主日礼拝

命にあずかるために

「命にあずかるために」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第46編1-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第9章42-50節  
・ 讃美歌:229、183、513

連想ゲーム?
 本日はマルコによる福音書第9章42~50節からみ言葉に聞きたいと思います。本日の箇所には、主イエス・キリストがいろいろな時にいろいろな所でお語りになった教えが並べられていると言われています。つまり、ある時にまとめてここに書かれているようにお語りになったのではなくて、もともとは別々の教えだったものが後からこのようにまとめられたのだというのです。従ってここにはいろいろなことが語られていて、必ずしも話が論理的に展開してはいません。前の所で語られた一つの言葉から次の教えが導き出され、またその教えにおける一つの言葉が次の教えへとつながっていくというふうに、言わば連想ゲームのように話が進んでいくのです。そのことを見てみますと、先ず42節に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ことは重大な罪であることが語られています。その中の「つまずかせる」という言葉から、43~47節の、自分をつまずかせる物があるなら、体の一部であっても切り捨てよ、という教えが語られています。そうしないと地獄に投げ込まれてしまう、というのです。その地獄のことが48節で「蛆が尽きることも、火が消えることもない」と語られており、その「火」から49節の「人は皆、火で塩味をつけられる」が導き出されています。そして今度は「塩」という言葉から50節の「自分自身の内に塩を持ちなさい」という教えが語られているのです。このように、単語はつながっているが、内容的には脈絡がないいくつかの教えが並べられている、それが本日の箇所を読んだ時に受ける第一印象です。しかし、一見脈絡のない教えが並んでいるように見える本日の箇所も、よく読んでいくと、全体を貫いている一つの流れが見えてくるのです。その、言わば地下においてつながっている水脈をご一緒に探り当てていきたいと思います。

つまずかせることへの警告
 42節に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とあります。「つまずかせる」ということが問題となっているわけですが、「つまずく」という言葉は聖書によく出て来る大事な言葉の一つです。それは信仰の挫折、信仰を失ってしまうことを意味しています。歩いていた人が石につまずいて転んでしまうように、信仰をもって歩んでいた人が何かによって倒れてしまい、歩き続けることが出来なくなってしまうことです。ここではそれが「つまずかせる」という形で用いられています。それは、人をつまずかせる、人の信仰を失わせてしまう、人が神様を信じて生きていくのを妨げてしまうことです。主イエスを信じている一人の信仰者をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことは、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」というほどの大きな、恐ろしい罪なのだと警告されているのです。この警告は弟子たちに向けて語られています。つまり、イエス・キリストを信じる信仰者の間で、人の信仰をつまずかせることが起る、それを主イエスは警告しておられるのです。人をつまずかせることは、信仰者の交わりの中でこそ起ります。教会における交わりの中で、人を傷つけ、悲しませるようなことが起ると、それは信仰を前提としない世間一般の交わりにおけるよりもはるかに深く人の心を傷つけ、その人をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことにもなるのです。このことは、先週読んだ40、41節に語られていたことと比べてみた時に、その対照にはっとさせられます。40、41節にはこう語られていました。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。これは、弟子たちどうしの間でのことではなくて、教会の外の人々、信仰者でない人々との間でのことです。私たちと同じ信仰を持っていない人々が、私たちがキリストの弟子だという理由で、あるいはそのことを知りつつ、一杯の水を飲ませてくれるなら、つまりどんな小さなことであれ、私たちに協力してくれるなら、その人々は味方なのであり、神様はその人々に必ず報いを与えて下さるのです。そのように、信仰者でない人々が好意をもって助けてくれることが見つめられた直後に、今度は、信仰者どうしの間で、人を助け支えるどころか、つまずかせてしまうことがある、ということが見つめられているのです。これは私たちが、主の前に深く恥じ入り、赤面しなければならない教会の現実なのではないでしょうか。主イエスのこの警告を私たちは恐れをもって真剣に受け止めるべきです。信仰を持っていない人が、神様の報いを受けるのに、信仰者である私たちが、石臼を首に懸けられて海に投げ込まれた方がマシであるような、神様の怒りを受ける、ということが起り得るのです。

