夕礼拝

神のものは神に返す

「神のものは神に返す」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第89編6-15節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第12章13-17節
・ 讃美歌 ; 6、512

 
人々と主イエスの議論
主イエスと、人々との間で行われた議論が続いています。マルコによる福音書第11章の27節から、12章の終わりまでの間には、いくつかの議論が記されているのです。本日お読みした箇所の最初には、「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」とあります。この人々は主イエスと議論をしていた祭司長、律法学者、長老と言った、当時の議会を構成しているメンバーでイスラエルの民の指導者です。神の国の福音を語る主イエスを捕らえようとしていましたが、主イエスを支持する人々が大勢いたために、実行することが出来ませんでした。そのために、主イエスに様々な議論をしかけて、法に逆らうような発言を引き出して、主イエスを捕らえる正当性を得ようとしたのです。この人々は、ファリサイ派とヘロデ派の人、数人を主イエスのもとに遣わします。ファリサイ派というのは、旧約聖書の律法を厳格に守っていた人々です。律法を守ることによって救いが得られることを確信し、何事にも妥協せずに宗教的な信念を貫いていた人々です。ヘロデ派というのは、ガリラヤの領主の地位にあったヘロデを支持する人々です。ヘロデというのは、ローマ帝国によって地位と権力を与えられていた政治的権力者です。このヘロデを支持するヘロデ派の人々は、ローマの支配に妥協し、この世の政治的権力に頼って生きていく人々だったのです。本来であれば、この二つのグループは、相容れないものを持っています。宗教的な信念を貫くことによって自分たちの救いを確信しようとする人々と、世の権力と妥協しつつ自らの地位を獲得して行こうとする人々です。しかし、ここでは、主イエスを陥れるという目的のために一致協力するのです。この関係は、主イエスがガリラヤで行動を始めてすぐの時から続いていました。3章6節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。主イエスが安息日に癒しの業を行ったことを受けて、この相談は始められたのです。相談されていたことが実際に行動に移されたのです。

主イエスへの問いかけ
 ファリサイ派とヘロデ派の人々は、主イエスに問いかけます。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」。人々は、さも主イエスを尊敬しているかの如く、「先生」と呼びかけます。又、ここで、だれをもはばからず、人々を分け隔てしないということが言われます。人々を分け隔てしないとは、人の顔色をうかがって態度を決めることがないということです。人々に影響されるのではなくて、ただ神のみを恐れて、進むべき神の道を示して下さる方であると語っているのです。これは、主イエスの態度を的確に言い表している言葉と言って過言ではありません。エルサレムで権威をもって神殿を治めていた人々と主イエスの違いは、真に神を恐れて歩んでいたかどうかにあります。主イエスと議論をしている人々は、イスラエルの民を神の道に導くべき立場にありましたが、実際には、自分たちのしたいように振る舞っていたのでした。そのため、自分の権威が保たれるために、人々の目を気にして、自分の立場を守りつつ歩んでいたのです。
 彼らが、主イエスに対して、このように言うのは、心から主イエスを尊敬し、その教えを請いたくてこのように言ったのではありません。主イエスを尊敬しているように見せかけ、主イエスに答えずにはいられない状況を作り出そうとしているのです。彼らは、主イエスを持ち上げた上で問いかけるのです。主イエスは15節で、「彼らの下心を見抜いて『なぜ、わたしを試そうとするのか』」とおっしゃっています。「下心」と訳された言葉は、「偽善」とも訳せる言葉で、「演技をする」という意味があります。「下心」、「偽善」というのは、本当の自分の悪意を隠して、善人を装いながら相手を陥れる演技をすることです。主イエスは、「人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられる」のに対して、ファリサイ人が、ヘロデ派の者が、人の顔色を見て、演技し、偽善に生きる人々だったのです。

税金の問題
 ここで彼らが問いかけたのは税金の問題です。「ところで、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないでしょうか」。ここで問われているのは人頭税というローマ帝国に対する税金です。人の頭と書きますが、収入の多い少ないに拘らず、一人一人に同額に課されていたようです。お金持ちの人々にはさほど影響はないかもしれませんが、貧しい家庭には、深刻な負担を強いることになる税金でした。現代の日本では、国民が主権者となり、選挙によって政治的なリーダーを選んでいます。それでも、国家が増税に踏み切ろうとすれば、大きな反対が巻起こるのです。そのことを考えると、祖国を武力で侵略した支配者のために税金を払うことに対しては相当の反発があったと言って良いでしょう。これは、ユダヤの人々に取っては、自分たちが被支配国であることを否応なしに示される現実でありました。人々は、どれだけ、この税金を払わずに済んだらと思ったことでしょう。実際に、民は、ローマ帝国からの解放を願い、それを実現する救い主を求めていたのです。
 この問いが、なぜ主イエスを陥れるものになるのでしょうか。主イエスが、「皇帝に税金を納めることは律法に適っている」と答えたとしたら、ファリサイ派を初めとするユダヤの民は黙ってはいません。主イエスが、支配国であるローマに税金を納めるという屈辱的なことを奨励するようなことを言ったとしたら、まして、そうすることが律法に適っているとまで言ったとしたならば、ユダヤの民衆の思いは、たちまち主イエスから離れてしまうことでしょう。又、逆に、「律法に適っていない」と言えば、ヘロデ派の人々が黙ってはいません。主イエスはローマに反抗する者というレッテルを貼られることになります。彼らは、ローマの総督に訴え、ローマの官憲に引き渡す絶好の口実を得ることが出来ます。どちらに転んでも、主イエスを窮地に追い込むことが出来るのです。
デナリオン銀貨

