夕礼拝

福音の初め

「福音の初め」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-11節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章1-8
・ 讃美歌:18、451

<マルコ>  
 本日から、夕礼拝においてマルコによる福音書の御言葉を、皆さんと共に聞いていきたいと思います。  
 皆さんは、この福音書の著者であるマルコのことを、どのくらいご存知でしょうか。教会の青年にマルコについて尋ねてみると、イエスさまの十二弟子の一人だと思っていた人もいたのですが、マルコはイエスさまの十二弟子の一人ではありません。  
 でもマルコは、その十二弟子の一人であったペトロの伝道の旅に同行をして、通訳をしていた人物だ、と言われています。  
 新約聖書の中にある、『ペトロの手紙一』の結びの言葉には、「わたしの子マルコが、よろしくと言っています」とマルコの名前が出てきますし(ペトロの手紙一5:13)、またイエスさまの復活・昇天の後の、聖霊による教会の誕生と伝道の業について語られている『使徒言行録』という書物の中にも、「マルコと呼ばれるヨハネ」というように、その名前が何度か出てきます。  

 マルコはペトロの旅に同行しながら、ペトロが人々に語るイエスさまの教えや出来事を、何度も何度も側で聞いていたのでしょう。また、初代教会の他の人々の証言や、語り伝えられていることも、色々と聞いていたはずです。 そしてマルコは、ペトロの死後、ローマでそれらを文章にして、編集してまとめたのだと伝えられています。それは、イエスさまの十字架と復活の出来事から約30年後の、紀元60年代から70年のエルサレム陥落の頃だったと推測されています。

<福音の初め>  
 さて、マルコはこの書物の書き始めを、このようにしました。 1:1「神の子イエス・キリストの福音の初め。」  

 ギリシャ語の原文の通りに単語を並べると、日本語とまったく逆の並びで、「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となっています。マルコが強調することは、これから語られていくことが、「初め」、beggingである、と言うことです。何の初めか。それは「福音の初め」です。福音とは何か。それは「イエス・キリスト」です。そして、このイエス・キリストは「神の子」である、と言っています。この一行に、教会の人々が信じていることが、すべて凝縮されていると言っても良いくらいです。  
 ここに、「神の子イエス・キリストの福音が始まる」。そう言ってマルコは書き始めます。  

 しかし、そもそも「福音」とはどういう意味なのでしょうか。
 もとのギリシア語は、「良い」という意味の「エウ」と、「知らせ」という意味の「アンゲリオン」という言葉が組み合わさって出来た、「エウアンゲリオン」という言葉で、「良い知らせ」という意味です。英語で言えば、good newsです。
 今私たちが「福音」と聞いたら、キリスト教の教会で使われる言葉だな、と思いますし、辞書でも「キリストによる人間の救いの道またはキリストの教え」と出てきます。しかし、このマルコが書物をまとめた時代には、「エウアンゲリオン」「福音」という言葉は、世間一般で使われている言葉でした。  

 例えば、「福音」はローマ帝国の皇帝に跡継ぎが誕生したとか、皇帝が即位したという時に布告される知らせを意味しました。これはローマ帝国の平和と安泰を意味することとして、帝国内に身を置くすべての者が、喜び祝うべき知らせである、ということでしょう。  
 また、戦いに勝った、という戦勝報告のことも「福音」と言われていました。祖国を離れて戦いに出ている軍隊が、敵国に勝ったか負けたか、ということは、自分たちの今後に関わる、命を左右する、重大な知らせでした。戦争に負ければ、略奪されたり、奴隷にされたり、殺されたりするかも知れません。人々はその「福音」「戦勝報告」を、自分の命や今後の生活に関わることとして、不安と恐れの中で、今か今かと待っていたのでしょう。そのようなところにもたらされる「勝利の知らせ」、それが「良い知らせ」であり、「福音」なのです。  

 ですから、この「福音」というのは、単なる「情報」を指すのではありません。
 例えば、先月オリンピックで日本人が金メダルをたくさん獲った、という知らせは、嬉しいニュースであり、元気をもらえるかも知れませんが、私自身の生活や命に、直接影響を与えることはないでしょう。
 でも「福音」と言われる「良い知らせ」は、その知らせを聞いた者の人生に関わるものなのです。その人の人生に関わる戦争の終わり、命の救い、平和の宣言なのです。この「良い知らせ」を受けた者は、生きるか死ぬか分からなかったところから、自分は生きることが出来るのだ、ということを知るのであり、心からの喜びをもって、平安の内に、新しい日を歩み出すことが出来るのです。

