夕礼拝

キリストの支配

「キリストの支配」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第69編5-14節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第3章17-22節
・ 讃美歌 : 461、382

はじめに
本日は、ペトロの手紙一第3章17節から22節までの御言葉に共に聞きたいと思います。このペトロの手紙一とは、教会の歴史において、始めの頃に教会に対する迫害や弾圧が強くなりかけていたときに、教会に連なるキリスト者を励ますために書かれました。この当時の教会もイエス・キリストを救い主と信じる者たちが集っておりました。けれども様々な理由により教会へ集うがゆえに迫害や弾圧を受けるという苦難の中にありました。そのような苦難の中にあるキリスト者を励ますためにペトロは手紙を書きました。

ただ一度
ペトロは、教会に集うキリスト者が受ける苦難を語るにあたり、イエス・キリスト御自身の受けた苦難とそれに続く栄光を明らかにし、イエス・キリストを模範にすることを勧めてきました。イエス・キリストを模範とすることは、キリストの死と復活にあずかるということです。本日の箇所は17節「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」イエス・キリストを信じるがゆえに迫害や弾圧を受けるとは大変苦しいものです。このペトロの手紙の背後にある事情は教会に対する迫害が切迫しており、またキリスト者が危機の中にいるということもこの手紙の最初から述べております。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と1章6節にはあります。キリスト者は様々な試練の中に置かれておりました。歴史的な文書を見ますと、そこではキリスト者達は謂れのない疑いによって徹底的に残忍な方法で苦しみの中で命を奪われたことが記されています。人間が願う幸せな生活とは程遠いものであります。
そこでペトロの手紙は改めて語ります。18節「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」キリストも苦しみの道を歩まれた、と語ります。私たちは苦しい局面に出会うとまるで一人きりで苦しみを背負っているかのように思ってしまいますが、「キリストも」とあります。私たちは一人ではない。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。」私たちと同じ場所に並んで、キリストも共にいて下さるということです。キリストはどのような場面においても私たちと共にいて下さるということです。けれども、キリストは正しい方でありながら「正しくない者たちのために苦しまれた」のです。それは私たちを「神のもとへ導くため」です。キリストは私たちを「神のもとへ導くために」自ら義である、正しい方であるのに苦しまれた。不義なる者、正しくない者たちである私たちを「神のもとへ導くために」苦しみの道を歩まれたのです。
私たちのこの地上の歩みと言うのも苦しみから逃れることはできないものです。自分の与えられている環境、健康、仕事、家庭どれをとっても「苦しみなど何一つない」と言える人はいないものです。そのような苦しみの中でキリストが共にいて下さることを信じ歩んでおります。それがキリスト者の生き方でしょう。けれども、私たちがどんなに苦しみを味わったとしても、その苦しみによって誰かを「神様のもとへと導く」ものではありません。この 18節にはキリストは「正しい方」という表現があります。どのように「正しい方」であるのか「正しくない者のために正しい方が苦しまれた。不義なる人ではなく、義なる人がキリストです。この人自身は義しい人、その義しい人が不義の人々のために苦しまれた。この義なるお方は苦しみを受けられ、命を捨てられたということです。それもただ一度苦しまれたのです。ただ一度、一回限りということです。その一回が決定的だと言えるのです。二度も三度も繰り返す必要はなく、ただ一度苦しまれたのです。この一度が、決定的であり、正義の勝利を確保なさる、そのような苦しみの死、十字架において死なれたということです。この18節において語られているキリストの十字架における苦しみのゆえに、17節では「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」と迫害、弾圧を受けるキリスト者たちを励ましているのです。

肉なる思い
18節の後半にはこのようにあります。キリストは「肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」ここは少し難しいところですが、イエス・キリストは肉体では死なれたが、‘霊’だけは殺されないですんだ、ということではありません。イエス・キリストの肉体は痛み、苦しみを覚えられたけれども‘霊’では悠々たる者として地上の世界にも天上の世界にも、何処の世界にも自由自在に行き来できたということではありません。キリストは「肉では死に渡された」とは人間としては死に渡されたということです。
「肉」として死なれたとは人間として死なれたということです。ここでの「肉」とは神様の御心に逆らう者のことです。神様に逆らう者はみな「肉」なる存在であります。私たち人間の思いと言うのはどんな振る舞い、行いであっても「肉なる」ものなのです。神様に逆らう思いが「肉なる」思いです。イエス・キリストはそのような肉としての人間のお姿を取られ、徹底的に罪を背負って下さいました。そして神様に逆らう肉なる思いの人間がイエス・キリストを苦しませ、死なせたのです。けれどもイエス・キリストは「霊では生きる者とされたのです。」神様によってイエス・キリストは「霊では生きるものとされた」のです。神様に逆らう、正しくない不義なる人間がイエス・キリストを苦しませ、十字架の死へと追いやった。けれども、神様がそのイエス・キリストを霊によって生かして下さった。神様に逆らう者、神様から離れている私たち、そして目の前の苦しみにいつも追われている人間を、なお神様のもとに立ち返らせて下さる出来事が起こりました。罪の中を歩む私たちを神様のもとに導く出来事とは十字架におけるイエス・キリストが苦しみを受けられた出来事です。主イエス・キリストは人間の罪のために命を捧げられたのです。主イエス・キリストの十字架の出来事はそのような人間を「神様のもとへ導くための」出来事でありました。イエス・キリストはこの地上に肉体を取ってお生まれになり、人間として歩まれ、人間として肉体の死を迎えられました。けれども、神様の霊によって生きる者となった。

