主日礼拝

然り

「然り」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第20編1-10節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第2章15-22節  
・ 讃美歌:18、579、17

 わたしたちは、自分では、なにが正しい選択なのか、この世のことでなにが「然り」なのかはわかりません。だから簡単に決断できないし、そのために前にすすむことが困難です。わたしたちは、「然り」と「否」、「その通り」と「そうではない」、「はい」と「いいえ」を決断できるものであるのでしょうか。パウロは、己の決断をも、神様に頼りきってお委ねします。しかし、神様に委ねながら、決断し、計画を立てたことが、コリントの人々に受け入れられません。

15節
このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。

 この確信というのは、この手紙の1章12節から14節に書かれている、神様から与えられた誇りのことです。
このパウロに与えられた誇りというのは、どんな困難にあった時でも、そうでない時も、死を目の前にするような絶望の時でも、神様に頼り切るということでした。
自分の弱さと、自分の限界を見つめること同時に、その限界をも突破されている神様により頼むこと。神様に頼りきった時に、その私の弱さを通して、神様の御力が目に見える形となる、神様の御業の栄光が、この世に知らされる、弱い自分が用いられるということを、パウロは誇りにしていました。
神様からあたえられた誇りを確信しており、パウロは同時にこれを恵みだと考えていました。この恵みを、教会に持って行って、伝えたいと思うの、当然なことだと思います。その恵みである誇りを、コリントの教会の人たちにも、その恵みに与ってほしいと思い、それを直接伝えるために、コリントに自分が出向こうと計画をしました。しかし、その計画は、簡単にはいかなかったのです。
 その計画とは、まず、コリントに行き、そこを経由してマケドニアに、そして再びコリントに戻って、コリントの人たちに送り出されてユダヤに行くという計画でした。わたしたちはこの計画を聞いても、特に不満に思ったり、納得しなかったりはしないと思います。ところが、コリントの人々からこの計画に対して文句がでたのです。どうやらコリントの人々の中で、この計画を聞いて、パウロの計画や考えに対して、不満に思った人が出てきたようです。コリントの人々がこの計画にどうして、不満になったのかという明確な理由は、はっきりとはわかっておりません。もしかしすると、この計画を見て、コリントの人々は自分たちの教会は経由地点、腰掛けとしか扱われていないと感じ、15節で恵みを伝える目的であなたたちの所に行きたいといっていたパウロの言葉を疑ったことが原因かもしれません。どうせ、「パウロは最終的にはユダヤに行きたいとしか思ってなくて、わたしたちの所で休みたいだけだろ。恵みを伝えたいというのは方便で、本当はそんなこと考えてないんじゃないか」と疑ったのかもしれません。実際には、なにが明確な理由かはわかりませんが、二つだけこの箇所から明らかなことがあります。それは、一つは恵みを伝えようとしたパウロの計画に不満な人がいること、もう一つは、その不満に思った人にとってパウロの計画や旅の目的は、いかにも「然り」といったり、同時に「否」といったりしているように見えたということです。「然り」といったり、同時に「否」といったりするというのは、ある一つの質問に対して、答えが「はい。その通りです」と言って、同時に「いいえ、そうではありません」といったりしているということです。それは矛盾した考えでもあり、曖昧な答えをしたりしているということです。例えば、あなたは、「アイスが好きですか」という問いに対して、「はい、好きです」と答えていながら、「アイスは好きではありませんか」と問われた時に、「はい、好きではありません」と答えること、これも、然り言いながら、否といっていることになります。
パウロの場合は、一方ではあなたたちに恵みを伝えに行きます。「恵みを伝えに行くことが目的である」それは「然り」「はい」「その通り」であると言っている。しかし計画を見ると、コリントには経由するだけで、ユダヤに行くという目的を達成したいかのように見える。それは、コリントには休憩しに行きたいだけと言っているように見える。だから恵みを伝えるというのが目的ではないじゃないか。恵みを伝えにコリントに来たいのですか、ともし問うたとしたら、あなたは「否」と言っているようにしか思えない。パウロは、恵みを伝えるのが目的だということを然りと言ったり、否と言ったりしているではないかと、そう思った人がどうやらいたようです。
パウロはコリントの人に恵みを伝えに行きたかったということは、真実でしょう。そしてユダヤに行ってそこでも恵みを伝えたい。これもパウロの本音だと思います。しかし、そのことを疑う人が現れた。この悲しい、行き違い、勘違い、思いの通じないことがあったためにこの計画は、直ぐには実行できませんでした。しかし、この悲しい勘違い、行き違いがあったことにより、パウロが真の「然り」とはなにかということを語るきっかけを得ることになりました。このコリントの信徒への手紙二は、人間の弱さや愚かさの話しから、いつでも、神様の恵みの深さを語るということが多くあります。今回の場合もそうです。パウロに対しての非難から、神様の恵みが語られます。
