「心の貧しい人々は幸いである」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章3節
・ 讃美歌:
教会全体修養会
先週の日曜日に私たちは教会全体修養会を行いました。今は礼拝が午前と午後に二回行われているので、二回目の礼拝の後の短い時間でしたが、教会に集まっている人と、オンラインで参加している人が共に時を過ごすことができたことは感謝でした。修養会のテーマは「日々御言葉に向き合う恵み」でした。私たちの教会で共に礼拝を守っておられる隠退教師の武田英夫先生が、礼拝においてみ言葉を聞くだけでなく、それぞれの家で日々聖書を読み、み言葉に向き合うことの恵みを語って下さいました。また二人の長老からも、それぞれの生活の中で日々聖書に触れている体験を聞くことができました。自分も生活の中でもっと聖書を読もう、という励ましを与えられる、とても恵まれた時を持つことができたと思います。そしてこの修養会の中で、15分ほどでしたが、一つの聖書の箇所をそれぞれが一人で味わい、思いを巡らす「黙想」の時を持ちました。説教や講演を聞くのとは違って、自分一人で、聖書のみ言葉と向き合い、ただ読むだけではなくて、読んだ言葉を心の中で思い巡らし、そのみ言葉と対話していくというのは貴重な体験だったと思います。それぞれの日々の生活の中で、そういう時を持つことへの動機づけとなれば、という願いでこの修養会は企画されました。初めは、何をしたらよいのか分からない、という戸惑いがあるかもしれません。しかし生活の中でそのような時を少しでも持って、聖書のみ言葉を味わい、それと対話していくことによって私たちは、日常の生活の忙しさに埋没して神さまのことを忘れ、日曜日になると思い出すというのではなくて、毎日を神さまと共に歩んでいくことができるようになるのです。
山上の説教を味わいながら
そのように日々聖書の言葉と向き合い、対話していく、そういうことを実践していくのに相応しい箇所に、今私たちは礼拝においてちょうどさしかかっていると思います。現在、礼拝においてマタイによる福音書を読み進めていますが、先週から第5章に入り、主イエスがお語りになったいわゆる「山上の説教」を読み始めました。そして本日の3節からは、「こういう人々は幸いである」という「幸いの教え」が始まります。この教えを含む「山上の説教」は、私たちが聖書のみ言葉と向き合い、それと対話しながら歩むのにまことに相応しい箇所だと思います。例えば本日の「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」というみ言葉です。このみ言葉を今週一週間、毎日どこかの時間に思い起こし、味わい、思い巡らしていったらよいと思います。合わせて詩編34編も味わえればベストです。それによって私たちの心にはいろいろな思いが起って来るでしょう。問いや疑問も生じて、「分からない」と思うことがあるでしょう。それでよいのです。黙想において大事なのは「分からない」という思いです。そこにそのみ言葉との対話が始まっているのです。分かるようにはならなくても、そういう対話によって、新たな気づきが与えられたり、慰めが与えられたりします。そういうことを通して、神さまが、主イエスが、生活の中で身近な存在になっていくのです。山上の説教は、そのように神さまとの対話を促してくれる言葉の宝庫です。礼拝においてその箇所を読み始める、そのタイミングで先週の修養会が行われたことは神さまの素晴しい導きだと思います。この礼拝における説教も、皆さんがそれぞれの言葉を味わい、それによって神さまと、主イエスと対話していくための助けとなるように、ということを意識しながら語っていきたいと思います。礼拝において山上の説教のみ言葉を聞き、それを一週間の生活においても味わいながら歩む、そういう信仰の生活を、ご一緒に築いていきたいと願っています。
幸いの教え
さて、本日の3節から山上の説教の教えが始まっているわけですが、先ほど申しましたように、その最初にあるのは「幸いの教え」です。「こういう人々は幸いである」という教えが12節まで続いています。「幸いの教え」によって山上の説教が始められていることに先ず注目したいと思います。主イエスはこの説教で「幸い」を語られたのです。12節には「喜びなさい、大いに喜びなさい」ともあります。「あなたがたは幸いである。だから大いに喜びなさい」と主イエスは私たちに語りかけておられるのです。主イエスを信じ、神を信じて生きるとは、この喜びに生きること、大いに喜んで生きることです。信仰によって私たちの生活は新しくなるのですが、それは、それまではあまりしなかった善いことをするようになるとか、逆にそれまでしていた悪いことをしなくなる、ということよりも、私たちが大いに喜んで生きる者になる、幸いな者になる、ということなのです。
幸いになるための条件?
