召天者記念

天の故郷を熱望しつつ

「天の故郷を熱望しつつ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第34章1―23節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第11章13―16節
・ 讃美歌:518、379、575

召天者を覚えて
 本日の礼拝は召天者記念礼拝です。「召天者」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、天に召された方々、つまり死んだ方々のことです。この教会の教会員として天に召された方々、あるいは教会で葬儀がなされた方々のことを覚えつつ私たちはこの礼拝を神様にささげています。お手元に「召天者名簿」をお配りしました。これは1986年以降の召天者の名簿です。なぜ86年以降かといいますと、85年までの召天者のリストは、毎年作成されている教会員住所録に記載されていたからです。86年以降はそれがなくなったので、それ以降の召天者のリストがまとまった形で配布されたことはありません。そこでこのたび新たに召天者記念礼拝を始めるに際して、86年以降のリストを作成し、その方々のご遺族にご連絡をさしあげることにしました。1986年から今年までの26年間に、この名簿に記されている方々が天に召されたのです。しかし勿論これ以前に天に召された方々は沢山おられます。この教会は本年創立138年を迎えています。関東大震災や横浜大空襲による火災等で記録が失われている方々もあります。138年の教会の歴史において天に召された方々を全て把握することは不可能だと言わなければならないでしょう。お配りした名簿はそれらの方々の中のごく一部なのです。しかしまた、特に今日この礼拝にお集まり下さったご遺族の方々にとっては、この名簿の中のお一人の、あるいは何人かのお名前が、自分にとってかけがえのない大事な名前だ、とお感じになっておられるでしょう。その一人のことを覚えるために今日ここに来た、という方もおられると思います。それもまた大切な思いです。この名簿に並んでいるお名前の一つ一つの背後には、それぞれにかけがえのない、喜びや悲しみに彩られた一人の人の波瀾万丈の人生があるのです。「召天者」という、顔の見えない抽象的な存在をではなく、自分にとって大切な一人の人、あるいは自分が関わりを持ち、共に歩んだ何人かの人々のことを具体的に覚えながらこの礼拝をささげることができるなら、そこにはさらに大きな恵みがあると思います。

信仰を抱いて死んだ
 そのように、この名簿にお名前があるお一人一人の人生はそれぞれに違っており、個性的です。しかし、これらの全ての人々に共通していることが一つあります。それを言い表しているのが、先ほど朗読された新約聖書、ヘブライ人への手紙第11章の13節の冒頭の言葉です。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」。このことが、それぞれに個性的であり、一つとして同じ人生はない、召天者の方々全てに共通している唯一つのことなのです。もっとも、この名簿に記載されている方々の中には、洗礼を受けた信仰者、教会員ではなかった方々もおられます。しかしその方々の葬儀、葬りは、教会において、あるいは牧師の司式によって、教会の信仰に基づいてなされたのです。教会の信仰に基づいて葬りがなされたということは、その方々の人生の歩みの全てが主なる神様のみ手の中にあったことを信じつつ、その主のみ手に亡くなった方々の魂をお委ねしたということです。そのことによって、その方々をも共に「召天者」として覚えることができると思うのです。  「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」。これは、先に天に召された信仰の先輩方のことを覚えるこの礼拝に相応しい言葉です。しかしそのことを離れて考えてみると、これはちょっと不思議な言葉だとも言えるのではないでしょうか。どうして「死にました」と言うのだろうか。「この人たちは皆、信仰を抱いて生きました。私たちもその人たちの模範に倣って信仰を抱いて生きていきましょう」と言った方が、今生きている人々への勧めの言葉としては相応しいのではないだろうか。信仰を抱いて死んだことよりも、その人々が信仰を抱いて生きたことの方が大事ではないのか。そういう疑問を抱く人もいるのではないでしょうか。「信仰を抱いて生きました」と言うか、「信仰を抱いて死にました」と言うか、これはどちらでもよいことではなくて、とても大切な問いです。「信仰を抱いて生きました」ではなくて「信仰を抱いて死にました」と語られているところに、聖書の信仰、教会の信仰における大事なことが示されているのです。

