夕礼拝

誘惑に遭わせないで

「誘惑に遭わせないで」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:箴言 第1章10-15節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章13節
・ 讃美歌: 83、522

 イエス様はわたしたちの弱さをご存知です。神様を信じることができなくなってしまうような弱さ、また色々な誘惑にあって神様から離れてしまいそうになるわたしたちの弱さをご存知です。イエス様はそれをご存知ですから、今日わたしたちに「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」という祈りを教えてくださいます。この祈りを今日わたしたちはイエス様から主の祈りの最後の祈りとして与えられました。この最後の祈りはわたしたちの祈っている主の祈りの言葉では、「我らをこころみあわせず、悪より救い出したまえ」になります。この祈りを昔わたしは、疑問に思ったことがありました。それは「我らをこころみにあわせず」という部分に対してです。わたしは「神様に対してこころみにあわせないでとなんで祈る必要があるのかなぁ」と思っていました。それはこころみということをある一つの意味で考えていたためでありました。わたしは試みということを試練という意味だと思っていましたので、「神様は愛する子には試練を与える」ということが聖書に書いてあるのを読んだことがあったので、その神様が鍛えようとなさっているのに、その試練に合わせないでと祈るのは変ではないのかと思っていたのです。かつてわたしは体育会系でしたから、試練や訓練があったほうが、人は強くなると自負しておりましたので、試練をあたえないでと祈るのは、弱気だなぁと思っていました。実は、この「試みに遭わせず」の試みという言葉は、聖書の言葉であるギリシャ語では「ペイラモス」という言葉であり、この言葉は試練とも訳すことができるのですが、本日のマタイによる福音書での訳の通り、「誘惑」とも訳すことが出来る言葉です。この主の祈りの中での、「試み」と言われている言葉は、これはわたしたちの益となる試練というよりも、これはわたしたちを危険な深い泥沼に引きずり込むような「誘惑」という意味に取る方がしっくりくると思います。わたしはかつて、聖書をちゃんと読んでいないだめクリスチャンでしたので、ちゃんと聖書を読むようになって、主の祈りの試みという言葉が誘惑であることをしり納得しました。しかし、納得はしましたが、この誘惑ということがなんなのかはその時はわかってはおりませんでした。  

 それはさておき、この誘惑に遭わせずの「遭わせず」という言葉は引きずり込むという意味を持つ言葉です。従って、イエス様がこの最後の祈りをわたしたちに祈るように命じられたということは、わたしたちの生きる身の回りに、誘惑が存在するということを知っておられたということです。ではその誘惑とは、なんであるかということがわたしたちの気になるところです。結論から申し上げますと、誘惑とは、わたしたちを神様から引き離すものです。通常、誘惑のことを考えますと、なにか利益となることをチラつかせて誘惑し、悪いことをさせるというのが誘惑だと考えます。魅力的な女性または男性が異性を誘惑して、騙す。高い商品を買わす。または、弱みを作り出し、握るハニートラップなどのことを想像します。または、欲望や弱さにつけ込み、不倫して、結婚関係を破壊させようとする。これらが、なんとなくわたしたちが想像する誘惑でしょう。それらの誘惑は、概して、人の弱さや欲望につけ込み、悪い道にそらせる被害を与えるという一致しているでしょう。その点では、聖書が語る誘惑とわたしたちが通常考える誘惑は似ています。しかし、決定的に違うのは、神様からわたしたちをそらせる、離そうとすることがあるかないかということです。  

