主日礼拝

私たちは誰のもの?

「私たちは誰のもの?」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第100編1-5節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第7章1-13節  
・ 讃美歌:1、148(1~4)、393、79

エルサレムから来たファリサイ派
 マルコによる福音書を読み進めており、第7章に入ります。最初の1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。ファリサイ派と律法学者とは基本的に同じと考えてよいでしょう。旧約聖書に記されている神様の掟である律法を研究し、それを人一倍厳格に守り実践するという生活を送っていた人々です。そして彼らは一般の人々に、日々の生活の中で律法を守って生きるための具体的な教えを与えていたのです。イスラエルの人々が、主なる神の民として相応しく、律法を守って生活するように指導していくことが彼らの働きでした。そういう人々が何人か、エルサレムからイエスのもとに来たのです。主イエスが今活動しておられるのはガリラヤ地方です。ユダヤの北の方、ガリラヤ湖の周辺のこの地は、エルサレムからはかなりの距離があります。当時のユダヤ人の感覚では、エルサレムを中心とするユダヤは「中央」であり、ガリラヤは「地方」「田舎」でした。その田舎であるガリラヤにイエスという男が現れ、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡を行い、多くの人々が彼の周りに集まっていることを伝え聞いたエルサレムのファリサイ派、律法学者たちが、イエスの語っていることとしていることを調べ、それが律法に適ったものかを確かめるためにやって来たのです。そういうことは既に3章22節にもありました。エルサレムから来た律法学者たちが、主イエスの悪霊追放のみ業について、「あれは悪霊の頭ベルゼブルの力でなされている」と言ったのです。今回エルサレムから来た人々も同じように、主イエスと弟子たちの活動にケチをつけ、批判しています。エルサレムの、当時のユダヤ人の宗教指導者たちが、主イエスの活動を牽制しようと必死になっている姿がここに語られているのです。

汚れた手で食事をする
 今回彼らが批判したのは、2節にあるように、「イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をするものがいるのを見た」ことについてでした。これは、「食事の前に手を洗わないなんて、まあ不潔」という話ではありません。彼らが批判したのは衛生上の問題ではなくて、神様の律法に関わることです。食事の前に手を洗うことは、彼らにとっては律法に命じられていること、神の民として身を清く保つためのことだったのです。彼らは神の前で清い者であるために、自分たちの生活から汚れたものを遠ざけようとしていました。食事の前に手を洗っていただけではありません。3、4節にこのように語られています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。寝台はどうやって洗ったのかなと思うのですが、ユダヤ人たちは皆このように、神様の民として身を清く保とうとしていました。中でもファリサイ派の人々は特に念入りにそれをしていたのです。そうすることによって、人々の模範となり、人々に神の民としての生き方を具体的に教えることができるわけです。そのようなファリサイ派にとって、多くの人々を集めて神の国の福音を説いているイエスの弟子たちが、手を洗わずに食事をしているなど、考えられないことでした。いやしくも人に神の道を説こうとする者は、自分がその道を正しく歩んでいなければならない、というのが彼らの思いです。それによれば、手を洗わずに食事をしているイエスの弟子たちは、人々に教える資格はないし、弟子にそんなことをさせているイエスは宗教指導者として失格、ということになるのです。こういう彼らの思いの根本にあるのは、宗教や信仰というものは、人が神の前に正しく清くあるためのものだ、という考えです。神の前に正しく清い者であるための道を教えるのが宗教であり、そのために精進し努力していくことが信仰をもって生きることだ、その指導者たる者は、自分がまず神の前に正しく清い者でなければならない、そうであってこそ人に神の道を教えることができる、ということです。このような思いは、私たちにおいても暗黙の内に常識となっているのではないでしょうか。私たちが教会で神様を礼拝し、主イエス・キリストを信じて生きているのは、神の前に正しく清い者となるためであって、そのために努力していくことが信仰だ、と私たちも皆思っているのではないでしょうか。つまり私たちは基本的に、このユダヤ人やファリサイ派の人々と同じことを考えているのです。そしてそれゆえに、私たちもこのファリサイ派の人々と同じことをしばしばするのです。つまり彼らは、主イエスの弟子の中に食事の前に手を洗っていない者がいるのを見て「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と言って主イエスと弟子たちを批判し、責めたのです。私たちも同じように、あの人は神の前に正しく清い者として生きていないと思う人を批判し、責めることをしばしばしているのではないでしょうか。

