主日礼拝

イースター礼拝
平和を実現する人々は幸いである

「平和を実現する人々は幸いである」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第2章1-5節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章9節

平和を実現することの難しさ
 本日はイースター、主イエス・キリストの復活を喜び祝う日です。このイースターの礼拝においても、今主日礼拝において基本的に読み進めている、マタイによる福音書第5章の「幸いの教え」からみ言葉に聞くことにしました。本日は9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」というところです。ここは、主イエス・キリストの復活の記念日であるイースターに読むのに相応しい箇所だと思うのです。その理由はだんだんに明らかにしていきたいと思います。
 「平和を実現する人々は、幸いである」と主イエスは言われました。以前の口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは」となっていました。平和を実現し、つくり出す者は幸いだ。本当にそうだ、と今私たちは感じています。ロシアによるウクライナ侵攻によって始まった戦争がもう一年以上続いており、双方に多くの犠牲者を出しつつなお終わりそうにありません。多くの難民も生まれており、世界中にこの戦争の影響が及んでいます。両国の間に何とか平和を実現できないものか、誰か間に立ってこの悲惨な戦いをやめさせて平和を築ける人はいないものか、と切に願います。そういう人々がいたら、その人々は本当に幸いであり、誰もが心から感謝するに違いないのです。しかしそれはまことに困難なことであることを誰もが感じています。この戦争は、誰かの鶴の一声で終わるような単純なものではないのです。
 私たちは皆平和を願っています。戦いや争いを好み、わざわざそれを求めている人は多くはないでしょう。しかし平和を願うことと、それを実現することは違います。主イエスがもし、「平和を好む人々は幸いだ」と言われたのなら、誰でも、ああそれは私のことだ、と思うでしょう。しかし主イエスが言われたのは、平和を実現する人、つくり出す人は幸いだということです。それは私たちのことではない、と言わざるを得ません。私たちはしばしば、争いを避けて問題から逃げ、先送りしてしまいます。それは、平和を好んでいることではあっても、それを実現することにはなりません。争いを避けているだけで平和を実現することはできないのです。しかしだからといって、とことん争えば平和が実現されるのかというと、そうも言えません。争いというのは、お互いが自分の正しさを主張するところに起るのです。少なくともお互いにある言い分があるのです。相手が自分の言い分を受け入れれば問題が解決して平和が実現する、とお互いが思っているから争いが起り、いつまでも終わらないのです。自分は正しい、と確信している人ほどそういう争いをしたがります。正しい自分が勝利して相手が屈服すれば平和が実現する、ということです。しかし、人間の争いや対立において、どちらかが完全に正しくてどちらかが完全に間違っているということはないでしょう。争って決着をつけようとするなら、そこに起るのは、力の強い者が勝ち、弱い者はねじ伏せられる、ということです。そういうことによって本当に平和が実現することはないでしょう。つまり、争いを避けてばかりいても平和は実現できないし、さりとてとことん争って決着をつければよいというものでもないのです。どうすればよいのか。全くお手上げというのが、私たちの現実なのではないでしょうか。
 同じように、国と国との間の平和を実現することもとても難しいことです。私たちの国は、戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳っている平和憲法を持っています。軍事力を放棄し、戦争をしないと宣言することで平和を実現しよう、というのが日本国憲法の精神です。世界中がこの憲法の精神を受け入れれば確かに戦争は起こらないでしょう。しかしこの国にも自衛隊という世界有数の軍事力があるという現実が示しているように、世界中にこの精神を具体化することはほとんど不可能です。第二次大戦後まもなく80年、この国が曲りなりにも平和だったのは、平和憲法のおかげと言うよりも、アメリカの軍事力の傘の中にいたからではないか、とも思われます。それについては様々な意見があるでしょうが、いずれにせよ、今後、この国に、そして世界に、どうすれば平和を実現することができるのかは、とても難しい課題であることを、今私たちは感じているのです。

神のような人になる
 主イエス・キリストは、この教えを語られた時に、平和を実現することの困難さをどう考えておられたのでしょうか。平和を実現する人々は、神の子と呼ばれる、と主イエスはおっしゃいました。神の子とは、神のような人ということでしょう。平和を実現することのできる人がいたら、その人は、神のような人なのです。ウクライナに平和をもたらすことができる人がいたら、その人はまさに神のような人です。平和を実現する者となりなさい、というのは、神のような人になりなさい、ということなのです。「そんな無理なことを」と私たちは言うしかないのではないでしょうか。しかし主イエスは、そのことを私たちに求めておられるのです。主イエスには、そのことをお求めになる理由、根拠があるのです。それは何でしょうか。