 ローマ帝国が支配する時代に生きているマルコは、この、「福音」という言葉を使って、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出したのです。
 それは、ローマ皇帝の即位や王子の誕生などではなく、このイエス・キリストという方が現れたことこそが、まことの平和を実現する王が来られた「良い知らせ」なのであり、またイエス・キリストこそが、自分の命の救いに関わる「勝利の知らせ」なのだ、ということです。  

 それは、これからこの福音に耳を傾けようとする私たちにとっても、同じことです。これは2000年前に起きた「イエス・キリスト」という人の伝記や、単なる情報ではありません。この「神の子イエス・キリスト」という方のこと、またこの方の生涯、出来事を「福音」として聞き、受け取ることは、今を生きる私たちにとっても、人生に、命に関わってくることなのです。

<預言の成就>  
 さて、この「福音」という言葉について、もう一つ、マルコが意識していると考えられることがあります。それは、イエスさまが来られる前に書かれた、旧約聖書の預言です。
 本日お読みした旧約聖書のイザヤ書40章以降は、神に選ばれたイスラエルの民が、バビロニア帝国に戦争で敗れて南王国を失い、バビロンという場所に捕え移されていた時代に書かれたものです。「バビロン捕囚」と言われる出来事です。

 このイザヤ書40章の部分を語った預言者は、そのバビロン捕囚の末期に活動を始めました。そして国を失ったイスラエルの民に向かって、近い日に、主なる神がやって来られて、民を解放して下さり、イスラエルを回復して下さる日が来る、という、救いの預言をしたのでした。

 イザヤ書40:9には、「高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。/力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。」とあります。この「良い知らせ」というのが、ギリシャ語ではマルコの「福音」と同じ、「エウアンゲリオン」という単語が使われているのです。
 そして40:10には「見よ、主なる神。/彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。」と書かれています。このように「主なる神が力を帯びて来られ、ご自身の御腕で民を統治して下さる」ということこそ、神が王となって支配して下さり、イスラエルの民に平和を告げ、勝利をもたらす、「良い知らせ」であり「福音」なのです。

 この「良い知らせ」「福音」が訪れる日を、イスラエルの民は心から待ち望んでいました。祖国を離れた捕囚の地で、今日か、明日かと、苦しみの中で、嘆きの中で、惨めさの中で、何年も、何十年も待ち続けていたのです。

 そして、イスラエルの民が待ち続けたその「良い知らせ」、「福音」が、今ここに語られる、とマルコは言うのです。人々が待ち望んだ主なる神の到来、そして、そのことによる平和と勝利、それが、「神の子イエス・キリスト」によって実現した、ということです。だからこの方こそが、「福音の初め」なのです。

 マルコ福音書の1:2~3には、このイザヤ書40章の3節の部分が、他の旧約聖書の預言と合わせて引用されています。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」という所です。
 ここで引用されている預言は、主ご自身が来られる前に、その道備えをする者が遣わされる、ということを預言するものでした。
 その道備えのために遣わされた者として、イエス・キリストが来られる前に、洗礼者ヨハネという人物が荒れ野に現れた、ということを1:4でマルコは語ります。そして、洗礼者ヨハネは確かに、自分の後に来る方こそ「救い主」であると指し示したのです。

 これはつまり、旧約聖書で預言されていたこと、神が人々を救うために計画し、イスラエルの民に約束しておられたことが、確かに一つ一つ実現しているということです。そして、それらすべてが指し示している方こそ、「イエス・キリスト」なのです。
 神の約束を成し遂げ、救いを完成させて下さるのが、道備えをした洗礼者ヨハネの後に来る方、「イエス・キリスト」なのです。
 これからマルコが語ろうとしていることは、そのように神のご計画が実現し、確かに神が遣わされた「救い主」として、イエス・キリストが来られた、ということなのです。

<イエス・キリスト>  
 しかし、この知らせを待っていた当のイスラエルの民、つまりユダヤ人は、この「イエス」が「救い主」である、ということを中々受け入れられませんでした。

