夕礼拝

キリストの十字架の死

「キリストの十字架の死」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:アモス書 第8章9-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第15章33-41節
・ 讃美歌:311

十字架の死を見据えて受難週を歩む
 棕櫚の主日を迎えました。本日から受難週が始まります。マルコによる福音書によれば受難週の主イエスの歩みはこのようなものでした。日曜日に、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムへと入られました。その翌日、月曜日にはエルサレム神殿の境内で商売をしていた人たちを神殿から追い出されました。火曜日には神殿の境内で祭司長や律法学者、あるいはファリサイ派やサドカイ派の人たちと論じ合い、また神殿の崩壊を予告され、オリーブ山では弟子たちに世の終わりについて語られています。翌日の水曜日にはベタニアで一人の女性からナルドの香油を注がれました。木曜日に弟子たちと過越の食事をされ、そこで聖餐をお定めになります。その後、ゲツセマネで祈られ、そして弟子の一人であるユダの裏切りによって祭司長や律法学者たちに引き渡されたのです。そして金曜日。ユダヤ教の最高法院で死刑が決議され、ピラトによって十字架刑に処されることが決まりました。本日の夕礼拝では、マルコ福音書に沿ってこの金曜日に起こった出来事、すなわち主イエスの十字架の死に目を向けていきます。受難週の歩みは、主イエスが十字架へと向かわれていく歩みです。私たちは主イエスの十字架の死を見据えて、この受難週を歩んでいきたいのです。

血しおしたたる
 主イエスが十字架につけられたのは、マルコ福音書15章25節によれば午前9時でした。本日の箇所で午後3時に主イエスが死なれたと語られていますから、午前9時から午後3時までの6時間に亘って、主イエスは十字架上で苦しまれたのです。先ほど讃美歌311番「血しおしたたる」の1-3節を賛美しました。その1節で「血しおしたたる 主のみかしら、とげに刺されし、主のみかしら。悩みと恥に やつれし主の 痛ましきさま だれのためぞ」と歌われていました。この歌詞にあるように主イエスは茨の冠をかぶせられ、そのとげに刺され、釘を打たれて十字架につけられ、血を流されつつ苦しみと痛みの中で6時間を過ごされたのです。主イエスの十字架の死は、まことに凄惨な、目をそむけたくなるほどいたましく、むごたらしい出来事であったのです。

全地は暗くなり
 主イエスが十字架につけられてから3時間後の昼の十二時に「全地は暗くなり」、それが三時まで続きました。共に読まれた旧約聖書アモス書8章9節に「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」とあります。昼の十二時に、つまり真っ昼間に全地が暗くなり闇に覆われたとは、このアモスの預言の実現といえます。神のみ業によって真昼に太陽が沈み、白昼に大地が闇に覆われたのです。それは、「その日」の到来、つまり神の裁きの日の到来を意味するのです。確かに私たちの教会は主イエス・キリストの十字架の死を高く掲げ、そこにこそ世を照らす希望の光があると告げ知らせています。しかし私たちはその十字架の死において、全地が闇で覆われたことを忘れてはなりません。キリストの十字架の死は闇が世界を覆った出来事であり、凄惨な、目をそむけたくなるほどいたましく、むごたらしい出来事であったことから、私たちは目を逸してはならないのです。
この世界も闇に覆われている
 なにより私たちは、主イエスの十字架の死を単に2000年前に起こった出来事として、今の私たちと関係のない出来事として眺めているわけにはいきません。今、私たちが生きている世界も闇に覆われているように思わずにはいられません。たとえばウクライナにおける戦争は、さらに状況が悪化しているように思えます。ロシアが隣国に戦術核兵器を配備する一方で、欧米諸国によるウクライナへの軍事支援も強化され、イギリスやドイツからウクライナに戦車が引き渡されたと報道されていました。多くの国を巻き込み、諸国の利害が複雑に絡み合ってなかなか戦争終結の糸口が見えません。そのために被害は拡大する一方ですが、情報が瞬時に行き交う現代にあって、この戦争による被害の実態は正確には分かっていません。ウクライナの兵士や戦闘員の死者は1万人以上、市民の死者は少なくとも7000人を超えているようです。一方、ロシアの兵士や戦闘員の死者は、ロシアの発表では6000人程度、イギリス国防省の見方では4万人から6万人で、両者の間にはあまりに大きな開きがあります。いずれにしても確かなことは、亡くなった方一人ひとりの周りには愛する家族や友人がいた、ということです。私たちは一人の死が多くの嘆きと悲しみを引き起こすことを知っています。だからこそこの戦争によってどれだけの嘆きと悲しみが満ちているのだろうかと思わざるを得ません。また戦時下での暴力は、凄惨な、目をそむけたくなるほどむごたらしいものです。このようにウクライナにおける戦争だけに目を向けても、私たちはこの世界が闇に覆われ、苦しみと悲しみに溢れていると思わずにはいられないのです。そのような現実の中で、私たちは主イエスの十字架の死に目を向けているのです。