主イエスこそ、平和を実現する神の子
 私たちが神の子と呼ばれるとしたらそれは、神のような人になるということですが、文字通り神の子であられる方が一人だけおられます。それは主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストは、人間となってこの世に来られた神の独り子です。この神の子主イエスは、平和を実現する方として来られました。主イエスこそが、平和を実現なさる神の子なのです。主イエスはどのようにして平和を実現なさったのでしょうか。そのことを語っている、エフェソの信徒への手紙の第2章14節以下を読みたいと思います。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」。

敵意という隔ての壁を取り壊した主イエス
 ここに、主イエス・キリストが私たちの間に平和を実現して下さったことが語られています。それは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」ということによってです。私たちの間には、敵意という隔ての壁があり、それが平和を妨げているのです。「壁」は敵意の象徴です。かつて「ベルリンの壁」が東西の敵意の象徴でした。今はパレスチナにそういう壁があり、アメリカのトランプ前大統領もメキシコとの間に壁を作りました。敵意のある所には物理的にも壁が築かれるのです。しかしそれだけでなく、私たちは敵意によって人との間に見えない壁を築いてしまいます。主イエス・キリストはその壁を取り壊して下さったのです。「御自分の肉において」、ということはつまり、十字架にかかって死んだことによってです。そのことが、15節の後半から16節にかけてこのように語られています。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」とあります。主イエスの十字架の死によって、敵対している両者に、神との和解が与えられたのです。つまり神との間の敵意が先ず取り除かれたのです。それによって、両者の間の敵意という隔ての壁が取り壊されたのです。主イエスは十字架の死において、神との間の敵意を滅ぼして下さり、それによって、対立する者どうしの間の敵意も滅ぼして、平和を実現して下さったのです。

罪から生じる敵意
 つまり聖書は、人間どうしの間の敵意の根本には、神に対する敵意がある、と見ているのです。その神に対する敵意こそ、人間の罪です。生まれつきの私たちは罪に陥っています。神に対して敵意を抱いているのです。それは私たちが基本的に、自分が主人でなければ気が済まないからです。自分の人生の主人は自分だと思っているからです。そう思っている私たちは、主人である自分に奉仕し、自分の願いを叶える神しか受け入れようとしません。いわゆる「ご利益」を与える神というのは、主人である自分に奉仕する神であり、私たちはそういう神をこそ求めているのです。しかし生きておられるまことの神は、人間の召使ではなくて、主人です。人間を造り、命を与え、人生を導き、そして命を終わらせる方です。主人であるまことの神は、自分が主人であろうとしている私たちにとって、思い通りにならないだけでなく、自分の自由を奪い、束縛し、そして望んでいないのに人生を終わらせる敵と感じられるのです。神を信じ、神の下で生きることは、自分が主人でいることができない、窮屈な、不自由なことに感じられるのです。だから、ご利益を与えるだけの神ならいいけれども、生きておられるまことの神、私たちの主人であることを主張する神に対して、私たちは敵意を抱くのです。それが人間の罪の根本です。そしてその敵意は、人に対しても向けられていきます。お互いに自分が主人であろうとしている人間どうしの間には必然的に対立が生じます。相手が自分の思い通りにならないと、その人が自分の邪魔をしていると感じて、敵意を抱くのです。つまり、自分が主人であろうとしている生まれつきの私たちは、基本的に、神に対しても人に対しても、敵意を抱いていくのです。しかし神こそが私たちに命を与え、人生を導いておられる主人です。その神を無視して自分が主人であろうとすることは罪です。その罪から、神に対する、そして隣人に対する悪意、敵意が生まれ、それが壁を築き、平和を破壊するのです。

