夕礼拝

復活なさって、ここにはおられない

「復活なさって、ここにはおられない」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第30編1-13節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第16章1-8節

安息日が終わると
 主イエスのご復活を記念し、祝うイースターを迎えました。その夕べ、私たちはマルコによる福音書が語る、主イエスの復活の物語に聴いていきます。マルコ福音書によれば、主イエスは金曜日の午前9時に十字架に架けられ、午後3時頃に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、つまり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて死なれました。ユダヤ教の暦では一日は夕方から始まります。また土曜日が安息日でしたから、主イエスが死なれた金曜日の午後3時とは、あと数時間で土曜日になる、安息日になるという時間帯でした。主イエスの十字架の死が語られた後、15章42節以下で主イエスが墓に葬られたことが語られていますが、その冒頭42節で「既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」と言われています。「既に夕方になった」とは金曜日の夕方になったということです。まもなく金曜日が終わり、土曜日、安息日が始まろうとしていたときに、主イエスは墓に葬られたのです。時を置かずに安息日を迎えます。その安息日が終わるのも夕方です。本日の箇所の冒頭1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とありますから、この三人の女性は安息日が終わった夕方に香料を買いに行ったのです。香料は死体が腐らないために用いられました。しかし夕方でしたから、その香料を持ってすぐに墓に行くのではなく、朝を待って墓に向かったのです。2節に「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」とは、そういうことです。「朝ごく早く」と言われていることに彼女たちの想いが表れています。安息日が終わってから夜になるまでは、ほとんど時間がありません。その短い時間の間に香料を買って準備を整え、朝が来るのを今か今かと待っていたのです。もしかしたら彼女たちは眠らずに夜を過ごしたのかもしれません。主イエスの死への深い悲しみと、少しでも早く主イエスのご遺体に会いたいという強い願いが、彼女たちを眠りから遠ざけたのです。

三人の女性
 マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人の女性は、主イエスの十字架の死を見守っていた女性たちの中にいました。15章40節で、主イエスの十字架の死を「婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」と言われています。またアリマタヤ出身のヨセフが、主イエスを十字架から降ろし、そのご遺体を亜麻布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口に石を転がして塞いだのも見ていました。彼女たちは主イエスの死と埋葬に立ち会ったのです。そこには男性の弟子は一人もいませんでした。彼らは主イエスが捕らえられると主イエスを見捨てて逃げてしまっていたのです。一番弟子のペトロも三度主イエスを知らないと言い、三度目には「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」(14章71節)のです。男性の弟子たちは皆、十字架を前にして主イエスを見捨てることによって、主イエスを知らないと言うことによって、自分から主イエスとの関係を断ち切ってしまったのです。しかし女性の弟子たちはそうではありませんでした。主イエスが十字架で死なれるときも、墓に埋葬されるときも、その場にいて見守り続けていたのです。そして今、彼女たちは墓に埋葬された主イエスに会いに行こうとしているのです。

主イエスのご遺体に会いたい
 遺体であっても主イエスに会いたいという彼女たちの想いに、私たちは共感を覚えるのではないでしょうか。それは、彼女たちが遺体の防腐処理をしっかり行おうとしていたことへの共感ではなく、遺体であっても主イエスに会い、主イエスに触れ、主イエスの存在を確かめ、主イエスとの別れのときを過ごしたいという願いへの共感です。彼女たちは主イエスが十字架で死なれたときには遠くから見守るしかありませんでした。アリマタヤのヨセフが主イエスのご遺体を墓に葬ったときも、一緒に葬ったのではなく、おそらく離れて見ていただけでした。今、やっと彼女たちは主イエスに近づき、主イエスとの時間を過ごすことができそうなのです。返事はなくても主イエスに語りかけることができる。主イエスとのたくさんの思い出に浸ることができる。そのようにして主イエスの死を十分に悲しむことができるのです。私たちが親しい人や大切な人の死に直面するとき、彼女たちが願ったような時間を過ごすことは大きな慰めとなります。その人の死を受け入れるための大切な時間となるのです。
 この強い想いが彼女たちを突き動かしました。彼女たちは香料を準備したもののちゃんと考えて墓に向かったわけではありません。3節に「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」とあります。自分たちでは墓の入り口にある石を動かすことはできない。しかし動かしてくれる人の心当たりがあるわけでもないのです。石を動かすことができなければ主イエスのご遺体に会いたくても会えません。墓の前で立ち尽くすしかないのです。しかしそれでも彼女たちは墓に向かいました。彼女たちの強い想いがそうせずにはいられなくさせたのです。