 主イエスは、彼らの下心を見抜いた上で、デナリオン銀貨を持って来るように指示します。彼らが持ってくると「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねるのです。彼らは、「皇帝のものです」と答えます。当時のデナリオン銀貨はローマ帝国の通貨です。デナリオン銀貨には、ローマ皇帝ティベリウスの肖像と、銘が刻まれていました。さらに、そこには「皇帝ティベリウス、聖なる尊厳なる者の子」というような言葉が刻み込まれていたようです。神と等しい者として崇拝するような文言が刻まれていたのです。このような偶像を刻んだ貨幣を使うことは、偶像崇拝を禁じる十戒を持っているイスラエルの民は我慢が出来なかったのではないかと思います。エルサレム神殿に献金をする時には、デナリオン銀貨が用いられることはありませんでした。エルサレム神殿には両替人がいて、ローマの貨幣デナリオンが、ユダヤの貨幣シェケルに両替されていたのです。ローマ皇帝の像が刻まれた貨幣が神殿で献金されることがないようにするためです。
 しかし、人頭税はそういうわけにはいきません。皇帝を神のように讃えている貨幣で人頭税を払うのです。このことには政治的にだけでなく信仰的な苦痛があったのです。このようなものを納めることは律法に適うことなのかどうかという問い事態は、当時の多くの民衆が悩んだことであったに違いないのです。
 ここで、主イエスは、敢えて人々にデナリオン銀貨を持ってこさせました。当時流通していた通貨ですから、主イエスご自身も持っていたことでしょう。しかし、敢えて、彼らの持っているものを持って来させたのです。それは、彼らが、ローマの支配の下で生きていることを認めさせるためです。彼らは、ローマに税金を納めることを屈辱としていました。しかし、それは紛れもない事実であって、世にあっては、世に立てられている権力者に服従しなくてはならないのです。事実、彼らはその支配の下で生きているのです。

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に
 皇帝の肖像と銘が彫られていることを認めた彼らに対して、主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいます。主イエスは、貨幣に、皇帝のものが記されていることを理由にローマ帝国に税金を納めることをお認めになったのです。しかし、彼らの問いかけに、「税金を納めることは律法に適っているのだから、しっかり税金を納めなさい」とお語りになったのではありません。主イエスは皇帝のものを皇帝に返すと同時に、神のものは神に返すべきことをお語りになるのです。このことによって、しっかり、この世の支配者に従いつつ、神に服従する道をお示しに成られたのです。
 注意しなくてはいけないことは、ここで主イエスがお語りになったのは、政治的な事柄については皇帝の支配に服し、信仰上の問題については、神の指示に従うということではありません。これまでの教会の歩みの中で、そのように読まれることもあったようです。しかし、私たちの生活は、信仰の部分と政治的部分に分けられるわけではありません。主イエスは、ここで、私たちが持っているものには、「神のもの」と「皇帝のもの」があるということを前提としているのではありません。

神のものは神に返す
 主イエスがおっしゃった、神のものは神に返しなさいということについて考えてみたいと思います。「神のもの」というのは何を意味するのでしょうか。この世のものは、すべて、神の被造物です。つまり、地上のものは、すべて神のものなのです。つまり、「皇帝のもの」と言われるものも根本的には神のものなのです。この地に立てられた支配者、権力、国家も又、神の御手の中にあると言って良いでしょう。
 この世を信仰者として生きることは、神に捧げるということだけでなく、この地に立てられている権力にも又、納めるべきものを納めて行かなくてはなりません。信仰の歩みは、この世から距離を取り、この世から隔絶した歩みをすることではありません。つまり、この世で自らが置かれている支配の中で責任を果たしつつ、神に自らを捧げていくのです。そして、この世で責任を果たしていくことは、同時に、根本的には、神への奉仕ということの中に位置をもっていることなのです。この世が神のものであり、神のものを神に返すという姿勢の中で、社会における奉仕がなされ、国家に対する務めが果たされなければならないのです。