 パウロは神様の恵みを伝えたいと思って計画を立てた。しかし、コリント教会の人たちに非難されてしまった。おそらく、そのことに対して、パウロは驚き、なんでそのように思われたのだろうと考えたでしょう。そこで同時に、人間の行うことには、決して完全なことはないということを思わされたと思います。パウロであっても一人の人間です。ですから彼の決断することが、いつも完璧で、何一つ間違いないということはありえません。パウロは自分が非難されることによって、そのことを思い知らされたと思います。そして、自分が間違っていたのかと考えたとも思います。
 わたしたちも、決断して、なにかを決めるということを日常の中でしております。その決断は、時に大きなことであったり、小さなことであったりします。わたしたちは生きてこの世を歩んでいる時に、選択肢が自分の目の前に置かれて、それを決断して進んでいきます。その選択によって、歩む道が変わってくる、その決断によって人生が大きく変わってくることもあります。ですから、その選択をするのに、決心が付かなくて、決断できず苦労するという人もいると思います。実際、わたしたちも、何か決断することは容易なことではありません。「それは然りだ」「それは否だ」と決断すればいいだけですが、それが、簡単には言えないのが現実です。さほど重要なことではない小さなことであれば、比較的決断することは楽かもしれません。しかし、それが重要な決断、大事な決断であれば、決心することは難しいのではないでしょうか。
 では、なぜ決断することはむずかしいのか、何が決断をむずかしくしているのか、という問いがわたしたちに与えられていると思います。まず、わたしたちにとって決断する上で大事なことはなんでしょうか。パウロは、彼の計画が、人間的な考えで、人間的な思いによったものであるということで、コリント教会の人々に非難されました。17節以下で、パウロは「そうではない、自分の思いでこの計画を立てて決断したのではない」ということを主張しています。パウロは、人間的な考えで決断をしていないといっていますが、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは何かを選択する時、またなにかを決断する時、その基準となるのは、わたし自身ではないでしょうか。わたしたちは、自分の思いから離れて、なにかを決断するのはということは、簡単にできることではないでしょう。いや、それはできないと言っても過言ではないと思います。パウロであったとしても、完全に自分の考えや思いから離れて、なにかを決定することはできません。では、なにか自分以外の所に、自分ではないものの、基準に沿って決定すればよいのかと、わたしたちは思います。ですが、その時わたしたちは、その自分の外にある基準が、信頼できるものなのか、信頼できないものなのかと、またそこで判断すること、決断することを迫られます。そうすると、またわたしたちはそこで、自分の考えや思いから離れて決定することはできないということを思い知らされます。
であるから、わたしたちは決断することが難しいのです。常に自分の気持ちや自分の欲だけに引きずられていないかどうかということを問わなければなりません。そして、決断した後も、あれは本当に正しかったのかと、自分の思いだけで、実は誤った決断をしてしまったんじゃないのかと悩みます。
 イエス様はあなたがたはただ「然りを然りとし、否を否としなさい」とおっしゃっていると、マタイによる福音書5章に書いてあります。わたしたちが何かを決断する時に、心のなかで何かを選ぶ時、これは「然り」かな、と思いながら「否」かもしれないということにとらわれます。そして、これを「選ぶ」「然りだ」と決断した後にも、「やっぱ否だったかも」「これを選ぶべきじゃなかったかも」と思いますが、イエス様はそうではなくて、「然り」であればそれは「然り」で、「否」と決断したのであったら「否」であるようにしなさいとおっしゃっています。
 しかし、わたしたちはイエス様にそう聞かされても、決断した後に、迷うことばかりします。どうして、そのように「然り」を「然り」として、「否」を「否」とわたしたちは簡単に思うことができないのでしょうか。それはなぜならば、わたしたちが自分で決断をするときに、正しいのかどうかわからない、信頼をおけない自分の気持ちに惹かれがちであることと、また、まわり人の顔を気にして、いつもその自分の基準がぶれてしまうからでしょう。自分の考えは間違えることのあるものだし、まわりの人だって間違えることはある、でもまわりの人の考えに委ねるためにも、わたしたちは結局、自分で決断しなければならない。そしてまわりにあわせてよかったのかと悩みます。
 ですから、問題があるとすれば、その問題は決断するわたしたちにあります。しかし、わたしたちはどうがんばっても、その問題点を自分の力で修正できるとは考えられません。すべてに対して絶対間違えることなく決断していけるように自分を修正できると考えている人はいないでしょう。わたしたちの決断は、時に然りが否となり、時に否が然りとなります。この問題を、自分の力で解決できないのであれば、わたしたちは問題解決を外に求めなければなりません。