主イエスのご遺体がない
 ところが彼女たちが墓を見ると、墓の入り口を塞いでいた石はわきへ転がしてありました。石を動かせるか分からなかったのに、いざ墓に来てみると、どういうわけか石はわきへ転がしてあり、墓の中に入ることができたのです。彼女たちの期待は高まったに違いありません。もうすぐ主イエスのご遺体に会うことができると思ったからです。しかし墓の中に入ってみると、そこには主イエスのご遺体があるのではなく、「長い衣を着た若者」が座っていました。それを見た彼女たちは「ひどく驚いた」と語られています。彼女たちの驚きは当然です。主イエスのご遺体があるべき場所にない。確かにそこに葬られたのを見たのに、そこからなくなっている。しかもどういうわけか「長い衣を着た若者」がいるのです。ご遺体がどこに行ったのか分からず、いったい何が起こったのか分からず、彼女たちは驚くしかなかったのです。

体を持った甦り
 驚く彼女たちに、その若者は言いました。6節でこのように言われています。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である」。彼は、十字架で死なれた主イエスが復活された、と告げます。だから主イエスの遺体はここにはない、と言うのです。この言葉に、主イエスの復活とは、どういうことなのかがはっきり示されています。それは、主イエスの復活は体を持たない甦りではなく、体を持った甦りである、ということです。主イエスのご遺体が納められた墓が空っぽになっていることは、このことを見つめています。ですから主イエスの復活はいわゆる霊魂不滅ではないし、弟子たちの心の中で起こったことでもありません。手で触れることのできる体を持った甦りなのです。同時にそれは、どこにいても甦った主イエスに会えるわけではないということであり、そのお体が存在する場所でしか会うことが出来ないということでもあります。この若者は、ガリラヤで復活の主イエスに会えると告げます。主イエスの復活が体を持った甦りだからこそ、ガリラヤという具体的な場所で会えると告げたのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。十字架で死なれた主イエスが体を持って復活されて、もはや墓の中にはおられない。これが彼女たちに告げられた、主イエスの復活の知らせだったのです。

聖霊の働きによって共にいる
 ところで私たちは、いつでもどこでも主イエスが私たちと共にいてくださる、と信じています。そのためか私たちは主イエスの復活が体を持った甦りであることを忘れがちです。体を持っていたら、ある時間にある場所にしか存在できないので、いつでもどこでも共にいてくださるのと矛盾するように思えるからです。しかし体を持って甦られた主イエスは、40日間地上で弟子たちと過ごされた後、天に昇られました。その主イエスが、今、私たちと共にいてくださるとは、天におられる主イエスが聖霊の働きによって共にいてくださるということです。聖霊の働きによって、体を持って甦られ天に昇られた主イエスが、いつでもどこでも私たちと共にいてくださるようになったのです。なにより主イエスの復活が体を持った甦りであるからこそ、私たちに約束されている世の終わりの復活も、体を持った甦りです。私たちが世の終わりに復活させられ永遠の命に生きるというのも霊魂不滅のようなものではまったくありません。私たちが体を持って甦らされ、いつまでも主イエスと共に生きるようになることなのです。

体を持って応える
 主イエスの復活が体を持った甦りであることは、その主イエスとの私たちの交わりが、体を持ってお応えしていく交わりであるということでもあります。私たちは頭の中だけであれこれ考えて、主イエスを信じ、主イエスとの交わりに生きるのではありません。主イエスを信じて生きるとはこういうことだ、と頭の中で考えることが主イエスを信じることではないし、主イエスと共に生きる決意や覚悟を持つのが、主イエスとの交わりに生きることではないのです。そのように頭の中で信じようとしたり、決意や覚悟を持とうとしても、そんなものは困難に直面するとたちまち崩れ去ってしまいます。三度主イエスを知らないと言ったペトロも、その直前には「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14章31節)と言っていたのです。しかしこのペトロの決意と覚悟はあっという間に崩れ去りました。私たちも同じです。いくら頭の中で信じても、決意や覚悟を持っても、これほど不確かなものはないのです。だから私たちは頭の中だけではなく体を持って、つまり自分の全存在で主イエスにお応えしていきます。たとえば4月から夕礼拝で、皆で讃美歌を歌うようになりました。声に出して、体全体で神を賛美しています。そのようにして体を持って主イエスにお応えしていく私たちの歩みに信仰が与えられ、主イエスとの豊かな交わりが与えられていくのです。

