「心の中での思い」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第3章6-13節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章27-30節
・ 讃美歌:518、442
イエス様は、今日わたしたちに教えてくださろうとしておられます。イエス様は一つの律法を取り上げ、 その一つの律法の本来目指しているところのことをわたしたちに教えてくださろうとされています。イエス 様は「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」と言われました。イエス様は 今日わたしたちに、「あなたは姦淫してはならない」という戒めを用いて、律法の本当に目指すべきことを 教えてくださいます。27節で「あなたがたも聞いているとおり」とありますが、この「あなたがた」は山上 でイエス様のお話を聞いていたイエス様の弟子たちと、イエス様の話を聞いてみたいと思ってイエス様に従 って来た群集たちのことです。彼らは、ユダヤ教社会に生きていた者たちです。彼らにとって「姦淫しては ならない」はもっともよく知っている戒めの一つでした。「姦淫してはならない」はユダヤ人の大切にして いる十戒の第七戒のことです。「姦淫してはならない」という戒めの一般的なユダヤ人の解釈は、「結婚し ている者たちの関係を崩してはならない」という解釈でした。婚姻関係にある者たち、また婚約関係にある 者たちの間に第三者が割って入ってその関係を崩すことが禁止されていました。具体的には、結婚している 男が自分と婚姻関係にない女性と関係を持ったならば、その両者は死刑に処せさられるということがありま した。ユダヤ人社会の中で、この「姦淫してはならない」という戒めは、結婚という神様があたえてくださ った夫婦の関係を守るためのとても大切な戒めであるとされていました。従って、当時のユダヤの人々は、 この律法を守るというのは、男性からすれば結婚または婚約をしている女性と関係を持たないこと、女性か らすれば結婚または婚約をしている男性と関係を持たないことでありました。これらのことをしなければ、 律法をしっかり守ることができていると考えていました。そのようにできていれば、律法の正しさに生きる ことができていると考えてもよかったのです。
しかし、イエス様は、そのような今まで考えられていた「姦淫してはならない」の適応の範疇を覆されま す。戒めが適応される範囲を28節でこのように語っておられます。「しかし、わたしは言っておく。みだ らな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」今までの、一般的なユ ダヤ人の人々が解釈していた戒めの適応の範疇は、結婚している者が、別の婚姻関係にある女性にないし男 性に実際に関係を持った時のみでしたが、イエス様は実際に関係をもっていなくても、みだらな思いでその 対象を見るだけで、心の中でその人を犯していることになり、「姦淫してはならない」の戒めを破ることに なる、つまり、実際の「行為」だけでなく、「心の中の思い」をもイエス様は戒めの範疇としたのです。こ の新共同訳聖書では、「他人の妻を見る者は」と訳されていますが、ここにでてくる「他人の」という言葉 は、原文には書かれていません。またここで「妻」と訳されている言葉は、「女」という意味で取ることの できる言葉です。ですから、原文に忠実に訳すのであれば、ここは「みだらな思い、妻または女を見る者は だれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」となります。すなわち、これは、戒めの適応範囲がさ らに広がったということです。今までは、自分とは別の婚姻関係にあるもの実際に関係を持たなければ戒め を破ったことになっていませんでした。しかし、イエス様は、みだらな思いで見ているなら、それが未婚の 女性でも男性でも、自分の妻でも夫でも、姦淫の罪を犯していると言われているということです。このイエ ス様の教えは、「女」を見る者はだれでもとあるので、簡単に読むと男性にだけに向けて言われているよう に思えますが、これは女性に向けても言われています。ですから、女性はこの中の言葉を、「男」や「夫」 と置き換えて読むことができるでしょう。これを簡単に解釈して聞くと、「結婚している夫婦が、夫婦の営 みをすることはいけないことなのか?」「妻ないし夫に対して、そのような関係を持ちたいと欲することは いけないことなのか?」という疑問がでてくると思います。イエス様は、ここの戒めを用いて、夫婦の間で の肉体関係を持たせなくされようとしているわけではありません。むしろイエス様は婚姻関係を祝福してく ださいますし、聖書全体から見ても、夫婦がそのような関係を持つことは、夫婦が一体となること、お互い を深く知りあうための愛の交わりとして、良きものとされ祝福されています。
