神様の御支配に、徹底して委ねていくということです
 この聖霊なる神様が、私たちに道を拓き、力を与え、いよいよ愛する者へと変えていってくださいます。イエス様を信じる者は、この聖霊なる神様の導きをも信じます。その時に私たちは、私たちには難しいけれど、聖霊なる神様によって、他者を愛する道を歩むことは、難しくなくなるということを知ります。この聖霊なる神様に頼り切ることによって、わたしたちは掟を守ることが難しくならなくなります。なぜなら自分の力にもう頼らなくてよいからです。信仰によって、神様に委ねるということをわたしたちがおぼえるからです。

 私たちの信仰の歩みというものは、初めから終わりまで聖霊なる神様と共にあります。その時私たちは世に打ち勝ちます。私が、私の力で、私の知恵で勝つというのではありません。聖霊なる神様が打ち勝たれます。私たちが、私たちの力によって世に打ち勝つのではなく、私たちの内に宿り給う聖霊なる神様が、その力をもって世に打ち勝ってくださいます。
 では、この世に打ち勝つとは、どういうことなのでしょうか。ここで言われている世というのは、世の中の人々のことを言っているのではなく、世のあらゆる誘惑、世の闇のことを、略して世と言っています。世に打ち勝つとはなにか、これは様々なレベルにおいて言えると思います。第一には、主イエス・キリストが死に打ち勝たれて復活されたように、死に打ち勝つ、死の支配に勝つということです。第二には、主イエス・キリストが荒野の試みにおいてサタンの誘惑を退けられたように、この世の様々な誘惑に打ち勝つということです。神様の御心に従うよりも、わたしの願いを先にしてしまおうとする誘惑、言い換えれば自分を主人して神様を僕としようとする誘惑に、打ち勝つということです。
それは、自分を重んじて、神様を愛すること隣人を愛することを軽んじる、そのような状態にわたしたちを導くあらゆる誘惑に、打ち勝つということになるでしょう。第三に、イエスはキリストであるということを否定する力に勝利するということです。イエス様は救い主ではないと主張するあらゆる力にも、勝つということになります。
4~5節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とヨハネは語ります。
このことが完成するとき、あらゆるものがイエス様の前でひれ伏す時、それは終末の時です。ですからこの、4~5節のヨハネの言葉は、約束であり、宣言です。私たちは、聖霊なる神様との交わりの中に生きることにおいて、必ず世の悪しき力、悪しき誘惑に勝利します。
 そういっても、しばしば誘惑に負けてしまう私たちです。しかし、わたしたちが日常で誘惑に負けることは、究極的、最終的な敗北ではありません。私たちは、そのたびに悔い改め、新しくされるのです。私たちが世に打ち勝つ勝利は、既に神様の永遠の御計画の中で定められていることです。イエス様の十字架が一見、敗北に見えたとしても、三日目に復活し死に対して勝利したように、私たちの敗北は,一時のものに過ぎません。終わりの時に、イエス様は,すべての者に勝ち、右の拳を上げて(これは勝利を意味します)、神の国に凱旋します。わたしたちはその勝利の列に並び、イエス様とともに行進します。そして、すべてに勝ち、神の国へと入るのです。この日を目指して、私たちは歩んでいます。
 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」とヨハネは言います。信仰とは、「イエス様はわたしたちの救い主で、神の子である」という信仰です。同時にこれは、イエス様こそがすべてに対して勝利している勝利者であることも信じるということになります。イエス様はわたしたちに向かってこう言われます。ヨハネによる福音書16章33節「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と。イエス様は世の闇に、世の誘惑に勝たれています。このイエス様の世に対する勝利に与る者はだれでしょうか、すでに与っている者はだれでしょうか、それはイエス様を信じるわたしたちです。

 世の闇はイエス様を知りません。しかし、私たちは聖霊なる神様に知らされています。世は、やがて終わりが来ることを知りません。しかし、私たちは知らされています。世は、死を超えた永遠の命を知りません。しかし、私たちは信仰を与えられ知っています。世は、愛が最も大切な命に至る道であることを知りません。しかし、私たちは知っています。これは、私たちが聖霊なる神様の導きの中に生かされていることの、確かなしるしなのです。その私たちが知ったこと、出会った方、その方が、私達の希望であり、信仰です。その方とはイエス様です。イエス様御自身は既に世に勝っていると、宣言されています。私たちは既に世に勝っています。この聖霊なる神様に委ねて、あらゆる世の誘惑と戦う、それが信仰者の歩みです。恐れる必要はありません。私たちの主は既に世に勝っています。

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