 聖書には、悪魔が誘惑をしてくる場面が度々登場していますが、そのすべてが神様から人を離そうとする試みです。代表的なところでは、アダムとエバの蛇、ヨブ記に出てくるヨブを不幸にする悪魔、そしてイエス様を荒野で誘惑した悪魔です。ヨブ記の悪魔は、ヨブが神様を本当に信頼していて、信仰しているよい人であるけど、一度人生が不幸になれば、神様への信仰はなくなり、恨んだりするに違いないと、神様に語りかけます。神様はそんなことはないとヨブを信頼していたので、悪魔がこうすればヨブがあなたを信仰しなくなりますという、いくつかの提案を実行することを許可しました。それは、ヨブの財産を全部なくすことであったり、家族を失わせることだったり、病気にさせることでした。実際にそのように悪魔は行いました。そうまでして、悪魔はヨブを神様から引き離したかったのです。アダムとエバの蛇も、あの神様に禁止されていた木の実を食べれば、神様のように善悪の区別ができるようになれるよ、そのようになることを神様は知っていて禁じているのだよと誘惑し、神様への信頼を崩すそうとしています。また蛇は、人が自分で善悪の判断をし、自分の思うがままに生きる、神様の善悪の判断などに囚われることなく、自由に生きることがいいじゃないとここでは誘惑しています。 これらの聖書にでてくる悪魔や誘惑をみますと、誘惑に陥るということが、単に何か悪いことをしてしまうことに誘われるというのではなく、誘惑はわたしたちを神様から引き離すことであるということがわかります。アダムとエバのことを思い起こすと、誘惑に陥るとは、心が神様から離れ、神様なしに、自分一人で生きていこうとしてしまうということであるとも言えます。そのことを見つめる時に、この祈りの後半の「悪より救い出したまえ」の意味がより深く理解できます。これは単に何かの悪、悪いことをしてしまわないように、という祈りではないということが分かります。聖書では、「悪い者から救ってください」となっています。「悪」とも訳せるし、「悪い者」とも訳せる言葉が原文には使われています。しかし内容から言えばこの祈りは、「悪いことをしてしまわないですむように」というよりも、「わたしたちを神様から引き離そうとする悪い者の誘惑から守ってください」ということの理解してよいでしょう。その場合の「悪い者」は、「悪い人」というだけではなくて、まさにアダムとエバに語りかけたあの蛇に象徴されている悪魔のことが意識されます。悪魔というのは、バイキンマンのような黒い角のあるようなものではありません。あの悪魔はまだかわいいものです。本当の悪魔は、わたしたちの心に、様々な機会を用いて、神様を信じることは無意味だ、信仰とは窮屈なものだ、信仰とは自分で考えず思考停止させるものだ、そんなことはやめて自由になったらよい、自分の思い通りに生きたらいい、とささやきかけてくるのです。それこそ最も質の悪い、本当の意味で恐ろしい悪魔なのです。その悪魔の力から救い守ってくださいと祈り求めるのがこの主の祈り最後の祈りなのです。  

 わたしもこのような神様から離そうとする誘惑にあうことが度々あります。最近で言えば、この指路教会でのことです。指路教会はご存知のように、日本の中では比較的大きな教会です。そのため、働きも多い。また人が多いために様々のことが起こる。喜びも多いですが、労苦も多い。悔し涙を流しながら涙して種を蒔くことが多い。そんな労苦の中にあるわたしに、冗談のようですが、冗談ではなく、6億円あったらなぁとTOTOBIGが誘惑してきます。それはTOTOBIGが悪魔ということではなくて、6億円というお金がわたしの弱さに揺さぶりをかけてくるのです。「6億円を手に入れて、そのお金で教会を建てて、そこの牧師になるといって、指路教会を辞めるなんてことをいっちゃおうか。」などと本気で考えていたことがありました。指路教会が窮屈に思え、そこから飛び出すことができるものにすがろうとする誘惑に駆られたのです。それはつまり、神様がここに導いてくださった召命に対して、窮屈だなーと思い、その神様のみ心から自分の力で離れてしまいたいという思いに対しての誘惑でした。実際に6億円はないですから、なにも起きていません。しかし、心は神様から離れてしまいそうになっていました。もし6億円が当たっていたら、本当に心だけでなく、神様から離れていたかもしれません。神様はわたしを離なさいために、6億円をくださらないのだろうと思います。 イエス様はわたしたちに、このような誘惑に遭わせず、悪い者から救ってくださるように神様に祈り求めることを、最も大事な基本的な祈りとして教えて下さいました。それは、イエス様が、わたしたちの弱さ、わたしたちの信仰の脆さ、不確かさをよくご存じであり、そのために心を配って下さっている、ということを示しています。  

