夕礼拝

造り上げられていく群れ

「造り上げられていく群れ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 18章1-27節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第4章7-16節
・ 讃美歌 : 141、393

小休止?
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めており、本日は第18章です。出エジプト記は、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、神様によって遣わされたモーセを指導者として脱出し、神様が約束して下さった地へと荒れ野を旅していくという、大変波乱に富んだ物語であり、映画になるような劇的な場面がこれまでにいくつもありました。またこの後の第19章以降は、彼らがシナイ山で主なる神様と契約を結び、神様の民として歩むための指針である十戒を与えられるという、イスラエルの民の歴史を語る上で見過ごすことのできない重要な場面に入っていきます。そのような出エジプト記の流れの中で、本日の第18章は、あまり劇的でない、目立たない章であると言えると思います。物語の展開という点で言えば、ここはしばしの小休止のような所だと言えるでしょう。しかしそこにおいても、神様の恵みのみ業は着実に前進しています。そのことをご一緒に見ていきたいと思います。

モーセの前半生
 この18章の前半、12節までのところに語られているのは、モーセのしゅうとであるミディアンの祭司エトロが、娘でありモーセの妻であるツィポラと、モーセと彼女との間に生まれた二人の息子を連れて、荒れ野を旅しているイスラエルの民のところへやって来た、という話です。先ず、そこに至るこれまでの事情を振り返っておきたいと思います。
 モーセがミディアンの祭司エトロの娘ツィポラと結婚したのは、彼がエジプトからミディアンの地に逃れていったことによってでした。モーセはエジプトで奴隷とされていたイスラエルの民の子供として生まれましたが、その頃エジプト王ファラオは、イスラエルの民に男の子が生まれたらナイル川に投げ込んで殺せと命令していました。両親はしばらく赤ん坊を隠していましたが、隠し切れなくなり、パピルスの籠に入れてナイル川の岸の葦の茂みの中に置きました。それを見つけて自分の子として育てたのはエジプトの王女でした。モーセは奴隷の子でありながら、王女の子として育てられたのです。成人した彼は、奴隷として苦しめられている同胞を救うために何かをしたいと考えるようになり、ある日、イスラエル人を打ちたたいているエジプト人を殺して仲間を助けました。モーセとしては、イスラエルの人々が彼のもとに一致団結してエジプトの支配と戦うようになることを期待していたのです。ところが、イスラエルの人々は彼のしたことを喜ばず、彼を仲間として迎え入れようともしませんでした。奴隷としての苦しい境遇の中でずっと過ごしている人々は、同じイスラエル人なのに王女の子として何不自由なく育ってきたモーセを仲間として受け入れなかったのです。仲間であるはずのイスラエルの人々にも受け入れられず、エジプト人からは裏切り者として命を狙われる身になったモーセは、エジプトを逃げ出し、ミディアンの地へと逃れたのです。彼はそこで祭司エトロと出会い、その羊の群れを飼う者となり、彼の娘であるツィポラと結婚して二人の息子をもうけたのです。
 そのようにしてミディアンの地で家庭を築き、それなりに平穏な生活をしていたモーセが、再びエジプトへ帰り、イスラエルの民の指導者となったのは、彼が主なる神様と出会い、神様によって遣わされたことによってでした。神様が「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」とお命じになった時、彼は「わたしにはとてもそんなことはできません」と何度も断りました。しかし神様は断固として彼を遣わそうとなさったのです。ついにモーセはその召しに従うことにしました。しかし、神様の召しに応えてイスラエルの民を解放するためにエジプトに行くということは、家族をミディアンの地に残して行くということです。4章の後半には、モーセが妻の父エトロに、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と暇乞いをし、エトロが「無事で行きなさい」と送り出してくれたことが語られています。そしてそこには、妻子を伴って出発したと書かれています。それはおそらく4章24節以下の、ツィポラが重要な役割を果たす一つのエピソードを語るためにそうなっているのであって、基本的にはモーセは妻子と別れてエジプトへ戻ったのだと思われます。本日の18章の2節に、妻と子どもたちはエトロのもとに先に帰されていたとあるのは、4章とのつじつまを合わせるためでしょう。エジプトでの話にはモーセの妻子は全く登場しません。モーセは、神様からの召しを受けた時、妻子をしゅうとのもとに帰して、一人でエジプトに行ったのです。

