主日礼拝

光の子

「光の子」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第27篇 1節-14節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第5章 1節-11節

再臨の時と時期
 「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」とパウロは語っています。「その時と時期」とは、何の時と時期のことでしょうか。それは、その前のところ、4章の後半に語られていた、「主が来られる日」の時と時期です。復活して天に昇られた主イエス・キリストが、合図の号令と共に、神のラッパが鳴り響くとき、再び天から降って来られる、即ち主の再臨です。その日が来ることを聖書は語っています。再臨において主イエスは、この世の全ての者を裁く権威と力を持った方として来られるのです。今は隠されており、信仰の目によってしかわからない主イエスのご支配、権威が、再臨において誰の目にも露わになり、明らかになるのです。それによって、今のこの世は終わります。そしてその時には、既に死んだ者たちが復活し、またその時まで生き残っている者も共に、主イエスと出会うために引き上げられ、そしていつまでも主と共にいるようになる、つまり、生きていようと死んでいようと、私たちの救いがそこで完成するのです。前回、4章の終わりのところにおける説教でも申しましたように、そういう主イエスの再臨を信じて待ち望むことこそ、主イエス・キリストを信じて生きることなのです。主イエスの再臨を信じないならば、たとえ主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを信じたとしても、その信仰は結局この世を生きている間だけの事柄になり、私たちを最終的に支配するのは死の力だということを認めることになり、その死の支配とどう折り合いをつけてやっていくか、ということになり、そこには本当の希望はない、私たちも結局は、4章13節にあった「希望を持たないほかの人々」と同じだということになるのです。パウロはこの手紙において繰り返し、「主の日」、主イエスの再臨の日を信じて待ち望むことこそ私たちの信仰であり、また希望なのだと語ってきたのです。
 そのパウロの教えを受け止め、主イエス・キリストの再臨を信じて生きようとする時に、私たちの中に当然起ってくる問いがあります。それが、主の再臨の日はいつなのか、その時と時期はどうしたらわかるのか、ということです。テサロニケの教会の人々もそういう問いを抱き、パウロに質問してきたのでしょう。その質問に答える形でここは語られているのです。

突然の到来
 しかしパウロはここで、主イエス・キリストの再臨の時と時期について、「あなたがたには書き記す必要はありません」と言っています。それは、あなたがたは既にそれを知っているのだから教える必要はない、ということではありません。テサロニケの人々はパウロに質問してきたのです。わからないから教えてくれと言っているのです。それに対してパウロは、それは教える必要がない、と言っているのです。その理由は、2節にあるように、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」。テサロニケの人々が既にパウロから教えられて知っていることがある、それは、主の日、主の再臨の日が、「盗人が夜やって来るように」来るということです。その意味は、3節にあるように、「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う」ということです。泥棒は、夜、人々が安心して寝静まっている時を狙ってやって来ます。予告して来る泥棒はルパン3世ぐらいのもので、たいていは、みんなが大丈夫だろうと高をくくって油断しているその隙をついて来るのです。主の日、主イエスの再臨の日も、そのようにして来る。主イエスの再臨などありはしない、あるとしてもずっと先のことで自分たちには関係ない、と高をくくって油断していると、まさにそこに、突然、主イエスが再び来られるのです。あなたがたは主イエスがそのように来られることを既に私から聞いて知っている、そのことさえ知っていればそれで十分なのだ、それ以上のことは、知ることが許されていないし、知る必要もないのだ、とパウロは言っているのです。
 この、主イエスの再臨は盗人が突然やって来るように起るということは、主イエスご自身が語っておられたことでもあります。例えばマタイによる福音書の24章36節以下にこのように語れています(48頁)。「『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである』」。そしてその後には、主人がいつ帰ってきてもよいように準備している忠実な僕と、どうせ主人の帰りは遅いと思って勝手なことをする悪い僕のたとえが語られています。また25章に入ると、花婿の到着に備えて予備の油を用意していた賢いおとめたちと、用意を整えていなかった愚かなおとめたちのたとえが語れていきます。これらはいずれも、主イエスは何時戻って来られるかわからないのだから、常にそのために備えをして待っていることを教えているみ言葉です。主イエスの再臨を待ち、そのために備えていることが、私たちの信仰の大切な要素なのです。

