主日礼拝

本当の成長

「本当の成長」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; ホセア書 第11章1-11節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第3章1-4節
・ 讃美歌 ; 14、204、505

 
産みの親として

 コリントの信徒への手紙一は、使徒パウロが、ギリシャのコリントという町の教会の人々にあてて書き送ったものです。この教会は、パウロの伝道によって生まれました。ですからパウロは、この教会の設立者、産みの親です。この教会の人々の信仰は、パウロによって種を蒔かれ、育てられたのです。パウロはこの教会の人々にとって、信仰の父でした。パウロにとっては、この教会の人々は、自分が生み育てた信仰における子どもたちだったのです。パウロはそういう意識を持ってこの手紙を書いています。そのことが、本日の第3章のはじめのところにも表われています。ここでパウロは、わたしはあなたがたに、乳飲み子に対するように語った、まだ固い食物を食べることができなかったから、乳を飲ませてきた、と言っています。パウロにとってコリント教会の人々は、信仰における赤ん坊、乳飲み子なのです。

十字架の言葉

 しかし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることにおいて、乳飲み子に対するように語るとか、固い食物ではなく、乳を与えるというのはどういうことなのでしょうか。私たちはとかくそこで、相手は初心者、初めてキリストのこと、信仰のことに触れる人たちなのだから、身近なわかりやすい話から始める、ということを考えます。最初からあまり難しい話をしてもわからないから、まずは、身近な話題から、相手にわかることを語っていった方がよい、それが、固い食物ではなく乳を与えることだと考えるのです。しかし、果たしてパウロは、コリント伝道においてそういうことをしたのでしょうか。初めての人にもわかりやすくとっつきやすいことを語ったのでしょうか。そうではないように思うのです。私たちは、この手紙の第2章のはじめのところで、パウロがどのような思いでコリントにおいて伝道をしたのかということを読みました。その2節で彼は「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。パウロがコリントにおいて語ったのは、初めから、「十字架の言葉」、十字架につけられたイエス・キリストのこと、キリストの十字架の死による救いであり、それ以外ではなかったのです。勿論語る言葉はできるだけわかりやすいものを用いたでしょうが、彼はコリント伝道の最初から、キリストの十字架を、それのみを語っていったのです。それは果たして「身近な、わかりやすい、とっつきやすい」話でしょうか。そうではないと思います。むしろこれは、キリストの福音の最も大事な中心であり、そして1章23節でパウロが言っているように、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」なのです。当時の人々にとっても、キリストの十字架による救いは、難しい、わかりにくいことだったのです。しかしパウロは最初からそのことを、そのことのみを語っていったのです。
 キリストの十字架による救いがわかりにくいのは今日の私たちにおいても同じでしょう。キリストの十字架の死が、私たちの罪を背負っての、贖いのための死であった、ということを、本当に自分のこととして信じるのはなかなか困難なことです。ですから私たちはしばしば、伝道をしていくに当たって、最初からそのことを語るよりも、まずは主イエス・キリストのご生涯、そのみ業や教えのことから入った方がよい、そういう話の方が身近でわかりやすいだろう、そこから次第に、十字架による罪の赦しということに話を進めていくのがよい、などと考えるのです。そういうことが、最初は乳を与えて、だんだんに固い食物を与えていくことだと思うのです。しかしそれはパウロがしていることとは全く違います。パウロが、「あなたがたには乳飲み子に対するように語り、固い食物ではなく乳を与えた」と言っていることの内容は、その言葉から私たちが受ける印象とは全く違うことなのです。それでは、パウロがここで「あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えなかった」と言っていることの意味は何なのでしょうか。彼は乳とか、固い食物ということによって何を考えているのでしょうか。「乳を飲ませた」と言って十字架につけられたキリストのことを語ったのなら、「固い食物を与える」とはいったいどうすることなのでしょうか。

固い食物

 そのことを考えるためにヒントとなるのが2節の後半の言葉です。あなたがたには乳を飲ませて、固い食物は与えなかった、それは「まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」と言われています。コリント教会の人々は、最初、固い物を食べることができなかった、それは当たり前です。誰でも、最初から固い物を食べられる者はいない、最初はみんな乳を飲むことから始まるのです。そこから次第に成長していって、だんだん、固い物も食べられるようになっていくのです。ところが、コリント教会の人々は、今でもまだ、固い物を食べることができない、彼らが信仰者となり、コリント教会が誕生してから、もうずいぶん時が経つのに、いまだに彼らは乳飲み子のままで、固い物を食べることができないでいる、つまり彼らはちゃんと成長していない、とパウロは言っているのです。コリント教会の人々が、今でもできないでいること、それが、パウロが言うところの「固い物」です。その内容を読み取っていくことによって、パウロの言う「固い物」とは何かがわかっていくし、そこから逆に、「乳」とは何かもわかっていくでしょう。