家族を離れて
 モーセのこの前半生は、私たちにいろいろなことを考えさせてくれます。若かったモーセは、苦しんでいる同胞を救いたいという正義感に燃えて行動を起しました。しかしそれは見事に失敗に終わり、逃亡の生活を余儀なくされます。その逃亡先で結婚し、子供をもうけ、羊を飼う生活をしていたモーセの姿は、世の中の矛盾に怒り、正義感に燃えて社会をなんとかしようと立ち上がってはみたものの、あえなく挫折して、もはや最初の情熱を失い、同胞の苦しみのことなど忘れて、自分と家族の生活のことのみを考えるようになったマイホームパパの姿であると言えると思います。主なる神様が、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するという救いのみ業のためにお用いになったのは、同胞を救おうという正義感に燃えているモーセではなくて、挫折し、情熱も正義感も失って、自分と家族の生活のことしか考えなくなっていたモーセだったのです。このことは、出エジプトという救いの出来事が、人間の正義感や情熱によって実現したことではなくて、ただひたすら神様の恵みによってなされたみ業であることを語っています。このことについては以前にお話しをしました。しかしここで新たに見つめたいのは、マイホームパパであったモーセが出エジプトの指導者として立てられ、派遣される時に、そこには家族との別れがあった、ということです。神様と出会い、召されて遣わされるモーセは、家族と別れて、与えられた使命に一人で取り組んでいったのです。このことは、神様の召しに応えて従っていくことは家族と別れて一人にならなければできない、という一般論ではありません。少なくともモーセの場合はそうだったということです。つまりそれまでの彼は、もはや同胞のことを忘れて、自分と家族のささやかな幸せしか考えないマイホーム主義に生きていたのです。神様はそのようなモーセを、イスラエルの民の救いのために召し出して派遣なさいました。このことは、人間の決意や力によってこの救いのみ業がなされるのではない、ということを示すと同時に、神様の救いのみ業のために召され、用いられる時、私たちは、マイホーム主義を捨てなければならない、自分と家族の幸せだけを追求するような思いから解放されなければならない、ということでもあるのです。神様と出会い、信仰者となって従っていく、神様に与えられた使命を果していく時に、私たちは、家族に限らず、自分の大切にしているもの、かけがえのないものとの別れ、訣別を体験するのです。そういうことなしに、何も失い捨てることなく全てのものを持ったままで信仰者として生きることはできないのです。信仰者は家族を大事にしてはいけない、などと言っているのではありません。しかし、自分の家族の幸せが人生の第一の目的となり、ということは要するに自分の幸福追求、欲望の充足、自分の満足、自分の望みの実現が最優先されてしまうならば、そこには信仰の入り込む余地はありません。信仰とは、捨てるべきものを捨て、訣別すべきものと訣別して、神様に自分自身を献げて従うことなのです。ですから信仰者は誰でも献身者、神様に身を献げた者です。家族と別れて一人で出エジプトの指導者として歩んで来たモーセの姿は、そういう献身者の姿であると言えるでしょう。

家族との再会
 そしてそのことを見つめる時に、本日の18章に語られていることが主なる神様の大きな恵みであることが見えてくるのです。しゅうとエトロが、妻と二人の子供たちをモーセのもとに連れて来ました。別れていた家族との再会が与えられたのです。エトロがモーセのところに来たのは、「神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた」からだと1節にあります。イスラエルの民が、奴隷とされていたエジプトから解放されて荒れ野を歩んでいる、その指導者がモーセである、ということをエトロは伝え聞いたのです。つまり娘婿の成功を聞いたので、娘と孫を連れて来たのです。そうでなければ連れて来たりはしないでしょう。しかしモーセの側から見ればその成功は、主なる神様が与えて下さった恵みです。つまり神様の恵みの中で家族の再会が果たされたのです。マイホーム主義を捨て、家族を後に残して一人で主の召しに従い仕えてきたモーセに、神様が、大いなる恵みによって再び家族を与えて下さったのです。それは、以前のマイホーム主義に立ち戻ることではありません。今やモーセは、神様の民の指導者として、神様の約束の地へと向かう旅路にあります。その旅路に、家族が合流したのです。主に従い仕える信仰の旅路の中に、彼のマイホームも置かれたのです。家族と共に、神様に従い仕える旅路を歩むという祝福を与えられたのです。ここに神様の大きな恵みが示されています。信仰とは、自分の大切にしているものを捨て、場合によっては家族とも離れて神様に従っていくことです。神様はそういう献身を私たちにお求めになります。しかし神様の目的は、私たちの家庭を破壊することではありません。むしろ神様はこのことを通して、私たちの家庭全体を、ご自分のもとへと導こうとしておられるのです。自分や家族の幸せしか考えない悪しきマイホーム主義が打ち砕かれて、神様に身を献げる献身に生きることを通して、私たちの家庭全体が、言わば清められたものとして回復され、再び与えられるのです。主イエス・キリストはそのことを、ルカによる福音書第18章29、30節でこのようにお語りになりました。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。「この世ではその何倍もの報いを受け」、モーセがここで体験したのはまさにこのことだったのではないでしょうか。