死ぬことの幸い
 「信仰を抱いて死にました」という言葉によってこの手紙が教えているのは、第一には、信仰は生きている間だけのことではない、ということです。この世を生きる何十年かの人生の間だけ神様を信じて、それによって支えや慰めを得られればそれでよい、というものではないのです。信仰というものをそのように捉えてしまう傾向が私たちにはあるのではないでしょうか。この世を越えた神様を信じることが信仰のはずなのに、見つめているのは結局この世の人生のことだけ、ということが起るのです。宗教や信仰は、悲しみや苦しみに満ちているこの世の人生において、慰めや支えや励ましを与えるためにある、宗教が天国とか極楽とか、死んだ後の幸いについて教えるのは、この世の人生を忍耐強く生きて行くための励ましを与える手段に過ぎないのだ、という思いが私たちにはあるのではないでしょうか。信仰をそのように捉えているということは、「生きる」ことにしか目が向いておらず、「死ぬ」ことに目を向けていないということです。人間はいつか必ず死ななければならない、ということは誰でも知っている事実ですが、多くの人は、そのことをできるだけ見ないように、考えないようにして生きています。信仰においてこそその死と向き合い、それをしっかり見つめることができるはずなのですが、ところが信仰においても、死に目を向けず、生きている間のことばかりを考えてしまう、ということが起るのです。神様の救いや恵みや慰めを、この世の人生における救いや恵みや慰めとしてしか捉えようとしないとそうなるのです。そこでは、「信仰を抱いて死ぬ」ということの幸いが見えなくなります。「信仰を抱いていたけれども結局は死んでしまった。信じていても何にもならなかった」、ということになってしまうのです。「信仰をもって生きる」ことの恵みばかりを見つめようとするとそうなるのです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」という聖書の言葉は、信仰によって、死ぬことの中にもある幸い、祝福を知ることができる、ということを語っています。信仰を抱いて死ぬことの幸いを知ることが、聖書の信仰の大切なポイントなのです。礼拝の前の求道者会で繰り返し学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」はその問一において、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問うています。神様を信じる信仰は、生きている間のみでなく、死においても、私たちを本当に慰め、支えるものなのです。またそのような慰めを求めていくことこそが聖書の教える信仰なのです。

約束されたものを手に入れることなく
 信仰は生きている間だけの問題ではない、死ぬことにも幸い、祝福があるのだと申しますと、肉体は死んでも魂が存続し、その魂が神様のみもと、いわゆる天国に行って平安を得る、という幸いのことだと思われるかもしれません。そうなると、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」というのは、この人たちは今は天国で幸せに暮しています、という話になります。しかしこの13節を読み進めるならば、そういうことを言っているのではないことが分かってきます。13節後半は、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」となっています。ここに語られているのは、「信仰を抱いて死んだ」人たちが天国へ行ったことではなくて、「約束されたものを手に入れなかった」ことなのです。「約束されたもの」とは、神様が約束して下さった救いの完成です。私たちが罪と死の力から解放され、また一切の苦しみや悲しみから解き放たれて、神の子として、もはや死ぬことのない永遠の命を生きる者とされることです。この人たちは、この救いの完成を手に入れることがないままに死んだのだ、ということが見つめられているのです。それは「この人たち」のみの話ではありません。今日私たちが覚えている召天者の方々も皆、約束されたものを手に入れてはいませんでした。そして遅かれ早かれ死んで召天者の名簿に加えられていく私たち一人一人もまた、約束されたものを手に入れることなく死んでいくのです。人間の死というのはそのようにいつでも、救いの完成への途上における死です。救いがすっかり完成され、それを手に入れてから死を迎えるなどということはないのです。この世における働きにおいては、あるいは、全てをやり遂げてもう何も思い残すことはない、という中で死を迎えることもあり得るかもしれません。それはとても稀なことで、たいていの場合には、いろいろとやり残したこと、心残りなことがある方が多いわけです。しかしたとえ全てをやり遂げ、思い残すことはない、という稀な、恵まれたケースがあったとしても、救いの完成を手に入れて死ぬことはできないのです。それゆえに、死は誰にとっても恐れや苦しみの伴うものです。「約束されたもの」をまだ手に入れていない状態で、つまり悩みや苦しみ、悲しみや絶望からの解放に至っていない中で、私たちは死を迎えることになるのです。この死に伴う苦しみを侮ってはなりません。天寿を全うしたと言えるまで長生きすれば心残りはないだろう、というのは勝手な思い込みです。たとえ百まで長生きしたとしても、死はやはり、道半ばで世を去らなければならないという苦しみを伴うのです。自分はもう十分生きたから死ぬのは平気だと思うとしたら、それは本当に死に直面したことのない者の傲慢だと言わなければならないでしょう。

