夕礼拝

もう泣かなくとも良い

「もう泣かなくとも良い」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 列王記上、第17章 8節-24節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第7章 11節-17節
・ 讃美歌 ; 528、446

 
1 神学校を卒業する時、私が一番不安に思っていたのは葬儀のことでした。人の葬りを司るということでした。赴任する教会が示された頃は、主任の先生がおられるから大丈夫だろう、と思っていましたが、長老の方々とお会いしてお話を伺っていると、どうもそうではないらしい、少なくとも最初の半年はそうではないらしい、ということが分かってきました。長老会に陪席させていただいた折、指路教会では一年にだいたい十数件葬儀があります、とお聞きして目を大きくして驚いたのを覚えています。
 私にとって不安だったのは、人の死と直面した時、そこで自分は何をどうすればよいのか分からなかったことです。そこで何を語り、ご遺族にどう語りかけたらよいのか、分からなかったことです。愛する者の死という、最も打ちひしがれ、力を失う体験を、今まさにしている、その人の傍らで、自分は何を語ることができるのか。ご家族との関わりあいの中でどういう慰めの言葉をかけられるのかが、とんでもなく難しいことのように思えたのです。

2 この日、ある母親の一人息子を葬るために集まった人々も、きっと同じように何を言えばいいのか分からないもどかしい思いを抱えながら、ナインの町を歩いていたのではないでしょうか。このナインという町は、ガリラヤのヘルモン山の北側にある小高い土地にあった町です。本日の箇所のすぐ前、主イエスが百人隊長の僕を癒した場所、カファルナウムからはだいたい四キロほど離れた所にあります。主イエスと弟子たちや群衆は、あのカファルナウムから、四キロの道のりを歩いて、この町へとやって来たのです。「やれやれ、やっと一息つける町まで辿り着いたぞ」、皆がそう思ったちょうどその時のことです。ナインの町の門から、ちょうど葬りのための行列が歩いて出てくるのに、彼らは出くわしたのです。当時の町は城壁で囲まれており、町の出入りはこの門を通して行われていました。門の外に出てくるということは、町の外に出て、荒れ野に入ってくるということです。いったん町の外に出れば、基本的には身の保証はありません。いろいろな獣がうろついているだろうし、強盗が出るかも分かりません。門の外は、人々が安心して住み、人と人との交わりが結ばれている、そういう社会からは切り離され、隔てられた世界なのです。今、そこに向かって、亡くなった一人の子供の葬りが行われようとしているのです。
 当時の葬りの営みの中心はこの葬りのための道行き、葬送でした。そのまわりを泣き女と呼ばれる人たちがすすり泣いたり、大声をあげたりしながら、この葬送の行列に伴ったのです。また笛を吹く者が悲しげな音を奏でながら、その周りを取り囲んだのです。たとえ貧しい者であっても、この半ば職業的なものとなっていた泣き女を一人、また笛吹きを二人雇う責任があったとも言われています。もしかしたら、この時の泣き女や笛吹きの規模もこれくらいで、あとのたくさんの人々はほとんどが町の人たちであったかもしれません。なぜならこの葬儀の喪主を務めているのは一人のやもめであったからです。夫に先立たれたこの女性に残されたのはただ一人の、この息子だけであったのです。彼女はこの息子をどんなにかかわいがり、大事にしてきたことでしょうか。どんなにかこの息子に自分の望みを託してきたことでしょうか。どんなにかこの息子を愛し、この息子と共に生きることで慰めを得てきたことでしょうか。そのすべてが、今、突然断ち切られ、もはや戻ってこないことが分かったのです。それが彼女にとっての一人息子の死が意味していることなのです。

3 一週間ほど前、イラクで武装勢力に捕らえられた韓国人の青年が殺害された事件が報道されました。彼の韓国の故郷、釜山に住む家族たちが激しく嘆き悲しむ姿がテレビや新聞で報じられました。今日の御言葉を思い巡らしながら一週間を過ごす中で、私にはこのやもめの姿とあの釜山の家族の姿とが重なって見えました。あの家族の傍らに立って、人は何を語りかけることができるでしょうか。へなへなと座り込み、顔を歪め、口を大きく開いて泣き叫ぶ家族の傍らで、人は何を言うことができるのでしょうか。
 私は神学生の頃、夏の伝道実習に遣わされた教会で葬儀を経験しました。教会員の一人息子の方でしたが、夜更けにひき逃げの交通事故に遭い、三十代の若さで亡くなられてしまいました。葬儀の一部始終を通して、私はご両親のそばで語りかけるべき言葉を知りませんでした。何といっていいいのか分かりませんでした。そしてそういう自分自身の姿に悩みました。東京に戻ってからも気持ちが整理できず、その時の何もいえなかった自分の気持ちを書いてご両親にお手紙を送ったことを覚えています。
 それと同じように、このやもめを取り囲みながら、町の人々は彼女に何を言うことができたでしょうか。何も言えなかったのではないでしょうか。これだけ大勢の人々がこの行列に伴っていたのは、きっと人々がこの親子のことを普段からよく知っており、ほほえましい思いでその生活を見守っていたからではないでしょうか。この息子は町の人たちからもかわいがられ、大事にされていたと思うのです。それだけに彼らも悲しかった。ましてただ一人残されたこのやもめの思いを察すれば、どれほどつらかったことでしょう。それだけに、何を語りかけていいのか分からなかったのです。何もこのやもめに語りかけるべき言葉を持たなかったのです。