主イエスの十字架による和解
 主イエス・キリストの十字架は、私たちの罪と敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということです。主イエスは、人々の敵意を受けて、その敵意によって死んだのです。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、神の独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺したのです。主イエスがその苦しみと死をご自分から進んで引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を受け止めて下さり、それを乗り越えて、そこに平和を宣言して下さったのです。私たちと神との、敵意による対立関係は、もうこれで終わり、我々は和解した、もはやここには敵意はない、と宣言して下さったのです。これは神の一方的な宣言です。主イエスが十字架にかかって死んで下さった後も、私たちはなお自分が主人であろうとする罪の中におり、だから神に対しても隣人に対しても、敵意を抱いてしまいます。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもうない、と宣言して下さっているのです。私たちがどんなに罪を犯し、神に敵対し続けても、主イエスの十字架の死によって実現したその神の宣言はもはや変わることがないのです。主イエス・キリストは、そのようにして、神と私たちとの間の平和を実現し、それによって人間どうしの間にも平和を実現して下さっているのです。
 主イエス・キリストはこのようにして平和を実現して下さいました。私たちは、争いを避けるか、争いに勝って自分の主張を通すか、あるいはどこかで相手と折り合いをつけるか、それしか平和を実現するすべを知りません。しかし主イエスは、全く別の仕方で平和を実現して下さいました。それは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死ぬことによってです。しかもその死において、敵対している罪人である私たちを赦して下さり、敵意を滅ぼして下さり、もうここには敵意はないと宣言して下さったのです。まことの神の子であるイエス・キリストは、そのようにして、私たちとの間に平和を実現して下さったのです。

主イエスの復活による神の宣言
 父なる神はその主イエス・キリストを、三日目に復活させて下さいました。それは、主イエスの十字架の死が、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって死んで下さった、私たちの救いのための死であったことを、父なる神がはっきりと示して下さった、ということです。主イエスの十字架の死によって、敵意が、すなわち罪が、滅ぼされ、神の恵みが勝利して、和解が実現したことは、神が主イエスを復活させて下さったことによって、高らかに宣言されたのです。主イエスの復活においてこそ、私たちの罪はもう赦され、神と私たちとの間に敵意はもうない、私たちは神との関係を回復されて、新しい命を生きることができる、ということが示されているのです。その新しい命は、私たちの肉体の死によっても失われることはない、ということも、主イエスの復活によって示されています。主イエスを復活させて下さった神は、世の終わりの救いの完成において、私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さるのです。主イエスの復活は、そのことの保証でもあるのです。イースターは、神が実現して下さったこの救いを喜び祝う日です。そして毎週の日曜日が、小さなイースターです。主イエスの復活の日である日曜日に、私たちは神を礼拝し、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神が敵意を乗り越え、平和を実現して下さり、復活と永遠の命への希望を与えて下さったことを常に新たに覚えつつ歩むのです。

平和を実現する者として生きる
 「平和を実現する人々は、幸いである」という教えは、その私たちの歩みにおいて、意味と力を持ってきます。私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従って、平和を実現する者として生きるのです。それは争いを避けることによってでも、争いに勝利して敵を屈服させることによってでも、あるいは相手と妥協することによってでもありません。主イエスがして下さったように、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えていく、そういう歩みを私たちは目指していくのです。そのようにして「平和を実現する人」として生きたマーティン・ルーサー・キング牧師の以下の言葉を味わいたいと思います。
 「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。
 「あなたがたをも勝ち取る」、それは、今自分たちを差別し、暴力によって抑えつけようとしているあなたがたをも友として勝ち取り、平和を実現するということです。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだ、というこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉です。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の上で、私たち人間の敵意、罪を全てその身に引き受けて死んで下さったことによって、敵意を滅ぼして下さったことを知っているからです。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利し、あなたがたをも勝ち取る、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力にも勝利して下さったことを知っているからです。このように語ったキング牧師は39歳で暗殺されました。しかし、主イエス・キリストの復活によって、神の恵みが人間の罪と死に勝利して、平和を実現したことを信じる私たちは、彼のこの言葉が虚しく消えていったのではないことを知っています。私たちも、彼の後に続いて、平和を実現する神の子として生きていくことができるのです。そんな無理なことを、と感じてしまう私たちですが、主イエスの十字架の死と、そして復活によって、敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった神は、私たちをも、「平和を実現する神の子」として下さっているのです。主イエスの復活によって実現している神の平和を信じることによって、私たちも、平和を実現する者として生き、その幸いにあずかっていくことができるのです。

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