夕礼拝

聞いて悟りなさい

「聞いて悟りなさい」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: ヨエル書 第2章12-17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第15章1-20節
・ 讃美歌 : 206、357

エルサレムから
 本日はマタイによる福音書第15章1節から20節をお読みします。1節ではエルサレムからファリサイ派の人々と律法学者たちが、主イエスのもとへ来たことが記されています。首都エルサレムからファリサイ派の人々と律法学者たちが主イエスのおられるガリラヤまでわざわざ来ました。その理由は、彼らが主イエスのことを調査するためでした。このことは、ファリサイ派が主イエスを殺そうと動き始めているということを表しています。エルサレムは首都ですので、本部からファリサイの人々や律法学者が派遣され主イエスのところに来たのです。本日の箇所ではファリサイ派の人々と律法学者たちが主イエスを攻撃している様子が描かれています。そして、そのような者たちに対する主イエスの大変厳しい言葉が語られております。主イエスは厳しいお言葉でファリサイ派や律法学者たちを批判しました。そして、主イエスとファリサイ派、律法学者との対立が決定的になっていったのです。ファリサイ派の人々は既に12章14節で、主イエスを殺そうと相談をしています。本日の箇所はその相談の結果が記されています。

手を洗う
 ファリサイ派の人々と律法学者たちは主イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」と問い詰めました。ここで、ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗っていないということを問題にしたのです。主イエスの弟子たちは、主イエスに倣って生活をしていましたので、主イエスご自身も食事の前に手を洗っていなかったと考えることができます。ですので、このファリサイ派や律法学者の者たちは「あなたの弟子たちは手を洗っていない」ということを通して、手を洗っていない主イエスを非難したことになります。手を洗わないということは、衛生上の視点から言っているのではありません。食事の前には手を洗いなさいということを言っているのではありません。ファリサイ派や律法学者たちの視点からすれば、食事の前に手を洗うことというのは、衛生上の問題ではなく、宗教的な、信仰に関わることなのです。周囲には、異教徒、間違った信仰、あるいは汚れた信仰に生きていると見なされている人々がたくさんおりました。そのような中でファリサイ派の人々は、神の民として相応しい、聖なる生活をしたいと一生懸命努めていたのです。当時の人々にとって、食事というのは人々の交わりにおいても、信仰においてもとても大事にされていました、神聖なものでありました。神様から与えられた食事の席というのは、神様との交わりの場であったのです。同時に、食事は人との交わりの場、親しい、深い関係が生じる場でもありました。共に食事をすることによって、そこには人間どうしの親しい交わりも生れるのです。食事は神様との交わりの場であると共に、人間どうしの交わりの場でもあったのです。そのような特別な場所である食事の席というのは、信仰的にも清められた時でなければなりませんでした。そのような食事の席での食物に触れる手が、汚れているということは許されないことなのです。衛生上の視点というよりも、日常生活の中で、神への信仰を持たない人々や汚れた世界と触れてきた、そのような汚れをどのように清めるのかというのがいつも問題になっておりました。神への信仰を持たない人々、また汚れた世界と触れていたというのは、罪人、汚れた人々と呼ばれた人々の接触を意味しています。ですので、ファリサイ派や律法学者の人々は罪人、汚れた人と見られていた人とは決して食事を共にしませんでした。主イエスはそのような者たちと食事を共にされております。ファリサイ派や律法学者の人々が食事を共にしなかったのは、罪の汚れが自分にも移ってしまうことを防ぐためでありました。そして更に、何を食べるかということにも大変気をつかっていました。旧約聖書には、汚れているから食べてはいけないと命じられており、食べる物に関する決まりがありました。そういうものを食べてしまわないように気をつけていたのです。「食事の前に手を洗う」ということも汚れを清めるということから大切にされていたのです。この世の宗教的汚れを洗い落とすために、食事の前には手を洗わなければと考えていたのです。しかし、旧約聖書に律法として、そのことが記されてはいません。これは律法、すなわち神の言葉ではないのです。これは2節に「昔の人の言い伝え」となっています。そのような言い伝えが受け継がれていたのです。更にその言い伝えはどういう順序で、どうやって洗うかまで細かく規定されていたようです。ファリサイ派の人々はそういう口伝えの掟をも律法の一部として守るように人々に教えていたのです。