神の似姿としての人間
 この地のものすべては神のものです。しかし、さらに、ここで「神のもの」ということで、被造物の中でも特に人間のことが見つめられていると言うことが出来ます。主イエスは、デナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が彫られていることから、これを「皇帝のもの」と呼びました。そうであれば、神の肖像と銘が彫られたものこそ、「神のもの」です。創世記の第1章27節には、人間の創造についての記述があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。人間が神の似姿であること、神の像が、私たちに彫り込まれていることが記されているのです。そして、そのことこそ人間が他の被造物と異なる点なのです。つまり、ここで、主イエスは、私たち人間が自分自身を神にお返しすることを語られているのです。私たちは、自分は、自分のものであると考えています。だから、自分の持っているものや自分が働いて得たものは自分のものであると考えるのです。しかし、自分は、神の像が彫られている「神のもの」であり、私は、自らを神に返すべきものであることを知って生きることが大切なのです。その時、自分の思いのままに生き、自分の所有を自分の利害のためにだけ用いることはなくなります。心から、自分自身を捧げていく者にされるのです。そして、国家や、地上に立てられている支配者にも税金を納めるということも、神に自分を帰すということの中で行われるのです。神に自分を返し、自分自身を捧げるということが根本にある所でのみ、本当の意味で、この世にも仕えることが出来るのです。地上に立てられた支配も又、神の御支配の中にあることを受け入れて、そこで、責任を持って歩みつつ、神の御業を現して行く者とされるのです。
 このような歩みは、ペトロ�2・13以下が語っています。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。すべて人間の立てた制度に従うことが語られています。しかし、それは、最後の箇所で、神を恐れ、皇帝を敬いなさいとあるように、神を恐れることの中でなされることなのです。ここでは、神を恐れつつ、この世に立てられた権力にも従っていくことで、神に栄光を帰していく歩みが示されています。

主イエスの歩み。
 この世に立てられた支配に従いつつ、神さまにご自身をお返しすること、又、神さまに自らを捧げることの中で、この世に仕え、この世の支配に従って行く姿は、主イエスご自身の歩みの中に見ることが出来ます。主イエスご自身の歩みは、この世の支配に身を委ねつつ、ご自身を神に捧げた歩みでした。主イエスは、この後、捕らえられ十字架につけられます。この世の支配者の手に自らをお委ねになったのです。それは、主イエスが、神に御心に従って歩んだからです。神の救いの意志に従って歩んだからこそ、主イエスは自分自身を捧げたのです。そして、そのことによって神の救いが実現したのです。主イエスは十字架において、罪と死と滅びの中にあった人間を、その奴隷の状態から解放し、神のものとして神のもとへ立ち帰らせて下さったのです。それは、この世の支配に服する形で実現したのです。 使徒信条の中で、主イエス・キリストについて告白する箇所で、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」とあります。処女マリアからの降誕と十字架への磔の間で告白されている唯一のことは、主イエスの癒しの御業でも力強い説教でもありません。ただポンテオ・ピラトによって苦しんだということです。ポンテオ・ピラトとは、この世に立てられた支配者、権力の代表と言って良いでしょう。主イエスは、まさに、神に従う歩みの中で、この世の支配に身を委ねたのです。そして、そのことによって、人間の救いという神のご計画が実現したのです。主イエスの、この世の支配に服すること、皇帝のものは皇帝に返すことによる苦しみは、確かに神の救いのご計画の中に位置づけられているのです。つまり、この告白は、神の救いの御支配の中に、この世の権力が位置づけられていることを示しているのです。

私たちの献身
 私たちは、このキリストの姿にこそ、地上に立てられた支配に服しつつ、尚、神に自らを返して行く歩みを見出します。主イエスが、この世の支配に身を委ねられたことによって、私たちのためにご自身を捧げて下さいました。このことによって、私たちは、自分自身が、主イエスによって買い取られ、主イエス・キリストのものとされている。それ故、私たちは神のものであることを一層深く知らされているのです。ローマの信徒への手紙の14・7-8でパウロは次のように語ります。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。私たちは、自らがキリストによって、神に贖われているということの中で、自分自身の歩みすべてを神に捧げつつ歩む者とされるのです。この地上に立てられた人間の支配の中に身をおき、神と人とに仕えつつ、主を証しして行くのです。本日、共に聖餐に預かります。この聖餐において、キリストが、私たちを贖うために、ご自身を捧げてくださったこと、世の支配の中で、苦しみを担いつつ、罪の赦しを成し遂げて下さったことが示されています。共に聖餐に与り、神のものとされていることを示されつつ、この世にあって、自らを捧げつつ歩みたいと思います。

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