夕礼拝

神にはできる

説教題「神にはできる」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 エレミヤ書第32章17-19節
新 約 ルカによる福音書第18章18-30節

ある議員
 ルカによる福音書18章を読み進めています。本日の箇所の冒頭で、ある議員が、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、と主イエスに尋ねています。「議員」と訳されている言葉は、「指導的立場にある人」を意味する言葉で、必ずしも「議員」を意味するわけではありません。ルカ福音書でも「会堂長」(8章41節)や「役人」(12章58節)を意味することがあります。ですから本日の箇所でも、本当のところは彼が議員であったのかどうかは分からないのです。しかし議員であったとしたら、この人は、後に、主イエスが捕らえられて連れて行かれ、裁かれたあの最高法院の議員であった、ということであるでしょう。23章35節で、議員たちが十字架に架けられた主イエスを見て、あざ笑ってこのように言っています。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。本日の箇所に登場する議員も、そのようにあざ笑った人たちの一人であったのかもしれません。

誠実な質問に誠実に答える
 しかしそのように想像を膨らませたとしても、本日の箇所でこの議員がいい加減な気持ちで主イエスに尋ねた、ということではありません。実は主イエスにこの問いを尋ねたのは、この議員が初めてではありません。10章25節で律法の専門家が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、同じ質問をしているのです。ただこのとき律法の専門家は「イエスを試そうとして言った」と語られています。その質問に対して主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問で返されました。しかし本日の箇所では、主イエスはこの議員の質問に対して質問で返すことなくお答えになっています。この議員が真剣に、誠実に主イエスに尋ねたからこそ、主イエスも彼の問いに誠実に答えられたのではないでしょうか。

何をすれば永遠の命を受け継げるのか
 さて、この議員が真剣に問うたのは、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」ということでした。23節に「大変な金持ちだった」とあるように、彼は金持ちの議員であり、社会的な地位も財産も持っていたのです。それにもかかわらず彼は、自分が死を超えて生きる永遠の命を受け継ぐことができる、という確信だけは持てず、死に対する恐れを抱いていたのです。それだけに彼の質問は真剣なものであったに違いありません。地位も財産も持っている金持ちの議員が、永遠の命を受け継ぐことへの確信を持てなかったのは、永遠の命は、地位や財産とは違って自分の力では獲得することができないからです。彼はそのことをよく分かっていたからこそ、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と、「受け継ぐ」という言葉を用いて尋ねたのです。この「受け継ぐ」という言葉は、「相続する」という意味の言葉です。相続は自分の力で出来るものではありません。親の遺産を相続するのであれば、親によって決められた人だけが、その遺産を相続することができます。だから彼は、人々の間で評判になっていた主イエスに「善い先生」と呼びかけ、永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いか、と尋ねたのです。

神おひとりが永遠の命を与える
 それに対して主イエスは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とお答えになりました。この「善い」を、倫理的、道徳的な意味での「善い」と捉えて、主イエスがご自分より神様のほうが倫理的、道徳的に善いお方である、と言っていると受けとめるのは間違っています。この「善い」という言葉は、ギリシャ語の旧約聖書で、「恵み深い」と訳される言葉です。(詩編118編1節など)。ですからここで主イエスは、神様が「恵み深く、永遠の命を与えてくださる方」である、と言われているのです。神様ただお一人が永遠の命を持っておられ、その永遠の命を私たちに授けることができます。神様が私たちに永遠の命を授けてくださるとき、私たちはそれを受け継ぐことができるのです。主イエスはまず、このことを議員に教えられたのです。
子どものときから神の掟を守ってきた
 続けて主イエスは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。知っているはずだから、それらの掟を守りなさい、と言われたのです。この「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」は、順序は入れ替わっていますが、十戒の第五戒から第九戒に当たります。主イエスが十戒のすべてではなく、この五つの戒めだけを取り上げられたのは、これらの戒めは、自分が守っているかどうかすぐに分かるからだと思います。自分が姦淫していないかどうか、殺していないかどうか、そういうことはすぐ分かることです。実際、金持ちの議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」、と答えています。誇張して言っているのではありません。本当に子どもの時から守ってきたに違いないし、そのことを簡単に自己点検できたのです。おそらくこの議員は子どもの頃からこれらの掟を守るようしつけられてきたし、社会的地位のある者として神の掟を守り、しっかりした信仰生活を送ってもいたのです。この議員自身、その自覚があったことは、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という言葉に表れています。しかしそれでも彼は、死を超えた永遠の命を受け継いでいるという確信を持つことはできなかったし、死への恐れからも逃れることができなかったのです。ここに彼の深い苦しみがあったのです。