霊の人と肉の人

 コリント教会の人々は、まだ固い物を口にすることができない、それによってパウロが見つめているのは3節のことです。「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」。ここに「肉の人」という言葉があり、それが「ただの人として歩んでいる」と説明されています。「肉の人」という言葉は1節にもありました。そこには「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々」と言われていました。「肉の人」というのが、まだ乳を飲んでおり、固い物を食べることのできない乳飲み子のことだというわけです。そしてその「肉の人」は「霊の人」との対照で語られています。あなたがたはまだ肉の人で、霊の人になっていない、だから、肉の人である乳飲み子に対するようにしか語れないのだ、と言うのです。この「肉の人」と「霊の人」という対照は、先週読んだ2章の14、15節にあった、「自然の人」と「霊の人」の対照を受けて、それと同じことを語っていると考えてよいでしょう。これは先週の復習になりますが、この「霊の人」というのは、神からの霊、聖霊を受けて、神様の恵みを知らされている人、ということでした。それに対して「自然の人」というのは、神からの霊を受けておらず、従って神様の恵みを悟ることができていない人です。それは言い替えるならば「生れつきの人」です。人間は誰でももともとは「自然の人」であり、神の恵みがわからない者だった、そこに、神からの霊が与えられることによって初めて、神様の恵みを知ることができるようになる、それが霊の人なのです。本日の所での「肉の人」はこの「自然の人」のことです。つまりそれは、生まれつきの普通の人間、ということです。それゆえに3節では、肉の人であることが、「ただの人として歩んでいる」と説明されるのです。「ただの人」と訳されていますが、「ただの」という言葉は原文にはありません。直訳すれば「人間として歩んでいる」となります。生れつきの、普通の人間のまま生きている、ということです。しかし、イエス・キリストを信じる信仰者は、つまりキリストと結ばれる洗礼を受けた者は、もはや生まれつきの人間のままではいないはずだ。神からの霊を受けた霊の人となっているはずだ。それなのにあなたがたはいつまでたっても肉の人、乳飲み子のままではないか、パウロはそう言って、コリント教会の人々をたしなめているのです。

ねたみ争い

 コリント教会の人々が、肉の人、生れつきの人間のままであることはどこに表われているのでしょうか。それは3節にあるように、「お互いの間にねたみや争いが絶えない」ということです。ここで私たちは、コリント教会の現実の姿に引き戻されます。パウロがこの手紙を書き送った第一の理由はここにあったのです。1章10節以下にそのことが語られていました。コリント教会に今、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」という党派があり、それがお互いに対立し合っている、そのために皆の思いが一つになれないでいるのです。そのことが4節にもう一度指摘されており、このような分かれ争いがあるということは、あなたがたがまだ肉の人であり、乳飲み子のような状態に留まっているということだ、と言われているのです。
 パウロがこの党派争いのことを「ねたみや争い」と言っていることに注目したいと思います。党派を結んで対立し合っていくことの根本には、「ねたみ」の思いがあるのです。ねたみというのは、人をうらやむ心です。人が自分よりもよいものを持っていると面白くない、という心です。それはお金や持ち物のみにおけることではありません。才能、能力、あるいは家庭環境、性格、健康、その他あらゆる事柄に及びます。とにかく、人が自分よりも優れていることが腹立たしい、という思いです。それは、どうしてもそこで、自分がその人よりも劣っていることを思い知らされてしまうからです。自分のプライドを傷つけられてしまうからです。私たちは誰でも皆プライド、誇りをもって生きています。それを自分の心の拠り所としています。そのプライドを傷つけられることは、その人にとってナイフで切りつけられるよりも大きな苦痛になるのです。人を殺すのにナイフはいりません。その人が拠り所としている誇り、プライドを徹底的に否定すればよいのです。それはその人を殺すことと同じです。人はそのようなプライドに生きている、だから、ねたみが起こるのです。そしてそういう思いが、ねじ曲がった仕方で人と人とを結びつけていきます。その中では自分のプライドが守られ、満足させられるようなグループが作られていくのです。それが党派です。そういう党派は必ず閉鎖的になります。よそ者が入って来て自分たちのプライドを傷つけることを嫌うのです。自分と違う意見が語られると、プライドを傷つけられ、人格を否定されたかのように感じてしまい、些細なことが、プライドとプライドの衝突になってしまうのです。そのようにして、プライドによって結び合う党派は、他のプライドによって結び合う党派と対立していきます。そのようなグループどうしの対立がコリント教会にあったのです。パウロは、そのようなねたみや争いがあるということは、あなたがたは肉の人であり、乳飲み子の域を脱していないと言っています。自分のプライドにこだわり、ねたみと争いに陥っていくのは、生れつきの人間の姿だ、神の霊を受け、信仰を与えられて生きる者は、そのようなことから解放され、新しくされているはずだ、と彼は言うのです。

