夕礼拝

敵を愛しなさい

「敵を愛しなさい」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 出エジプト記、第23章 4節-5節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第6章 27節-38節
・ 讃美歌 ; 127、342

 
1 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)。指路教会では、だいたい一月前に、次の月の聖書箇所や説教題を決めることになっています。一ヶ月前、今日の聖書箇所が定まり、説教題を決めた時から、この御言葉はいつも私の心の中にひっかかり続けてきました。私たちは今の時代に、この御言葉を前にして何を思うでしょうか。21世紀はテロリズムの暴力と、それに対抗する戦いの中で幕を開けたような感があります。私たちの住む社会の中にも、たくさんの暴力や理不尽な扱いによって苦しんでいる人たちがいます。そして私たち自身もその暴力と結びついた憎しみ合いの渦の中に巻き込まれているのを知っています。いかにして敵から身を守るのか、いかにして敵を痛めつけ、その力を奪い取るかが大きな関心になっている時代なのです。
 そのただ中で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と、主はおっしゃっているのです。この言葉は、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」という主イエスの前置きをもって始まっています。語りかけているのは「あなたがた」、つまり弟子たちです。主イエスの弟子として歩む者はこのような歩み方を刻んでいくことになるのだ、と語りかけておられるのです。その内容はどんなものでしょうか。28節以下に次のようにあります。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」(28-30節)。
 私はこの箇所を読むたびに思い出します。中学生の頃、いじめられていた私は、右の頬を打たれた時、この聖書の箇所を思い出して左の頬をも向けてみたのです。そうしたら左の頬もたたかれました。ひりひりする頬をかかえながら、私は考えました。これで何か変わるのだろうか、これでは人にいいようにされるだけではないか、世の中が無法地帯になってしまうのではないか、そう思いました。頬を打つ者にもう一方の頬を向ければ、相手はますます調子に乗って、そちらの頬もたたくだけではないか、そう思いました。それ以来私はいつもこの御言葉を前にする時、主イエスは何をおっしゃろうとしているのかといぶかり、首をかしげてきたのです。
 主イエスは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)とおっしゃいます。これは黄金律と呼ばれるようになった戒めです。しかも積極的な愛の行いへの招きです。それまでは消極的な戒めの方がよく知られていたようです。つまり「相手が仕返しをしてきたりしない限り、その人を傷つけることはするな」という戒めです。相手が危害を加えてこなければ、こちらも相手を傷つけることはない、というものです。これならよく分かります。けれどもこの消極的な教えはまた、裏を返してみるなら、相手が何か危害を加えるようなことがあればいつでもやり返すぞ、ということも言っているわけです。黙っているのは、そちらが何もしない限りでのことだ、と言っているわけです。そこでお互いに何もしないままであれば、新たな関係が両方の間に生まれるということはありません。「自分を愛してくれる人を愛する」、「自分によくしてくれる人に善いことをする」、「返してもらうことを当てにして貸す」、この姿勢は、相手がどういう者であるかに応じて自分の接し方を決める生き方です。まず相手がどういう人間であるかをはっきりさせた後で、自分の態度を決めているのです。
主イエスはそういう消極的な姿勢を超えることを求められました。「人にしてもらいたくないことをしない」のではなくて、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」のです。その時、相手がどういう者であるのかは問題にされていません。たとえ相手が日頃から自分の悪口を言い、自分を侮辱する者であっても、自分を憎む者であっても、その人によいことをするのです。既に出エジプト記において、主なる神はイスラエルの民に語りかけ、敵対する者との関わり方について戒めを授けられました、「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」(出エジプト23:4-5)。敵の所有している家畜を、その人の家まで送り届けるのです。入り口で声をかけ、挨拶をし、ここに牛あるいはろばを連れてきたいきさつをお話して誠意を尽くすのです。荷物の下で苦しむろばを一人では助け起こすことができず困っている敵のために力をかすのです。そこで肩と肩が触れ合い、掛け声を共にして助け起こすのです。主イエスも、ここで主なる神がイスラエルの民に求めているのと同じことを求めておられるのではないでしょうか。