私たちも闇に覆われている
 世界に目を向けるだけでなく自分自身に目を向けても、私たちは闇に覆われていると思うことが少なくないのではないでしょうか。私たちが暮らしている街は夜になっても明るいままですが、私たちの心を覆う闇はますます深まっているように思えます。先行きの見えない不安や恐れがあります。「これからどうなるのだろう」という漠然とした思いが、世代を超えて多くの人々に広がっています。アンケート調査などを見ると、特に若い人たちの多くが将来に希望を持てない、これから日本は良くならない、と答えています。将来だけでなく、今、突然の病や事故に直面している方、生涯抱えていかなくてはならない病と闘っている方、死を迎えようとしている方がいます。日々の生活に追われてまったく余裕のない方、社会の中で孤立している方がいます。このように私たち自身も闇に覆われているのです。

神への信頼の叫び?
 そのような私たちが、今、主イエスの十字架の死を見つめています。主イエスは三時に大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。詩編22編の冒頭の言葉です。2節ではこのように言われています。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。この詩編の詩人は、苦しみのどん底にあって、神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫んでいたのです。主イエスは十字架上でこの詩人の叫びをご自分の叫びとされましたが、私たちはこの主イエスの叫びをどのように受けとめたら良いのでしょうか。
 主イエスの叫びは、神への信頼の叫びとして受けとめられることがあります。22編を読み進めていくと分かるように、後半部分(23節以下)では前半部分と打って変わって、詩人が神を賛美しています。25節に「主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます」とあるように、神が苦難の中にある詩人の助けを求める叫びを聞き届けてくださったからです。ですから22編は全体として嘆きから賛美へと移っていくのです。このことから主イエスはご自分の叫びを神が聞いてくださり、必ず助けてくださることに信頼して、十字架上で22編全体を祈ろうとされた。しかし冒頭の言葉を叫ばれると力尽きて亡くなられた。だから「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、神に見捨てられることへの絶望の言葉ではなく、必ず助けてくださり、嘆きを賛美へと変えてくださる神への信頼の言葉であると受けとめるのです。このように受けとめられるのは、神の独り子が「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、死なれたことに躓きを覚えるからです。神の独り子であり、救い主である主イエス・キリストが神に見捨てられた絶望の中で死ぬわけがない、という思いがあるのです。

神に見捨てられた絶望の言葉
 しかしこのような読み方はマルコ福音書の物語に沿っているとはいえません。マルコ福音書では、十字架の死に向かっていく中で主イエスの孤立が段々と深まり、主イエスを見捨てる人が段々と広がっていくことが語られています。ユダ一人の裏切りが語られているのではないのです。主イエスが捕らえられたとき弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいます。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14章31節)と言っていたペトロも、大祭司の屋敷の中庭で、三度、主イエスを知らないと言います。主イエスがエルサレムに入られたとき「ホサナ」と喜びの声を上げていた群衆も「十字架につけろ」と叫びます。人々は十字架につけられた主イエスを罵って「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15章29-30節)と言います。祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わる主イエスを侮辱して「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(15章31-32節)と言います。一緒に十字架につけられた強盗たちも主イエスを罵りました。弟子たちに見捨てられ、最高法院で見捨てられ、ピラトに見捨てられ、群衆にも、隣で十字架にかけられている強盗からも見捨てられる。そしてその極みに、主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びがあるのです。マルコ福音書の物語は、すべての人から見捨てられた主イエスが、十字架の死において神からも見捨てられたことを見つめています。ですから「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、嘆きを賛美へと変えてくださる神への信頼の言葉ではなく、神に見捨てられた絶望の言葉と読むべきなのです。

