主日礼拝

死刑と釈放

「死刑と釈放」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章11-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第15章1-15節
・ 讃美歌: 431、288、298

歴史に名を遺したピラト  
 私たちは毎週の礼拝の説教の直前に、使徒信条によって信仰を告白しています。本日も只今ご一緒に唱えました。使徒信条は、その元となったものは紀元4世紀頃に成立し、今の形になったのは7、8世紀頃と言われます。千数百年にわたってキリスト教会が唱えてきた信仰の告白であり、いろいろな教派があっても、およそキリスト教会であればどの教会もこれを信じている、という信仰の基本的内容を告白している、基本信条と呼ばれるものの一つです。その使徒信条には、三人の人の名前が出てきます。一人は言うまでもなく主イエス・キリストです。もう一人は先日祝ったクリスマスの主人公とも言える、主イエスの母となったおとめマリアです。そしてもう一人は、ポンテオ・ピラトです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」とあるように、ピラトは主イエスを十字架につけた人として出てくるのです。このような形で自分の名前が毎週、全世界の教会で唱えられているのを、ピラトは草葉の陰でどんな思いで聞いているでしょうか。彼は後世に名を遺したのです。キリスト教会が存続する限り、彼の名前は忘れ去られることはありません。歴代のローマ帝国ユダヤ総督の中で、そんな人は彼だけです。素晴らしい業績をあげて名を遺すならともかく、彼は主イエスを十字架につけた、その判決を下したことによって、末代までの語り草となったのです。

ピラトによる主イエスの裁判  
 本日ご一緒の読む聖書の箇所に、ピラトが歴史に名を遺すことになったいきさつが語られています。ピラトが主イエスを裁き、十字架の死刑の判決を下した場面です。先ほど申しましたように、彼はローマ帝国のユダヤ総督でした。その彼が主イエスを裁くことになったのは、1節にあるように、ユダヤ人の祭司長、長老たち、律法学者たちが、主イエスをピラトに引き渡し、裁きを求めたからです。当時ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマは総督を置いていましたが、通常総督は、ユダヤ人の宗教問題、信仰の問題に首を突っ込んで裁くようなことはしません。そんなことをすればユダヤ人たちの反発をかうことは明らかです。多くの民族から成り、多くの宗教が混在する帝国を築いていたローマは、そのあたりの支配のコツをつかんでおり、ローマの支配を否定しない限りそれぞれの宗教の活動を認めていたのです。しかしこのたびは、ユダヤ人の指導者たちが主イエスを総督に引き渡しました。この男はローマに反逆を企てている、と訴えたのです。彼らは主イエスを、自分たちの宗教における異端者としてではなく、ローマへの反逆者としてピラトのもとで断罪させようとしているのです。それは、イエスをローマのやり方で、つまり十字架につけることによって処刑しようということです。そこに彼らの主イエスに対する深い憎しみがあります。十字架刑は、手足を釘で打ち付けてぶら下げ、じわじわと死ぬのを待つという最も残酷な処刑方法です。そしてそれだけでなく、聖書には「木にかけられた者は神に呪われている」とあるので、これはユダヤ人にとっては神に呪われて死ぬという絶望的な処刑方法だったのです。祭司長たちは、主イエスを神に呪われた者として死なせたかった。彼らがそれほどまでに主イエスを憎んでいたのは、主イエスの教えやみ業が、本当に神と共に生きている人の言葉であり業だったからです。その主イエスの言葉や業は彼らに、自分たちが神ではなく自分を主人として生きているという事実をつきつけました。またそのことに気づき始めた民衆の心が彼らから離れていこうとしていたのです。その民衆を彼らの下につなぎとめておくためにも、イエスを神に呪われた者として殺したかったのです。  
 そういうわけで主イエスを裁くことになったピラトは、2節にあるように主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問いました。祭司長たちが、イエスは自分こそユダヤ人の王だと言って、ローマの支配を否定しようとしている、と訴えたからです。「お前は本当に自分がユダヤ人の王であると主張するのか」と問うたのです。ピラトはこの問いを、「お前はそれでもユダヤ人の王だなどと言うつもりか」という皮肉な思いで発しているのでしょう。ピラトにとって王とは、ある地域や人々に対する権力を握っている者であり、その権力を行使するために軍勢を率い、家来たちを従えている者です。しかし今目の前に立っているイエスは、軍勢どころか一人の家来もなく、なすすべもなく捕えられて裁かれている全く力のない者です。そんな者が自分は王だなどと言うのは笑止千万、ちゃんちゃらおかしいのです。