4 その葬送の行列の前に立たれ、向き合われたお方が、主イエスでした。この行列の先頭には喪主が立つのが慣わしになっていましたから、先頭に立って歩いてくる一人の女性を御覧になって、主はこのやもめが息子を失ったのだという事情をすべてご理解なさったに違いありません。そしてこの母親を見て、憐れに思われたのです。激しく心を揺さぶられたのです。この「憐れに思い」という言葉は、「はらわたが引きちぎれるような思いを持って相手の思いを分かち合う」という意味を持つ言葉です。主はここで、「はらわたが引きちぎれるような思い」をもってこのやもめの思いを共有し、その痛みと嘆きを共にされたのです。この女性を深く心にかけて、近づいていかれたのです。
 私たちが、もしこうした葬送の行列に出くわしたらどうするでしょうか。きっと道を開けてこの葬送を静かに見守るか、遠巻きにして邪魔をしないようにして通り過ぎていくのではないでしょうか。誰もその行列のど真ん中に向けて、正面から切り込んで行ったりはしないでしょう。しかし主イエスはまさにそういうことをされたのです。真正面から、死の行進と向き合われたのです。この行列はもはや後戻りすることのない、死の行列です。もはやこの息子が帰ってくることはありません。暑いパレスティナの地方では、遺体の保存がききません。人が亡くなればその日のうちに葬るのが普通です。十分なお別れもままならない中で、人の交わりから切り離された荒れ野の中にこの息子を葬るために、門の外へ出てきた行列なのです。それは誰にも止められない、死の力に支配された行列です。私たちを怯えさせ、圧倒するような力を誇りながら、死という魔物が進んでくるのです。その前に立ちはだかって主はおっしゃったのです。「もう泣かなくともよい」(13節)。「もう泣かなくともよい」、いったい誰がこんな言葉をもってこのやもめに語りかけることができたでしょうか。この時周りにいた大勢の町の人たちの誰一人として、こんな言葉をもって語りかけることはできなかったでしょう。今しがた一人息子を失い、たった一人になってしまったやもめの思いを想像すれば、周囲の誰一人として、こんな言葉は言えないはずです。ここで主がやもめに語りかけているのは、そういう言葉なのです。
 そして主は棺に手を触れられて、この誰にも止めることのできないはずの死の行進を押しとどめるのです。死の力を押さえ込み、この行列を止まらせるのです。そしておっしゃるのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。この言葉は他の誰も言うことができません。主イエスだけがおっしゃることのできる言葉です。死人が生き返るわけがない、あまりにも分かり切ったことに抗っているように見えるこの言葉を聞いて、人々は唖然としたかもしれません。何を馬鹿なことを言っているんだ、と心の中でせせら笑ったかもしれない。しかし、まさに主のおっしゃったとおりのことがここに起こったのです。死人は起き上がってものを言い始めたのです。ここで棺と呼ばれているのは、実際には一種の担架、死人を載せる台のようなものでした。当時はそういう物に乗せて、死者を運んだのです。ですから、その担架の上で起き上がって、物を言い始める息子の姿が、誰の目にもはっきりと映ったのです。
 主イエスのこの言葉は、生と死の世界を支配する権威を持つお方のお言葉です。死者の体や、その体を載せた棺に手を触れることは、当時の律法の理解に従えば、汚れることを意味しました。その汚れを清めるために多くの手続きを必要とするような、そういう事柄だったのです。けれども主は、人々が汚れを恐れて近寄らない、その死の世界に分け入り、踏み入って、そこに手をお伸ばしになり、触れてくださるのです。私たちの苦しみと悩み、心の中の暗い、闇の部分、そこに主イエスは汚れること、巻き込まれることを恐れることなく、手を伸ばし、触れてくださるのです。そして癒してくださるのです。そしてそれらの闇の力が極まったところ、死の力をも打ち滅ぼし、ご自身の支配の下に置いてくださっているのです。ご自身の権威の下に置いてくださっているのです。