2 この主イエスの御言葉の前に立たされる時、私たちの誰が顔を上げていることができるでしょうか。誰が自分は主イエスの求めておられる通りに生きていると、胸を張って言うことができるでしょうか。先日私は友人の結婚式に出席しましたが、説教の中で大変印象に残る言葉を聞きました。「私たちは愛することにおいて敗北する者です。愛の敗北者です」。「愛の敗北者」、まさにそうではないでしょうか。愛においてまことに破れ多く、欠けに満ちており、主イエスの語りかけの前に口をつぐんで、恥ずかしさと辛さでうつむいてしまうしかない、それが私たちの姿ではないでしょうか。人の心ない言葉には実に敏感に反応して傷つくもろさを持っていながら、他人の弱さが暴かれると、ここぞとばかりに非難・攻撃を始める権利が自分にあるのだと錯覚してしまう、それが私たちの姿なのです。最も親密な家庭にも、いや、そこにおいてこそ、というべきでしょうか、憎しみや怒りが現れ出るのです。わずか60名程度の神学校の学生寮でも、わずか十数名がアルバイトで働くレストランの厨房の中でも、人は憐れみ深く生きていくことが困難なのです。イラクの恐怖政治から人々を解放するつもりで来たのに、捕虜収容所の中で、気づかないうちに同じような虐待をしてしまっている、それが人間の姿なのです。私たちは神の眼差しの下に置かれたなら、誰も彼も五十歩百歩の存在です。ある人は比較的寛大で憐れみ深いが、別の人は怒りっぽくて、すぐに憎しみや呪いの言葉を口にする、ということがあるでしょう。けれども、神様の全き愛の前に立たされた時、誰が安んじた心で御前に立っていることができるでしょうか。
 この世の中には財産を守り、人権を守る法律があります。取り引きや駆け引きを伴った国際政治の舞台があります。そうした事柄を、この主イエスの教えが否定しているとは思えません。主イエスの御言葉は、まず私たち一人一人の隣人との関係について語りかけられています。けれども、もしこの主の御言葉が私たちの心の中に根を降ろしているなら、法律の用い方や国際政治における為政者の発言もまた、やはり変わってくるのではないでしょうか。自らの社会が、国が、行っていることが、すべて神の眼差しの下にあることを覚えているなら、同じ事柄でも、ものの言い方が違ってくるのではないでしょうか。自分の社会や国が最善だと思ってなしていることも、神の裁きの下にあることをわきまえているならば、自分を正当化したり、絶対化したりすることはないはずです。むしろ私たちがやることなすことすべてに常に伴っている罪の有り様を悲しむ涙が、発言者の心のどこかで流されているはずなのです。それでも世界が前に進むために、決して罪から自由ではない道のりを、少しでも御心にかなう道を尋ね求めつつ歩んでいくのです、そういう歩みの刻み方が生まれてくるのです。

3 主は弟子たちに語りかけられました。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」(37-38節)。私たちは人を裁く者です。そうするようにしみついた習性のようなものを持っています。人を罪に定めることに早い者です。人を赦すことのできない存在です。怒りと憎しみに打ち震える存在です。生まれながらの「怒りの子」なのです。主イエスはそのことを百も承知の上で、今こうして私たちに語りかけてくださっています。なぜそうされるのでしょうか。思えばここに主イエスがお語りになっておられることは、皆、主イエスご自身がなし遂げてくださったことばかりです。敵を愛し、憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために執り成しの祈りを捧げられたのは主イエスです。頬を打たれ、唾をかけられ、着ている服をローマ兵のくじ引きに任されたのは主イエスです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」と父なる神に祈られたのは主イエスです。私たちが主なる神に裁かれることがないように、父なる神によって罪人として定められることがないように、神の前に赦されて生きることができるように、奪うよりは与える方が幸いである人生へと招き入れるために、イエス・キリストは十字架におかかりになったのです。この主イエスのお言葉は、まず何よりも、主ご自身が歩まれた生涯を現しているのではないでしょうか。主イエスは父なる神を「いと高き方」と呼んでおられます。この「いと高きお方」は恩を知らない者にも悪人にも情け深いお方であり、憐れみ深いお方だと、主はおっしゃいました。そのお方の憐れみの中に私たちを取り戻すために、主は十字架にかかられ、死の中から甦られ、天にのぼり、いと高き方の右に座して、私たちのために執り成してくださっているのです。私たちの隣人、それがたとえ私たちの目から見た時、敵であり、憎らしい者であっても、主はその方のためにも十字架にかかられたことを思うべきなのです。主イエスにあって「いと高き方」を見上げ、このお方を通して敵を見つめ直す時、それまでの敵が違って見えてくるはずなのです。

