夕礼拝

まして天の父は

「まして天の父は」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章6-7節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章5-13節
・ 讃美歌:55、461

祈りについての教え

先週、私たちは、「わたしたちにも祈りを教えてください」と主イエスに願った弟子たちに、主イエスが「主の祈り」を教えてくださったことを読みました。主イエスは弟子たちに、そして私たちに、「父よ」と神様に呼びかけ、「御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るよう教えてくださり、またこの「主の祈り」によって導かれる信仰に生きるよう教えてくださったのです。しかし主イエスは「主の祈り」を教えて、祈りについての話を終えられたのではありません。それに続く本日の箇所でも、主イエスは祈りについて弟子たちに教えられているのです。

二人の友だちが登場する譬え話

 5節から7節で主イエスは弟子たちに譬え話を語っています。その冒頭に「あなたがたのうちのだれかに友達がいて」と言われていて、主イエスは弟子たちにこの譬え話を自分に起こった出来事として聞くよう導いておられます。弟子たちに、自分の友だちについて想像力を働かせるよう勧めているのです。主の祈りが弟子たちだけでなく、今を生きる私たちに教えられていたように、主の祈りに続くこの譬え話も弟子たちだけでなく私たちに語りかけられています。私たちも想像力を働かせつつ、自分と自分の友だちの出来事として、この譬え話を読み進めていきたいのです。
 そうするとこの譬え話では、自分の友だちが二人登場します。出来事が起こった順序としては、まず旅行中の友だちが自分のところにやって来ます。その友だちは、きっと日中の暑さを避けて夕方になってから旅立ったのだと思います。そのためにたどり着いたのは真夜中になってしまいました。旅行中の友だちが自分のところに立ち寄ってくれたのは嬉しいですし、その友だちをもてなしたいとも思います。しかしあいにく家にはろくなものがなかったのです。今ならコンビニに買い出しにいくことができますが、主イエスの時代は、真夜中にはどの店も閉まっていました。そこでその友だちをもてなすために、別の友だちのところに行くことにしました。旅行中の友だちにはくつろいで旅の疲れを取っていてもらい、その間にもてなすためのパンを調達するために、別の友だちの家を訪ねたのです。きっと近所の友だちの家を訪ねたのではないでしょうか。自転車も自動車もない時代です。真夜中でも歩いて行ける距離に住んでいる友だちを訪ねたはずです。そしてその近所の友だちにこのように言いました。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」。するとその近所の友だちは家の中からこのように返事をしました。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」。この近所の友だちの言い分も分かります。家はそんなに広くないのです。子どもは横で寝ています。明かりをともして、ゴソゴソパンを探したり、ガタガタ戸を開けたりしたら、せっかく寝ついた子どもが起きてしまうに違いないのです。
 これが主イエスの話された譬え話です。ですから私たちが自分と近所に住んでいる友だちの出来事としてこの譬え話を聞くなら、いくら近所の友だちといえども、真夜中に押しかけられて「パンを貸してください」と言われたら、なかなか貸せるわけではない、ということになるのです。

しつように頼めば

 続けて主イエスは8節でこのように言われます。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」つまり近所の友だちということでは、寝ている子どもを起こしてまで何かを与えてくれることはなくても、「しつように頼めば」、しつこく諦めずに頼めば、その近所の友だちは起きて来て、必要なものを何でも与えてくれるだろう、ということです。
 そうであるならば、この譬え話を通して、主イエスは弟子たちと私たちに、神様に「しつように頼む」こと、しつように祈り続けることを教えられているということになります。9-10節には「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とあります。この譬え話と結びつけて読むならば、「しつように求めなさい、そうすれば、与えられる。しつように探しなさい。そうすれば、見つかる。しつように門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、しつように求める者は受け、しつように探す者は見つけ、しつように門をたたく者には開かれる」ということになるのです。