 ところで、「イエス・キリスト」と言うのは、名前と苗字なのではありません。「キリスト」というのは、称号であり、「救い主」という意味です。ヘブライ語では「メシア」と言います。もともと「キリスト」という言葉は「油注がれた者」という意味です。ユダヤ人は、王さまや、祭司や、預言者を任命する時に、選ばれた人に油を注ぐ儀式をしました。そうして、神に仕える特別な務めに就いたのです。
 ですからユダヤ人は、イスラエルの民を救うために、神の特別な任務を担う「油注がれた者」が現れることを期待し、そのいつか来る方を「メシア」「救い主」と呼んで待っていたのです。
 ですから、「イエス・キリスト」というのは、「イエスは救い主である」という意味です。  

 イエスという方は、確かにこの地上に人となって生まれ、この私たちの世界に、人間の歴史の只中にやってこられました。しかしそれは、ユダヤ人が思い描いていた「救い主」の姿とは、全く違っていたのです。
 ユダヤ人は、自分たちの国イスラエルの王となるために、力強い栄光ある救い主が来て、自分たちの滅びた国をこの地上に再び建国してくれる、ということを期待していました。  

 ところが、実際にこのイエスという方の生涯はどうだったでしょうか。
 マルコによる福音書には、生まれた時のことは記されていませんが、ルカによる福音書では、聖霊によって身重となった母マリアはベツレヘムで泊まる宿さえなく、馬小屋で出産し、イエスを飼い葉桶の中に寝かせた、とあります。決して王さまらしく地位や身分が高いところに生まれたのではなく、最も貧しく、最も弱い姿で、お生まれになったのです。また、父となったヨセフは、ダビデの家系でありながらも貧しい大工でした。
 そして、イエスという方は、地上の王国を建国するどころか、最後には、弟子たちにまで裏切られ、見捨てられて、たったお一人で、最も惨めで、苦しみ痛みの多い、十字架刑によって、死なれたのでした。  

 このような人物が、イスラエルの民が長い長い苦しみの中で待ち望み続けた「救い主」であるとは、ユダヤ人にはとても考えられなかったのです。

<神の子>  
 しかし、この方はまことに「神の子」でした。1:1にはっきりと「神の子イエス・キリスト」と書かれているのはそのためです。神は、ご自分の独り子を、救い主として世に遣わされたのです。  

 それは、先ほど述べたように、イエス・キリストによって旧約聖書の預言が成就している、ということからも示されます。神ご自身がご計画し、民に示し、実行なさったことなのです。また、マルコによる福音書の1:9~11のところで、主イエスが洗礼を受けるという場面があります。ここには、天が裂けて「霊」が鳩のように降ったのが見えたこと、神の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた、ということが書かれています。  
 この出来事が、イエスさまが神の霊をお受けになって救い主の務めを行なう方であること、また神の愛する独り子であることを示しています。  

 そして、イエス・キリストは、1:15で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げ知らせました。神の国、というのは、神が王として支配なさる国、つまり「神のご支配」という意味です。  
 世界のすべてを支配される神のご支配が、ご自分が来られたことによって近付いているから、神に立ち帰り、福音を信じなさい、とお語りになったのです。  
 そして、その神のご支配を、主イエスは、ご自分の十字架の死と、そして三日後の復活の出来事によって明らかにし、実現されました。この方は、確かに「神の子イエス・キリスト」なのです。

<罪と死の支配から、神の支配へ>
 それでは、神のご支配が始まるまで、人は一体何に支配されていたのでしょうか。イスラエルの国を滅ぼしたバビロニア帝国でしょうか。マルコの時代のローマ帝国でしょうか。私たちなら、国や政府などでしょうか。
 そのような地上のことではありません。人がずっと支配されてきたのは、罪と死です。

 主イエスの十字架によって示されているのは、私たちの罪の赦しです。
 救い主である主イエスは、すべての人の罪を負って、代わりに十字架で死に、私たちを罪から解放して下さいました。イエス・キリストの十字架の死は、私の罪のために死なれたのだということなのです。

 それ以前に私たちは、自分が罪人である、ということにさえも気が付きません。罪というのは、誰かに何か悪いことをしたとか、規則を破ったとか、それも罪の表れではありますが、聖書において「罪」とは、造り主である神に逆らうこと、神の方を見ないで、自分を神のようにして生きることです。人は根本的に、そのように神に逆らう罪に陥っているのです。