何の罪もない主イエスが裁かれる
 その後、主イエスはもう一度大声で叫ばれ息を引き取られました。アモスが預言した「その日」が到来し、神の裁きが実現したのです。しかし裁かれたのは、神に背き続けてきた人たちではありません。何一つ罪を犯さなかった神の独り子イエス・キリストが、神に裁かれ見捨てられたのです。本来、神に裁かれ見捨てられなくてはならないのは、神に背いてばかりいる私たちです。神は私たちをご自身との交わりに生きるように造ってくださいました。神と共に生き、神からの語りかけに聞き、神に語りかけて生きる。そういう神との交わりに生きる者として私たちを造ってくださったのです。しかし私たちは神に背き、神から離れ、神なしに自分の力だけで生きようとし、神との交わりを壊してしまいました。
 神は正しいお方です。このような人間の罪を見過ごされたり、なかったことにされたりする方ではなく、人間の罪に対して激しく怒られ、その罪を裁かれる方です。それにもかかわらず十字架上で神の怒りを受け、神に裁かれたのは罪人である私たちではなく、何の罪もない主イエス・キリストでした。私たちは間違えてはなりません。私たちの罪を見て見ぬ振りをして大目に見ることが神の愛ではありません。そうではなく、裁かれるべき私たちの代わりに、ご自分の独り子を十字架にかけて裁かれたことこそが神の愛なのです。私たちの代わりに、私たちの罪のために、私たちの罪をすべて担って、主イエス・キリストは十字架上で神の怒りを身に受け、神に裁かれ見捨てられたのです。

独り子を十字架に架ける
 アモスは全地が闇に覆われるその日に起こることを、10節でこのように告げています。「わたしはお前たちの祭りを悲しみに 喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え どの腰にも粗布をまとわせ どの頭の髪の毛もそり落とさせ 独り子を亡くしたような悲しみを与え その最期を苦悩に満ちた日とする」。神の裁きの日に、喜びは嘆きに変えられ、独り子を亡くしたような悲しみが与えられ、苦悩に満ちると言われています。しかしアモスの預言は私たちにおいて実現したのではなく、神が独り子を十字架に架けることにおいて実現しました。「独り子を亡くしたような悲しみ」は、本来、裁かれるべき私たちではなく、神ご自身が受けてくださいました。神ご自身が、私たちの代わりにご自分の独り子を十字架に架けることによって、文字通り独り子を亡くす痛みを負ってくださったのです。裁かれるべき私たちが苦悩に満ちる代わりに、主イエスが十字架上で神に見捨てられる苦悩と絶望をことごとく味わってくださったのです。

神殿の垂れ幕が裂けた
 38節に「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とあります。神殿の垂れ幕とは、エルサレム神殿の聖所と至聖所の間にあった垂れ幕のことです。至聖所は、神ご自身が現れる場と考えられていましたが、大祭司だけが年に一回、そこに入ることができ、神のみ前に進み出ることができました。その際、大祭司は必ず罪の赦しのための動物の犠牲の血を携えて行かなくてはなりませんでした。このように神殿の垂れ幕は、大祭司以外の者が至聖所に入るのを妨げ、神のみ前に進み出るのを妨げていたのです。その垂れ幕が「上から下まで真っ二つに裂け」ました。それは、私たちと神を隔てていたものが取り除かれた、ということです。隔てが取り除かれることによって、私たちは神のみ前に進み出ることができるようになり、神とアクセスできるようになりました。別の言い方をすれば、神との交わりに生きることができるようになったのです。私たちの罪によって壊れてしまっていた私たちと神との交わりは、主イエスが十字架で血を流されて死なれ、私たちの罪が赦されることによって回復されました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けることによって、動物の犠牲の血ではなく主イエスが十字架上で流された血によって、私たちが神と共に生き、神からの語りかけに聞き、神に語りかけて生きる道が開かれたのです。アモスは8章11-12節でこのように言っています。「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない」。けれども私たちは主イエス・キリストの十字架の死によって、もはや主の言葉を聞くことのできない飢えと渇きを味わうことはありません。主の言葉を探し求めても見いだすことができない、ということは決してないのです。み言葉に聞き、み言葉を求めて、神と交わりを持って生きる道が開かれているからです。