必ず来る
 また、本日の3節の後半には、「ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」と言われています。この言葉は、主イエスの再臨が突然起ることを教えていると言うよりも、それが必ず起ること、それから逃れることはできないということを教えています。妊娠したならば、その先には通常ならば必ず出産の時が来るのです。いつ陣痛が始まるかはわかりません。しかしそれは必ず来る、主の再臨もそのように、いつかはわからないけれども必ず起ることであり、この世はそこへ向かって着実に進んでいるのです。このようにパウロはここで、主イエスの再臨についてのテサロニケの人々の質問に答えて、それが何時かは誰にも分からない、それは突然起ることだ、そしてそれは必ず起ることでもある、その二つのことを知っていれば、それで十分だし、それ以上のことを知る必要はないと言っているのです。

恐れる必要はない
 けれどもパウロが語っていることはそれで終わりではありません。それだけだったら、主イエスを信じて生きる信仰者の生活はいつもびくびくしながら主の再臨を待っているようなことになり、そこには喜びや希望が見出せないことになってしまうでしょう。その後の4節以下に語られていることが大事です。4節に「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」とあります。あなたがた、つまり教会に連なる信仰者たちは、暗闇の中にはいない、だから、夜、油断をしている時に泥棒が来るように、主の日が突然あなたがたを襲うことはない、というのです。これは、主の日が突然来るという3節までの言葉を否定して、あなたがただけには、主の日が来る前に何か前兆のようなものが示される、ということではありません。ここは、少し形の違う写本を用いて、「あなたがたは暗闇の中にいるのではないのだから、主の日は、盗人を襲うようにあなたがたを襲うことはない」と解釈する人もいます。いずれにしてもこの4節は、あなたがた信仰者は、主の日、主イエスの再臨の日を、恐れてびくびくしながら待つ必要はないのだ、ということを語っているのです。その理由は、あなたがたは暗闇の中にいるのではないから、です。そのことが5節に語られています。「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません」。主イエス・キリストを信じる信仰者は、夜、暗闇に属する闇の子ではなく、昼、光に属する光の子なのです。4節の「主の日」という言葉の原文には、実は「主の」はありません。もとの言葉はただ「日」、英語で言えばdayという言葉であり、それは英語でもそうであるようにnight「夜」の反対語、つまり「昼」という意味でもあります。主の日が来る、は昼が来る、つまり夜が明けるという意味でもあるのです。夜の闇の中で活動する闇の子である泥棒は、夜明け、朝を恐れます。しかしあなたがたは昼の子、光の子なのだから、夜が明けること、昼が来ることを恐れる必要はない、それが4、5節でパウロが語っていることです。主イエスの再臨は、夜が明けて朝が来るようなことであり、それを恐れるのは闇に属する闇の子だけ、昼に属する光の子はそれを恐れるのではなく待ち望むことができるのだとパウロは言っているのです。

真実の覚醒
 その「昼に属する光の子」としてのあり方、生き方を語っているのが次の6~8節です。6節には先ず、「眠っていないで、目を覚ましていよう」とあります。7節にも「眠る者は夜眠り」とあるように、「眠ること」は夜に属することです。昼に属する光の子は「目覚めている」のです。それは勿論、毎日徹夜を続けるという意味ではありません。心において、精神において、真実に目覚めている、ということです。6節の終わりの「身を慎んでいる」もそれと同じことを意味しています。この言葉をある人は「正気でいる」と訳しています。つまりこの「身を慎んでいる」は、酔っていない、醒めている、覚醒している、という意味です。7節後半の、「酒に酔うものは夜酔います」とのつながりで言えば、酔っていない、素面でいる、ということです。この世には、私たちを眠り込ませ、酔わせて、正しい判断をできないようにさせる様々な力が働いています。昼に属する光の子である私たち信仰者は、そのような力に惑わされずに、精神においていつも目覚めて、本当に醒めている、覚醒している者でありたいのです。それが、昼に属する光の子としての信仰者のあり方なのです。

