主日礼拝

良い羊飼い、主イエス

「良い羊飼い、主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第34書1-16節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第10章11-21節
・ 讃美歌:313、200、393

良い羊飼いと雇い人  
 ヨハネによる福音書第10章11節に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスのお言葉があります。私たちにとってとても慰めに満ちたみ言葉です。それは私たちが、ここに語られている「羊」とは自分のことであると知っているからです。主イエスは、「私はあなたの良い羊飼いである。私はあなたのために命を捨てる」と言って下さったのです。このことを信じて生きているのがキリスト信者、クリスチャンです。つまりこの11節には、私たちの信仰の中心的な事柄、主イエスによる救いとは何かが語られているのです。  
 しかしここには、「良い羊飼い」と並べられて、悪い羊飼いのことも見つめられています。「悪い羊飼い」という言葉はありません。悪い羊飼いというのはそもそも羊飼いではないのです。12、13節に語られているのは、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」のことです。11節の「良い羊飼い」と、12、13節の「羊飼いではない雇い人」とが比べられているのです。その違いは、雇い人は自分の羊を持っていないということです。ここは以前の口語訳聖書では「羊が自分のものでもない雇人」となっていました。羊が自分のものであるのが羊飼いです。雇い人にとって羊は他人のものなのです。その違いは狼が来た時に明らかになります。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」のです。その結果「狼は羊を奪い、また追い散らす」のです。13節には「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」とあります。羊が自分のものでない雇い人は、羊のことをそこまで心にかけてはいないので、自分の身が危うくなったら、羊を置き去りにして逃げるのです。

雇い人=盗人  
 このように、雇い人に過ぎない者とまことの良い羊飼いである主イエスとの違いがここに語られているわけですが、そのことは先週読んだ1~10節においても見つめられていました。そこでは羊飼いと盗人という言い方がなされていました。羊を置き去りにして逃げ、羊を狼に襲われるままにする雇い人は、羊を盗んだり屠ったり滅ぼしたりするために来る盗人と同じなのです。この盗人はファリサイ派の人々のことを指している、ここには、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃の、ファリサイ派のユダヤ教によるキリスト教会への迫害が反映しているのだ、ということを先週お話ししました。ユダヤ人の宗教的指導者をもって任じているファリサイ派の人々は、自分たちは神の民イスラエルの羊飼いだと思っていますが、彼らのしていることは神の羊の群れを追い散らす盗人と同じなのです。彼らがちゃんと世話をしないために追い散らされた神の羊の群れを、まことの、良い羊飼いである主イエスが、集め、守り、養い、導いて下さっている、それがキリスト教会なのです。

主イエスこそ良い羊飼い  
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書第34章はまさにそういうことを語っています。ここには、イスラエルの牧者つまり羊飼いたちに対して主なる神が「災いだ」と怒っておられることが語られています。8節にこうあります。「わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」。主なる神がご自分の民イスラエルのために牧者として遣わしたはずの民の指導者たちが、群れを養わず、自分だけを養っている、自分の利益や自分を守ることしか考えておらず、群れを牧していない、つまりただの雇い人になっている、そのためにわたしの群れには牧者がいなくなっており、略奪にさらされ、野の獣の餌食となっている、と主は怒っておられるのです。それゆえに、11節以下には、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」とあります。羊の群れの本当の所有者である主なる神ご自身が民の牧者、羊飼いとなって、散らされた民を探し出して連れ帰り、群れを養って下さるのです。そのために神は独り子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。「わたしは良い羊飼いである」という主イエスのお言葉はこのように、偽りの羊飼い、羊飼いではなく雇い人に過ぎないファリサイ派を批判しつつ、主イエスこそが神から遣わされたまことの良い羊飼いであり、神の民の群れを集め、養い、導いて下さるのだ、ということを語っているのです。

良い羊飼いは羊のために命を捨てる  
 本日の11?21節には、「良い羊飼い」である主イエスが、ご自分の羊の群れをどのように牧して下さるのかが語られています。その中心は、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ということです。主イエスが良い羊飼いであられるのは、羊のために命を捨てて下さったからなのです。雇い人は羊のために命を捨てません。自分の命の方が大事なのです。しかし主イエスは、ご自分の羊である私たちのためにご自身の命を犠牲にして下さったのです。自分の命よりも私たちを大事にして下さったのです。主イエスが十字架にかかって死なれたというのは、そういうことだったのです。主イエスは何故そこまでして下さったのでしょうか。それは私たちを本当にご自分の羊として下さっているからです。だから命がけで私たちを守って下さるのです。雇い人は羊のことを心にかけていない、と13節にありました。主イエスは私たちのことを本当に心にかけておられるのです。そのことが14節にも語られています。そこにはもう一度「わたしは良い羊飼いである」とあり、それに続いて「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」とあります。主イエスはご自分の羊である私たちのことを本当に心にかけておられ、知っておられるのです。「心にかける」と「知る」は切り離すことができません。知っていなければ心にかけようがないし、心にかけていなければ知ろうともしないのです。主イエスは私たちを本当にご自分の羊として下さっており、私たちのことを心にかけておられ、だから私たちのことを知っておられるのです。