5 この出来事を目の当たりにした人々の中に恐れが生まれ、また神を賛美する声が湧き上がります。「大預言者が我々の間に現れた」という言葉は、預言者エリヤを思い起こしている言葉です。かつてイスラエルの預言者エリヤは、一人のやもめの下に身を寄せましたが、滞在中にその家の息子が病気にかかって死んでしまうのです。「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(18節)、そう泣いて迫る母親のふところから、エリヤは息子を受け取り、階上にある自分の部屋の寝台に彼を寝かせるのです。そして子供の上に三度身を重ねて祈るのです。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」(21節)。主はその時、エリヤの声に耳を傾けて、その子の命を元にお返しになったのです。あの時エリヤの祈りに応えて命を元に返した主なる神の権威と同じ権威を持って、ここで主は「若者よ、あなたに言う」と語りかけられるのです。ご自身が生と死を司る権威を持つ方、つまり神ご自身として語りかけられるのです。だからこそ、周囲に恐れが生まれているのです。彼らは今、神を目の当たりにしているからです。「神はその民を心にかけてくださった」という言葉を、ある聖書は「神はその民を探して見つけ出してくださった」と訳し、またある聖書は「神はその民を訪ねてくださった」と訳しました。神がイエス・キリストにおいて、その民を訪ね、見出してくださり、出会ってくださったことを、人々は知ったのです。
 預言者エリヤは生き返った息子を母親に渡しました。ここでも主イエスは、生き返った息子をその母親にお返しになっています。いなくなった息子、失われていた息子が帰ってきて、引き渡される。この驚くべき恵みの出来事の背後にあるのは何でしょうか。それは一人の息子が取り戻され、やもめの絶望が拭い去られ、新しい人生が始まるために、神の独り子が代わって失われているということです。そこでこの母親に代わって父なる神が涙を流されているということです。一人の息子が取り戻されて、その母親に「引き渡されるため」に、神の独り子があの夜、裁判のために「引き渡された」ということです。悪の力に引き渡され、そこでエリヤが三度死者の体に自らの身を重ねたように、主が今私たちに身を重ねて、罪と死と悪、汚れをご自身のものとして引き受けてくださるのです。
 もし私たちが今、失われた息子を再び返していただいたあのやもめのように、悲しみの果てから立ち上がり、神の恵みに捕らえられて新しく歩み出すことができるなら、それは神の独り子である主イエスが十字架に引き渡されて、私たちの受けるべき悲しみを引き取ってくださったからです。このお方ご自身がおっしゃってくださるからこそ、あの言葉は本当の力を持つのです、「もう泣かなくともよい」!

6 つい昨日おとといも、この教会で葬儀が行われました。赴任してから12回目の葬儀を経験したことになりますが、私は、次第に最初に抱いていたような不安はあまり必要のないことなのかもしれないと思うようになりました。何か本当にご遺族を慰める言葉を語りかけられないといけない、という強迫観念は、自分が人間の言葉で人を慰めようとする傲慢ではないか、むしろ私たちは遺族に語りかけるべき言葉など何も持たず、ただ泣いて葬送に伴うかないあのナインの町の人々と同じなのではないか、そう思うようになりました。しかし、私たちにはどうしようもできないその死の行進の前に立ちはだかり、すべての涙を引き受けて、深き慰めと癒しの内に、新しい命を受けて歩み出すことのできる、そういうお言葉をくださるお方がおられるのです。私たちがなすべきことは、自分がどういう慰めの言葉をかけるか、ではない。そこで残された家族と共にたたずみ、死の力をも司られる救い主の慰めの御言葉を共に聞くことなのです。
 その時、あの死の行進は、「キリストの勝利の行進」へと変わります。荒野への道は御国への道行きに変わります。その時私たちは、悲しみの最中でも、火葬前の式で読まれる、あの「ヨハネの黙示録」の御言葉を新しく聞き、希望を持って立ち上がることができるのです。

 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3-4)

祈り 父なる神様、悲しみの極みにあったナインのやもめを取り囲んだ町の人々のように、私たちは語りかけるべきまことの慰めの言葉を持ち得ない者であります。また私たち自身の苦しみや悩みも、人の気休めの言葉やただの励ましでは、本当の解決を与えられません。どうか御言葉をください。生も死も支配し、悪の力に打ち勝つあなたの、まことの慰めの言葉を聞かせてください。世界の流血の災い、悲しみの涙を顧みてください。どうかあなたが独り子をこの世に送って流された涙にこそ、私たちの思いを向けさせてください。あなたが涙を拭い取ってくださり、慰めを与えてくださることにのみ、私たちの唯一の希望を見出させてください。その慰めの御言葉を悲しむ者の傍らで共に聞き、そこで自らも新しい力を与えられ、立ち上がっていくことを得させてください。
慰め主なる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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