陰府に降って
本日の箇所の後半の19節から22節とは、神様の霊によって生きる者となったキリストについて語られており、少し難しいところです。19節「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とあります。イエス・キリストが十字架に死んで神様の霊によって復活され宣教、すなわち伝道をされたとあります。「捕らわれていた霊たちのところ」で伝道をされた。死んだ人たちの霊に対してイエス・キリストが伝道をされたということです。主イエス・キリストが十字架によって死なれた後に、既に死んでいる者たちのところで宣教されたということです。少し分かりにくいことかもしれませんが、非常に大事なことです。「捕らわれていた霊たちのところ」とは使徒信条にあります「陰府」と言うことと近い意味です。私たちの信仰の基本を語る信仰の告白として使徒信条があります。主日礼拝において唱えます。週報の裏面に記載されております。上から6行目に「陰府にくだり」とあります。この「陰府」とは、当時の人が考え出したものです。この当時の世界観とは、天上と地上と地下という3つの層から出来ていると考えられていたのですが、陰府には死んだ人が集まると考えられていました。陰府という考え方はそのようなところから来ております。大切なのは、イエス・キリストが「捕らわれていた霊たち」即ち死者たちに対して伝道をされたということです。なぜ、この手紙はそのようにイエス・キリストが死者たちに伝道されたことを記したのでしょうか。本日の箇所ではありませんが、少し先の4章6節にこうあります。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」肉において裁かれて死んだようでも、神様との関係において、霊において生きるようになるためにイエス・キリストは死者たちに伝道をされたということです。このことは、迫害や弾圧によって命を失うかもしれない当時のキリスト者たちに慰めの言葉となったことでしょう。また、イエス・キリストの福音を知らずに、知ってはいても信じるまでに至らずに亡くなった人がおります。そのような人は救いに与ることが出来るのであろうか。信仰者はまだ信仰を得ていない家族、友人達を目の前にして自分たちと同じところに行くことができるのだろうか、と考えてしまうものです。主イエス・キリストが死者に伝道をされたとはどういうことでしょうか。

神が忍耐して
主イエスが伝道をされたのは「捕らわれていた霊たち」です。そしてこの「捕らわれていた霊たち」について20節において語られています。「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」「捕らわれていた霊たち」とはノアの箱舟の時に従わなかった者たちということです。ノアの箱舟の話とは、旧約聖書の創世記題6章に語られております。神様が人間を造られた後に、人間は神様に背き、神様はそれを裁くために大洪水を起こし人間を滅ぼしたという話です。その時に神様に従っていたのはノアの一家だけでした。そしてそのノアの家族だけが救われました。ノアは神様の命令どおり箱舟を造って、洪水に備えていました。しかし、他の人々はノアがそのように箱舟を造っているのを見て、神様の裁きを知っていたはずなのに、神様に従おうとはしなかったのです。神様に従わなかった人々が裁きを受けたのです。けれども、ノアの箱舟の時の人たちだけが神様に従わない不従順であったわけではありません。この手紙は、ノアの箱舟のときに神様に従わなかった人々たちのことをここに書いているのは、キリストの福音に従わなかった人の代表としているのです。既に死んだ人々にどのような救いの道が備えられているかということについては、ここでははっきりとした答えは記されてはおりません。人間には知らされてはいない。神様のみがご存知である。神様の御業を信じるだけでありましょう。イエス・キリストが「捕らわれていた霊たちのとこと」まで伝道に行かれたと記してあるのはイエス・キリストの御業の偉大さを伝えるためであります。イエス・キリストは救い主として自分の身を顧みない恵みの深さを告げようとしたのです。イエス・キリストが捕らわれた霊たちの「陰府」にまで行かれたのは、それほどまでにしてイエス・キリストがあらゆる人間を救おうとされた、ということを示そうとしていることなのであります。イエス・キリストは十字架につけられ、苦しみを受けられ、葬られ、復活された。そのようにして、ただ人間を救おうとされたのです。苦しみを受ける者の友となり、神様に背いている人間を救おうと遂に十字架にまでかかられた。だからこそ、陰府にまで降り、救おうとされたのです。世々の教会は使徒信条においてもこの「陰府にくだり」という一句を入れたのです。主イエス・キリストの人間に対する救いの御業の大きさと激しさとを信仰をもって言い表したのです。この救いの御業のために主イエス・キリストがどんなに苦しみを受けられたかということが大事なのでありましょう。

勝利を信じる
捕らわれていた霊たち、陰府にあった霊がどのように救われたかについては何も記されておりません。ぇれども、ノアの時に救われた者たちが洪水という水を経て救われたことがあります。この洪水の時に救われた者は、ノアとその妻と三人の息子とその妻たち、合計8人であったと創世記7章13節にあります。何人であるにせよ、彼らが水を経て救われたことは、後に信仰に入る者たちが水、即ち洗礼によって救われるということを示しているのです。救い主はキリストであり、キリストの十字架と復活による救いの御業によるものですから、水だけで潔められるものでもありません。水で体が単に清潔になるということではなく、洗礼によってそれまでの罪に死に、生まれ変わるということです。イエス・キリストと共に歩む生活を始めるということです。イエス・キリストが正しい方でありながらも正しくない罪人である人間のために死んで下さり復活なさった。そのイエス・キリストの救いの出来事を信じ、洗礼を受ける。私たちが洗礼を受けることは、それまでの罪に死に新しい命に起きる。一度(ひとたび)死に、そして新しい命を生きる。それは主イエスにおいて起きたことを模範するものであります。
それまでの罪に死に、新しい命に生きる。救いの御業を信じることによって、神様のもとへと導かれる歩みを始めるのです。
神の御子であるキリストは、地上において十字架において苦しまれ死に渡され、復活された。キリストは死から復活された、死に勝利をされました。キリストの勝利を信じること、キリストがどのような時も共にいて下さる。私たち自身の勝利にもなるのです。

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