しつように祈ることの大切さ

 確かに祈りにおいて、しつように祈ることは大切です。祈りにおいては、必死に、熱心に、根気強く、忍耐して祈り続けることが求められるのです。私たちの祈りはすぐには聞かれないことがあります。だからといって簡単に諦めて、そのことを祈らなくなるようではいけないのです。簡単に諦めることなく、神様に掴みかかるようにして祈る。それこそ求め続け、探し続け、叩き続ける。そのように祈ることは私たちの祈りにおいて欠かすことができないことです。少し先になりますが、ルカによる福音書18章1節以下には、「『やもめと裁判官』のたとえ」という小見出しのついた、主イエスが弟子たちに話された譬え話があり、不正な裁判官ですら、やもめがひっきりなしにやって来て、裁判を行ってくださいと頼めば、うるさくてかなわないから裁判をしてくれると語られています。その譬え話を通して、主イエスは忍耐して祈り続けるならば、その祈りを神様が必ず聞き届けてくださることを教えられているのです。この譬え話の直前で、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられるために、弟子たちにたとえを話された」と言われている通りです。私たちは自分の願いがすぐに神様に聞き届けられないからといって、祈ることを諦めてしまってはなりません。心から真剣に願い求めているなら、すぐに聞き届けられなくても、「気を落とさずに絶えず」祈り続けるのです。私たちは神様に根気強く祈り続けることの大切さを疎かにしてはならないのです。

しつように祈ることを教えているのではない?

 本日の箇所でも、先ほどのように譬え話を読むならば、主イエスは「『やもめと裁判官』のたとえ」と同じように、神様にしつように祈ること、必死に、熱心に、簡単に諦めることなく、根気強く祈り続けるならば、その祈りが必ず聞き届けられることを教えられている、ということになります。実際、この主イエスの譬え話は、そのように解釈されてきました。しかしよく読んでみると本当に主イエスはこの譬え話を通して、そのようなことを教えられたかったのだろうか、と思わずにはいられません。特に「主の祈り」を教えてくださった1-4節や、譬え話に続く9節以下との結びつきを考えると、主イエスは「しつように祈る」ことを教えられているという解釈には疑問の余地があるのです。と言っても、私だけがそのように考えているのではありません。最近、と言ってもこの20年ぐらいだと思いますが、この箇所で主イエスは、しつように祈ることを教えられているのではない、あるいはそれだけを教えられているのではない、もっと別のことを教えておられる、と考えられるようになってきたのです。
 そのように考えるのには根拠があります。1-4節や9節以下との結びつきだけでなく、そもそも5-8節の訳にはいくつか課題があるのです。原文についてのややこしい話になるのですが、この箇所で主イエスが私たちに伝えようとしていることをしっかり受けとめるためにどうしても必要なので、お話ししたいと思います。多少正確さを犠牲にしても、できるだけ分かりやすくお話しします。

そんなことを言うだろうか?

 まず5-7節の譬え話そのものですが、先ほど私たちはこの譬え話を、いくら近所の友だちといえども、真夜中に押しかけられて「パンを貸してください」と言われても、なかなか貸せるわけではない、と理解しました。確かに自分の友だちを思い浮かべても、あるいは自分が友だちに真夜中に押しかけられることを思い浮かべても、この理解は的はずれなようには思えません。少々面倒くさい、というのが正直なところではないでしょうか。旅行中の友だちのもてなしは、日が昇ってからでも良いではないかとも思います。しかしそもそもこの譬え話の訳し方に問題があります。新共同訳は5-7節を普通の文に訳していますが、原文は疑問文です。しかも否定の答えを期待する疑問文なのです。否定の答えを期待する疑問文とは、「いや、そんなことはない」という答えを期待して、「~だろうか」と問う疑問文のことです。ですから5-7節は大体次のように理解することができます。「旅行中の友だちが自分の家に立ち寄ってくれたので、もてなそうと思ったけれど、家にはろくなものがなかったので、近所の友だちのところに行って、『パンを三つ貸してください』とお願いしたときに、その近所の友だちは『面倒をかけないでくれ、起きて何かをあげるわけにはいかない』などと答えるだろうか? いや、そんなことを言うはずがない」。
 ただこのように理解すると8節とつながらなくなります。「その近所の友だちは『何かをあげるわけにはいかない』などと答えるだろうか? いや、そんなことを言うはずがない。『しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて来て何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。これでは、意味が分からなくなってしまうのです。

