夕礼拝

メシアはどこで生まれるのか

「メシアはどこで生まれるのか」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:民数記 第24章15-22節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章1-12節  
・ 讃美歌:214、229

 11月の下旬からマタイによる福音書の初めから読み、そして御言葉に聞いておりますが、これまでにイエス様の誕生について、1章でイエス様の家系を見て、そして先週1章18節で、ヨセフの視点から見たイエス様の誕生の様子を見てまいりました。1章からわかることは、イエス様はこれまでの歴史をひっくるめた全人類の罪を背負うために、罪を背負ってわたしたちを救って下さるために生まれてこられるということでした。ただそのような重要な目的以外に、この箇所から見えてきたのは、イエス様はどこどこの家系から生まれてきたのかという、いわゆる出自わかったということと、なぜ「イエスと名付けられたか」という、命名された理由がわかったということでした。今日共に聞きました2章1節以下からは、「イエス様はどこで生まれたのか」という、イエス様の出生地が分かります。そのことに対して、マタイは長々と書くことなく簡潔に「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書いています。
イエス様がどこで生まれたのかということは、ルカによる福音書では、「マリアとヨセフは住民登録のために、ベツレヘムに行かねばならず、ベツレヘムに行った。ベツレヘムに到着してから、お腹が大きくなっていたマリアは、月が満ちて子どもが生まれそうになった。一刻もはやく、横になれるところが必要だったが、宿が見つからなかった。そのために飼い葉桶がある場所、おそらく馬小屋であろうところに行って、そこでイエス様を出産した」とそのイエス様が生まれてこられるまでのストーリーをドラマチックに語り、また生まれたその場所も、ベツレヘムということだけでなく、ふかふかのベッドではなくて、家畜に餌をやるためのおそらく綺麗ではない飼い葉桶に寝かされていたということまで想像させるようなストーリーを書いています。
しかしそれに比べると、大変簡素に、マタイはイエス様の生まれた場所を一言で表します。マタイは、イエスは「ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書いています。

今日のところでは、先週主役級の扱いで出てきた、お父さんであるヨセフは登場しませんし、先週の箇所で現れた天使も出てきません。お母さんのマリアも、11節でさり気なく登場するのみです。マタイによる福音書では、イエス様がお生まれになった直後に、イエス様の近くにいた人々の動向を書くのではなく、とてもイエス様との関係が遠い人々のことを描いていきます。その関係が近くないものとは、今日登場する、東の方から来た占星術の学者たちです。彼らは東の方から来ました。彼らは、イエス様がお生まれになった「ユダヤのベツレヘム」の地とは、まったく無縁の人々です。まずユダヤの国の人ではありません。彼らは、異邦人、外国人でした。おそらく彼らはユダヤ教徒でもなかったでしょう。なぜなら彼らは、占星術、いわゆる星占いを生業としているものでした。新共同訳では学者、前の聖書である口語訳では博士となっていますが、この外国人たちは、魔術師であると、主張している聖書学者もいます。学者と新共同訳が書いているのは、この時代の星占いは、ただ単に星を見て運勢を占うというのではなく、現代の天文学のような、しっかりとした学術的な要素ももっていたからでしょう。いずれにしても、彼らは、学問的に星を研究しているけれども、やはり星占いで生計を立てる人たちでありました。なぜユダヤ教徒ではないかというと、ユダヤ人たちは、旧約聖書に書いてある神様の戒めの中、魔術や占いをすることも、信じることも厳しく禁じられていたからです。
このユダヤの国に住んでもいない、ユダヤ人の信じる神様を信じていない、最も遠いものたちが、イエス様に近づいてくるということから、今日の物語は始まります。
それが「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、」というたった1節で表されています。
この1節では、イエス様が「ベツレヘムで生まれた」というだけでなく、どの時代に生まれたのかということが示されています。どの時代であるかというと、それは、ヘロデ王の時代です。これは、今から約2000年前という現実の歴史を示すための言葉であるかというと、その実際の歴史に関係しているということもあるのですが、ここではそのことよりも、意識されていることがあります。それは、ユダヤの国がヘロデ王に支配されている時代であったということです。この時代、ユダヤの国は、ローマという強大な国に支配されていました。そこで、ローマはユダヤの国に王を立てることを認めておりましたからローマに逆らうことなく、ローマの支配に忠実に従うことのできるものであるユダヤ人を王として認めました。それが、ヘロデ王でした。ヘロデ王はユダヤ人では在るのですが、純粋なユダヤ人ではなくエドム人とユダヤ人の間の子でした。そうであるから、ローマはヘロデを王にすることが都合が良かったのかもしれません。なぜなら、彼は純粋なユダヤ人でないから、ユダヤ人たちを先導してローマに反旗を翻す可能性が少ないからです。このように彼は、ローマにとっては都合の良い存在であったのですが、ユダヤの国の人にとっては納得がいかなかったようです。ヘロデ王は、民に認められた王というよりは、ローマに認められた王でありました。ですから、彼は民の王としての信頼や権威をもって、ユダヤの国を支配していたのではなく、ローマの圧倒的な権威を借りて、暴力的に民を恐れされ、支配をしていました。5ページの2章16節ところに小見出しがありますように、彼は自分の地位を守るために、二歳以下の子どもたちを皆殺しにしてしまうということをします。また彼は、自分の地位を守るために、自分に近いものまで殺すというようなことまでもしていました。ですから、ユダヤの民は、ヘロデ王を好きではなかったでしょう。