本当にこの人は神の子だった
 主イエスが十字架で死なれる一部始終を見ていたのは、主イエスを十字架に架けたローマの百人隊長でした。39節にこのようにあります。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。「イエスがこのように息を引き取られたのを見て」とは、主イエスが神に信頼して絶望することなく死なれたのを見て、ということではないでしょう。もしそうであったならば、「本当に、この人は神の子だった」という百人隊長の信仰告白はなかったと思います。十字架上で絶望することなく神に信頼して死なれたイエスを見つめても、そこには苦しみや絶望に負けることなく、強靭な精神力によって神に信頼し続ける英雄イエスがいるだけです。「この人は英雄だ」、「この人の信仰はすばらしい」という感動は与えられても、「本当に、この人は神の子だった」という信仰の告白は与えられないのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、神から見捨てられる絶望の言葉に違いありません。しかし注目すべきは、主イエスがその絶望の言葉を「わが神、わが神」と呼びかけて、神に向かって叫ばれていることです。主イエスは神から見捨てられる絶望の中にあっても、神に向かって「私の神」と呼びかけ続けられました。それは十字架の死においても、神から見捨てられる絶望の中にあっても、主イエスが神との交わりに生きておられた、ということです。十字架の死に至るまで、息を引き取られるそのときまで「わが神」と呼びかけ続けられ、神との交わりに生き続けられた主イエスを見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。

主イエスの十字架の死が約束していること
 確かに主イエスは詩編22編の詩人の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びをご自分の叫びとして叫ばれました。しかしそれは、主イエスと詩人の叫びが同じであるということではありません。主イエスの絶望と詩人の絶望は決して同じではないのです。今、私たちの生きている世界は、また私たち自身も闇に覆われ、苦しみと悲しみ、嘆きが満ちています。その現実の中で私たちが主イエスの十字架の死を見つめるとき、この世界に生きる人たちの絶望が、ほかならぬ私たちの絶望が、主イエスの絶望と重なるようにも思えます。しかしそこには決定的な違いがあるのです。主イエスの叫びは、主イエスのほかに誰も叫ぶことのできない叫びであり、主イエスの絶望は、主イエスのほかに誰も味わうことのできない絶望です。ただ主イエスだけが神に見捨てられるという絶望を味わい、その絶望の中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。そしてそのことによって、私たちは神とアクセスできるようになり、神と共に生き、神との交わりに生きられるようになったのです。このことは、私たちがもはや神に見捨てられることはない、ということであり、神に見捨てられる絶望を味わうことはない、ということにほかなりません。神に見捨てられたように思える苦難のどん底にあるときも、苦しみや悲しみ、不安や恐れに覆われるときも、希望がまったく見えないときも、私たちは決して神に見捨てられることはないのです。主イエス・キリストの十字架の死は、このことを私たちに約束しています。主イエスが十字架上で神に見捨てられ、その絶望をことごとく味わわれて死なれたことによって、私たちはもはや神に見捨てられることも、その絶望を味わうこともなくなったのです。だからパウロは、ローマの信徒への手紙8章38節以下でこのように告白しています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。主イエス・キリストの十字架の死において示された神の愛から私たちが引き離されないとは、いかなることがあっても私たちが神に見捨てられないということにほかならないのです。

あなたは決して見捨てられない
 この世界にはなお苦しみ、悲しみがあり、凄惨な、目をそむけたくなるほどいたましい、むごたらしい出来事があります。私たちの日々の生活にも苦しみや悲しみ、嘆きは満ちています。世の終わりに救いが完成するまでは、なお罪の力が残っているからです。しかし私たちは闇に覆われているような世界の中で、苦しみや悲しみの中で、絶望に駆られる中で、主イエス・キリストの十字架の死に目を向けます。主イエス・キリストが十字架で神に見捨てられて死なれたことを思い起こします。そのとき私たちは苦しみや悲しみの中で、絶望に駆られる中で、「あなたは決して見捨てられない」という神の語りかけを聞くのです。主イエス・キリストが「あなたに代わって」神に見捨てられ十字架で死なれたゆえに、「どんなことがあってもあなたは決して見捨てられない」という神の語りかけを聞くのです。今日から受難週が始まります。私たちが神に決して見捨てられずに生きることができるために、十字架の死へと歩まれた主イエスを見つめ、その十字架の苦しみと死、そこに示された神の愛に目を向けて歩んでいくのです。

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