人間の言い伝え
 ところで、彼ら自身が言っているように、また4節にも語られていたように、「食事の前に手を洗わなければならない」という教えは「昔の人の言い伝え」です。それは厳密には「律法」とは区別されるべき、言い伝えとしての教え、口伝えの教えなのです。つまり旧約聖書のどこかに「食事の前には必ず手を洗いなさい」と書いてあるわけではありません。これは後から人間がつけ加えた教えです。どうしてそのように人間が教えを付け加えることが起るのかというと、ユダヤ人たちが、律法をきちんと守ろうと努力していく中で、少しでもそれに違反してしまいそうなことを生活から遠ざけ、そういう危険な所には近寄らないようにしていったことが原因です。それによって、実際には禁じられていないことまでも、用心のために避けるような教えが生まれていったのです。「食事の前に手を洗う」という教えについて考えるなら、律法には、神様の前で特別な儀式を行う者は水で体を清めるべきこと、あるいは罪の赦しを受けるしるしとして体を洗って清めることが教えられています。また、食べてもよい清い動物と食べてはいけない汚れた動物との区別も語られています。これらの掟が人々の意識の中で合体して、汚れたものが口に入ることを避けるために手を洗う、という教えが生まれたのでしょう。そのようにして、昔の人の言い伝え、つまり人間の教えが、律法そのものであるかのように、つまり神様の直接の命令であるかのように受け取られていったのです。主イエスはファリサイ派の人々からの批判に対して、先ずこのことを指摘することによって答えておられます。それが6?8節のお言葉です。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。「人間の戒めを教えとしておしえ」ている、「人間の言い伝えを固く守っている」、それがあなたがたの姿だ、と主イエスはおっしゃったのです。食事の前に手を洗っているかどうかなどというのは人間の言い伝えであって、主なる神がイスラエルの民に求めておられる神の民としての清さではない。あなたがたは神が求めている本当の清さを追い求めるのではなくて、人間の言い伝えを守ることで神をあがめている気になっているが、それはイザヤが語っているように、口先だけで神を敬い、空しくあがめていることでしかない。あなたがたは神の掟を捨てて人間の言い伝えに固執している、そのように主イエスは言っておられるのです。

どちらでもよいこと
 それでは主イエスは、食事の前に手を洗うという人間の言い伝えに対してどのような姿勢を取られたのでしょうか。ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちの中に汚れた手で食事をする者がいるのを見たのです。もしも主イエスご自身がそうしておられたなら、彼らはまっ先に主イエスをこそ非難したでしょう。ということは主イエスご自身は食事の前に手を洗っておられたようです。また弟子たちも全員が洗っていなかったのではなくて、中にそういう者がいた、つまり洗っている者もいれば洗っていない者もいたのです。ですから主イエスは弟子たちに、これは人間の言い伝えだからそんなものには従ってはいけない、と教えておられたわけではないようです。主イエスは、人間の言い伝えについては、「どちらでもよい」、自分がそれに従おうと思うならそうすればよいし、従わないと思うならしなくてよい、と教えておられたのです。主イエスはそのように、人間の言い伝えに捕われない自由さを持っておられました。どちらでもよいことには自由である、それが主イエスの姿勢です。その主イエスに従っている弟子たちも、人間の言い伝えから解放されて、それぞれ自分の判断で、例えば食事の前に手を洗う者も洗わない者もいた、そういう自由さを持って生きていたのです。つまり主イエスの弟子たちの群れというのは、軍隊のように皆が一糸乱れず画一化された行動を取る集団ではなくて、もっと緩やかな、見方によっては、あの人とこの人としていることが違うではないかと言われるような、それぞれが自分の判断で行動する自由な集団だったのです。

自由が苦手な私たち
 私たちは、特に日本人はと言えるのではないかと思いますが、この自由がどうも苦手です。どちらでもいいよ、と言われると困ってしまう。食事の前には手を洗うのか洗わないのか、どちらかに決めてくれないとどうしたらいいのか分からない、という感覚が私たちにはあるのではないでしょうか。それはどちらでもよいことだから自分で考えて自由に判断しなさい、と言われると困ってしまうのです。それはどうしてなのでしょうか。それは私たちが、他の人のことを気にしているからだと思います。自分で判断して行動した時に、他の人はどう思うだろうか、ひょっとして自分だけが人と違うことをして浮き上がり、批判されるかもしれない、そういう恐れを覚えるのです。そういう集団主義、みんなと同じでありたい、違うことをしたくない、という思いが支配的である所では、自由はむしろ迷惑なことになります。自由ですよと言われても自由にはできないのです。人の出方を見てから、できるだけ多くの人が行く方につく、ということになるのです。私たちが自由が苦手であるのは、そのように他の人の目を気にしているからだと思うのです。