 その問題を解決して下さる方が、主イエス・キリストです。「然り」だけがこの方において実現しています。その方がわたしたちの問題を解決してくださいます。パウロは、この然りと否の問題の解決がイエス様であることを知っていました。
 このパウロも、自分は然りと同時に否を言ってしまう存在であるということを認めていたでしょう。しかし、そのパウロが、わたしたちの言葉は「然り」であり同時に「否」であるというような、信頼できない言葉でなく、わたしたちの言葉は「然り」である、真実の言葉だと断言しています。19節にその理由が語られます。
 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
 わたしたちの言葉は然りである、なぜならイエス様において、然りだけが実現したからであるとパウロは言っています。ここに、わたしたちは論理の飛躍があることに気がつくと思います。パウロの言葉は然りか否かわかならない、あいまいな言葉であるという非難であったのに、イエス様において然りだけが実現したので、わたしの言っていることはあいまいではないと言っているのです。このパウロの言葉を補って言い換えると、「わたしの問題は、イエス様において解決されており、わたし自身はまだあいまいところがあるかも知れないが、イエス様を信じていて、イエス様に頼っているから、イエス様によって保証されている」ということになるでしょう。イエス様において、すべては「然り」となる、そのイエス様が保証してくださっているとパウロはいうのです。パウロは、イエス様において「然り」だけが実現したと書いています。この「実現した」という言葉は、然りと同時に否となったという時の「なった」という言葉とは別の言葉が使われています。なったというのは、そのようになったという事実をのべる言葉ですが、「実現した」というその言葉は、「然り」ということが過去に起こった、そして今もそれは「然り」であり、これからもいつまでも「然り」であるという、大事な意味を含んでいます。イエス様がおっしゃったこと、なさったこと、すべてが「然り」であり、その「然り」はこれまでも、今も、これからも、いつまでも、「然り」であり「正しく」、「真実」なことであるとパウロは言っています。
 ここまできて、わたしたちはなにか話が違ってきたなと気がつくと思います。パウロは、自分たちがしかりと否を曖昧にしていないという主張から、少しずつ話が変わって、イエス様の話しに変わっていきます。これは、パウロが話をすり替えて、問題をあやふやにしようとしているのではありません。パウロはこの然りと否の問題であるからこそイエス様を見るべきなのだと言っているのです。非難している者たちは、その決断の正しさが「パウロの中に」あると思っています。だから、パウロは「わたしの中には、決断の正しさはない。その正しさは、イエス様にあるのだ。」と言いたいがために、ここでイエス様の正しさを語り、すべてが「然り」なるとはどういうことかということを、急に語りはじめたのです。
 パウロは、20節で「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となった」と書いています。イエス様において「然り」となったのは、神様の約束である。それも、ことごとく、その約束はイエス様において実現した。約束は「然り」となった、「その通り」となったと言っています。神様の約束というのは、一つは旧約聖書全体を通して書かれている約束のことです。旧約というのは、イエス様が生まれる以前に与えられていた契約ということです。その旧約聖書にある約束を、大きく一つにまとめるとすると、それは神様がすべての人間に救いをお与えになるという約束だと言えるでしょう。それが、主イエス・キリストにおいて成就した。その旧約の約束がイエス様において「その通り」となった、「然り」となったのです。旧約聖書の約束は、すべて、イエス様のうちに成就された、だからイエス様こそ「然り」なのであるとパウロ考えています。
 その神様の約束は、また、人間を救おうと考えている神様の御心、愛する独り子を犠牲にしてまでもわたしたちを愛してくださり、救いたいとお考えになっているその神様の御心が、イエス様において、すべて「然り」となったということも表しています。
 真実であり、間違うことのない神様の御心が、イエス様にいつまでもあらわれる、いつまでも「然り」であるのです。イエス様において、神様の御心でないことは起こらないし、表わされないのです。