そのような、自分の地位を守るために必死であったヘロデ王のもとに、占星術をしていた外国人たちがくるのです。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」とヘロデ王に告げました。「これを聞いて、ヘロデ王は、不安を頂いた」と3節に書いています。自分の地位を守ることに必死であったヘロデは、自分が今ユダヤ人の王であるのに、自分を差し置いて「ユダヤ人の王として生まれた子ども」がいると言われたのです。それは、間接的にお前はもはや王ではないと言われたのと同然です。ヘロデが不安を抱くのは当たり前でしょう。しかし、ここで不思議なのは、「エルサレムの人々も皆、同様であった。」とうことです。エルサレムに住む、ユダヤの国の人も不安を抱いたのです。ここを読むとわたしたちは「あれっ。さっき、民はヘロデを王としては認めていない。そして暴力的な支配をしていたヘロデ王のことは嫌いなんじゃないの?だったら新しい真のユダヤ人の王が生まれたって聞いたら喜ぶじゃないの?」と考えてしまうと思います。確かに、不自然です。しかし、聖書が、人々がヘロデと同様に、不安に思ったと書いているということは、彼らも同様に、自分の地位が、この新しい王の登場で脅かされると思ったからでしょう。ヘロデ王がローマの権威に従っている限りは、彼はユダヤの国を支配する権利をもらい王となっていたように、ユダヤの国の人々も同様に、ヘロデの権威に従っていれば、言い換えれば、「ヘロデに逆らわず、名目上王として扱って」いれば、自分たちは、自分たちの小さな範囲で王様のようになれたのです。家の家長であれば、家の中で支配的になれたし、祭司や律法学者であればその範囲で自分は権威的ふるまうことできた。彼らは、ユダヤの国の中では異邦人、外国人たちを嫌い、下のようにみることできました。そのように、ヘロデがローマに支えられているように、エルサレムの人々はヘロデによって地位を確保されていたので、その小さな範囲での王様として権威を、人々も失いたくなかった。だから、彼らもこの真の王の登場に不安を覚えたのです。
ここにローマを頂点に、下に広がっていく、武力と恐れによる支配構造が現れています。ユダヤの人々は、その上の武力や恐れの力はよく思っていなかったのですが、その支配に従っていれば自分たちより、下の人達の前では、権威的に振る舞えるという地位が保証されていたのです。