本当に信じて従うべき方
 しかし主イエスの福音は私たちに自由を与えるものです。その自由とは、神様の律法などは気にせず、自分の好き勝手に生きる、ということではありません。主イエスが、人間の言い伝えに対して「どちらでもよい」とおっしゃったのは、神様の本当のみ心を知っておられ、それに従っておられたからです。神様が求めておられる清さは、食事の前に手を洗うというような外面的な清さではなくて、主なる神様を本当に信じ、信頼して依り頼み、自分を神様に委ねて従っていくこと、イザヤの預言の言葉を用いれば、口先で敬うのでなく、心で敬うことだと主イエスは知っておられ、そのように生きておられたのです。それゆえに、食事の前に手を洗うかどうかはどちらでもよいことだという自由に生きることができたのです。ここに、人間の言い伝えからの自由は何によって得られるのかが示されています。その自由は、言い伝えなど気にせずに何でも自分の思った通りにすればよいのだ、ということによって得られるものではないのです。人は、本当に信じ、身を委ねて従っていくことができる神の下で生きることによってこそ、それ以外の、人間のこと、この世のことから自由になることができるのです。逆に言えば、本当に信じ、従っていくことができる神の下で生きていないと、この世の様々な、本当はどちらでもよい人間の事柄に縛られ、振り回されていくのです。ファリサイ派の人々が、人間の言い伝えに固執し、それに縛られているのは、本当に信じて従うべきまことの神を見失っているからです。彼らは、神に従っているつもりでいるわけですが、実は、本当に信頼して身を委ねることができる神を見失っており、そのために人間の言い伝えの奴隷になってしまっているのです。

偽善
 主イエスはそのようなファリサイ派の人々のことを6節で「偽善者」と呼びました。偽善者というのは普通には、上辺は美しく敬虔そうな様子を装いながら、心の中では悪いことを考えている者です。私たちは誰でも、人に見せている外側の自分と、内側の、自分の内面との間にある隔たりがあることを感じており、「ああ自分は偽善者だ」と思うことがしばしばあります。しかしこのファリサイ派の人々には、そういう自覚は全くなかったと思います。彼らは、自分を実際より良く見せかけようとしていたのではなくて、律法に従って神の前に正しく清い者であろうと必死に努力していたのです。その努力は決して偽りではありません。しかしその努力は、神様のみ心ではなくて人間の言い伝えに基づいてなされていたのです。ためにその努力は結局、神の前ではなくて人の前での努力、人の目、人の評価を気にし、自分が良く思われること、自分の誉れを求める努力になってしまっていたのです。人間の言い伝えというのは、それを守っていれば、その社会において人からある評価、誉れを得ることができるものです。神に従っているつもりでいながら、知らず知らずの内に人からの評価を求めていく、ということが起こるのです。その結果、「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」ということになるのです。主イエスはそれを「偽善」と呼んでおられます。神様を敬い、神様に従い仕えているように自分では思っていながら、実は求めているのは人からの評価、自分の誉れとなっている、それがここでの「偽善」の内容であり、この偽善に陥ると、私たちは自分が偽善者であるという意識も持たなくなるのです。

コルバン
 主イエスは9節以下で、ファリサイ派の人々の偽善をさらにわかりやすい例で指摘しておられます。「父と母を敬え」は、十戒の第五の戒めであり、まさに神様から与えられている律法です。ところがファリサイ派の人々は、人間の言い伝えによってこの基本的な戒めをないがしろにしてしまっているのです。その言い伝えとは11、12節の「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」ということです。「コルバン」とはここに語られているように「神への供え物」ということです。年老いた父母を支え養うことは十戒において神様がお命じになっている人間の基本的な義務ですが、この言い伝えは、「これはコルバン、つまり神様への供え物ですから、あげることはできません」と言って父母への義務を逃れることができると教えているのです。そこに働いているのは、「神様への供え物は神様のものだから、それを他のことに用いるべきではない」という、信仰的に正しい理屈です。しかしその表面的な正しさを隠れ蓑にして、神様が求めておられる基本的な義務を無視し、それを拒むことが起こっている。つまり表面的な信仰の正しさが、むしろ自分の思いや欲望を正当化するための手段になってしまうのです。そこに、最も深刻な偽善があるのだと主イエスは指摘しておられるのです。