家族伝道
 モーセが体験した恵みはそのことだけではありません。彼は妻の父エトロに、8節にあるように、「主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせ」たのです。これはいわゆる信仰の証しです。証しというのはこのように、自分たちに与えられた神様の恵みを物語ることです。その証しによって、ミディアンの祭司、つまり異なる神に仕える者であるエトロが、心動かされたのです。9節以下に、モーセの証しを聞いてエトロが主なる神様をほめたたえたとあります。その言葉が10、11節ですが、11節に「今、わたしは知った」とあります。この言葉は、列王記上の17章24節にもあります。それは、シドンのサレプタという異邦人の町の一人のやもめが、預言者エリヤによって息子を生き返らせてもらった時に、エリヤが仕える主なる神様こそがまことの神でることを知った、という箇所です。また列王記下の5章15節において、アラムの軍司令官ナアマンが、預言者エリシャによって病気を癒された時に、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と語った所にも使われています。つまりどちらにおいても、外国人、異邦人が、主なる神様こそまことの神であることを知らされた時に、「今、わたしは知った」と語っているのです。ここでも同じことが起っています。ミディアンの祭司エトロが「主はすべての神々にまさって偉大であった」ことを知らされたのです。モーセは、家族を再び得ただけでなく、異教の祭司だったしゅうとと共に、12節に語られているように主なる神様を礼拝し、犠牲をささげ、神様のみ前で食事を共にするという幸いを与えられたのです。家族伝道の大いなる実りです。これも、家族を離れて主に従ったモーセに与えられた何倍もの報いの一つなのです。

エトロの助言
 そしてこの18章の後半、13節以下には、エトロのアドバイスによって、イスラエルの民における裁き、裁判の制度が整えられたことが語られています。エトロは、モーセが一人で座に着き、民が朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいる様子を見たのです。「なぜこんなことをしているのか」と問うと、モーセは、15、16節にあるように、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えました。それを聞いたエトロは、「あなたのやり方は良くない」と言いました。それは、このままでは、モーセ自身も、モーセ一人の裁きを朝から晩まで待っている民も疲れ果ててしまうからです。そこでエトロは、21節以下に語られているアドバイスを与えました。それは、民の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に価する人物を選び出し、彼らを、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として立て、日常の細かい問題については彼らに裁かせたらよい、ということです。こうすることによって、モーセは、26節にあるように、難しい事件、彼らが判断に迷うような事柄だけを裁くようにするのです。モーセとイスラエルの人々はこの提案を受け入れました。それによって、イスラエルの民における裁判の制度、もめ事の解決の仕組みが整えられたのです。
 エトロのこのアドバイスはまことに合理的な、よく分かることです。モーセが一人で民の様々な細かい問題やもめ事を裁いていたら、体がいくつあっても足りません。このような制度を整え、民を指導する人々を立てることによって、モーセの負担を軽くし、また人々のための便宜を図ることは、イスラエルの民が秩序ある国となっていく上で不可欠なことです。このことによってイスラエルの民は、解放された奴隷の集団がモーセの周りに集まっているだけの烏合の衆から、一つの国民へと整えられ、造り上げられていく大きな一歩を踏み出したのです。

