主日礼拝

マリアのクリスマス

「マリアのクリスマス」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第6章1-8節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章26-38節  
・ 讃美歌:237、175、516

思いがけないこと
 人生には、思いがけないことが起るものです。思いがけない嬉しいこと、喜ばしいことが起ることもあります。しかし逆に、思いがけない出来事によって深い悩みや苦しみに突然突き落とされることもあります。クリスマスの出来事において、主イエスの母となったマリアが体験したのはまさにそういうことでした。ある日突然彼女のもとに、天使ガブリエルが現れて、「あなたは身ごもって男の子を生む」と告げたのです。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言いました。しかし当のマリアにとってはこれは、おめでたくも何ともない、とまどいと悩みをもたらすお告げでした。27節には、彼女はこの時「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ」だったとあります。マリアはヨセフと結婚の約束をしていたのです。婚約期間中というのは、今も昔も、期待と不安の入り交じった時です。マリアはこの時14歳ぐらいだったろうと言われています。それが当時女性が普通に結婚する年齢だったからです。今はびっくりしてしまいますが、当時はそれが当たり前でした。そしておそらくこの婚約は、親が決めたものだったのでしょう。恋愛をして好きになった人と結婚するという時代ではありません。結婚適齢期になったら、親が決めた相手のところに嫁ぐ、それが当時の女性の当たり前の生き方であって、マリアもそれに従って歩もうとしていたのです。今日の感覚からすれば、それは不幸なこと、理不尽なことに思われるかもしれません。しかし今日当たり前となっている、結婚相手は自分の意志で選ぶということによって本当に幸せな家庭が築かれているのかどうか、それは何とも言えないと思います。まして、親の決めた相手と結婚することが当たり前だった当時、マリアがそのことを不幸だと思っていたということはないでしょう。マリアは世間一般の女性たちと同じように、間もなく結婚しようとしていたのです。そこには不安もあるけれども、同時に期待も喜びもあったはずです。しかし、「あなたは身ごもって男の子を生む」という天使ガブリエルのお告げは、彼女が抱いていた期待や喜びを粉々に打ち砕くものだったのです。

マリアの深い苦しみ
 婚約期間中の女性が妊娠することは、今とは違って当時はおそらくある顰蹙を買うことだったでしょうが、しかしそんなに大きな問題となることではなかったでしょう。ただしそれは、婚約者である相手によってであるならばです。しかし天使ガブリエルが告げたのは、マリアが婚約者ヨセフによらずに妊娠する、ということですから、これは今日においてもとんでもないスキャンダルです。今だって、そんなことがあれば婚約を破棄されてしまうでしょう。当時は、それだけで済めばよい方で、当時の法律では、婚約中でも姦淫の罪が成り立ちますから、ヨセフは自分によらずに妊娠したマリアを姦淫の罪で訴えることもできるのです。そうなったらマリアは死刑になってしまうことすら考えられます。「おめでとう」どころではない、とんでもなくやっかいな、命をも脅かされるような悩み苦しみが、天使のお告げによってマリアに突然もたらされたのです。もしもマリアが誰か他の男と関係を持ったためにこうなったなら、それは身から出た錆で、仕方がないことです。しかしマリアは34節で「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています。マリアは誰とも関係を持ったことはないのです。それなのに「身ごもって男の子を生む」と言われたのです。このことはマリアにさらに大きな苦しみをもたらします。彼女は婚約者ヨセフを裏切るようなことは一切していないのです。しかしそれは、自分のおなかが次第に大きくなっていくという現実の前では、誰にも信じてもらえません。目に見える現実は、彼女がふしだらなことをした、という動かぬ証拠となってしまうのです。そうではないんです、と言えば言う程、彼女は、こんな明白な罪をなお認めようとしない、とんでもなくずうずうしい女とされてしまいます。自分の潔白を誰にも理解してもらえない、天使のお告げはマリアをそういう苦しみのどん底に突き落としたのです。