人を汚すもの
 しかし、主イエスと弟子たちはそのような言い伝えは行わず、食事の前に手を洗っていませんでした。ファリサイ派や律法学者はそのことを非難したのです。手を洗わないで食事をしたということは、主イエスはこの世の汚れや罪を洗い落してから、その手で食事をする、ということをなさらなかったということです。なぜ主イエスは、手を洗わずに食事をされたのでしょうか。どのようなお考えがあったのでしょうか。10、11節にはこのようにあります。「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』」。そしてこの「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」とあります。17節以下に、この主イエスのお言葉の説明があります。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」。これらのみ言葉には、人を本当に汚すものとは何か、ということが語られています。

人間の罪
 もう一度10節をお読みします。「イエスは群衆を呼び寄せて言われた」とあります。つまり11節の、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という主イエスのお言葉は、ファリサイ派との論争の中でその人たちに対して語られた言葉ではありません。そのきっかけは、ファリサイ派の人々の非難の言葉でした。主イエスは、このファリサイ派の人々に対するご自身の答えを、群衆を呼び寄せて、多くの人々に向ってお語りになったのです。群衆に向けて語りかけられ、この主イエスの御言葉をお聞きする私たちもまた、この群衆の一人であり、私たちに対しても主イエスは語られているのです。そして「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」という主イエスのお言葉ではなく、口に入るものが人を汚す、と思っているのではないでしょうか。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそのように考えていました。しかし、私たちは食べると宗教的に汚れてしまうような食物があるとは考えていません。また、例えば大きな罪を犯している人と交わりを持ったからといって、それでその罪が自分にも移って自分が汚れてしまうなどということもないと思っています。主イエスは「口から出て来るものが人を汚す」と言われます。口から出て来るもの、それは言葉のことです。そして、人間が発する言葉の元になっている心、思いであります。主イエスはここで言葉と思い、それが人を汚すのだと言っておられるのです。言葉の元になっている思い、心、汚れとは「罪」と言うことができます。「口から出て来るものが人を汚す」というのは、言葉の元になる、人間の心、罪は元々私たちの内側にある、ということです。その内側にある罪の思い、心が、思いとなり言葉となり行動となって外に現れてくるのです。主イエスはそのようにして私たちは汚れた者、罪ある者となるのだ、言っておられるのです。このことは私たちにとって受け入れがたいことです。認めたくないことです。自分の汚れや罪が自分自身の内側から生じていることを認めたくないものです。むしろ、そのようなことは自分の外側から来ているものであると考えます。自分の外側の事柄、この社会の状況、今の経済状況が悪いからだ、自分の置かれている環境のせいにします。自分が負っている悩みや苦しみの結果であると考えます。汚れ、罪とは自分の外にある、外にある汚れが自分にふりかかってくるものであると考えます。しかし、主イエスは汚れとは、罪とは自分自身の中にあるものであると言われます。それが「口に入るものが人を汚す」という思いです。汚れたものが口に入ることを防げば、外から来る汚れを防ぐことができます。そうすることによって、自分は清いと思います。とファリサイ派、律法学者の人々は考えました。ファリサイの人々、律法学者には自分自身の内側に汚れがあり、自分自身の中で汚れが常に新たに生み出されているということは考えになかったのです。汚れ、罪は外から来る汚れので、それを防ぐために、例えば食事の前に一生懸命手を洗っているのです。私たちはそのようなファリサイ派、律法学者の姿を見ると、おかしいと思います。しかしそれがまさに私たちの姿なのです。自分自身の内側に罪という汚れがあり、自分自身の中で汚れが常に新たに生み出されているということは私たちにもないのではないでしょうか。

罪の現われ
 主イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と群衆に語られました。その後12節で、弟子たちが主イエスのところに近寄って来ます。そして15節でペトロが「そのたとえを説明してください」と言うのです。「そのたとえ」というのは、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」というお言葉のことです。その説明を、弟子たちを代表してペトロが求めたのです。17節以下に語られていきます。弟子たちに語られたこの説明によって、私たちは主イエスの御言葉の意味を知らされていくのです17節には「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される」とあります。食物のことを言っていますが、食物は消化がなされ、栄養分が体に吸収されます。食物、つまり外から入ってくるものは、体を通ってまた外に出ていく、ということは、それは私たちの中を通過していくだけで、私たちの人間としての本質がそれによってどうこうするものではない、ということです。食物は生命を存続させるために欠かすことのできないものです。しかし、食物とは人間の本質、言い換えれば、神様が人間を何のためにお造りになったか、ということにおいては、二次的なものなのです。それでは、人間の本質、神様がこのためにこそ人間をお造りになったというものは何でしょうか。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」という言葉にそのことが示されています。つまりそれは人間の「心」です。「心」こそ人間の本質であり、神様が人間をお造りになったのは、この「心」を持ったものをお造りになるためだったのです。このことは人間の心が肝心であって体はどうでもよい、ということではありません。心だけで体のない人間はいません。心と体が結び合って一人の人間なのです。しかしここで言われていることは、人間の汚れ、罪、それは体ではなくて心に宿るということです。そういう意味で心が人間の本質なのです。汚れや罪が心に宿るということは、私たちの外側の問題ではなく、私たちの内側の問題であります。汚れや罪は外側から来るのではありません。私たちの内側に、心の中に罪が生れ、それが外側に形となって現れてくるのです。