ですから、ここで大事になってくるのは、イエス様の言われた「みだらな思い」という言葉の解釈です。 わたしたちは、「みだらな思い」という言葉を、「性欲をもって相手を見るならば」というように、無意識 に読み替えてここを理解していることがおおいのではないかと思います。だから、そういう性的対象とし て、女性、男性を見てしまったら自分は、罪を犯していると理解する。従って、先ほどのように、自分の妻 や夫でも、性的対象として相手を見てはだめならば、結婚しても夫婦の営みをしてはいけないのではないか と考えるようになる。わたしたちは、自分の妻でも、自分の夫に対しても、または女性に対して、男性に対 して性的な思いを一切起こさないということは不可能でしょう。「性的な対象として、相手を見ることを禁 じられたのであれば」わたしたち人は、男と女が完全に隔離された場所で生きなければ、すべての人が罪を 犯すことになるでしょう。イエス様は性欲=罪ということを言おうとされているのではありません。「みだ らな思い」というギリシャ語の言葉の意味には、確かに「強い欲情」という意味があります。また別の意味 では、「むやみに欲しがる」という意味があります。ここでイエス様が、いわんとしている「みだらな思い」というのは、後者の「むやみに欲しがる」という意味ではないかと思います。それは、「むやみに欲す る」とは、相手の意志を尊重することがなくて欲することです。ひいては、自分が「相手を所有したい、自 分のものにしたい、支配したい、征服したい。」という、そのような貪りの心を指しているといえるでし ょう。
ですから、イエス様の言うところの「みだらな思いで~見る」というのは、その対象となる相手を「所有 したい」、「支配したい」「自分のものにしたい」というように、相手を所有物として、「もの」として見 ることであるといえるでしょう。わたしたちがそのように人を見ていたのならば、相手を自分の所有物とし てみていたのならば、相手の意志など関係なく、自分が相手を支配し、相手は自分だけが満たされるための 「もの」となる。そこには、律法が本来目指すべきところの「隣人を愛する」という隣人との愛の関係はあ りません。まったく逆のものです。それは、相手を「もの」として見るところには、人格関係を持った交わ りはありません。そのような「思い」は一方的に、相手を支配して、相手の人格を認めず、意志や思いを認 めない、悪い独裁者の思いと一緒です。イエス様は、それを禁じられているのです。「姦淫してはならな い」という戒めの指すところは、不倫や不貞行為をしてはならないというだけでなく、相手を所有して、自 分の支配下に置き、自分を満たす「もの」のように思う、そのような心の中での思いも、禁じられているの です。
またこのような相手を所有したいという「思い」を持つわたしたちが忘れてしまっている大事なことがあ ります。それは、その支配したいと思う相手も、「神様のもの」であるということです。どんな人でも、自 分の妻でも夫でも子どもでも、それは自分の所有物ではなく、神様のものです。それを忘れて、わたしたち が「だれかを支配したい、所有したい」と思うというのは、神様の所有しているものを奪いたいという罪を わたしたちが持っているということを示しています。イエス様のおっしゃる「姦淫してはならない」の理解 は、そのようなわたしたちの根本的な罪を明らかにします。わたしたちは、このイエス様の真の戒めの理解 によって、隣人を支配し自分を満たそうとしていること、隣人を支配したいという思いを持っていること、 また神様から人を奪い取り神様をも蔑ろにしていることが、明らかにされました。