人生の正念場
 人生には思いがけないことが起るものです。マリアがそうだったように、ある日突然、何の前ぶれもなく、何の備えもない中で、とてつもないことが起り、それによって戸惑いと、悩みと、苦しみに突き落とされてしまう、ということがあるのです。東日本大震災で被災した人々はまさにそういうことを体験したわけです。2011年3月11日午後2時46分、その前と後では、人生が全く変わってしまったということを多くの方々が味わっています。震災によってだけでなく、私たちの人生にはそういうことがあります。ある出来事によって、もはやそれ以前と同じように生きることが出来なくなる、ということがあるのです。そのような現実に直面した時にどう生きるか、そこに人生の正念場があると言えるでしょう。マリアはこの時まさに人生の正念場を迎えたのです。

天使の告げた恵みと喜び
 天使ガブリエルは、「あなたは身ごもって男の子を生む」とだけ言ったのではありません。彼は先ず「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、喜びを告げました。マリアがその言葉に戸惑っていると、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と言いました。主なる神様があなたと共におられ、恵みを与えて下さっている、だから喜びなさい、と天使は告げたのです。その神様の恵み、喜ばしいことの内容が、「あなたは身ごもって男の子を生む」ということでした。イスラエルの人々にとって、子供が与えられることは神様の大きな恵みでした。結婚した女性が何よりも願い求めたことは子供が与えられることでした。しかしここで天使が告げているのは、子供が与えられるという恵みではありません。32、33節に語られているように、「その子は偉大な人になり、いと高き神の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」、このことが恵みであり喜びなのです。つまり、マリアの生む子どもが神の子と呼ばれるようになり、ダビデ王の子孫として生まれると約束されている救い主となる、ということです。神様がその独り子を救い主として遣わして下さり、神の民イスラエルを永遠に治めて下さる、その救いの実現のためにマリアは用いられ、救い主の母となるのです。天使はそういう恵みと喜びをマリアに告げたのです。このことは、それ自体としては素晴らしいことです。イスラエルの人々は誰もが、ダビデ王の子孫として生まれる救い主を待ち望んでいました。ユダヤの国は今ローマ帝国に支配され、異邦人であるローマのための税金を納めさせられています。神様の民としての誇りを傷つけられた屈辱、それに対する怒り、怨念が社会の中に渦巻いており、暗く不安な世相の中にあったのです。その中で、ダビデ王の栄光を受け継ぐ、待ちに待った救い主を神様がついに遣わして下さる、それはまさに「おめでとう」と喜び合うべきことです。マリア自身も、その救い主を待ち望んでいましたから、誰か他の人の子供として救い主が生まれるということを聞いたなら、彼女も小躍りして喜んだに違いないのです。しかし、自分の身にそれが起こり、自分が救い主の母となるということになったら、話は全く別です。マリアは先ず、そんなことはそもそも考えられない、自分には起り得ないことだと思いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という彼女の言葉は、そういう思いを現しています。これは直接には、私はまだヨセフと一緒に暮らしていないし、男性経験がないのに子どもを身ごもることなんてあり得ない、ということですが、それだけではないでしょう。マリアは天使の告げた恵みと喜びに対して、私のような、何の変哲もない、特にとりえがあるわけでもない、どこにでもいるような小娘が、神の子と呼ばれ、ダビデの王座を受け継ぐ、みんなが待ち望んでいる救い主を生むなんていうことはあり得ません、私はそんなことに相応しい者ではありません、と言ったのです。