どこに自分の心があるのか
 主イエスは議員の答えを聞いて、このように言われました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。ここで主イエスは、永遠の命を受け継ぐためには神の掟をすべて守るだけでは足りない、さらにもう一つすべきことがある、と言われているのではありません。神の掟を守ることに加えて、自分の持っている物をすべて売り払い、貧しい人に施せば、永遠の命を受け継ぐことができる、と言われているのではないのです。「そうすれば、天に富を積むことになる」とも言われていますが、このことも自分の財産を処分して貧しい人に施すという善い行いによって、神様に認めてもらう、ということではりません。主イエスは、「天に富を積むこと」について、12章33、34節でこのように言われていました。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。ここでも主イエスは「自分の持ち物を売り払って施しなさい…富を天に積みなさい」と言われていますが、それに加えて「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言われています。つまり「富のあるところ」とは、自分の心のあるところ、自分の関心のあるところ、自分が本当に頼りとし、支えとしているものがあるところのことなのです。ですから「天に富を積む」とは、自分の心と関心を天に向けなさい、ということです。自分が本当に頼りとし、支えとしているものを天にあるようにさせなさい、ということなのです。
 このように自分の心を天に向けるよう言われるのは、主イエスがこの議員にただ財産を手放すことではなく、主イエスに従うことを求められているからです。この議員に欠けている一つのものとは、主イエスに従うことにほかなりません。金持ちの議員にとって、主イエスに従う妨げとなっていたのが自分の社会的な地位や財産でした。彼の心と関心は、あるいは彼が本当に頼りとし、支えとしていたものは、自分の持っている物、自分の社会的な地位や財産であったからです。だから主イエスは彼に、持っている物をすべて売り払い、貧しい人に施しなさい、と言われたのです。そうすれば彼の心と関心はもはや自分の持っている物に向きようがありません。それを頼りとして支えとして生きようとしても、もはや頼りにできる物、支えにできる物をなにも持っていないのです。そうなればこの議員の心は天にしか向かなくなる、神様にしか向かなくなります。主イエスは、持っている物をすべて手放し、神様だけに心を向けてから、「わたしに従いなさい」と、言われたのです。

非常に悲しんだ
 これを聞いた金持ちの議員は、「非常に悲しんだ」と語られています。「非常に悲しんだ」と言われると、この議員がとても悲しい気持ちになった、と言われているように思えます。しかし「非常に悲しんだ」と訳されている言葉は、単なる気持ちを言い表している言葉ではありません。マルコによる福音書のゲツセマネの祈りの場面で、主イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」、弟子たち(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)に「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われましたが、この「悲しい」が「非常に悲しんだ」と同じ言葉です。ゲツセマネで主イエスは単に悲しい気持ちになったのではなく、悶えるほど苦しまれました。ですから金持ちの議員も、持っている物をすべて売り払いなさい、自分の心を神様に向け、主イエスに従いなさいと言われて、悶えるほど苦しみ悩んだのです。聖書協会共同訳では、「その人はこれを聞いて非常に悩んだ」と訳されています。自分の持っている物、自分の地位や財産を守るのか、それともそれらをすべて手放して、自分の心を神様だけに向け、神様だけを頼りとして主イエスに従うのか、そのどちらを選ぶべきかで、この人は悩んだのです。本日の箇所の出来事は、マタイによる福音書19章16節以下でも語られています。そこでは議員ではなく青年が登場しますが、その青年は主イエスの言葉を聞いて、「悲しみながら立ち去った」と語られています。しかしルカ福音書では、金持ちの議員が立ち去った、とは語られていません。この議員は悶え苦しみ悩みながらも、主イエスのもとから立ち去るのではなく、なお主イエスのもとに留まったのです。