問われているピラト  
 ところが主イエスの答えは、ピラトを驚かせ、困惑させるものでした。主イエスは「それは、あなたが言っていることです」とおっしゃったのです。これは直訳すれば「あなたは言う」というだけの簡単な言葉です。「あなたの言う通りだ」とこれを解釈することもできます。それゆえに以前の口語訳聖書ではここは「そのとおりである」と訳されていました。しかしこれは、14章62節で大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いに主イエスが「そうです」とお答えになったのとは全く違う答え方です。「それは、あなたが言っていることです」というここでの答えは、「あなたの言う通りである」と取れば肯定の答えとなりますが、この文章の力点はむしろ「あなた」に置かれています。そのように読めばこれは、「それはあなたが言うことだ。私がユダヤ人の王であるかどうか、それはあなたに問われていることなのだ」という意味になるのです。つまり主イエスは、「答えなければならないのは私ではない、私が王であるか否かは、あなたにこそ問われているのだ」とお語りになったのです。  
 その後、祭司長たちが盛んに主イエスの罪状を訴えましたが、主イエスはぴたりと口を閉ざして何もお答えになりませんでした。ピラトは「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」と問いましたが、主イエスはもはや何もお答えにならなかったのです。ピラトはこのことを不思議に思った、と5節にあります。彼のこれまでの経験では、死刑になるかもしれない罪で訴えられている者たちは、皆、何とかして罪を免れようとして必死に弁明するものだったのです。あるいは、ローマの支配を打倒しようとして捕えられた確信犯たちは、ローマへの呪いの言葉を吐いて死刑になっていったのです。しかしイエスはそのどちらでもなく、じっと沈黙しておられます。それはピラトにとって不思議な、理解できないことであると同時に、このイエスの沈黙は先ほどの答えと同じように、ピラトに問いをつきつけるものでした。問われているのは私ではない、あなただ、あなたは私をどうするのか、という主イエスからの無言の問いを彼は受けたのです。

イエスかバラバか  
 この問いは一つの具体的、現実的な問題となってピラトに突きつけられてきました。この時エルサレムでは、ユダヤ人の最大の祭である過越祭が行われていました。その際に、民衆が願い出る一人の囚人を釈放してやる、つまり恩赦にするという習慣がありました。今年もそれを求めて群衆が押し掛けてきました。そこでピラトはその人たちに、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言ったのです。彼は、群衆が釈放を求めているのは当然このイエスだろうと思ったのです。それは10節にあるように「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたから」です。イエスを十字架にかけて殺したいと思っているのは祭司長たちだけで、一般民衆はそうではないとピラトは思っていたのです。ところが、群衆は祭司長たちの煽動によって、バラバという囚人の方を釈放してくれるように求めました。バラバは7節にあるように「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たち」の一人でした。この暴動はローマ帝国の支配に抵抗してユダヤ人の独立を勝ち取ろうとする民族主義的暴動であると思われます。つまりバラバは民族主義によるテロリストの中心人物だったのでしょう。ローマにとっては最も危険な人物であり、ピラトとしては一番釈放したくない囚人でした。それに対してイエスは、「ユダヤ人の王」と自称していたとしても、何かテロ行為を行ったわけではなく、民衆を煽動して暴動を起したのでもありません。ピラトがバラバではなくてイエスを釈放したいと思うのは当然です。ピラトはそのような思いを抱きつつ改めて「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と尋ねました。バラバを釈放してほしいと言っている群衆たちに、まさに今裁きが行われているイエスのことを思い出させて、イエスの方がよいのではないか、お前たちが王として尊敬している者ではないのか、と持ちかけたのです。しかし群衆はイエスを「十字架につけろ」と叫びました。ピラトはさらに、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言いました。イエスには、死刑にするほどの罪は見当たらない、何とかしてイエスの方を釈放したい、というピラトの思いがその言葉に現れています。しかし群衆はますます激しく「十字架につけろ」と叫び立てたのです。このようにして、ピラトはまさに「あなたは私をどうするのか」という問いの前に立たされました。バラバを釈放するのかイエスを釈放するのか、イエスを殺すのかバラバを殺すのか、どちらにするかを彼は決めなければならなかったのです。