そのようなヘロデと民の前に現れたのが、その支配構造の最下層といってもいい異邦人、外国人だったのです。その異邦人たちが、「ユダヤの王を拝みたい」といっているのだから、自分たちよりも下の者たちが、優遇されるような王なのかと思ったのかもしれません。だから、そのような王が現れるのは、ユダヤの国の人々全員にとって、不安の種だったのでしょう。
その考えに則って考えるとするならば、この占星術を生業とする異邦人たちは、ユダヤの国になにか、革命を起こすためにきた。または、異邦人が優遇される王が立てば、自分たちがそこに住むことができ、虐げられることなく、逆に異邦人がユダヤ人の上に立って支配できる。そういうことを目論んで彼らは来たのかと考えることができます。ですが、それは間違っています。なぜならば、そもそも彼らはユダヤの国の中に住んでいたわけでもないし、虐げられていたこともないのです。不思議なことに、彼らは、なにか自分に目に見える利益があるからといって、この国にきたのではなく、ただ「他国の王に会いたい」いやそれ以上に「拝みたい」といって来たのです。
彼らは、なぜ、自分の国のことと関係のない、そして自分になんら影響をおよぼすはずのないユダヤ人の王を拝みに来たのでしょうか。その彼らの直接の動機、彼らの心の動きや考えは聖書には描かれておりませんが、彼らは既にここで大きな人生の変化を経験しています。それは、このユダヤ人の王の星を見てからです。何が彼らのなかで変わったのかというと、それは、占星術と関係しています。彼らは、かつてそれぞれ人の人生は星によって支配されていると考えていました。人には、一人一つ星が与えられており、その星が輝いているときは生きており、また、その星が消滅すれば自分は死ぬと考えていました。現代の星占いは、生まれたつきの星座によってその日の運勢や、その月の運勢を占ったりしますが、それも根本は、星を支配する見えない運命の力が、自分たちに作用している、支配していると考えている点では、考え方はおなじです。
占星術をしている彼らは、星か星を支配する運命の力を、研究しコントロールしようとしていました。彼らがなぜ星を調べていたのかというと、それは自分の運命に関することがらを知って良い運命にしたいからであり、また他人の運命に関する事柄を占い、そこでお金をもらい食べていくためであったと考えられるでしょう。現代の占い師の方々もそうであるかもしれません。基本的には、自分のためです。自分の人生がうまくいくように、そして自分がご飯を食べていくために必要だったからです。しかし、その占星術で生活をしていた異邦人の彼らが、とある星を見つけました。その星は、自分たちにとって、なんの利益にならないものです。その星は、他人の国の王の星です。自分の国には関係ないし、その星を見て、運命を占っても、自分の生活の足しになるようなことはありません。
それなのに、彼らは、その星に興味を引かれたのです。星占いであるならば、まず人を見て、「あなたの星はあの星です。あの星はこのような動きや形をしていますので、どうのこうのですと」と、人が自分のところに来て、星を探し説明するという順序でしょう。しかし、あの星の時は違います。星を見て、その星が示す人に会いに行きたくなったのです。
彼らは、自分たちとってなんの利益にもならない人に会いに行きたくなった。
彼らは、星や星の動きに関心があったのに、星が指し示すある御方のことを知り、遠い距離を旅してでも拝みに行きたくなるほどに惹きつけられたのです。彼らは、自分の益となることしか興味がなかったのに、まったく利益にならない他人に興味を持つようになったという点で、大きな転換がここにはあります。

彼らは、生まれたばかりの王を「拝む」ためだけに来ました。拝むというのは、今している礼拝とおなじです。礼拝は、この異邦人と同じように、神様によって導かれて(異邦人は神様が示す星によって)、神様に私たちが会いに行き、拝むためなされています。目的は神様と出会い、神様を拝むことで神様と交わりを持つためです。ただこの占星術の異邦人と同様に、ただ神様を拝むためなのです。
ヘロデ王にも同じよう8節で「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と拝むと言っています。彼は、拝むために行くのではなく、拝むことを口実にし、イエス様を殺そうと考えていました。彼は、その時、拝みにいけ殺せなかったので、16節いかの子どもを皆殺しにするのです。彼にはその王を崇めるつもりも拝むつもりもなかったのです。彼は自分の保身のために、拝みにいこうと考えたのです。

私たちは時に、ヘロデ王やエルサレムの人々、かつての占星術の異邦人であるときがあると思います。わたしたちは、時にヘロデ王やユダヤの人々のように、自分の範囲内で王様になりたがります。自分の上にある権威には恐れによって支配され、自分の下にいる人の前では今度は権威を振りかざし自分の地位を守ろうとする。上には不満だけれども、自分の周りの人々の前で誇ることができるのであれば、また自分の地位が揺るがされないのであれば、そこでよいとなってしまう。そして少しでもその地位が揺るがされうようなことがあれば、なんとしてでも、力をも使って、時に暴力的になってでも、守ろうとする。というのがわたしたちの現実でも在ると思います。