自分の持っている物を握りしめて生きている
 主イエスのもとに留まり悶え苦しみ悩んでいる議員を見て、主イエスは言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。この議員は「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と尋ねましたが、ここで主イエスは「永遠の命を受け継ぐ」を「神の国に入る」と言い換えておられます。らくだが針の穴を通るよりも、財産のある者が、金持ちが神の国に入るほうが難しい、永遠の命を受け継ぐほうが難しい、いや、不可能であると言われているのです。しかしそれは先ほども申したように、金持ちは神の国に入れないが、貧しい者は入れるということではありません。自分はそれほど財産があるわけではないし、金持ちでもないから心配しなくて良いということでもありません。そもそもどれぐらい財産を持っていたらとか、どれぐらいの金持ちなら、主イエスの言う「財産のある者」、「金持ち」に当てはまるのだろうかと考えているとしたら、それがすでに見当違いなのです。主イエスのお言葉を聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っています。「永遠の命を受け継ぐ」が「神の国に入る」と言い換えられていましたが、ここではさらに「救われる」と言い換えられています。そして人々は、「だれが救われるのだろうか」と言っているのであって、自分は金持ちではないから救われるだろう、と言っているわけではありません。主イエスのお言葉は自分にも関係があり、自分も救われないのではないか、と思っているのです。つまりここで見つめられているのは、財産をどれだけ持っているかではありません。金持ちであろうと貧しい者であろうと、自分の持っている物に心と関心を向け、自分の持っている物を頼りとし、支えとして生きている者は、永遠の命を受け継げないこと、神の国に入れないこと、救われないことを見つめているのです。29節では「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも」とあります。自分の持っている物とはお金だけではありません。家、夫や妻、兄弟姉妹、そして子どもも含まれるし、この議員のように社会的な地位も含まれます。あるいは業績や名声といったものも含まれるでしょう。これらのものをなんであれ、自分の宝と思って握りしめ、自分の人生の支えとしているならば、神の国に入ることは、らくだが針の穴を通るより難しいのです。
 金持ちの議員は、そして私たちは、自分の持っている物を握りしめて生きるのか、それともそれを手放して、それに執着せず、ただ神様だけにより頼んで、神様だけに心を向けて生きるのかを問われています。主イエスのお言葉は、地位や財産を持っている人だけでなく、何かを持っているすべての人に、自分の持っている物を宝として握りしめているすべての人に向けられているのです。

この議員はどうしたのか?
 主イエスからこのことを問われて、この議員はどうしたのでしょうか。悶え苦しみ悩みながらなお主イエスのもとに留まり、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という主イエスのお言葉を聞いて、この議員は、自分の持っている物を守るほうを選んだのでしょうか、それともそれを手放して、神様だけに心を向けて生きるほうを選んだのでしょうか。本日の箇所ではこの議員がどちらを選んだのか何も語られていません。あえて語られていないのかもしれません。どちらを選ぶかは、この主イエスのお言葉を聞いている私たち一人ひとりに委ねられている、そのように受けとめることもできます。しかし最初にお話ししたように、この議員は、その後、最高法院で主イエスを裁いた議員の一人であり、十字架に架けられた主イエスを見て、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑った議員の一人であったのではないかとも思うのです。そうであれば彼は自分の持っている物を手放して、主イエスに従うことができなかった、ということになります。主イエスのもとで悶え、悩んでいたぐらいですから、主イエスを心から憎んでいたり、殺そうと思っていたのではないと思います。しかし自分の地位や財産を守るためには、ほかの議員に同調するしかなかったのではないでしょうか。この後、主イエスがエルサレムへ入場すると、祭司長や律法学者たちの主イエスに対する殺意はますます増していきます。金持ちの議員は、そのピリピリとした雰囲気を、空気を感じ取り、自分の地位や財産を守るためには、この空気に逆らってはいけないと思ったのです。そのようにして彼も主イエスを十字架に架けた一人となったのです。主イエスを心から殺したいと思っていたわけではなくても、自分を守るために主イエスを十字架に架けることに加担したのです。