群衆を満足させようと思って  
 そこにおいて彼が下した決断が15節です。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」。この決断によって彼は歴史に名を遺しました。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と毎週彼の名が唱えられることになったのはこの決断のゆえだったのです。彼は「群衆を満足させようと思って」この決断を下しました。つまり群衆の言いなりになったのです。群衆の意に反してイエスを釈放したら暴動が起るかもしれないと恐れたのです。ローマ皇帝から総督として派遣されている彼にとっては、委ねられたこの地の治安を守り、暴動などが起らないように治めることが最も大事です。そのように「大過なく」任期を全うすることが将来の出世につながるのです。それゆえに彼は群衆の要求に迎合したのです。そこには、自らの信念を貫くという思いや、人を裁く者に求められるはずの誠実さはありません。その場その場で周囲の人々の顔色を伺い、どちらが自分にとって得かと計算することしか頭にないのです。主イエス・キリストの十字架の死は、ピラトのこのような日和見な決断によって確定したのです。

問われている私たち  
 私たちはここで、ピラトの不誠実さや日和見主義を批判しているだけでは済まないでしょう。私たちも、このピラトと同じ立場に立たされるのです。なぜなら、私たちは主イエスと出会い、関わりを深められていく中で、主イエスに「あなたがユダヤ人の王なのか」と問う時が必ず来るからです。「ユダヤ人の王」とは、神の民の王ということであり、神の救いを受ける者たちが王としていただき、そのご支配に服するべき方です。つまり「あなたがユダヤ人の王なのか」という問いは要するに、あなたこそが救い主なのか、救われるためには、あなたを信じ、従っていくことが必要なのか、ということです。主イエスとの関わりが深まっていく中で私たちは主イエスにそのように問う時が来るのです。そしてそのような私たちの問いに主イエスは、「それはあなたが言っていることです」とお答えになるのです。つまり、「私が救い主であるのかないのか、それはあなたが語らなければならないこと、あなたに問われていることだ。あなたは私を救い主と信じ、従うのか、それとも拒み退けるのか」という問いかけを、私たちは逆に主イエスから受けるのです。主イエスとの交わりが深まる中で私たちは、自分が主イエスに問うており、「あなたが救い主ならその証拠を見せろ」とある意味で尋問しているようなつもりでいたけれども、実は問われているのは自分だったことに気づかされるのです。この主イエスからの問いかけに、誠実に、真剣に答えていくことこそが信仰なのです。  
 しかし私たちはしばしばそこで、この問いに誠実に、真剣に答えることをせずに、周囲の状況に流されてしまいます。何が真理であり、なすべき正しいことかではなくて、周囲の人々がどう思っているか、自分にとってどちらが得か、この世を生きていく上で有利か、ということを判断の規準にしてしまうのです。ピラトがしたのはまさにそういうことでした。それは私たちがいつもしていることではないでしょうか。ピラトが特別日和見な、信念のない事なかれ主義の人間だったわけではなくて、彼はたまたまこの時ユダヤ総督だったために、世の終わりまで名を覚えられる人になってしまったのです。私たちがもし彼の立場にいたなら、使徒信条において毎週唱えられるのは私たちの名前だったでしょう。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と唱え告白する時に私たちは、ピラトの罪や責任を思うのではなくて、自分自身の名前をそこに置いて考えるべきです。主イエスの十字架の苦しみと死は、主イエスからの問いに誠実に真剣に答えることができなかった、自分と同じ一人の人間の罪と弱さのためだったことをこそ覚えるべきなのです。

十字架につけろ  
 主イエスの十字架の死を決定づけたもう一つの要素は、群衆の「十字架につけろ」という叫びでした。この群衆は11章において、主イエスがエルサレムに入られた時、「ホサナ」と叫んで喜び迎えた人々です。また彼らは主イエスの教えに打たれていたと11章18節にありました。12章12節には、祭司長、律法学者、長老たちがイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れてできなかったとも語られています。これらのことからまだ一週間も経っていないのです。それなのに今や彼らは「イエスを十字架につけろ」と口々に叫んでいます。祭司長たちから煽動されたとは言え、群衆の心理とはかくも移ろいやすい、当てにならないものか、ということですが、この群衆の姿もまた、私たちの姿であると言わなければならないでしょう。彼らが主イエスを喜び迎えたのは、この方こそローマの支配から我々を解放してくれると期待していたからです。しかし主イエスは政治的な解放者として立とうとはなさいませんでした。期待が外れた群衆は、祭司長たちの煽動に乗って、今度はイエスを十字架につけろと叫ぶようになったのです。つまり彼らは、自分の思い願っている救いを期待して一時熱心に主イエスを信じるが、その期待が叶えられないとすぐにそっぽを向き、今度は逆に敵対するようになったのです。私たちも、神に対して、主イエスに対して、同じことをするのではないでしょうか。「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の姿にも、私たちは自分自身を見出すのです。