様々な罪
 心の中の汚れ、罪がどのように外に現れ出てくるか。それを主イエスは19節で順を追って語っておられます。まず、「悪意、殺意」という「思い」の段階です。私たちは人を憎む思い、妬む思い、逆に軽蔑する思い、そういう思いによって人を裁き、批判し、そこに喜びを見出していく、それは人を殺してしまいたいという殺意につながっていくことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。心の中の罪はそのようにまず私たちの思いに現れてきます。次に、「姦淫、みだらな行い、盗み」とあります。これはその思いが、具体的な行為としての罪を生むということです。思いは思いだけで終わらず、具体的な行為につながっていくのです。そしてさらに、「偽証、悪口」とあります。これらも罪の行為の一種です。しかしこの二つにおいては、「言葉」が問題となっています。偽証とは嘘をつくこと、言葉において偽りを語り、それによって人を陥れ、あるいは自分が益を得ようとすることです。悪口は文字通り悪口(わるくち)です。それは本人のいないところでその人の悪いうわさを語るということであり、更に人の心を傷つけ踏みにじるような言葉を語ることの全てを指しています。主イエスは私たちのそういう言葉における汚れ、罪をも深く見つめておられるのです。いやむしろ、「口から出て来るもの」ということで主に見つめられているのはこの言葉の問題だと言うことができるでしょう。心の中に湧き上がる汚れ、罪は、口から、言葉となってほとばしり出るのです。私たちは言葉でこそ、罪を犯し、汚れた者となるのです。口に入るものと口から出て来るものは食物と言葉です。私たちを本当に汚すものは口に入る食物ではなく、心で生れ、口から出て来る言葉なのです。私たちは自分を清くしよう、正しい者であろうとしてはいないでしょうか。

主イエスに赦されて
 私たちの心の中にある、汚れ、罪が日々私たちが語っている言葉に現れています。私たちは自分が何を語っているかをふりかえることによって、自分の心の中に何があるかが分かるのです。逆に、自分が何を語っていないかをふりかえることによって、自分の心の中に何がないかが分かるのです。清く正しく生きているつもりである自分が、いかに罪に汚れた醜悪な存在であるかに気づかされるのです。そしてその汚れが自分の心から生れて来ているのに、その原因が全て自分の外側の何かにあるように思い、自分の外側のことあるいは人のせいにしてしまっているということに気づかされるのです。  主イエスが弟子たちに親しく語りかけて下さいました。そして、主イエスは私たちにも今語りかけて下さるのです。私たちは心の中にある、そしてそれが現れている罪人です。主イエスはその罪と汚れの全てをご自分の身に引き受け、背負って、十字架の死への道を歩んで下さいました。主イエスの十字架によって私たちが罪を赦され、神様の子とされて、神様と共に新しく生きる者となる、その私たちの救いのために、主イエスは十字架にかかって死んで下さいました。主イエスは今私たちに語りかけておられます。私たちの心の中に、私たちの罪や汚れがあります。その心が主イエスの恵みへの感謝と喜びが満たされるためです。私たちは主イエスから常に語りかけられております。礼拝は神様の御言葉を聞く、クライマックスのときであります。私たちは色々な形で神の御言葉を聞きます。一人で聖書を読んで、また人との交わりを通して聞きます。私たちはここより、それぞれの場へと遣わされ日々の歩みを始めます。新しい思いを与えられても、私たちの心すぐには常に罪の思いに支配されてしまいます。憎しみや敵意が、心には湧きあがる者です。主イエスは十字架において私たちに罪の赦しを与えてくださいました。その主イエスがその救いのみ言葉を私たちに語りかけて下さるのです。

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