そうすると私たちはすぐに思います。どうすれば大いに喜んで生きることができるのか、どうすれば幸いな者になれるのか、その方法を教えてほしい。しかし主イエスがここで語っておられるのは、幸いになるための方法ではありません。「こうすればあなたがたは幸いになれる」とは言っておられないのです。「心の貧しい人々は、幸いである」。それは「心の貧しい者になれば、幸いになれる」ということではありません。原文では「幸いである」という宣言が最初にあります。昔の文語訳聖書はその語順を生かして「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」と訳していました。主イエスは先ず、「あなたがたは幸いだ」と宣言なさったのです。「こういう条件を満たせば幸いになれる」と言ったのではないのです。この後の幸いの教えはどれも、幸いになるための条件ではなくて、「あなたがたは幸いなのだ」という主イエスの宣言なのです。
でも私たちは思います。「心の貧しい人々は幸いである」というのは、「心の貧しい人」が幸いなのであって、そうでない者は幸いではない、だから幸いを求めるなら心の貧しい者になれ、ということではないのか。「心の貧しさ」が幸いを得るための条件だと言われているのではないのか。その疑問に答えるためには、「心の貧しい人々」の意味をよく考えなければなりません。原文では「貧しい人々、心において」です。まず「貧しい」という言葉ですが、これは、完全に無一物であるという意味です。生活に余裕がなくて苦しい、ということを表わす言葉は別にあるのです。ここで用いられているのは、全く何も持っておらず、乞食や物乞いをして生きるしかない、という言葉です。私たちはよく、自分は貧しい、貧乏だ、と思ったり言ったりしますが、それはここで言うところの「貧しい」には当らないのです。主イエスが「幸いだ」と言われたのは、徹底的に貧しい人、自分のものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかない人です。そんな貧しさは、幸いを得るための条件となり得るでしょうか。
「心の」貧しい人々
しかもこの貧しさには「心の」という言葉がついています。「心において」貧しい人々が幸いだと言われているのです。自分のものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかない、そのことが心にあてはめられているのです。それはつまり、自分の心の中に、依り頼むことができるもの、支えや誇りとなるようなものが何一つない、ということです。私たちは、自分の中に、自分を支える拠り所を持ちたいと願っています。それなしには生きていくことができないのです。その拠り所となるものは心の豊かさです。何をもって心の豊かさとしているかは人によっていろいろ違うでしょうが、内容は何であれ、心の豊かささえあれば、生活が貧しくても、あるいは病気や障がいがあって肉体的に弱くても、その苦しみに耐えて、明るく前向きに生きることができる、と私たちは思っているのです。ところが「心の貧しい人々」というのは、その心の豊かさのない人です。自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない人です。それは、幸いを得るための条件とはなり得ないでしょう。「心の貧しい人々」は、どう考えても幸いではないのです。
「心の貧しさ」の間違った捉え方
「心の貧しい人々は幸いである」という主イエスのお言葉はこのように、私たちがとうてい同意できないものです。「そんなことはない」と反発するか、少なくとも先ほど申しましたように「分からない」と感じるはずの言葉なのです。ところが私たちはこの言葉を勝手にねじ曲げて「分かって」しまおうとしているのではないでしょうか。教会の歴史においてそういうことがなされてきました。「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、と解釈されてきた歴史があるのです。そうするとこれは「謙遜な人々は幸いである」ということになります。それなら分かるのです。本当に幸いになろうとするなら、謙遜という美徳を身に着けなさい、というわけです。しかしその読み方は間違いです。謙遜というのは、本当は力のある人が、そのことを誇ったりせずに慎ましく振る舞うことです。それは、先ほどの「貧しい」という言葉の意味、自分のものを何一つ持たず、物乞いをするしかない、とは違います。本当は持っているけれども持っていないふりをする、というのは「貧しい」ことにはなりません。さらに「謙遜」はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなります。自分の謙遜さを誇る、という本当はおかしなことを、私たちはよくしているのです。ですから心の貧しさを謙遜と理解してはならないのです。
あるいは私たちは、主イエスがお語りになった「心の貧しさ」は、世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」というのとは違う、と考えようとします。私自身も以前はそう考えていました。けれどもよく考えてみたら、それは違うのではないかと思うようになりました。世間で「あの人は心が貧しい」というのは、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、といったことだと思いますが、主イエスがおっしゃった「心の貧しい人々は幸いである」の「心の貧しい」はそれとは違う、と言う時、私たちは「心の貧しい」ということを、今並べたような欠点としてではなく、例えば先ほどの「謙遜」のような、何らかの「良さ」として考えようとしているのです。そして、「あいつは心が貧しい」と悪口を言われるような者ではなく、良い意味で心が貧しい人は幸いだ、と主イエスはおっしゃったのだ、と理解しようとしているのです。しかし「心が貧しい」というのは、何らかの良さを持っていることではありません。むしろ「良さ」がないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことです。だから「心の貧しい者」というのはやっぱり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない、と悪口を言われるような人なのです。
「心の」があるのとないのでは