恥をかかないために

 ところが、8節冒頭の「しかし」は原文にはありません。原文では「私は言う」とあるだけです。そして「しつように頼めば」の「頼めば」も原文にはありません。さらに「しつように」と訳されていますが、元々の言葉には「しつように」という意味はまったくないのです。ではこの言葉の意味は何か。それは「恥知らず」です。「恥知らず」。そうすると8節はこのように訳せます。「私は言う。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、恥知らずのゆえに、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。「恥知らずのゆえに」とは、「恥知らずにならないために」とか「恥をかかないために」とか「恥を受けないために」ということです。

主イエスが譬え話で言われたこと

 これまでのことをまとめると、主イエスはこのように言われたことになります。「自分の家に立ち寄った旅行中の友だちをもてなすために近所の友だちのところに行って『パンを三つ貸してください』とお願いしたとき、その近所の友だちは『面倒をかけないでくれ』などと答えるだろうか? いや、そんなことを言うはずがない。言っておく、その人は、友達だからということで起きて何か与えるようなことはなくても、恥をかかないためには、起きて来て必要なものを何でも与えるだろう」。要するに「『面倒をかけないでくれ』などと答える友だちはいるはずがない。万が一そのような友だちがいたとしても、友だちだからということで起きて何かを与えることはなくても、恥をかかないためには起きて来て必要なものを何でも与える」ということなのです。

旅人をもてなさないほうが恥知らず

 このような理解が原文から導かれるのですが、しかしそれだけでなく、文化的な背景からも導かれます。私たちは真夜中に友だちを叩き起こすのは「常識がない」、「恥知らず」な行いだと思います。しかし主イエスの時代のイスラエルを含む中東の文化では、むしろ旅人をもてなさないほうが「常識がない」、「恥知らず」な行いなのです。そうであれば、旅人をもてなすために助けを求めに来た友だちに対して「面倒をかけないでくれ」などと答えるような友だちがいるわけがないのです。友だちならそんなことをするはずがない、というだけでなく、そんなことをしようものなら自分が恥をかくことになるからです。そうならないために、その友人は「起きて来て必要なものは何でも与える」と言われているのです。

まして天の父は

 さて主イエスはこの箇所で祈りについて教えておられるのでした。そして最初の理解であれば、主イエスはしつように、熱心に、根気強く祈るならば、神様がその祈りを聞いてくださる、と教えられたことになります。しかし第二の理解であれば、主イエスはしつように祈ることを教えられたのではありません。友だちなら「面倒をかけないでくれ」と答えてなにも与えないなんてありえない。万が一そのような友だちがいても、恥をかかないためにしぶしぶ起きて来て与えてくれる。人間同士の友だち関係においてもそうなら、まして天の父なる神は、神様と人間との関係において、「面倒をかけないでくれ」などと言うはずがない。神様は必ず与えてくださる、と主イエスは言われているのではないでしょうか。本日の箇所の終わり11-13節では、人間同士の関係と神様と人間との関係が比べられて、このように言われています。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。人間の父と子の関係においても、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。いや、いないに違いない。卵を欲しがる子どもに、卵の代わりにさそりを与える父親がいるだろうか。いや、いないに違いない。確かに人間は罪人であり、悪を行う者であるけれど、それでも自分の子どもには良い物を与えることを知っている。そうであるならば、まして天の父なる神は、求める者に聖霊を与えてくださる、と言われているのです。同じように5-8節でも、人間の友だち同士の関係と神様と人間との関係が比べられ、「まして天の父なる神は与えてくださる」、と語られていると理解したほうが、5-8節は11-13節とスムーズに結びつくのです。

神との新しい関係の中で

 このように人間同士の関係と神様と人間との関係が比べられ、「まして天の父は」と言われているのは、私たちが神様に「父」と呼びかけて祈る関係に生きるようにされたからです。1-4節で、主イエスは「主の祈り」を教えられ、「父よ」と呼びかけて神様に祈ることを弟子たちと私たちに教えられました。主イエス・キリストによる救いに与り、神の子とされた私たちは、神様を「父」と呼ぶことができる新しい関係に入れられて生きているのです。「主の祈り」は、その神様との新しい関係に、父なる神との親密な交わりに生きることに導く祈りです。そうであるならば、主イエスは「主の祈り」を教えられた後、続く本日の箇所で、しつように祈ることを教えられているのではなく、私たちの父となってくださった神様に、私たちと親密な交わりを持ってくださる神様に全幅の信頼を置いて祈ることを教えられているのです。