強い者が弱い者をつまずかせる
 私たちがそのように人をつまずかせてしまうのはどうしてなのでしょうか。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」とあります。ここに、人をつまずかせることの基本的な構造が示されていると思います。つまずかされるのは、たいてい「小さな者」です。「弱い者」と言い換えてもよいでしょう。いろいろな意味で弱さを持っている者、強くない者、そのために自分は人から重んじられず、軽く扱われている、という思いを持っている人がつまずくのです。そして、そのような人をつまずかせる者とは、その人よりも大きな者、強い者です。弱い者が強い者をつまずかせるということはまずありません。強い者が弱い者をつまずかせるのです。信仰の弱い人をつまずかせるのはたいてい信仰の強い人です。信仰が強いからそういうことが起るのではありません。信仰が強いと人をつまずかせてしまうなら、信仰は弱い方がよい、ということになりますが、そうではないのです。人をつまずかせてしまうのは、正確に言うと、信仰が強い人ではなくて、信仰が強い者であろうとしている人です。その場合の信仰が強いということにはいろいろな内容があって、信仰のことをよく知っている、知識がある、という場合もあれば、一生懸命に奉仕する、愛の業に励む、ということである場合もあります。いずれにせよ、信仰において強い者でありたいと願い、教会の中で人よりもより大きな者、立派な者でありたいと願っている人が、弱い者をつまずかせる結果を生むのです。何故なら、自分が強い者、大きな者、立派な者になろうとする時、私たちは必然的に自分の周囲に、弱い者、小さな者を作り出していくことになるからです。弟子たちがまさにそういう過ちに陥っていたことが、この章の33節以下に語られていました。彼らは道々、自分たちの中で誰が一番偉いか、と議論していたのです。つまり、誰が一番大きい者か、強い者、立派な者かということです。自分が大きい者、強い者でありたいという思いに彼らは捕えられています。それは、相対的に人を自分より小さい者、弱い者の立場に置こうとすることです。弟子たちは、偉くなりたいという思いによって、自分の周囲の人を自分より小さい者、弱い者としようとしていたのです。そのようなことによって、小さい者、弱い者をつまずかせることが起るのです。
 自分が一番偉い者でありたい、強い者、大きい者でありたいと願っている弟子たちは、別に人をつまずかせようと思っているわけではありません。むしろ自分がより良い者、より信仰の深い者、より熱心に奉仕する者となろうとして努力していたのです。しかしそれが結果的に人をつまずかせるような歩みとなっていました。私たちも同じです。人をつまずかせることは、つまずかせようとして起ることではありません。むしろ自分は熱心に、一生懸命信仰の向上のために励んでいる、より良い奉仕のために努力している、そういうことの中で、人をつまずかせることが起るのです。だとしたら私たちはどうしたらよいのでしょうか。熱心に、一生懸命信仰に励むと人をつまずかせてしまうなら、いっそいいかげんな、適当な信仰に留まっていた方がよいということなのでしょうか。そうではありません。問題は、私たちが、信仰において、どのようなことを熱心に励んでいくか、どういう向上を目指すかなのです。そのことを主イエスは、次の43節以下で教えておられるのです。

つまずかない信仰
 43節からのところは、同じ「つまずき」について語られていますが、人をつまずかせることではなくて、自分がつまずくことが見つめられています。自分がつまずいてしまうことを引き起こすものがあれば、たとえそれが片手、片足、片目というように自分の体の大事な一部であっても切り捨てなさいと主イエスはおっしゃっているのです。人をつまずかせることへの警告が、自分がつまずかないように、という勧めに変わっています。それは脈絡のないことのようにも感じられますが、しかし主イエスはこのみ言葉によって、私たちが信仰において何を励み、努力し、どのような向上を目指すべきかを語っておられるのだと言えるでしょう。つまり私たちが信仰において励み、努力していくべきことは、豊富な信仰的知識を得ることでもなければ、立派な奉仕、愛の業をすることでもないのです。つまずかないこと、これこそが、本当に求めていくべきことであり、何にもまさる信仰的向上なのです。そしてこれこそが、本当の意味での信仰の強さです。信仰が本当に強い人とはどういう人かというと、信仰的知識が豊かな人ではないことは勿論ですが、熱心に愛の奉仕をしている人でもなくて、決してつまずかない人です。教会で何があろうとも、誰に何を言われても、どんな目に遭っても、勿論悩んだり、苦しんだり、悲しんだりするけれども、しかし決してつまずくことはない、信仰を失ってしまうことがない、そういう人こそが本当に信仰の強い人であり、目立たない所で教会を支えている、縁の下の力持ちと言える人なのです。牧師の立場から言わせてもらうと、そういう人のことは安心して見ていられます。信頼していろいろなことを任せることができます。難しいことを相談することができます。逆に、大変よい奉仕を熱心にしていても、何かのことでつまずいてしまうのではないか、とハラハラさせられる人、安心して見ていられない人もいるのです。つまずかないというのは、大変消極的な、何でもないことのように感じられるかもしれませんが、実はとても大事な、そして難しいことです。自分と神様との関係がしっかり確立していなければそうはなれないのです。神様との関係、交わりが不確かだと、人間のことが気になります。他の人たちの中で自分はどれくらいの位置にいるか、と自分の言わば偏差値を計り、自分が熱心に奉仕し、愛の業に励んでいることを人がどれだけ評価してくれるか、ということに信仰の拠り所を見出していくようなことになります。そうなるともうつまずきの一歩手前です。大変熱心に信仰に励み、奉仕していた人が、ある日突然つまずいてしまう、ということがそこで起るのです。つまずかない信仰というのは、周囲の人々がどうであるか、その中で自分がどのように評価され、受け入れられているか、というような人間どうしの関係によって支えられるのではなく、主イエス・キリストによって与えられている神様の恵みのみに根拠を置く信仰、他の人との関係はどうであれ、神様の自分に対する恵みは揺らぐことがないということを確信している信仰なのです。