復活の主イエスは閉じ込められない
 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。この言葉は、主イエスが体を持って甦られたことを告げているだけでなく、復活の主イエスは、私たちがそこにおられると思うところに閉じ込められることはない、ということをも告げています。遺体であっても主イエスに会い、主イエスに触れ、主イエスの存在を確かめ、主イエスとの別れのときを過ごしたいという、三人の女性の願いは叶いませんでした。墓の入り口を塞いでいた石がわきへ転がっているのを見たとき、彼女たちが抱いた、もうすぐ主イエスのご遺体に会うことができるという期待は裏切られました。確かに彼女たちの想いは共感できるものです。しかしその想いは、主イエスを自分のものにしたいという想いでもあるのです。一方的に主イエスに語りかけ、主イエスとの思い出に浸り、主イエスの死を悲しむことを通して、彼女たちは主イエスを自分の思い出の中に閉じ込めてしまうのです。そして時間が経てば思い出は薄れていき、主イエスも過去の人になっていくのです。私たちが大切な人の死を受け入れるとき、このようなプロセスはまったく自然なことであり当たり前のことです。しかし主イエスはそのような私たちの当たり前を打ち砕かれます。彼女たちは主イエスが墓の中にいるに違いないと思っていました。しかし復活されて、生きて働かれる主イエスは、そのような彼女たちの思いや期待の中に閉じ込められることはないのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」とは、私たちの思いや期待の中に主イエスを閉じ込めておくことはできないということであり、復活された主イエスが、私たちの思いや期待をはるかに越えて生きて働かれるということなのです。

先にガリラヤへ
 主イエスの復活を告げた若者は、さらに三人の女性にこのように言いました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。ガリラヤは弟子たちの故郷であり、主イエスと出会い、弟子として選ばれた場所です。十字架を前にして主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たち。呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と言ったペトロ。自ら主イエスとの関係を断ち切ってしまった彼らは、故郷のガリラヤに帰るしかなかったのではないでしょうか。主イエスを裏切り、主イエスの弟子として生きることに挫折した彼らはガリラヤに戻り、主イエスと出会う前の生活に戻るしかなかったのです。しかしそのように主イエスを裏切った罪に打ちのめされ、自分自身に失望し、すごすごとガリラヤに帰っていく弟子たちより「先に」、復活された主イエスがガリラヤへ行ってくださる、と告げられているのです。裏切り、挫折し、失望し、ボロボロになって故郷に戻る弟子たちを、主イエスが待っていてくださり、出会ってくださるのです。弟子たちは主イエスを裏切り、大きな罪を犯し、大きな挫折を経験し、自ら主イエスとの関係を断ち切ってしまいました。しかしその罪と挫折を抱えた弟子たちに、復活の主イエスが出会ってくださり、赦しを与えてくださり、一方的に弟子たちとの関係を回復して、彼らを新しく生かしてくださるのです。そのことによって、弟子たちは主イエスと出会う前の生活に戻ってしまうのではなく、一度は挫折した、主イエスに従って生きる歩みをもう一度ガリラヤから始めることができるのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」という自分自身の覚悟によって主イエスに従って生きるのではなく、取り返しのつかない罪を犯したにもかかわらず、赦してくださり新しく生かしてくださる主イエスの一方的な恵みに、自分の全存在でお応えすることによって、主イエスに従って生き始めるのです。