ルカによる福音書の第6章に「山上の説教」と同じような教えがあると先週申しました。本日の箇所と対応しているのは、6章の20節です。そこには「貧しい人々は、幸いである」とあります。「心の」という言葉はこちらにはありません。聖書の学者たちは、このルカの方がもともと主イエスがお語りになった形だと説明します。主イエスはもともとは単純に、貧しい人々、経済的に困っている人々、それこそ物乞いをしなければ生きていけない人こそ「幸いだ」と言われたのであって、マタイがそこに「心の」という言葉をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させた、それによって、この教えが元々持っていた強烈さを和らげて、そこそこに富んでいる人々がこの教えによってつまずきを受けることを防ごうとしたのだ、と言うのです。けれどもそれはとても浅い読み方だと思います。そこでは、「貧しい人々は」と言うよりも「心の貧しい人々は」と言った方が話がキツくなくなる、つまずきがなくなる、と考えられています。しかし、今見てきたことからすれば、それはむしろ逆です。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって、世の大金持ちに比べれば貧しいから、その人たちよりも比較的幸いだと言えるのです。自分は貧しくても心豊かに生きているから幸いだ、と言えるのです。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、もうそんなことは言えません。自分はそこそこに貧しいから、と安心することもできないし、財布の中は乏しくても心だけは豊かだ、ということを拠り所とすることもできなくなるのです。
私たちの現実
このように、「心の貧しい人々」という言葉の意味を掘り下げていくならば、主イエスが語っておられるのは、幸いを得るために満たすべき条件ではないということがわかります。「心が貧しい」は、幸いの条件ではないのです。むしろ、幸いであり得ない私たちの現実がそこに見つめられているのです。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と胸を張って言いたい。しかしそんなことは言えないのです。私たちの心は、豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況を理解して、思いやりをもって対話していくような余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、自分のことを棚に上げて人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者なのです。そしてそれは、決して幸いなことではありません。私たちのそのような心の貧しさのゆえに、人生には、そしてこの世界には、様々な問題が、争いが、困難が起っているのです。
主イエスの語りかけ
そのように心の貧しい者であるために苦しんでいる私たちに向かって主イエスが、「心の貧しい人々は、幸いである」と語りかけておられるのです。「あなたがたは幸いである、大いに喜びなさい」とおっしゃっているのです。それは、「あなたがたは、自分では気づいていないかもしれないが、このように見方を変えれば幸いなのだ」ということではありません。心の貧しさはどう見方を変えたところで幸いではないのです。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たち、それゆえに決して幸いではない私たちに、主イエスを通して、神が与えて下さるものがあるからです。それは何か。「天の国はその人たちのものである」というお言葉がそれを語っています。天の国が与えられる、そこに、心の貧しい私たちの幸いがあるのです。
天の国が与えられる
天の国の「天」は神を言い替えた言葉ですから、「神の国」と意味は同じです。「国」は、王国、支配という意味です。ですから天の国とは、神の王としての支配、という意味です。神のご支配が確立するところに私たちの救いがあります。ですから天の国イコール私たちの救いです。その天の国は近づいた、と言って主イエスは伝道を始められました。神のご支配が今や確立しようとしている、神が私たちを王として支配して下さる救いの日が近い、と主イエスは語られたのです。その天の国が与えられることが、心の貧しい人々の幸いです。どうして心の貧しい人々にそれが与えられるのでしょうか。心が貧しいことを神が喜んでご褒美を下さるのではありません。強いて言えば、心の貧しい人々には、救いが必要だからです。自分の心に拠り所となるもの、誇るべきものが何もない、心の広さも豊かさも愛もない、だから神の救いに寄り頼むしかない、天の国を求めるしかない、それが私たちです。神は、天の国を本当に必要としている心の貧しい私たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さるのです。心の貧しい者である私たちは、心が貧しいから幸いなのではなくて、神が、憐れみと恵みによって、天の国を、神の救いを与えて下さるから、幸いなのです。
主イエス・キリストが与えて下さる幸い
天の国はどのようにして私たちに与えられるのでしょうか。それは、これを語って下さった主イエス・キリストによってです。神の独り子である主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、そして私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。心の貧しい、自らの中に拠り所となる豊かさも愛もない、それゆえに人を受け入れることができずに傷つけてばかりいる、そんな私たちの罪を、主イエス・キリストが十字架の死によって赦して下さったのです。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さっているのです。それは、「あなたはもう、自分の中に拠り所を持たなくてよい。自分の心を豊かにしなければ生きていけないことはもうない。あなたがどんなに心貧しい者であっても、私はあなたを愛し、あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていきなさい」ということです。そういう幸いを主イエス・キリストは私たちに告げて下さっているのです。山上の説教の冒頭の「幸いの教え」は、「こういうふうになれば幸いになれる」という教えではなくて、主イエス・キリストが、幸いでない私たちの現実のただ中に、ご自分の十字架の死と復活とによって幸いを作り出して下さる、その救いの宣言なのです。私たちに求められているのは、心の貧しい人になろうと努力することではありません。そんなことしなくても、私たちは元々心の貧しい者です。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、救いを与えて下さっている、その幸いをいただいて、感謝して、喜んで生きる、それが信仰によって生きることです。その幸いの中で、私たちの貧しい心は次第に豊かにされていき、愛や思いやりが与えられていくのです。でもそれは結果として与えられることです。私たちが日々み言葉に向き合うのは、それによって心を豊かにして幸いを得るためではありません。み言葉と向き合うことによって私たちは、自分が心の貧しい者であること、その自分に主イエスが天の国を、救いを与えて下さっていることを示されるのです。そこにまことの幸いがあるのです。