片手片足片目を切り捨てよ
 私たちは、そのような信仰に生きるためにこそ努力していかなければなりません。信仰が向上するとは、そのようにつまずかない信仰となっていくことなのです。そのために必要なのは、自分がより大きな者、強い者、立派な者となることを求めるのではなくて、むしろ自分の身からつまずきとなるものを切って捨てることです。あなたの片手が、片足が、片目が、あなたをつまずかせるなら、と言われています。手も、足も、目も、私たちにとって大事なものです。私たちは、この世の人生において、何事かを成し遂げ、業績をあげ、立派な者、ひとかどの者、強い者、偉い者となるために、いつも自分の手や足や目の働きを高めよう、強めようとしているのではないでしょうか。しかし私たちがより高めようとしている手や足や目の働きが、私たちと神様との交わりを妨げるものともなり得るのです。自分の働き、業績、立派な奉仕を追い求めていく中で、神様の恵みよりも自分の業績の方が大事に依り頼むようになってしまうなら、素晴しい業績が私たちの信仰をつまずかせるものとなってしまうのです。そのようなつまずきを避けるために、自分の手や足や目を、むしろ切り捨てなさいと主はおっしゃるのです。手や足や目を切り捨てたら、私たちは不自由な体になります。バリバリと人一倍働くことができない、弱い者となります。人の世話にならなければ生きていけない者になるのです。しかし主は、敢えてその道をこそ歩めと言っておられます。そのような弱さに生きよとおっしゃっているのです。それは、自分の力や働きや立派な奉仕によって神様の前に大きな者、強い者として立つのではなくて、また人と自分とを見比べて、どちらがより偉いとか、優れているとか、どちらが先か、などということにこだわるのではなくて、ただ神様の恵みによって生かされる者となれ、ということです。本当に命にあずかっていく道はそこにこそあるのです。そこにこそ、本当に喜んで隣人と共に生きる生活があるのです。自分の働きにこだわり、五体満足な強い者、立派な者になることにこだわり、人よりも偉い者になって生きようとするところには、本当の命にあずかる道はありません。そこには、人をつまずかせ、自分もつまずいていくような歩みしかないのです。それは、地獄の消えない火の中に落ちて行く歩みです。両手が揃ったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい、というみ言葉はそういうことを語っているのです。