私たちが主イエスを十字架に架けた
 この議員だけが自分の持っている物を手放せないのではありません。ほかならぬ私たち一人ひとりが自分の持っている物を手放せないのです。自分の持っている物を握りしめて生きるのか、それともそれを手放して神様だけに心を向けて生きるのか、悶え悩んだとしても、結局、私たちは自分の持っている物を、財産や地位を、家族を、業績や名声を手放すことができません。そしてそのような私たちが主イエスを十字架に架けたのです。私たちは主イエスを心から殺したい、と思ったことはないかもしれません。そもそも自分が主イエスを死に追いやった、という自覚をなかなか持てないでいます。しかしまさにそのような私たちが、自覚のないままに、自分の持ち物を手放さないことによって、自分の宝として握りしめることによって、主イエスを十字架の死に追いやり、十字架に架けて殺したのです。自分の地位と財産を守るために、空気を読んで主イエスの十字架の死に加担したあの金持ちの議員は、私たちにほかならないのです。私たちは自分の持っている物を握りしめて生きるのか、それともそれを手放して、神様だけに心を向けて生きるのかという主イエスの問いかけに、「神様だけに心を向けて生きます」と答えられない者であり、決してそのように生きられない者なのです。

神にはできる
 しかし主イエスは、私たちが自分の力では決して自分の持っている物を手放して神様だけに心を向けて生きられないことをご存知でいてくださいます。だから27節で、「それでは、だれが救われるのだろうか」という人々の問いに答えて、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われたのです。人間には、私たちには、自分の持っている物を頼りとして生きることから、それを手放して神様だけを頼りとして生きることへの転換を成し遂げることは決してできません。しかし神様にはできる。神様は私たちにこの大転換をもたらすことができる。自分の持ち物に執着して手放せないで生きている私たちを、それを手放し、神様だけに心を向けて生きるよう変えてくださるのです。そして神様は私たちに永遠の命を受け継がせてくださり、神の国に入れてくださり、救ってくださるのです。そのために神様は独り子イエス・キリストを十字架に架けてくださいました。私たちが主イエスを十字架に架けたにもかかわらず、主イエスの十字架の死によって私たちは永遠の命を与えられ、神の国へ入れられ、救われたのです。主イエスの十字架と復活こそ、私たちが永遠の命を受け継ぐことができる確かな約束です。この約束によって、私たちは死を超えて生きる永遠の命を受け継ぐことができるという確信を与えられ、死に対する恐れから解放されて生きることができるのです。

私たちへの約束の言葉
 28節でペトロは「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言っています。マタイ福音書では、それに続けて「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19章27節)とあります。このペトロの質問はまことに不適切なものです。自分の物を捨てて天に富を積んで生きるとは、「何をいただけるのか」と報いを求めて生きることではなく、神様だけに心を向け、より頼んで生きることだからです。しかし不適切な質問にもかかわらず、主イエスはこのようにお答えくださいました。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。この主イエスのお言葉は、私たちへの約束の言葉です。自分の力によってではなく、神様によって、独り子を十字架に架けるほどの神様の愛によって、自分の持ち物を手放し、神様だけに心を向けて生きるよう変えられた私たちへの約束の言葉、大転換を与えられた私たちへの約束の言葉なのです。自分の持ち物に執着するのをやめ、神様だけを支えとして生きるとき、この世にあって、つまりこの地上の歩みにおいて、夫や妻、兄弟姉妹、両親や子供との関わりが、本当の関わりとなっていきます。それは、私たちの家族に対する執着や独占欲、怒りや憎しみから解放された関わりです。私たちは神様だけに心を向けて生きるときにこそ、家族との関わりを、あるいは財産や地位との関わりを、本当に豊かなものとして受けることができるのです。それが「この世ではその何倍もの報いを受け」る、ということです。そしてそれだけではありません。キリストの十字架と復活による救いに与っている私たちは、地上の死を超えて、後の世に、世の終わりに、復活させられ永遠の

命に与ることができるのです。
 神にはできる。神様が私たちに自分の持ち物を手放し、神様だけに心を向けて生きるようにしてくださいます。そのために独り子を十字架に架けてくださったのです。このキリストの十字架と復活によって、私たちは永遠の命を受け継ぐ者とされ、神の国に入れられ、救いに与っているのです。このことを信じ、私たちは神様だけに心を向け、神様だけを支えとして歩んでいきます。その歩みにおいてこそ、まことに豊かな恵みが与えられ、死を超えて失われることのない永遠の命を受け継ぐことができるのです。

関連記事

TOP