死刑と釈放  
 主イエスはこのように群衆の叫びに迎合したピラトによって死刑を宣告され、十字架につけられるために引き渡されました。ピラトにしても群衆にしても、特別な悪人というわけではない、むしろ私たちと全く同じ普通の人間です。私たち普通の人間が普通に持っている罪のために、主イエスの十字架の死刑が確定したのです。私たちの罪が、主イエスの十字架の苦しみと死をもたらしたのです。ピラトによる主イエスの裁判と判決はそのことを描き出しているのです。そしてここに描かれているもう一つの印象的なことは、この主イエスへの死刑判決と引き替えに釈放された男がいたことです。バラバは、主イエスが十字架の死刑に定められたために無罪放免となり、釈放されたのです。ピラトは内心ではこのバラバこそ十字架につけられるべきだと考えていました。イエスには罪がない、釈放されてしかるべきだ、と思っていたのです。しかしそのように何の罪もない主イエスが、群衆の自分勝手な叫びによって、またピラトの自己保身と周囲の目を気にする日和見主義によって、つまり私たち人間の罪によって十字架につけられることになった時に、本来その十字架につけられるはずだったバラバが赦され、解放されたのです。このバラバもまた、私たち自身の姿です。主イエス・キリストが十字架につけられて死刑になったことによって、その命と引き替えに、罪を赦され、新しく生きる者とされたこのバラバの姿は、主イエスの十字架の死によって私たちに与えられている救いを象徴的に、また印象的に描き出しているのです。

命と死との交換  
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章の11、12節は、主イエス・キリストの十字架の死によって実現した救いの預言です。52章13節から53章は「主の僕の歌」あるいは「苦難の僕の歌」と呼ばれています。主の僕が苦しみを受け、殺されることによって人々に救いが与えられるのです。先程はその最後のところである11、12節が朗読されました。そこをもう一度読んでみます。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分として、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」。自らは何の罪もない主の僕が、自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた、それは多くの人の罪と過ちを自ら負い、背いた者のために執り成しをするためだった。この「主の僕の歌」は、主イエス・キリストの十字架の死の預言です。主イエス・キリストは、神を神として敬わず背き逆らっている私たちの罪を全て負って、私たちに替って十字架の死刑を受けて下さったのです。この主イエスの十字架の死による執り成しによって私たちは赦され、罪のゆえに滅びるはずだったところを新しく生きる者とされたのです。それはあのバラバが、暗い牢獄の中で、十字架の死を覚悟し、その執行を待っていたのが、突然お前は釈放だと言われ、無罪放免となったのと同じことです。自分の全くあずかり知らない所で、主イエスの命と彼の死との交換がなされて、主イエスには死が、それによって彼には命が与えられたのです。

洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ  
 私たちが洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかることにおいて起っているのもそれと同じことです。洗礼において、神の独り子主イエス・キリストが、罪のために死ぬべき者である私たちの死を代って背負って下さり、私たちは主イエスの神の子としての命にあずかって新しく生きる者とされるのです。洗礼を受けた者は本日も行われる聖餐にもあずかります。聖餐のパンと杯によって私たちは、洗礼において与えられた主イエスの十字架の死による罪の赦しと新しい命の恵みを味わい、それによって養われていきます。主イエスが私たち罪人の死を代って背負って下さり、私たちには主イエスの命が与えられる、その私たちの死と主イエスの命の交換の恵みは、私たちの全くあずかり知らないところで、既に二千年前に主イエスの十字架において成立しているのです。洗礼を受け、聖餐にあずかることによって私たちは、その既に成立している恵みが自分のための恵みであることを感謝して受け入れ、その恵みにあずかって生きていくのです。迎えた新しい主の2015年を、主イエスの死によって赦され解放された者として歩んでいきたいと思います。

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