喜びの声をあげつつ
 しかしこの13節は、そのように約束されたものを手に入れることなく死んでいった人々が、喜びの声をあげつつ生きそして死んだのだ、と語っています。約束されたものを手に入れることなく、死によって中断されてしまう人生を、この人たちは喜びの声をあげつつ生きることができたのです。そのことを可能にしたのが、彼らの抱いていた信仰だったのです。
 その信仰とはどのようなものだったのでしょうか。そのことがこの11章の1節に語られています。そこには、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。「望んでいる事柄」とは、神様が約束して下さった救いの完成の約束です。望んでいるけれどもその救いはまだ目に見えるものとはなっておらず、手に入れることはできていません。救いの完成は「見えない事実」のままなのです。しかしこの人々は、今手に入れているわけではないその救いの恵みを確信し、目に見える現実となっていないその救いの完成を信じたのです。そしてその約束の実現をはるかに望み見て、喜びの声をあげつつ生きたのです。信仰とはそのように、約束された救いをまだ手に入れていない中で、将来それが与えられることを確信しつつ喜びに生きることなのです。そういう信仰に生きた多くの人々のことが4節から12節までに語られており、それを受けて13節は「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」と言っているのです。

約束の実現への前進
 「信仰は生きている間だけのことではない」というのはこういうことです。つまり私たちの信仰は、この世を生きている間に神様の恵みを受けるためにあるのではなくて、この世においてはまだ与えられていない、手に入れていない救いの約束を望み見て喜ぶためにあるのです。勿論私たちはこの世の人生においても、神様からいろいろな恵みをいただき、導きを受けます。生きている間には神様の恵みはない、などということではありません。しかし、最も中心的な、救いの完成は、この世を生きている間には与えられないのです。それは約束のみ言葉としてのみ示されるのです。その約束の実現は、肉体の死を経た後に与えられるのです。それゆえに、「信仰を抱いて生きる」ことのみでなく、「信仰を抱いて死ぬ」ことに大きな幸いがあるのです。それによって、神様の救いの約束の実現に、大きく一歩近づくことができるからです。この世の人生における幸福や恵みのみを見つめ、求めている限り、この幸いはわかりません。そこにおいては、死ぬことは「信仰を抱いていたが結局死んでしまう」という消極的なことでしかないし、恵みや祝福を失うことにしかならないのです。しかしこの世の人生においては手に入れることのできない救いの完成を、世の終わりに与えると約束して下さっている神様を信じる信仰においては、死ぬこともまた、その約束の実現への前進となるのです。