では、このような思いをもってしまうわたしたちが、この戒めを破ることなく、ちゃんと守るためにはどう すればいいのでしょうか。極端に考えるとするならば、男であれば、女性との接触がなければ、女性であれば 男性とのコミュケーションがなければ、そのような思いを抱くこともなくなるだろうし、異性を見なければそ の罪を犯さずにすむだろうと、合理的に考えることはできます。しかし、それでは、律法が目指すべきところ の、「隣人を愛する」という隣人との愛の交わりを築くことはできません。むしろそれでは関係がなくなり、 律法が目指すべき所とはまったく逆の方向になってしまいます。イエス様はそのような、わたしたちに29節 30節でこのようなことを言われています。
29節 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくな っても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」 30節「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなって も、全身が地獄に落ちない方がましである。 」
この29節30節を読むと、わたしたちは、「イエス様厳しすぎます」という思いを持つと思います。相手を 所有したい、支配して、自分を満たしたいというような思いをさせる目があるならば、それをえぐり出して 捨ててしまいなさいとイエス様は言われています。右の手も同様です。
ここでいう、つまずいているという状態は、罪の支配にされている状態のことです。「つまずかせるならば」 ということは、それは、「右の目があなたに罪を犯させるのならば」ということです。右の目が自分をつまず かせる時というのは、相手を自分の所有物にしたいという目で、相手をみる時です。それは相手を品物のよう に品定めしている時ともということできるでしょう。その時、わたしたちは相手を支配したいという罪に自分 が支配されていると言えます。右の手のことも、同様にイエス様は言われています。イエス様はなぜ、そのよ うに目や手が、罪の支配にあるままにあるのならば、捨ててしまった方が良いといわれるのでしょうか。それ は支配権の放棄をイエス様がわたしたちに促そうとされているからです。目や手を自分の体から、切り離し捨 てれば、自分はその体をコントロールできなくなります。普段自分は、体を自分でコントロールしています、 つまり支配しているといえるでしょう。捨てるということは、暗に、その支配権を手放すということを示して います。なぜ手放さなければいけないのか、それはわたしたちが自分の意志で体をコントロールできていると 考えているのですが、実際は、罪によって体も心も支配されているからです。自分の意志で体も心も支配でき てコントロールできているようで、実際は、すべて罪によって支配されているのです。心の中の罪の思い、相 手を所有したい、支配したいという思いをわたしたちは、自分の意志で制御できません。ですから、今はもは や自分の意志も体も、罪に支配されているので、それをすてなければならないのです。
もし、本当にわたしたちの体の一部分だけが、罪に支配されている状態ならば、イエス様の言われている通り にその部分を切り捨てれば良いかもしれません。しかし、わたしたちは、だれも、一部分だけが、目だけが、 手だけが罪に支配されているということはありません。目だけが罪の状態にある、手だけが罪の状態にあると いうことはないでしょう。そのようにさせる心や自分の意志、脳も罪の支配にあるから、目や手が罪を犯すの です。一つが罪の状態であるならば、間違いなく、全身、それは体だけでなく、心も魂も、罪に支配されてい ます。わたしたちは、体の一部分だけが、罪の状態ということはないのです。わたしたちのすべてが罪に支配 されているので、本来わたしたちは、全身が地獄に落ちる、そのような救いのない永遠の滅びから免れない存 在なのです。この戒めの前に立たされた時に、わたしたちはそのようなものであることが明らかになってしま うのです。