またわたしたちは、かつての異邦人の占星術師のように、自分のためだけに生き、自分に関係のある事柄にしか興味のないものでもあったと思います。そして、また目に見えない運命の力を信じて、その運命の力に抗おうとしたりしていました。ラッキーアイテムをもって、良い運勢に変えようとしていました。そのようなものでした。

その点では、わたしたちは脅威に支配され、また自身にしばられるものでありました。しかし、異邦人の占星術師のあの星が輝いたように、わたしたちにも、今日この不思議な星は輝いています。
この星は、見えない運命の力で動いているのではありません。この星は、イエス様のおられる馬小屋の上に普通ではありえない動きで移動しました。流れ星でもないのに、移動し、消えることなく動き、馬小屋の上で止まったのです。天文学を知らなくても、このような動きを星がすることは自然法則上ありえないことですから、彼らもわかったでしょう。そのことにより、彼らの星に関して知っていた常識は破られました。それは彼らの信じていた見えない運命の力をも破られたということです。この不思議な星は神様によって動かされていたのです。神様は星の動きさえも支配し、この星を用い、彼らを真の王であるイエス様に導かれたのです。

わたしたちもこのような、神様の導きを受けます。わたしたちは、神様の導きを受けた時に、それは星という形ではないかもしれませんが、自分の常識が破られる。そして自分が頼りにしていた知識や技術が役に立たなくなるほどに破られることもあります。わたしたちは、通常そのようなことがあったときは、驚きも在るでしょうが、足元が揺れ動かされ不安になるのが普通だと思います。自分の信じていた常識、知識が覆されたら不安になると思います。「覆されそう」になったら、ヘロデやユダヤの人々のように、力で保守したくなるかもしれません。しかし、この占星術師の異邦人たちは、完全に覆されたいま、どうだったでしょうか、星が常識的な動きをしていないとき、止まった時彼らは「その星を見て喜んだ」のです。それが10節にかかれています。わたしたちは、自分を捨てることに、地位を捨てることに、恐れを覚えるものです。しかし、神様の導きはそれを凌駕されます。その導きの先に、イエス様がおられるのです。真の王なるかたです。その方は、力や恐れによって人を支配するローマのような存在ではありません。その王は力なき、幼子です。その幼子はしかし、異邦人たちを支配します。それは愛によってです。彼らはイエス様に会った時に、突然にひれ伏しました。しかし、恐れでひれ伏しているのではないでしょう。拝まなくては仕方ないほどの喜びにあふれていたのでしょう。自分は見えない力を信じて縛られていた、自分だけを信じていた。そのようなことから、解放して下さった方が目の前におられたのです。ですから彼らはひれ伏しました。そして「黄金、乳香、没薬」をささげたと聖書には書かれています。これらは、魔術のために使われていた道具であるという解釈もあります。そのようだとしたら、ここで彼らは占星術や魔術のためのものをここで放棄したということでしょう。彼らは頼ってきたものを放棄する、それは黄金のように高価なのもでもあります。彼らは、それらをイエス様の前で手放しささげたのです。これらの献げ物の魔術の道具は、イエス様の前では、魔術のために用いられるのではなくで、イエス様のためのものになるのです。幼子が怪我した時に没薬、薬がひつようなのです。この匂いのきつい馬小屋では乳香がその匂いを和らげてくれます。若い夫婦には、経済的には貧しいものでしたが、そこに高価な黄金を与えられ、食べ物を買うことができようになるのです。神様は、わたしたちがこれまで頼ってきた愚かなものでさえも、ささげられたときそれを大事に必要なものとしてうけとってくださるのです。

最後に異邦人たちは、星にしたがうのではなく、夢の中の神様の声にしたがうものとなり、「ヘロデの元には帰りませんでした」そして、同じ道をも歩みませんでした。自分にたよるという道にも返ることなく彼らは喜びの中を歩むのです。

わたしたちも、今神様に導かれてこの礼拝堂に集っています。神様の光に導かれ、この礼拝堂に来た私たちは、ここでイエス様と出会い、一旦自分の頼ってきた力、能力、知識、すべてを手放し、恐れからから開放され、神様に自分を献げ、神様の言葉を聞きます。自分のために、自分を信じて歩く道に私たちは、戻りません。それはヘロデの元に戻るということです。わたしたちは別の道、神様の言葉に従って、神様と共に歩む喜びの道を歩むのです。

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