ホームとアウェーの逆転
 約束されたものを手に入れていない中で、将来それが与えられることを確信しつつ、喜びに生きるという信仰は生きている間の私たちの歩みに大きな転換を引き起こします。それを語っているのが13節の後半です。約束の実現をはるかに望み見て喜びの声をあげつつ生きた信仰者たちは、「自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」とあります。つまり信仰によって彼らは、この世において「よそ者、仮住まいの者」となったのです。地上には本当の故郷を持たない者となったのです。それは16節にあるように、「更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望」する者となったからです。信仰によって私たちは、天の故郷を熱望しつつこの地上を生きる者となるのです。14節の、「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです」という言葉もそのことを語っています。信仰によって私たちは、天の故郷を探し求めて生きる者となるのです。生まれつきの私たちは、地上を故郷として生きています。地上における歩みこそが、自分の本来の居場所であり、自分が落ち着いて、安心して生きることができる場所はここしかないと思っているのです。だから死ぬことは、その故郷を奪われることだと感じるのです。しかし、神様と出会い、主イエス・キリストによる救いにあずかり、世の終わりにおける救いの完成の約束を与えられた者は、その救いの完成にこそ自分の本当の故郷、帰るべき所があることを知らされます。そして今のこの地上の人生は、よそ者としての、仮住まいの歩みであることに気づくのです。このことは、サッカーの試合などで用いられる、「ホーム」と「アウェー」という言葉をあてはめて考えることができます。自分のチームの本拠地あるいは自分の国での試合は「ホームゲーム」です。そこでは、多くの観客が自分たちを応援してくれます。声援に支えられて試合を展開できるのです。相手チームの本拠地、相手の国での試合は「アウェーのゲーム」です。観客の大多数が相手チームを応援している中での戦いは苦しいものとなります。「故郷」というのは、要するに「ホームゲーム」ができる所です。「よそ者、仮住まいの者」というのは「アウェー」ということです。信仰によって、この「ホーム」と「アウェー」の逆転が起こるのです。生まれつきの私たちは、この世が「ホーム」だと思っています。そこにこそ自分の仲間がおり、支えてくれる人たちがおり、居場所があると思っているのです。そして、死によってその「ホーム」から、決定的に「アウェー」の世界に追いやられるように感じているのです。ところが、世の終わりに与えられる救いの完成の約束を信じる信仰を与えられることによって、「ホーム」と「アウェー」が逆転します。神様によって与えられる救いの完成、天の故郷という真実の「ホーム」を示されることによって、地上を生きるこの世の人生において実は私たちは「アウェー」のゲームを戦っていたのだということに気付かされるのです。そして、仮住まいのこの世から天の故郷への旅立ちである肉体の死は、「アウェー」の状態から「ホーム」への決定的な転換となるのです。信仰によって与えられるこの転換によって、死ぬことの意味が大きく変わるのです。無理やりに故郷から引き離されてしまうような恐れを感じていた死が、神様が約束して下さっている本当の故郷への大きな前進となるのです。信仰を抱いて死んだ私たちの先輩方、召天者の方々は、この転換を与えられ、死において天の故郷に向かっての大きな前進をとげたのです。

主イエスの勝利に支えられて
 けれどもこのホームとアウェーの逆転は、地上の故郷よりも更にまさった天の故郷があるのだと考え、肉体の死はそこに向かっての一歩前進であると信じる、というような、私たちの考え方の転換のようなものによって実現するのではありません。信仰を抱いて死んだ人々は皆、人生の途上で主イエス・キリストに出会ったのです。主イエスは、神様の独り子、まことの神であられる方です。その主イエスが、この地上に、私たちのところに来て下さったのです。天の父なる神様のみもとというホームから、徹底的なアウェーであるこの世に来て下さったのです。そして私たちの全ての罪を背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。それは主イエスがアウェーでの苦しい戦いを戦い抜いて下さったということであり、主イエスの復活は、その戦いに勝利して下さったということです。そして主イエスは天に昇り、父なる神様の右の座に着かれました。アウェーでの戦いに勝利して、ホームへとお帰りになったのです。この主イエスの勝利によって、私たちの罪は赦され、主イエスの復活の命にあずかって、肉体の死を超えた新しい命、永遠の命に生きる者として下さる約束が与えられたのです。つまり私たちのホームが天にあることがはっきりと示されたのです。私たちはこの主イエスの勝利に支えられて、地上での、アウェーの戦いをしっかり戦い抜いていくことができます。アウェーでの戦いは捨ててよいのではありません。地上ではよそ者、仮住まいの者として生きるというのは、だから無責任な、いいかげんな生き方でよい、ということではありません。アウェーでの戦いをしっかりと戦い抜くことが大事なのです。地上の人生において神様が私たちそれぞれに与えておられる使命があります。それをしっかりと果していくことが大事です。天の故郷に向かって旅している旅人、寄留者であるからこそ、この世に埋没してしまうことなく、健全な批判精神をもって生きることができる、という面もあります。「地の塩」として生きるとはそういうことでしょう。信仰によって私たちは、この地上における人生を大切にし、責任をもってこの世に関わりつつ生きるのです。その歩みを支えるのが、主イエス・キリストによって与えられた救いの約束です。地上の人生においてはそれを手に入れてしまうことはできないけれども、世の終わりに約束されているその完成をはるかに望み見て喜びの声をあげつつ歩むのです。そのようにして、信仰を抱いて生きた先輩方の後に続き、やがて私たちも天の故郷に至り、信仰を抱いて死んだ召天者の方々との再会を喜びたいのです。

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