信仰・愛・希望
 さらに8節には、「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」とあります。ここに、信仰と愛と希望という三つのセットが出てきます。パウロはこの手紙の始めのところで、テサロニケの教会の人々が、信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを神様に感謝していました。前の口語訳聖書の言葉で言えば、「信仰の働きと、愛の労苦と、望みの忍耐」です。それらの三つを身につけて歩むことこそ、光の子としてのあり方なのです。ここで、信仰と愛と希望が、「胸当て」とか「兜」と言われていることに注目しなければなりません。それらは武具です。戦いの道具です。しかし敵を攻撃してやっつけるための武具ではなく、攻撃から身を守るための武具です。光の子として、主イエスの再臨を待ち、それに備えて生きる信仰者の歩みは、戦いです。しかしそれは敵を攻め、攻撃して滅ぼすための戦いではなく、守りの戦いです。私たちを眠り込ませ、酔わせ、正気を失わせようとする様々な力の攻撃に私たちはさらされているのです。その攻撃に耐えて、目を覚ましており、正気であり続けるために、信仰と愛と希望とによって守りを固めることが必要なのです。そのような光の子、昼の子であり続けるようにと、パウロはテサロニケ教会の人々を勧め励ましているのです。

光の子として
 私たちはこの6~8節のパウロの勧めを読む時に、いったい自分はここでパウロが教えているような光の子、昼の子として生きることができているだろうか、と思います。眠り込んでしまわないで目覚めていることができているだろうか、本当に醒めた、正気な者として、正しい判断を下すことができているだろうか、信仰と愛と希望によってしっかりと守りを固めているだろうか、そう考えていくと、まことに心もとない、不十分な自分の姿が目につくのです。そしてそのような自分は光の子とは言えない、むしろ闇の子であって、主の再臨においてなされる最後の審判で裁かれ、滅ぼされるしかない者なのではないか、と思ってしまうのではないでしょうか。しかしここで私たちは、パウロが語っていることを正確に理解しなければなりません。パウロはここで、あなたがたはこのようにして光の子になりなさい、そうすれば主の再臨を恐れなく迎えることができますよと教えているのではないのです。そうではなくて、4節にあったように、「あなたがたは暗闇の中にいるのではない、だから主の日が突然あなたがたを襲って滅ぼすことはないのだ」と宣言しているのです。5節でも「あなたがたはすべて光の子、昼の子だ」と言っているのです。光の子、昼の子は、努力してそうなるべき目標なのではなくて、主イエスを信じて教会に連なっている信仰者は皆、既にそうなっているという事実なのです。何故そんなことが言えるのでしょうか。それを語っているのが9、10節です。9節に「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」とあります。神様が私たちを、救いにあずからせるために定めて下さった。神様のみ心は、私たちが救いにあずかることなのです。神様は私たちに怒りを下そうとしておられるのではなくて、救いを与えようとしておられるのです。そのために、神様は独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。私たちをこの主イエス・キリストによる救いにあずからせるためにです。それが、神様の私たちへのご意志、み心なのです。10節にはこうあります。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。神様が遣わして下さった独り子イエス・キリストは、私たちのために、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、私たちの身代わりとなって、罪人である私たちを贖うために死んで下さったのです。ここには死んで下さったことしか語られていませんが、主イエスの十字架の死は、その後の復活、昇天、そして今父なる神の右に座しておられることと合わせて見つめられていることは言うまでもありません。それらの一連の救いのみ業によって、罪人である私たちは、なお罪人であるままで、神様に赦され、救われた者として、神様の怒りではなく救いにあずかる者として生きることができるのです。そしてその主イエスが、もう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さる日が来ることが約束されているのです。その時私たちは、目覚めていても眠っていても、つまりその時生きていても既に死んでしまっていても、主と共に生きるようになります。それが、主イエスの再臨の日に与えられる救いの完成です。それは私たちが努力して獲得することではなくて、既に神様が独り子イエス・キリストによって約束して下さっている救いの完成なのです。この救いの完成に私たちをあずからせて下さることが、神様の私たちへのみ心なのであり、そのために神様は私たちを教会へと導き、礼拝を守る者として下さり、信仰を与えて下さったのです。私たちは、この神様の、私たちを主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定めて下さった恵みのみ心によって、光の子とされているのです。これから努力して、神様の恵みを受けるに相応しい者となって、それで初めて光の子になるのではないのです。主イエス・キリストによる救いにあずからせようという神様の恵みのみ心が私たちを光の子としたのです。それゆえに私たちは、主イエスの再臨を、恐れる必要はないのです。むしろそれを、私たちの救いが完成する時として、喜びをもって待ち望むことができるのです。
 先程の6~8節の、光の子としての歩みも、この恵みの中でこそ与えられていくものです。眠り込んでしまわないで目覚めていること、それは、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを見失ってしまわないで、いつもそれを見つめていることです。主イエスの父なる神様を礼拝しつつ、祈りにおいて神様との交わりを持ち続けていくことです。そこにおいてこそ、私たちは精神の本当の覚醒を与えられるのです。私たちを酔わせ、正しい判断をできないようにする力と戦って、正気を保つことができるのです。神様の恵みを見失い、自分を本当に愛し支えていて下さる方が見えなくなってしまう時に、私たちはパニックに陥り、何か支え助けてくれるものを求めてとんでもないものの虜になってしまうのです。しかし神様の恵みがどんな時にも常に自分を支えていてくれることを知っている者は、冷静に物事を見分けることができるようになります。本当に私たちのためになることと、そうでないこととを見分けることができるようになるのです。
 信仰と愛と希望という胸当てや兜によって身を守るというのも、私たちが、信仰や愛や希望という道具を用いて自分の力で身を守るということではありません。信仰も愛も希望も、主イエスの十字架と復活と再臨の約束によって与えられる、神様の恵みの賜物です。その恵みの賜物によって、私たちは守られ、支えられ、力づけられるのです。光の子として生きるとは、自分で自分を明るく輝かせて生きることではなくて、神様の、主イエスによる恵みの光に照らされて、その光によって導かれ、守られ、生かされつつ歩むことなのです。