しかし、イエス様はここで「あなたがたは、そのような滅びる存在である。残念だ。救いようがない。」 と宣言されるために、山上でこの戒めを説教されたのではありません。イエス様のこの山上の説教の後の歩 みを見つめながらわたしたちがこの教えを聞く時に、わたしたちは本当の意味を知ることが出来ます。イエ ス様はわたしたちの罪のための犠牲となってくださいました。わたしたちが、受けるべき永遠の滅びを、代 わりに受けて下さったのがイエス様です。そしてイエス様は、わたしたちの滅びを受けてくださっただけで なく、わたしたちを罪の支配からも解き放ってくださいました。「あの女性を、あの男性を支配したい、征 服したい、自分のものにしたい」というそのどうしようもならないその罪の力、その罪の支配からわたした ちを解き放つために、十字架にかかってくださったのです。そしてイエス様は、わたしたちを、罪の支配か ら解き放つだけでなく、支配から解き放たれていく先のわからない、だれに仕えればいいのかわからないわ たしたちを神様の元へと導き、神様の支配にわたしたちを与らせてくださりました。イエス様はわたしたち が神様の御支配に与ることも可能にしてくださったのです。それはまた、相手を支配したいという思いを抱 いてしまう罪の支配から解き放たれる可能性を生み出してくださったということなのです。また、そのよう に神様の支配に与った時、わたしたちは自分が神様のものであることに気付かされ、同時にあの男性も、あ の女性も、神様のものである、神様の支配にあるものであるということを気づくのです。
イエス様と出会い、イエス様を信じ、イエス様に従うものは、神様の支配に与ります。そして「神様のも の」となります。その神様は、わたしたちに対して悪い独裁者のような支配をなさらず、わたしたちの意志 を聞いて下さり、尊重して下さり、自由を与えて下さり、愛してくださいます。決して神様は、一方的に自 分が満たされたいとして人を支配されるのではありません。わたしたちは「神様のもの」であります。しか し、神様はわたしたち全員を意志をもたない人形のような「もの」ではなく、「生きた子」として愛してく ださいます。またイエス様は、イエス様を信じる群である教会を「妻」として見てくださっています。それ はエフェソの信徒への手紙に書いてあります。イエス様はわたしたち一人ひとりを「愛する妻」として、愛 の眼差しで見つめて、憐れみ、ゆるし、愛してくださいます。そして、右の手を差し出して下さり、触れて 下さり、また手を握り、つながり、一つとなって愛してくださいます。本日の旧約聖書の箇所のエレミヤ書 第三章では、神の民であるイスラエルが神様の花嫁として描かれています。しかし、そのイスラエルは、他 の国々の神を求め、不貞を犯し、神様を裏切ります。しかし、神様は「わたしはお前に怒りの顔を向けな い。わたしは慈しみ深くとこしえに怒り続けるものではない。」と言われています。ここに神様の愛と赦し の眼差しが描かれています。
今宵、イエス様が教えて下さった律法の本当に目指すべき所は、ここにあるのです。わたしたちはまずこ の戒めを前にして、相手を支配したい、ものにしたいという罪があるということから、逃れられないことを 知ります。そして、また、その罪のために、罪の滅びを肩代わりしてくださったイエス様との出会いが与え られます。この戒めの本当の意味を知る時、わたしたちを罪の支配から解き放ち、神様の支配に与らせてく ださったイエス様に感謝する思いが与えられます。そしてイエス様によって罪から解き放たれて後、わたし たちはかつての自分が持っていた、相手を支配したいという思いを捨てたいと思うようになります。その時 から、わたしたちは、隣人との真の愛の関係を結ぶための心を聖霊なる神様によって造られ、変えられてい くのです。神様はわたしたちが、神様を見ることを止め、違うものに夢中になり、それを求め、それを貪 っている時、忍耐されながら、憐れみの目を向け続けてくださっていました。そして、わたしたちが罪に気 づき、向き直った時には、赦しと愛の眼差しをもって見つめてくださっていました。そして、見つめるだけ でなく、右の御手を伸ばしくださり、もう一度愛の関係を結びなおしてくださいました。ですから、その神 様の支配に与っているわたしたちは、わたしたちを支配したいと思っている人には、忍耐と憐れみの眼差し をもって向き合うのです。また自分を支配しようしている人が自分自身の罪に気付かされた時は、愛と赦し の眼差しをもって見つめるのです。そして見つめるだけでなく右の手をもってつながり、もう一度、愛と和 解の関係をこちらから、結ぶのです。それが「姦淫してはならない」の戒めが示す、完成されたわたしたちの姿です。