 パウロは、21節で神様が、わたしたちをキリストに固く結びつけてくださったといっています。わたしたちは、イエス様を信じる信仰を神様から与えられて、神様によってイエス様に結びつけて頂きました。言い換えれば、イエス様と一つの軛でつながったといっても良いでしょう。わたしたちは「真に然り」である方と、軛で一つにつながれているのです。わたしたちが、どちらの道に進むか迷っていたとしましょう。決断をしなければならないその時、わたしたちにつながっておられる、真に然りの方が、わたしたちの決断を支えてくださります。わたしたちは、それが正しかった、間違っていたかはわからない。自分が自分の思いで決定したのではないかと不安になるときも多々あります。しかし、間違っていたのであれば、イエス様は必ず隣で、手を引いて正しい道へと導いて下さいます。迷い出た羊を、そのままにされる方であられません。神様のご計画に対して「然り」である、「その通り」である、言い換えれば「計画通り」である道に、手を引いて連れっていってくださいます。イエス様において、「否」となることはないのであれば、本当にイエス様とつながっているものもまた否となることはないのです。じゃあイエス様を信じている人は、すべて間違うことのない正しい決断をできる、完璧な人なのかと言えば、そうではありません。信じている人だって間違いますし、曖昧な答えで答えてしまうものです。しかしその間違える時というのは、自分の力を信じていたり、他人の目を気にしたりして、決断した時でしょう。パウロは、自分がそのように本来は決断できないものであることを知っていました。ですから、パウロはその自分の弱さを知っていたので、決断を神様に委ねることにしていたのです。では、どのようにして、決断を神様に委ねることができるのか?とわたしたちは疑問に思います。わたしたちは単純に委ねるということを考えると、なにもしないで成るように成らせる、極力自分が動かなければ、神様が働いてくださって神様の思い通りやってもらる、これが神様に委ねることだと思ってしまうと思います。しかしそうではありません。どうすれば、神様の決断に委ねられるのかという問いの答えは、20節の後半に書かれています。パウロは、イエス様を通して、「アーメン」を唱えると言っています。これは、まさに祈りのことです。わたしたちは、自分が決断を迫られたとき、どの道に進めば良いかわからない時、神様に祈ります。わたしたちには、どのように決断すればいいかわからないので祈ります。そのような時、わたしたちは「父なる神様、どのように進めばよいでしょうか、このようにしていいのでしょうか、私にはわかりません、神様教えてください」と祈ると思います。祈ったので、その答えが天からすぐさま聞こえてくるということはありません。わたしたちは祈りの最後に必ず、この「お祈りをイエス様の御名を通して御前にお献げいたします。アーメン」と言います。じつはここで、わたしたちが神様に決断を委ねますということを告白しているのです。イエス様の御名を通して祈るのはなぜかというと、それは、イエス様がわたしたちの祈りを神様に執り成してくださる方だからです。わたしたちは、なにが正しいかわからないし、どの道を進めばいいかわからない。しかし、真に「然り」であられるイエス様は、なにが神様の御心にかなっているか、どの道に進めば良いのかはすべてご存知であられる。その答えを知っているイエス様が、わたしたちの代わりに神様にお願いしてくださるのです。「どうすれば良いかわからないです」と祈っても、イエス様の御名によって祈るときには、すべてをご存知であられるイエス様が、神様の御心にかなっている、わたしたちに最良なことを、イエス様が決断して神様に祈って下さるのです。そのイエス様の決断にわたしたちは「アーメン」と言います。アーメンというのは、言い換えると「その通りです」という意味です。イエス様の決断はまさに「然り」です!その決断に従います、委ねますということをわたしたちは、「アーメン」と言って祈っているのです。
 祈った後に、わたしたちは決断する時がやってきます。イエス様の決断に委ねるといっても、最終的に決断にするのはわたしたちではないかと思う人がいると思います。しかし、イエス様を信じて結ばれている人の決断は、自分一人の決断ではありません。それは共に繋がっていてくださるイエス様の決断でもあられます。さらに、わたしたちが、決められなかったはずの決断ができたとすれば、その決断を与えてくださっているのは、実は22節書かれています、霊、聖霊なる神様です。「わたしたちの心に聖霊を与えてくださった」のは父なる神様です。その聖霊を通して、神様が「その通りだ」「然りである」と思われていることを、わたしたちに実現させてくださるのです。
わたしたちは、自分では、なにが正しい選択なのか、この世のことでなにが「然り」なのかはわかりません。だから簡単に決断できないし、そのために前にすすむことが困難でした。しかし、今、わたしたちは真に「然り」である方がだれかを知っています。そしてその方が、なにもわからないわたしたちのために、これまでも、今も、これからも、父なる神様に執り成して祈ってくださっています。その祈りに応えてくださって、父なる神様は聖霊なる神様をわたしたちの心に住まわせて、神様の御心を教えて下さり、決断を与えてくださいます。わたしたちは今まで、イエス様が執り成して祈ってくださったことに支えられ生きて参りました。それはこれからもそうです。しかし、これからは、わたしたちも神様に祈ることができます。イエス様の御名によって、イエス様の決断に従いますという祈りができます。「アーメン」と言って、イエス様こそ「真の然り」ですと感謝し、告白することができます。
その「真の然り」に支えられて、決断し歩むことのできる恵みに感謝して、神様に今日も、明日も、これから先ずっとお祈りして参りましょう。

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