私たちの信仰が必要  
 そしてここには、「羊もわたしを知っている」と言われています。主イエスが私たちをご自分のものとして下さり、心にかけ、知って下さっているのは、私たちも主イエスのことを知り、心にかけ、主イエスと共に生きる者となるためです。主イエスは私たちとの間にそういう相互の交わりを持とうとしておられるのです。そういう良い関係、信頼関係を羊との間に築いているのが「良い羊飼い」です。つまり主イエスが私たちの良い羊飼いであるということは、主イエスがどれだけ恵み深いお方か、ということだけを言っているのではありません。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という関係が主イエスと私たちの間にあり、私たちが自分の羊飼いである主イエスをちゃんと知っていて、先週読んだ4、5節に「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」とあったように、私たちが主イエスの声を聞き分け、その声にのみ従っていくということ、つまり私たちが主イエスを信じ、信頼して従っていくという信仰がそこには必要なのです。

父と子の信頼関係  
 さらに15節にはこう語られています。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。神の独り子である主イエスと父である神との間には既に、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている」という相互の良い交わり、信頼関係があるのです。主イエスはご自分が父なる神との間に持っておられるその良い交わり、信頼関係を、私たちとの間にも築こうとしておられるのです。私が父なる神との間に持っている関係を、あなたがたも私との間に持ってほしい、と言っておられるのです。それはとても難しい大変なことだ、と思うかもしれません。しかし主イエスのこの言葉は、この信頼関係がどのようにして築かれるのかを語っています。父と子の信頼関係はどのように築かれるでしょうか。それは、先ず父が子を無条件で愛することによってです。父が子に対して、「お前がちゃんとした者になったら愛してやる」と思っていたら、その父と子の間に信頼関係は生まれません。その父は子を愛していないし、信頼してもいないのです。その父を子は愛することも信頼することもできないのです。先ず父が子を無条件で、本当に愛するということがあって、その愛を受けた子がちゃんとその愛に応えていく、ということによってこそ父と子の信頼関係が生まれるのです。父なる神と独り子主イエスの間にはそういう関係があります。父なる神は独り子主イエスを無条件に愛しておられます。その父の愛に応えて主イエスは、父のみ心に従って歩まれました。人間となってこの世を生き、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神に愛されている信頼関係の中で、主イエスは父のみ心に従って私たちのために命を捨てて下さったのです。父なる神は、独り子主イエスが、罪人である私たちを無条件で愛することを望まれたのです。父が主イエスを愛したように主イエスが私たちを愛し、主イエスが父の愛に応えて父との良い交わり、信頼関係をもって生きているように、私たちも主イエスの愛に応えて主イエスとの間に良い交わり、信頼関係をもって生きるようになる、そのことを父なる神は願われたのです。つまり独り子主イエスの十字架の死によって私たち罪人の救いを実現して下さることこそが、父なる神のみ心であり、主イエスは父への信頼によって、そのみ心を行って下さったのです。

主イエスと私たちの信頼関係  
 15節の終わりにはもう一度「わたしは羊のために命を捨てる」と語られています。つまり14、15節は、その最初と最後に「わたしは良い羊飼いである」と「わたしは羊のために命を捨てる」という11節のみ言葉が繰り返されていて、その二つの文に挟まれて、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」ということが語られている、という構造になっています。こういう語り方によって、私たちの良い羊飼いである主イエスが私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さることによって、父なる神と独り子主イエスの間にある信頼関係が、主イエスと私たちの間にも築かれていく、ということが示されているのだと言えるでしょう。私たちと主イエスとの間に、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という相互の良い交わり、信頼関係が築かれるのは、主イエスが私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さったことによってなのです。つまりこの信頼関係は、私たちが努力して築いていくのではなくて、主イエスが先ず私たちを無条件で愛して下さったことによって築いて下さったのです。主イエスの十字架の死は、神の独り子である主イエスが、私たちの罪を全てご自分の上に引き受けて、その償いを全てして下さったということです。つまり主イエスは、私たちがちゃんとした者になったら愛してくれるのではなくて、神に背き逆らっている罪人である私たちを、何の条件もなしに愛し、私たちの罪が赦されるために死んで下さったのです。私たちはこの無条件のまことの愛を既にいただいているのです。私たちの信仰は、この主イエスの愛に、感謝をもって応えていくことです。与えられた愛に見合う十分な応答などできませんけれども、その愛に少しでも応えていこうとする時に、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という良い交わり、信頼関係が、主イエスと私たちの間にも築かれていくのです。