神の全能の力によって
 それに対して天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない」。まだ男性を知らないマリアに、聖霊が降り、いと高き方つまり神様の力が彼女を包むことによって、彼女は身ごもるのです。つまりマリアの妊娠は人間によるのではなく、聖霊なる神様によることです。そのようにして生まれる主イエスは、マリアのおな腹から生まれて来る一人の人間であると同時に、神の子、まことの神であられる方なのです。このように、まことの神であられる主イエスが人間となってこの世に生まれ、私たちと同じ人間として地上を生きて下さることによって、神様が私たちと共にいて下さるという救いが実現するのです。その救いの実現のために、まだ男性を知らないマリアが、主イエスの母として選ばれたのです。そこには、「神にできないことは何一つない」という神様の全能の力が働いています。神様は、ご自分の独り子主イエスがまことの神でありつつ一人の人間としてこの世に生まれるために、まだ男性を知らないマリアの胎内に主イエスを宿らせることのおできになる方です。そのような全能の力によって私たちと共にいて下さるのです。それだけではありません。人間となってこの世を生きて下さった主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。神様の独り子が私たちの救いのために死んで下さる、そこにこそ、神様の全能の力が示されています。さらに神様はその全能の力によって死の力を打ち破り、主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。それは私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さるという約束の印です。神様の全能の力は、主イエスの十字架の死と復活を通して、私たちに罪の赦しを与え、復活と永遠の命という救いの完成をもたらして下さるのです。この神様の全能の力が今マリアに働いて、まだ男性を知らない彼女を主イエスの母としようとしているのです。また、とりたてて優れたところがあるわけではない、どこにでもいる一人の小娘であるマリアが、救いのみ業において重要な役割を与えられようとしているのです。それらは全て神様の全能の力によることです。自分はそんなことに相応しい者では全くない、自分にはそんな清さも立派さも力もない、と感じている人間を、神様はご自分の救いのみ業のために選び、お用いになるのです。そこに「神にはできないことは何一つない」という全能の力が発揮されるのです。

わたしは主のはしためです
 マリアはこの天使の言葉に対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。天使によって告げられた主なる神様のみ心を、主の僕として受け入れたのです。「はしため」とは女の僕ということです。彼女は、主の僕として、聖霊なる神様のお働きを受け入れ、自分を救い主の母として下さり、神の子主イエスがこの世に人間としてお生まれになるために用いて下さる、神様のみ心に従って生きることを決心したのです。それは、最初に申しましたように、大きな苦しみを背負うことでした。婚約者に見捨てられてしまうかもしれない、いやさらには死刑にされてしまうかもしれないことでした。人々から、ふしだらな、しかもずうずうしい女という汚名を着せられるようなことでした。他の人と同じように、貧しさの中でも夫婦が支え合って生きる普通の家庭を築こうというささやかな期待を捨てなければならないようなことでした。しかしマリアは、神様が自分に向けてお告げになった選びと召しを、神様が自分に与えようとしておられる使命を、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れ、それに従ったのです。マリアが人生の正念場においてこの信仰の決断をしたことによって、クリスマスの出来事が、私たちの救い主イエス・キリストの誕生が実現しました。マリアのこの決断に、私たちの救いがかかっていたと言うこともできるのです。

主の選びと召しを受け入れる
 神様は、救いのみ業の前進のために、ある人間を、あるいはある群れを、選び、召し、使命を与えるために語りかけることがあられます。その語りかけは思いがけないものであり、何の備えもない中に突然与えられるものです。その語りかけを受けた人間は、人生の正念場を迎えます。それまでと同じに生きていくことができなくなり、戸惑い、苦しみ、不安に陥ります。しかしその中でその人あるいは人々が、神様の選びと召しを信仰の服従をもって受け入れ、与えられた使命を、ただ神様の全能の力に信頼し、依り頼んで果たしていこうと決心する、そのことを通して、神様の救いのみ業は前進し、主イエス・キリストによる救いの福音は広められていったのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第6章の初めのところです。イザヤが預言者として召され、立てられた時のことがここに語られています。イザヤは神殿において、主なる神様が天の御座に着いておられる栄光のお姿を見たのです。それはたまたま見たのではなくて、主が彼にご自身を示し、語りかけて下さったということです。イザヤはその時、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言いました。主の栄光の前では、自分が汚れた罪人であり、滅びるしかない者であることが明白になるのです。彼はそういう深い畏れを体験したのです。しかし主は祭壇の炭火を彼の唇に触れさせ、彼を清め、罪を赦して下さいました。その上で、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代って行くだろうか」と問いかけて下さったのです。それは勿論イザヤに対する問いかけであり、主が彼を選び、召し、遣わそうとしておられるということです。彼は主のその問いかけに、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えました。主の選びと召しと派遣のみ心を受け入れ、それに服する決心を与えられたのです。こうしてイザヤは主の預言者として立てられ、彼を通して神様のみ言葉が語られ、み業が行なわれていったのです。このイザヤの「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という言葉と、マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉は、同じことを語っていると言えるでしょう。主の選びと召しに直面した信仰者が、このように主に答え、主のみ心に聞き従う決断をすることによって、主の救いのみ業が実現し、前進していくのです。