 イエス様はわたしたちの弱さを思いやって下さって、「試みに遭わせないで下さい」という祈りを教えて下さいました。しかしそう祈ったからといって、それでわたしたちの歩みから、誘惑がまったくなくなるということはありません。この祈りを祈っても、わたしたちが神様を信じ従って生きていこうとする時に、そこには必ず様々な誘惑が襲いかかって来ます。それならば、この祈りを祈る意味はどこにあるのか、ということにもなります。その意味は、この祈りを持って、イエス様ともに、この誘惑に打ち勝つためです。イエス様も実はわたしたちと同じような経験をされています。イエス様も「神様から引き離そうとする力を、なくしてください。誘惑にあわせないでください」と祈られたことがありました。それはイエス様が捕らえられる直前のゲツセマネの園での祈りです。あの時イエス様は、最大の誘惑に遭遇していました。イエス様は、いよいよ十字架の苦しみと死とに向かおうとしておられた時、ゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それは、迫って来ている苦しみと死とを受けないですむようにして下さいということです。十字架の死から逃げることは、イエス様にとってもっとも強力な誘惑だったのです。死という恐怖、苦しみから逃れることを望むのは、わたしたちにとっては当たり前です。しかし、イエス様は違う。父なる神様からの命により、またわたしたちを救うために、死なねばならない。それが父なる神様の御心であり、それに従わないことは、父なる神様への信頼しないことになる。誘惑に負けたことになる。 そのような最大な誘惑にある時に、「この杯をわたしから遠ざけてください」と祈られる、これはまさに、誘惑に合わせないでくださいと祈っているということです。わたしたちが、神様から離れてしまいそうになるときに祈るように、イエス様も誘惑を前にして、「誘惑に遭わせないで下さい」と神様に祈られたのです。そしてイエス様は、このように祈りつつ、しかし父なる神様の御心がなるようにとも祈り、父なる神様のご計画に従って、十字架の苦しみと死とへの道を歩み通されたのです。つまり誘惑に打ち勝ち、父なる神様への信仰を、服従を貫かれたのです。そのことによって、わたしたちの救いが実現しました。わたしたちは、イエス様ご自身が真剣に祈られたこの祈りを、イエス様と共に主の祈りを通して祈っていくのです。  

 わたしたちも、主の祈りを教えられ、それを祈りつつ信仰の生涯を歩みます。しかしそこには、様々な誘惑があり、わたしたちを神様から引き離し、その恵みを見えなくさせ、神様を信じることが窮屈であり、信じないところにこそ自由があるかのように思わせようとする力が働きます。その力の前で、わたしたちはまことに弱く脆いものです。あのペトロも、絶対イエス様から離れないで生きてゆきますといったのに、結局三度イエス様を「知らない」と言ってしまったのです。わたしたちはそのように弱い者です。自分の力で誘惑に打ち勝てる者ではありません。そのようなわたしたちのために、イエス様は独り、誘惑に打ち勝って十字架の死への道を歩み通して下さりました。誘惑に負けてしまうわたしたちが、このイエス様の十字架の死によって、赦され、信仰者として立てられていきます。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、わたしたちが誘惑に満ちたこの世を、このイエス様と共に歩んでいくための祈りです。イエス様が教えて下さり、イエス様ご自身も祈りつつ歩まれたこの祈りを、わたしたちも共に祈りつつ歩むことによって、わたしたちの信仰の歩みが、イエス様と共なる、イエス様に支えられた歩みとなるのです。この祈りを祈ることなしに生きるならば、わたしたちは、様々な誘惑と自分一人で戦っていくことになります。その戦いに勝ち目はありません。アダムとエバも、蛇の誘惑に負けてしまったのです。それが人間の現実であることをあの話は教えています。あのアダムとエバに出来なかったことを成し遂げて下さった方がただ一人おられます。それがイエス様です。イエス様はただ一人、荒野でもゲツセマネでも誘惑を退けて、父なる神様のみ心に従い通されたのです。このイエス様が共にいて支え導いて下さることを祈り求めつつ生きることによって、わたしたちは、誘惑と戦っていくことができるのです。あるいは、その戦いに敗れてしまうことがあっても、もう一度神様のみもとに立ち返ることができるのです。わたしたちは弱い者ですから、誘惑を受けることによって神様を信じて生きることが不自由な窮屈な人生であるように思ってしまうことがあります。そして神様の信仰を見失ってしまうことがあります。しかしそのようなわたしたちのために、イエス様は今わたしたちのために祈ってくださっています。それはルカによる福音書22章32節に書いています。「サタンはあなたがたを、小麦のふるいにかけることを神に願って、聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」といわれました。私たちはイエス様に従って歩むとき、このサタンのふるいにかけられるかのように、なんどもイエス様から離れ、神様を知らないといい、揺らいでしまいますが、イエス様がわたしたちのために「信仰がなくならないように」祈ってくださっているのです。今日、主の祈りの最後を教えられたわたしたちは、このイエス様の執り成しの祈りに支えられて、わたしたちも主の祈りを祈りながら、あらゆる誘惑に陥らぬように、イエス様と共に父なる神様に従い、祈ってまいりたいと思います。

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