思いや期待を越えて、罪や挫折を越えて
 8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。主イエスの復活を告げられた彼女たちは逃げ去りました。「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と言われていたのに誰にも何も言わなかったのです。男性の弟子たちは主イエスの十字架を前にして逃げ出しました。主イエスの十字架の死と葬りを見守った女性の弟子たちも、主イエスの復活を告げられて逃げ出しました。男性の弟子たちも女性の弟子たちも逃げ出し、主イエスに従うことに挫折したのです。マルコ福音書は、それが私たち信仰者の姿であることを見つめています。主イエスの十字架と復活によって救われ、その救いの恵みの内に生かされているにもかかわらず、私たちは繰り返し主イエスを裏切り、主イエスに従うことに挫折します。それが主イエスに従って生きるキリスト者の姿です。主イエスを疑うことなく信じ、挫折を経験することなく歩むのが、私たち信仰者の歩みではありません。繰り返し裏切り、挫折に打ちのめされ、自分自身に失望し、ボロボロになっている私たちが、その度ごとに主イエスによって赦され、もう一度、主イエスに従って生きる力を与えられる歩みなのです。私たちの裏切りと挫折が、復活して今も生きて働かれる主イエスによって乗り越えられます。復活の主イエスは、私たちの思いや期待をはるかに越えて、私たちの罪や挫折をはるかに越えて生きて働かれ、恵みのみ業を行ってくださるのです。

委ねられている結末
 ところでマルコ福音書はもともとこの15章8節で終わっていて、9節以下は後から付け加えられたと考えられています。9節以下が大切ではないということではありません。そこにももちろん御心が示されています。しかしマルコ福音書の物語が15章8節で完結していた、ということにも目を向けたいのです。しかし8節で完結していたとすると、私たちは大きな違和感を覚えざるを得ないのではないでしょうか。主イエスの復活を告げられた女性たちが、墓から逃げ去り、恐れに駆られて誰にもなにも話さなかった、と語られて終わっているからです。この結末に「もやもや」してしまうのです。ほかの福音書の復活の物語を知っている私たちにとって、この結末は期待外れのエンディングです。これまでも多くの人たちがそのように思い、聖書の学者たちは解決策を提案してきました。もともとマルコ福音書はここで終わるのではなく続きがあったけれど、それが失われてしまったと説明されたり、著者マルコがなんらかの理由で終わりまで書けなかったために未完の物語になってしまったと説明されたりしました。どちらの説明も私たちの「もやもや」を解消してくれるかもしれません。そういうことならこのエンディングでも仕方がないと思えるのです。しかしこれらの説明にはなんの根拠もありません。私たちの期待通りのエンディングにしたいという思いがあるだけです。ですからむしろ私たちは8節で終えられていることの違和感に、「もやもや」に向き合わなくてはならないのです。マルコ福音書が8節で終えられ、その結末が語られていないことは、この福音書において結末が決まっていなかったということではありません。マルコ福音書は、主イエスが前もって言われた通り、主イエスが十字架で死なれ復活されたことを語っています。同じように主イエスが「かねて言われたとおり」、弟子たちはガリラヤで主イエスに出会ったに違いないのです。ただその結末をマルコ福音書は記しませんでした。それはこの物語の結末が読み手に、つまり私たちに委ねられているからです。結末が記されていないことによって、私たち自身が主イエスに従う歩みの中でこの物語を完成していくよう導かれているのです。

復活なさって、ここにはおられない
 「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。主イエスの復活が私たちに告げられています。私たちは繰り返し主イエスを裏切り、主イエスを信じ、従うことに挫折します。しかし私たちに委ねられている結末は、そのような私たちが自分の罪や挫折を抱えつつ、復活の主イエスが、「先に行って」待っていてくださるところに自分の体を持って赴くことです。私たちにとって復活の主イエスが待っていてくださる場所は、ガリラヤではなく主の日の礼拝です。そこでこそ、自分の罪や挫折に打ちのめされている私たちに、復活して、今も生きて働かれる主イエスが出会ってくださり、私たちを赦して、新しく生かしてくださるのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。十字架の死に打ち勝ち、復活された主イエスは、私たちの思いや期待をはるかに越えて、私たちの罪や挫折をはるかに越えて生きて働かれ、恵みのみ業を行っていてくださいます。私たちはその恵みに自分の全存在でお応えし、主イエスに従って生き始めるのです。

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