偽善からの解放
 私たちは、自分はこのような偽善とは無縁だとは到底言えないでしょう。神に従っているつもりでいながら、実は人からの評価を求めているということが私たちにもあります。また、表面的には信仰的に正しいことを語りながら、自己主張をしたり人を批判しているようなこともあります。そしてそういう自分の偽善に気付かないことも多いのです。このような深刻な偽善から解放されるためには何が必要なのでしょうか。それには、人間の言い伝えから解放されて、神様のみ心をこそ求めていくことが必要です。そしてそのためには根本的には、人の評価を気にして自分の誉れを求める思いから解放されることが必要です。簡単に言えば、「あの人は立派な人だ」と人に褒められたい、という思いから解放され、自由になることです。それができないと、人間の言い伝えから自由になることはできず、神様のみ心をこそ求めていくことができず、偽善から自由になることはできないのです。この解放、自由はどうしたら得られるのでしょうか。それは先程も申しましたように、本当に信じ、身を委ねて従っていくことができる神様の下で生きる者となることによってです。言い換えれば、私たちが神様のものとなることによってこそ、この解放、自由は与えられるのです。  「汚れた手」とありましたが、この「汚れた」という言葉のもともとの意味は「一般の、普通の」ということです。それが「汚れた」という意味になるのは、「一般の、普通の」ものは神様のものとされていないからです。「汚れた」の反対である「清い」という言葉は、聖書においては、「汚れていない、清潔な」という意味ではなくて、「神様のものとして区別されている」ということなのです。「聖なるもの、清いもの」とは、神様のものとして、一般のものから区別され、いわゆる「聖別された」ものです。ですから、神の民として自らを清く保つとは、生活を清潔にすることではなくて、自らを神様にささげ、神様のものとなって生きることです。つまり、自分の持っている何かをではなくて、自分自身を「コルバン」とするのです。コルバンとなった自分は、神様に供えられた神様の物ですから、他のことのために、つまり自分の評価や誉れを求めたり、自分の主張を通すために生きることはできないのです。「コルバン」という信仰的な言葉を、自分の欲望の隠れ蓑としてしまうような偽善から解放されるためには、私たち自身がコルバンとなること、神様への供えものとなることが必要なのです。

私たちは誰のもの?
 「私たちは誰のもの?」が本日の説教の題です。私たちは自分が誰のものだと思って生きているのでしょうか。自分は自分のものだ、というのが私たちの常識かもしれません。しかしそう思っている限り、私たちは、主イエスが与えて下さる自由に生きることはできないのです。いつも人の目を気にして、人からの評価に翻弄され、優越感や劣等感の間で揺れ動きながら、根本的にはどちらでもよいことであるはずの様々な人間の言い伝えや教えに縛られて生きることになるのです。自分は自分のものだと思っている者にとっては、宗教や信仰は、自分が神の前に正しく清くあるためのものです。主人はあくまでも自分であって、その自分を少しでも立派な、人に認められ褒められる者とするために宗教や信仰を利用しようとするのです。しかしそのように考えている限り、主イエス・キリストの救いの恵みは分かりません。主イエスは、清くも正しくもない罪人であり偽善者である私たちのために人間となってこの世に来て下さったのです。そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスを遣わして下さった父なる神はこのようにして、私たちの罪を赦し、清くも正しくもない私たちをご自分のものとして下さっているのです。「自分は自分のものだ」と言い張っている私たちに、「私は独り子の命を与えることによってあなたの罪を赦し、あなたを私のものとした。あなたはもう私のものだ。それゆえにあなたは神の民の一人として、私の愛の中で生きることができるのだ」と語りかけて下さっているのです。この神様の語りかけに応えて、本日共に読まれた旧約聖書、詩編第100編に歌われているように「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と告白して生きることが私たちの信仰です。その私たちの信仰はもはや、自分が神の前に正しく清い者であろうと努力することではありません。神様が、独り子イエス・キリストによってこの私を愛して下さり、ご自分のものとして下さっている、それゆえに私は神様のもの、コルバンとされている、そのことを受け入れて生きることが私たちの信仰です。その信仰に生きることによって私たちは、人間の言い伝えから、人の評価を気にすることから解放され、自由になるのです。主イエス・キリストによって与えられている神様の愛を信じ、その愛に身を委ねて神様に従い、それぞれに与えられている賜物と機会を自由に用いて、隣人を愛し、受け入れ、慈しみ、仕えていくことができるのです。

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