塩で味付けられた言葉
 49節以下には、塩味をつけられた者として生きなさい、という教えが語られています。塩は人間の生活に欠かすことのできないものです。熱中症の予防に塩分補給が大事だ、ということが最近強調されるようになりました。塩がなくては人間は生きていけません。また塩は消毒や食品の保存などにも有効です。それゆえに塩による清めということが、洋の東西を問わず古代から行なわれていました。そのように貴重な、また高価なものだったために、古代ローマでは、兵隊に対する給料を塩で払ったことがあり、そこから給料を意味する「サラリー」という言葉が生まれました。サラリーとは、塩、英語ではソールトから来ているのです。そのように無くてはならない塩を自分自身の内に持ちなさいと主イエスは語っておられます。しかしその「塩味をつけられる」とはどういうことなのでしょうか。コロサイの信徒への手紙の第4章6節を読んでみたいと思います。新約聖書の372頁です。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」とあります。この「快い」という言葉は、以前の口語訳聖書では「やさしい」と訳されていました。原文の言葉は「恵みにおける」という意味です。塩で味付けされた言葉とは、恵みにおける言葉です。その恵みとは勿論、神様の恵みです。神様が独り子である主イエス・キリストをこの世に遣わして下さって、その主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さる、その恵みです。この神様の恵みこそ、私たちが生きるために無くてはならない塩です。その恵みによって味付けられた言葉を語る者となること、それが、私たちが塩味をつけられるということの意味でしょう。主イエス・キリストによって与えられた神様の恵みによって生き、その恵みによって味付けられた言葉を語る者となりなさい、と主イエスは言っておられるのです。ところが私たちは、その塩とは別のものによって、自分の働き、業績、立派な奉仕などによって自分の人生を味付けようとしているのではないでしょうか。しかしそのような人生には、一番大切な味が欠けています。神様の恵みという塩味のない人生は、塩を入れずに化学調味料だけで造った料理のようなものです。不味くて食べられたものではない。いやそれだけでなく、それは人をつまずかせる歩みです。お互いの間の平和を損ない、妬みや争いを引き起こしていくような歩みです。主イエス・キリストによって実現した神様の恵みという塩を自分自身の内にしっかり持つことによってこそ、私たちは互いに平和に過ごすことができるのです。

火で塩味を付けられる
 神様の恵みの塩を自分自身の内に持つことはどのようにしてできるのでしょうか。そのことが49節に語られています。「人は皆、火で塩味を付けられる」とあります。神様の恵みの塩は火によって与えられるのです。この火とは何でしょうか。「火」という言葉が出て来たのは、43節や48節の「地獄の火」からの連想です。地獄において、神に背いた罪人たちが消えない火で焼かれる、ということから、火で塩味をつけられることによって神様の恵みの塩を自分の内に持つことができる、という話が導き出されているのです。罪人が裁かれる地獄の火と、神様の恵みの塩味をつけられることとがどうして結びつくのだろうかと思います。この全く正反対のものが結びつくのはただ一点、主イエス・キリストの十字架においてのみです。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。それは、私たちの罪に対する神様の裁きを身代わりになって引き受けて下さったということです。神様の独り子である主イエスが、罪人である私たちに対する神様の裁きの火、地獄の火を、代って引き受け、その火で焼かれて下さったのです。そのことによって私たちは、神様の救いの恵みを受け、恵みの塩味を付けられたのです。火で塩味を付けられる、というのはそういうことでしょう。主イエスの十字架の死が、地獄の火、裁きの火を、恵みの塩に変えたのです。ですからこの箇所には、地獄の火に焼かれるとか、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれるとか、神様の裁きの厳しさ、恐ろしさが語られていますが、それは私たちを恐れさせるために語られているのではありません。主イエス・キリストがそれらの厳しい裁きを代って引き受けて下さったことによって、私たちはこのような裁きから救われているのです。

信仰の向上を求めつつ歩もう
 主イエス・キリストによるこの救いを受け、神様の恵みの塩味を付けられた私たちはもはや、自分の働き、業績、立派な奉仕などによって自分の人生を味付けなくてもよいのです。人との相対的な関係の中で自分の価値を確認しなくてもよいのです。主イエス・キリストによって与えられている神様の救いの恵みが私たちをしっかりと捉えているのですから、自分にどんな力があるか、どんな立派な奉仕ができるかなどということに依り頼むのをやめて、神様の恵みに身を委ねればよいのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第46編の11節に「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。自分の力に依り頼むことをやめ、主なる神様こそがあがめられるべきまことの神であることを知ることによってこそ私たちは、この詩の8節と12節に繰り返されている、「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」という信頼に生きることができるのです。そしてそこにこそ、自分がつまずくこともなく、人をつまずかせることもない歩みが与えられます。またそこでこそ、塩で味付けされた恵みの言葉を語る者となることができます。そういうことこそ、私たちが熱心に励み、求めていくべき信仰の向上です。そういう信仰の向上を求めつつ、クリスマスに備えるアドベントの時を歩んでいきたいのです。

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