4 第二次世界大戦中に、日本軍がタイとビルマ(今のミャンマー)の間に建設した泰緬鉄道という線路があります。この線路は当初より大幅に計画を早め、一年余りの短い期間に完成させることを目指したもので、そこに動員されたのが、戦争中に日本軍の捕虜となったイギリスをはじめとする連合軍の捕虜たちだったのです。枕木一本につき一人が死んだと言われるほどの過酷な労働環境の中に置かれた中の一人がアーネスト・ゴードンという兵士でした。この人は戦後この戦争捕虜たちがいた収容所で起こった真実を『クワイ河の谷を過ぎて』という本に書き記しました。その中で、主の祈りを祈る時、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」というところにさしかかると、いつも、ひっかかり、口篭もってしまう体験をしたことが綴られています。日本軍の兵士を赦すことになるこの祈りの言葉を口にすることに、大変な抵抗を覚えたというのです。
 激しい飢えとマラリヤをはじめとする熱帯性の病気の中で、人間性を失い、生きる望みを失い、絶望しかかった捕虜たちを生き返らせたのは、ジャングルの中で始められた礼拝だったのでした。そこで聖書が読まれ、讃美歌が歌われ、パンの形に焼いたライス、発酵させたライス・ウォーターで聖餐式が守られたのです。捕虜たちの目に命の輝きが生まれ、互いに助け合い、労わり合う交わりが生まれていきました。そしてついに戦争が終わり、捕虜たちが解放され、引き揚げていくことになったのです。その最中、捕虜たちは負傷した日本兵を運ぶ列車が目の前に一時停車する場面に出くわします。泥や血にまみれ、傷口が化膿し、膿で覆われた状態で横たわっている日本兵たちを見た時、礼拝の中で生き返る体験を与えられた捕虜たちは、自分たちの食糧、布切れ一、二枚、それに水筒を持って、苦しむ日本兵を助けに歩き出したのです。この時のことについて、ゴードンはこう書き残しています、「私たちは、神にとって安易な道がないように、私たち人間にもまた安易な道がないのだということを理解しだしていた。だが、私たちの道が実は困難な道であって当然なのだと知って、心は意外にさわやかになっていった。―(中略)―神が私たちに対して神の労苦の一端を担うことを許しているのを。神がそれを私たちに許すことで、私たちに名誉を与えておられるのを見た。
神が私たちの存在を見つけてくださったのだ。見つけて、私たちに、自分の兄弟を見出すことができるようにさせてくださったのだ、と私は思った」(斎藤和明訳『クワイ河収容所』、ちくま学芸文庫、1995年、388頁)。後にゴードンはアメリカに渡り、大学教会の牧師として奉仕するようになります。彼は言います、「ここで私が発見したことは、収容所(キャンプ)と大学(キャンパス)とは、北極南極ほどにかけ離れているが、学生の私に投げかける質問の多くが、あの東南アジアで私が呼び出されて対決し答えなければならなかった課題と、まったく同一のものである、という一事である。私がジャングル内で体験した奇跡はキャンパス内で毎日くり返されている。-ここも同じく神の世界、ここにも神の恵みの奇跡が日々起こっている」(同447頁)。
 キャンパスだけではありません。キリストのものとされ、「いと高き方の子」とされる時、わたしたちの歩みの上にも同じ奇跡が起こるのです。たとえ「愛の敗北者」であっても、いや敗北者であるがゆえに、キリストの愛により頼み、聖霊によって愛に歩む者とされるのです。キリストの眼差しを通して隣人を見つめる心の目を開かせていただけるのです。

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