十字架の愛を知るなら

 信仰者は、ねたみや争いから解放されているはずだ。それは、信仰者たる者、自分の心を磨いて、人のことをねたんだり争ったりしない者になるべきだ、という道徳的教訓話ではありません。パウロが見つめているのは、そういう人間の努力の不足ではなくて、彼らコリント教会の人々が、神からの霊によって示される神の恵みを本当に自分のこととして受けとめていない、ということです。神からの霊によって示される神の恵みとは、これまで読んできた所に語られていたように、十字架につけられたキリストという恵みです。神様が、その独り子をこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦し、贖って下さったという恵みです。神様がそれほどまでに私たちを愛していて下さるという恵みです。この恵みが本当にわかる時、私たちは、ねたみの思いから解き放たれるのです。プライドにこだわる必要がなくなるのです。私たちを愛し、私たちの罪を背負って命を捨てて下さった方の中に、真実の拠り所、支えを見出すことができるからです。主イエスの十字架による愛を本当に知った者は、自分の中に拠り所、支えを確保しておかなければならない、ということがなくなるのです。それと同時に、自分と人とを比べて、どちらの方が優れているか、という思いからも解放されるのです。自分より優れた、よい賜物を持ち、よい働きをしている人の存在を、それによって自分のプライドを傷つけられるという思いで見るのではなくて、その人の働きを喜び、感謝して受け入れる者とされるのです。それらのことは、繰り返しますが、自分の努力によってそうする、ということでなくて、主イエス・キリストの十字架の恵みを本当に自分のこととして受けることにおいて、私たちはそのように新しくされていくのです。
 コリント教会の人々は、この新しさに生きることができていませんでした。そのために、ねたみや争いが起こり、党派の対立が起こってきたのです。そのような状態を指してパウロは、あなたがたはまだ乳飲み子で、乳しか飲むことができない、固い物を食べることができない、と言っているのです。そのことから考えるならば、パウロがここで「固い物を食べる」と言っているのは、キリストの十字架による神様の恵みを本当に自分のこととして受けとめ、それによって、自分のプライドにこだわる思いから自由になり、ねたみや争いから解放されることであると言うことができます。つまり主イエスの十字架の恵みが本当のその人のものとなり、その人の生活、生き方、人との関わり方が新しくなる、それが「固い物を食べる」ことです。「乳を飲んでいる」というのはその反対の姿です。先程見たように、パウロは、キリストの十字架による神様の恵みを常に語っていたのです。十字架の恵みとは別の、何かもっと分かりやすい、初心者向きの教えを語っていたのではありません。ですから、乳を飲んでいるというのは、同じキリストの十字架による神様の恵みが語られているのに、それが本当に聞く人自身の事柄になっていない、その人の生き方を変えるようなものになっていない、という状態を指しているのではないでしょうか。つまり、乳と固い食物の違いは、語られていることの違いではなくて、それを聞き、受けとめる側の違いによって生じてくるのです。パウロが、この人たちはまだ乳飲み子だから乳を与えよう、この人たちはもう成長しているから固い物を与えても大丈夫だ、と使い分けをしているというのではなくて、パウロが常に変わらず宣べ伝えているキリストの十字架における神様の恵み、罪の赦しの福音が、ある場合には乳としてしか聞かれない、しかしある場合には、固い食物として受けとめられていく、ということではないかと思うのです。