み言葉に聞き従うために
 けれども私たちはここに、モーセの負担の軽減とか、人々の便宜とか、国としての秩序の整備といったことのみを見ていてはならないでしょう。ここには、もっと大事なことが示されているのです。それを知るためのヒントは19、20節にあります。エトロはこう言っています。「わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい」。ここに、エトロの助言の中心があります。この助言のポイントはこの訳では見えてきにくいと思います。「あなたが民に代わって神の前に立って」というのは、誰かではなくてあなたモーセが、という意味のように感じられますが、それまで誰か他の人が神様の前に立っていたわけではありません。やはりモーセがそれをしてきたのです。以前の口語訳聖書の方がここの意味をとらえやすいと思います。こうなっていました。「あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい」。つまりエトロはモーセに、「あなたは常に神の前にいて、神に問い、答えをいただくという役割に徹しなさい」と助言したのです。そのために、民の中から指導者を立てて、日常の細かいことを裁かせるのです。それによって、モーセがそれらのことに忙殺されずに、大事な事柄について神様のみ前に出てみ心を問い、それを聞くことができるようにするためです。つまりこの助言は、モーセが疲れ果ててしまわないためとか、合理的な裁判制度を整える、ということが中心なのではなくて、イスラエルの民全体が、主なる神様のみ言葉をしっかりと聞き、そのみ言葉に従って歩むことができるようにすることが目的なのです。そういう意味ではこの提案は、新約聖書使徒言行録第6章において、使徒たちが教会の人々に提案したことと重なると言うことができます。そこに語られているのは、教会員の数が増えてきて、やもめたちへの日々の分配、つまり教会が信者たちの捧げものを貧しい人、生活に困っている人に分配して支えるという働きにおいて不公平が生じ、苦情が出るようになった時に、教会員の中から七人の人々が選び出されて、それまで使徒たちが全てを担っていたその分配の働きを負う者として立てられたということです。それが、今日の「執事職」の起源とされるのですが、そのことを提案した使徒たちは、このことによって「わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言っています。つまりこれも、単に組織の便宜のためとか、人々の不満を解消するためではなくて、教会が神様のみ言葉に本当に聞き従って歩むための提案なのです。出エジプト記第18章で、モーセのしゅうとエトロの助言によってイスラエルの民に裁判の制度が整えられたのも、それと同じく、この民が、神様の民として、神様のみ言葉をしっかりと聞き、それに従っていく群れへと整えられ、造り上げられていった、という出来事だったのです。

造り上げられていく群れ
 この18章は、劇的でもなく、目立たない章です。しかしそこにおいても、神様の恵みのみ業が着実に前進しているのです。神様の召しに応えて、家族をも離れてみ業のために献身したモーセに、神様は家族との再会を与え、家族と共に神様に仕えて行く新しい生活を与えて下さいました。そしてその恵みの中で、異教の祭司だったしゅうとエトロが、主なる神様こそまことの神であり、大いなるみ力をもってイスラエルをエジプトの支配から解放して下さった方であることを知り、共に主を礼拝することができました。そしてそのエトロの助言によって、イスラエルの民の指導体制が、主なる神様のみ言葉をしっかりと聞き、それに従っていくために整えられました。モーセの家族に与えられたこの恵みを通して、イスラエルの民全体が、神様の民として整えられていったのです。本日は共に読まれる新約聖書の箇所として、エフェソの信徒への手紙第4章7節以下を選びました。ここには、神様がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師として立てて下さったことが語られています。これらは教会における務めです。これらの務めが立てられることによって、教会の指導体制が整えられ、秩序が生まれていくのです。しかしそれは、人間の集団としての運営上の便宜の問題ではありません。12節に「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。「聖なる者たち」とは信仰者たちのことですが、教会の指導体制が整えられていくことによって、信仰者たちが、奉仕の業に励むための環境が整えられるのです。奉仕の業は決して強制的にさせられることではありません。それぞれが自発的に、喜んで、神様のみ言葉に聞き従い、身を献げて主イエスに仕えていくのです。そのようにして教会はキリストの体として造り上げられていきます。主イエス・キリストが頭であり、そのもとに私たちが体のいろいろな部分として結び合わされ、皆で一つの生きた体として歩んでいくような群れが育っていくのです。出エジプト記18章に語られているのも、イスラエルの民が、神の民として整えられていったという恵みです。神様は私たちを、神様の民として整え、造り上げていって下さるのです。その恵みの中で、私たちそれぞれの人生も、それぞれの家族も、整えられ、造り上げられていくのです。その要となるのは、み言葉に聞き従い、自分の身を神様にお献げすることなのです。

関連記事

TOP