主イエス・キリストの僕ヘボン
 教会の歴史はそういうことの繰り返しです。私たちの教会の創立者であるヘボンもまた、そのような神の選びと召しを受け、それに聞き従った人でした。今年度の各地区における集会では、私たちの教会の伝道の原点を見つめるために、77歳になったヘボンが明治25年に、33年間の日本における働きに終止符を打って隠退し、アメリカに帰国するに際して指路教会で行なわれた送別会において語った告別の言葉を読んでいます。その中でヘボンはこう語っています。「私は主イエス・キリストの僕でござりまして、此全世界はキリストの畑でござります。私はあなた方と同様に総て世界に在る所の信者と一緒にキリストの畑に働くべきものでござります。私は僕なるが故に主人の命令に従ふべきものでありますから、私は此国の中に―キリストの畑に働きました」。またこうも言っています。「僕は主人の旨に従ふ筈の者でござります故、私は是より己の思ひの儘にせず我儘のことなく、総て主人の命令に従ふつもりで此国へ参りました」。私は主イエス・キリストの僕なのだ、僕は自分の我儘を言うのではなく、主人の命令に従って生きるのだ、というこのヘボンの思いは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と語ったマリアの思いと全く同じです。ヘボンが、主の選びと召しを受けた人生の正念場において、マリアと同じように、「私は主の僕です」と言ってみ心を受け入れ、それに従って生きる決断をして、開港したばかりのこの横浜に、なおキリスト教が禁じられていた日本に、来たことによって、この国において主の大いなるみ業がなされ、その中でこの指路教会が生まれ、今私たちはこの群れにおいて主の豊かな恵みにあずかることが出来ているのです。

主の僕の大きな喜び
 マリアが天使のお告げを受け入れそれに従うなら、その前途には、先ほど申しましたように大きな苦しみ、悲しみが予想されました。婚約を破棄され、場合によっては殺されてしまうかもしれなかったのです。しかし、できないことは何一つない全能の神様は、それら総てのことから彼女を守って下さいました。主の守りと導きによって、彼女は婚約者ヨセフに捨てられることもなく、殺されることもなく、無事に主イエスを生み、育てることができたのです。「お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったマリアの身には、神様の大きな祝福が、彼女がヨセフとの結婚を前に期待していた人並みのささやかな喜びをはるかに越える真実の喜びが実現していったのです。ヘボンの歩みもそうでした。彼は先ほどの告別の演説でこう語っています。「私も患難に度々逢ひました。災難にもしばしば遇ひましたといえども我父に依り…父と共に在るからモウ幸に成りました、災難も我喜となりました」。ヘボンもまた、主の僕としてこの異国の地で主に仕えて歩むことにおいて、様々な苦しみを味わったけれども、その中でも主なる神様が常に共にいて下さり、苦しみをも喜びへと変えていって下さったのです。本当の幸いを彼は体験することが出来たのです。主の選びと召しに従って生きるところには、人間の予想や見通しとは全く違う、全能の父なる神様の導きがあり、神様のみ心が実現していきます。そこで私たちは、神様の偉大な恵みを体験し、大きな喜びに満たされていくのです。
 私たちは今、クリスマスへの備えの時を歩んでいます。主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスを迎えるにあたって、主イエスの母となったマリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉をかみしめ、そこに私たちの思いを重ね合わせていきたいのです。それによってこそ、クリスマスの本当の喜びが私たちにも与えられていくのです。

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