ただ神に信頼して祈る

 そもそも私たちは、本当にしつように祈ることなどできるのでしょうか。熱心に、根気強く、頑張って諦めずに祈りなさいと言われても、私たちはそのようになかなか祈れないのではないでしょうか。私たちの熱心さとか、忍耐強さとか、頑張りとかは、本当にあっという間に失われてしまうものです。熱心に祈ろう、諦めずに祈ろうと決意しても、ちょっと嫌なことがあると祈れなくなってしまいます。だからこそ私たちは自分の力で頑張って祈るのではなく、神様に全幅の信頼を置いて祈ることが求められているのです。私たちが頑張って祈らないと神様は私たちの祈りを聞いてくださらないのではありません。たとえ私たちが熱心に祈れなくても、根気強く祈れなくても、ただ神様に信頼して祈るならば、神様はその祈りを聞いてくださるのです。主イエスによる救いによって神の子とされた私たちが、神様に「父よ」と呼びかけて願うとき、神様が「面倒をかけないでくれ」、「あなたに何かをあげるわけにはいかない」などとおっしゃるはずがないのです。
 私たちはただ神様に信頼して求めます。そうすれば与えられます。ただ神様に信頼して探します。そうすれば見つかります。ただ神様に信頼して門をたたきます。ガンガン叩かなくて良い。恐る恐るかもしれない、迷いがあるかもしれない。しかし神様に委ねるようにして門を叩くならば開かれるのです。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とは、私たちの熱心な祈り、必死な祈り、諦めない祈りに神様が必ず答えてくださることを見つめているのではなく、私たちの祈りに必ず答えてくださる神様に全幅の信頼を置いて、私たちが求め、探し、叩くこと、そのように祈ることを見つめているのです。
 そして神様に全幅の信頼を置いて祈る中でこそ、私たちは熱心に、根気強く祈る者へと変えられていきます。父なる神が、神の子とされた私たちに最も良い道を備え、最も良いものを与えてくださることを知らされる中でこそ、私たちの祈りは変えられていくのです。私たちの頑張りが先にあるのではありません。神様が私たちの祈りを必ず聞いてくださることが先にあるのです。

天の父なる神の愛

 近所の友だちは、万が一友だちだからということでは与えなくても、友だちとの関係において恥をかかないためには与えてくれます。まして天の父なる神は、ご自分の子としてくださった私たちのために与えてくださるし、私たちとの関係において恥を受けないように与えてくださるのです。神様が私たちとの関係において恥を受けないようにしてくださるとは、驚くべきことであり、畏れを持って語らなければならないことです。しかし私たちの父なる神は、私たちに最も良い道を備えないことを、最も良いものを与えないことをご自分の恥としてくださるほどに、私たちを愛していてくださり、大切にしていてくださるのです。
 私たちは近所の友だちに「友よ、パンを三つ貸してください」と願います。「貸してください」。もし貸してくれたら、いずれパン三つと同じぐらいのものを返すのです。しかし主イエスは言われます。まして天の父なる神は「起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。必要なものを何でも与える。貸すのではない。パン三つでもない。必要なものを何でも与えてくださる。天の父なる神は、そのようなお方です。私たちが返すから与えるのではありません。私たちが神様を愛することができず、大切にすることができなくても、神様は一方的な恵みによって与えてくださるのです。まさにこの愛によって、神様は独り子の命を犠牲にしてまで私たちに救いを与えてくださったのです。

聖霊を与えてくださる

 私たちはこの神様に信頼して祈ります。その私たちに、天の父なる神は「聖霊を与えてくださる」と言われています。聖霊の働きによってこそ私たちは自分が神様に本当に愛されていることを知らされます。聖霊の働きによってこそ私たちは最も良い道へと導かれ、最も良いものを与えられるのです。そして聖霊の働きによってこそ、確かに祈りを聞いてくださる神様に信頼して、熱心に、根気強く祈る者へ、私たちは変えられていくのです。その聖霊を天の父なる神は、祈り求める私たちに惜しむことなく与えてくださるのです。

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