み言葉をどう聞くか

 そしてそうであるならば、問題は、私たちがみ言葉をどう聞き、どう受けとめているか、ということになるのです。私たちは、み言葉を、乳として聞いているか、それとも固い食物として聞いているか。乳として聞いているなら、私たちは乳飲み子です。固い食物として聞いているなら、霊の人、本当の意味で成長した者となっているのです。乳と固い食物という喩えはまことに適切です。乳は、飲みやすくて楽に飲める、甘えていても飲むことができるものです。しかしそれは、本当に成長した大人の生活を支えるものではありません。固い食物は、食べるのが大変です。噛み砕くのに苦労するし、いっしょうけんめい噛まなければなりません。時には歯が欠けることがあるかもしれない、しかしそのように苦労して食べる食物こそが、本当に体を造り、支えるのです。私たちはみ言葉をどのように聞いているでしょうか。乳を飲むような仕方でしか聞いていないことが多いのではないでしょうか。その時その時の慰めを求める甘ったれた思いで、丁度赤ん坊が腹がすけば乳を求めて泣き、与えられれば満足して眠ってしまうような、そんな聞き方しかしていないのではないでしょうか。赤ん坊はそれでも次第に成長していきます。しかし私たちの信仰はそれではいつまでたっても乳飲み子のままです。ということは、私たちはいつまでも肉の人のまま、生れつきの人間のまま、プライドにこだわり、ねたみによって争い、党派を結んで対立しあっていく、ということが延々と続いていくのです。そういうことからいいかげんに解放されたい、と真剣に思うならば、私たちは主イエスの十字架の死による神様の恵みを語るみ言葉を、本当に真剣に、自分の事柄として聞かなければなりません。そしてそのみ言葉によって、主イエスにおける神様の恵みをこそ拠り所とする者へと変えられていくことを祈り求めなければなりません。み言葉が本当に自分を養い育てる固い食物となることを求めていくのです。私たちの信仰の本当の成長は、この、み言葉に対する私たちの思い、姿勢の成長であると言うことができるでしょう。
 私たちは、信仰において、いつまでも乳飲み子であってはなりません。み言葉をいつまでも乳として聞いていてはならないのです。固い食物としてのみ言葉を求めて、本当の成長を求めて、聖霊を受けた霊の人とされることを求めていかなければならないのです。そうでないと、私たちはいつまでも自分のプライドに捕われたままで、ねたみや争いから抜け出すことができません。み言葉は私たちの上を上滑りするばかりで、私たちの生き方を新しくするものにはならないのです。

キリストに抱かれた乳飲み子

 しかしそこでもう一つ見つめるべきことは、パウロが、いつまでも乳飲み子のままに留まっているコリントの教会の人々のことをどのような目で見つめているかということです。1節の「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々」という言葉がそれを表しています。「キリストとの関係では」とありますが、この「関係では」というところは原文においては、「~の中の」という言葉です。ですから「キリストの中にある乳飲み子」というのが直訳です。パウロは、いつまでも乳飲み子のままで成長しない、ねたみと争いに陥っているコリント教会の人々を、しかし「キリストの中での乳飲み子」あるいはさらに言えば「キリストに抱かれた乳飲み子」として見つめているのです。つまり、み言葉を乳としてしか聞くことができていない、キリストの十字架における神様の恵みを表面的にしか受けとめることができず、生れつきの人間の思い、ねたみや争いをひきずってしまっている、そういう者たちは、もはやキリストにおける兄弟姉妹ではない、と言って断罪しているのではないのです。このパウロの思いは、本日共に読まれた旧約聖書ホセア書11章における主なる神様の思いと重なると言うことができるでしょう。主は、まだ幼かったイスラエルの民を愛し、エジプトの奴隷状態から解放し、大事に養い育てたのです。しかしその民は主に背き、他の神々を拝み、偶像に心を引かれている。つまり主なる神様の愛を悟ることなく、それに応えようとしないのです。そのような罪の中にあるイスラエルに対して、神様は怒っておられる。罰を与えておられる。しかしその背いているイスラエルを、神はなお愛しておられ、憐れみに胸を焼かれる思いでおられるのです。いつまでも乳飲み子の域を脱することのできないコリント教会の人々をも、神様はそのような目で見つめておられるに違いない。だからパウロは、彼らに、ちゃんと固い食物を食べることのできる大人になれ、いつまでも肉の人、生れつきの人間のままであってはならない、と語りかけつつ、彼らを、キリストの中にある乳飲み子として慈しんでいるのです。この主の憐れみ、慈しみを知ればこそ、私たちはなおいっそう、み言葉を本当に私たちの生活を新しくする固い食物として聞くことができるように、聖霊によって神様の恵みを悟る霊の人となれるように、本当の成長を求めていきたいのです。

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