この囲いに入っていないほかの羊  
 主イエスのこの無条件の愛は、私たちを超えてさらに多くの人々に広げられています。16節には「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」とあります。「この囲い」とは、今主イエスという羊飼いの下に養われている羊の群れ、つまり今キリストの教会に連なっている者たちのことです。その囲いの外にも羊たちが沢山いるのです。主イエスはその羊たちをも導いて下さいます。その羊たちも主イエスの声を救い主の声として聞き分け、主イエスに従う者とされていくのです。そしてついには、全ての羊が主イエスという一人の良い羊飼いに導かれる一つの群れとなるのです。主イエスが自分の良い羊飼いであることを信じている私たちは、このように、今はこの囲いに入っておらず、教会が宣べ伝えている救いの知らせに反発していたり、無視していたりする人々をも、主イエスが集め、導いてご自分の羊として下さる、という希望を抱くことができるのです。そしてこのことは同時に、自分たちの狭い囲いの中に閉じこもろうとする私たちの思いを主イエスが打ち砕いて下さり、新たな出会いと交わりを与えて下さる、ということでもあります。私たちには、自分の仲間だけの狭い囲いを築こうとする傾向があります。その囲いの外の人とは交わりを持とうとしないのです。教会という、一人の主イエス・キリストを信じ、皆が主イエスの羊の群れとされている者たちの中でも、あの人とは気が合わない、付き合いたくない、という思いで、自分の回りに囲いを作ってしまうことが起ります。私たちの良い羊飼いであられる主イエスは、そのように私たちが自分の周りに築いてしまっている囲いを取り除いて下さいます。私たちを、自分と気の合う、仲良く出来る人たちの間だけの小さな交わりから解放して、いろいろな人たちと出会わせ、新しい交わりを与えていって下さるのです。そこには苦痛も伴います。仲の良い人たちとだけ付き合っていた方が楽だ、ということがあるのです。しかしそれは羊の我が儘です。良い羊飼いである主イエスは、我が儘な羊である私たちを、本当に必要な命の糧を得ることのできる広い牧場へと導き出して下さるのです。

無条件の愛と自発的な応答  
 17、18節に語られているのは、主イエスが誰かに強いられてではなく、ご自分の意志で命を捨てるのだ、ということです。18節の「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」というお言葉にそのことがはっきりと語られています。主イエスは、自発的に、ご自分の羊である私たちのために命を捨てて下さったのです。それは、このことが父なる神の愛への応答だからです。愛されている者が、愛してくれている人を信頼して、その愛に応えて何かをするのは全く自発的なことです。命令されてさせられることではありません。信頼関係は、お互いの自発的な愛と応答によって成り立ち、育っていくのです。主イエスは父なる神とその独り子としての愛に基づく信頼関係の中で、自発的に父のみ心に従って、私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって主イエスは今度は私たちとの間にも、愛に基づく信頼関係を、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という良い交わりを築こうとしておられるのです。その交わりが築かれていくのは、先ず主イエスが、私たちを無条件で愛して下さったことによってです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、というまことの愛を、主イエスは十字架の死において私たちに注いで下さったのです。私たちはこの主イエスの十字架の死における愛を受け、それに応えて自発的に、主イエスのもとに養われる羊となって、主イエスのみ声に聞き従っていくのです。それが私たちの信仰の歩みです。その歩みの中で私たちは、良い羊飼いである主イエスによって本当に必要な糧を与えられて豊かに養われつつ、主イエスに導かれ、守られ、主イエスとの間に良い交わり、信頼関係をもって生きることができます。自分の周りに築いてしまっている狭い囲いを取り払われて、さらに多くの人々との新しい出会いと交わりを与えられていくことも、そこに起っていきます。主イエスが私たちを無条件で愛して下さり、私たちがその愛に自発的に応えて生きる、そういう相互の良い交わり、信頼関係においてこそ、主イエスが良い羊飼いであり、私たちはその羊であるという大いなる恵みが私たちの現実となるのです。

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