教会を建て上げる
 11節には、「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」とあります。主イエス・キリストによる救いにあずかるように、神様によって定められて光の子とされた私たちは、自分一人で生きるのではないのです。パウロはここで終始一貫、兄弟たちに対して、つまり信仰者の群れである教会に対して語りかけ、「あなたがたはすべて光の子、昼の子なのだ」と言っています。光の子として生きるとは、教会に連なって生きることです。そこで私たちは、励まし合い、お互いの向上に心がけつつ歩むのです。「励ます」と訳されている言葉は、「慰める」とも「勧める」とも訳せるものです。神様の恵みの中を光の子として生きる私たちは、お互いに、弱っている時には励まし合い、悲しんでいる時には慰め合い、迷っている時には勧め合っていくのです。そしてお互いの向上に心がけていく、「向上」と訳されている言葉は、「家を建てる」という意味です。それは、お互いにお互いの人格を高め合っていく、ということに留まるものではありません。教会全体を、主イエス・キリストの体として、光の子らの群れとして建て上げていくのです。主イエス・キリストによる救いにあずかる光の子とされた私たちは、主イエスの再臨によるこの世の終わりを見つめつつ、この世において、光の子らの群れとして教会を建て上げていくのです。そのために私たちは、神様が怒りへとではなく、主イエスによる救いにあずからせるようにと定めて下さった者としてお互いを認め合い、自分も他の人も共に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みによってのみ救いにあずかっている者であることをしっかりと見つめ、自分も他の人も、共に欠けの多い罪人だけれども、主イエスの再臨による救いの完成を待ち望みつつ歩んでいる者であることを認め合い受け入れ合っていかなければならないのです。主イエス・キリストの再臨を信じ、それを待ち望みつつ歩む信仰は、このように、教会の交わりを生み、育てるのです。私たちは、キリストの体である教会の交わりの中で、兄弟姉妹と共に、いつ起こるのかはわからない、しかし必ずやって来る主の再臨を待ち望み、それに備えて歩むのです。

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