 人は、この世界をお造りになり、また私たちに命を与えて下さる神がおられる、ということを知ろうとしません。また知っても忘れてしまったり、神に頼ることをしないのです。まるで自分の力で生きているように思い、神ではない虚しいものに頼り、自分の願いを叶えようと必死になります。神の思いに逆らい、自分の思いを中心にして生きています。それは、私の命の造り主である、命の源である神から離れて生きることですから、それらの「罪」の行きつく先は滅びです。
 神は、人を神との関係に生きる者、神の呼びかけに応答する者としてお造りになりました。しかし、私たちは呼びかけに応えず、神から離れ、神と共に生きる良い関係を壊してしまったのです。

 しかし、主イエス・キリストは、ご自分の十字架によって、私たちの罪を担い、その滅びに至る罪を赦して下さることで、私たちが、また神のもとに立ち帰って、神との関係を回復することが出来るように、神と共に生きることが出来るように、救いの道を拓いて下さったのです。

 また、主イエスの復活の出来事は、死への勝利を告げています。神との関係を回復された私たちの人生は、この世で死んで、終わってしまうのではありません。主イエス・キリストを信じる者は、主イエスの復活の命に結ばれるのであり、この地上の歩みを終えても、終わりの日に、永遠の命と、復活の体が与えられる、ということを約束され、そのことを信じているのです。

 イエス・キリストが、ご自分の十字架の死と復活によって、罪と死を打ち破り、この命の支配、神の恵みの支配を打ち立てて下さいました。
 この「良い知らせ」「福音」が、確かに「神の子イエス・キリスト」によって「始まった」とマルコは告げるのです。その「福音」は、2000年経った今も、聖書を通して、教会によって、人々に救いを知らせ、勝利を知らせ続けています。イエス・キリストの勝利はあなたのための勝利だと。あなたの命を救うために、あなたの平和のために勝ち取られた、戦勝報告なのだと語るのです。
 私たちが、この「福音」を聞いたからには、その知らせを信じるか、信じないか。受け入れるか、受け入れないか。ただそのことが問われます。

<良い知らせ>  
 これらのことは、少し現実離れしたことのように聞こえるでしょうか。2000年前のイエス・キリストの出来事が、今の私たちにとって、命の救いを知らせる「福音」であること。罪の赦しを与え、永遠の命を与え、死んでもなお、復活が約束されている。私たちの救いの知らせであるということ。それは絵空事のように、虚しく聞こえるでしょうか。  

 しかし、この私たちが歩んでいる現実の世界を、キリストが支配しておられないのだとしたら、私たちの人生は拠り所がなく、どれだけ努力をしても、成功をしても、ただひたすら死に向かって行く、虚しいものになってしまいます。自分の力や、また世において頼ろうとするものは、いつかは無くなり消えていく、脆いものばかりです。
 また、苦しみや悲しみに直面した時、すべてに絶望しそうになった時、死を目前にした時、ご自分の御子を十字架につけるほどに私を愛し、滅びから救い出して下さった神がおられることを知らなければ、どうやって希望を見出し、立ち上がることが出来るのでしょうか。
 本日のイザヤ書40:8にあったように、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」のです。まことに頼ることが出来るのは、神のみです。  

 天地をお造りになった神は生きておられます。空しい偶像や、人間が造り出した神ではありません。語りかけ、働きかけ、関係を築いて下さる神です。この世の目に見える現実よりも確かに、この世をお造りになった神の存在があり、神の恵みの現実があります。  
 それは「神の子イエス・キリストの福音」によって知らされます。

 私たちが「福音」を受け入れ、信仰の目が開かれる時、私たちは、神の大きな救いのご計画の中、恵みの中を歩んでいることを知ります。それは、小さな私たちの人生を覆いつくす、神の御腕に包まれた歩みです。
 この恵みへと、すべての者が招かれています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」を聞くことは、単に大昔にそういうことがあった、ということではなくて、復活して、今も生きておられる、イエス・キリストと、今日もここで出会う、ということなのです。
 私たちはこの「福音」によって、神の恵みを知り、神を礼拝する者となり、生きておられる神との活き活きとした交わりの中、この世の現実にあって、本当の平和と喜びの内に生きていくことが出来るのです。  
 本日、この後あずかる聖餐は、キリストの救いを信じた者が、キリストの体のしるしであるパンと、血のしるしである杯を受けて、キリストに生かされ、キリストと共にあることを確かにされる時です。多くの方が、この主の食卓の恵みに共にあずかることが出来ますように。

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