夕礼拝

神の指によって悪霊を追い出す

「神の指によって悪霊を追い出す」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:出エジプト記 第8章12-15節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章14-23節
・ 讃美歌:

病と悪霊
本日の箇所の冒頭14節には「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」とあります。主イエスは口を利けなくする悪霊を追い出すことによって、口の利けない人を癒されたのです。この癒された人は言葉が出なくなる病を患っていたか、あるいはそのような障がいを抱えていたのだと思います。現代社会に生きる私たちにとって、病や障がいを「悪霊」によるものと考えるのは非科学的なことです。当時の人たちは科学的な知識がなかったからそのように考えたのかもしれないと思います。このように考えるのは、ある意味で健全なものの考え方です。なぜなら現代においても、病を抱えている人に、「あなたは悪霊に取り憑かれているから、その悪霊を祓わないと大変なことになる」と言って、相手を不安にさせたり、恐れさせたりする人たちはいるからです。それに対して私たちは健全なものの考え方で対処していく必要があります。病や障がいは科学的知見によって理解しなくてはならないし、それに基づいた治療やサポートを考えていかなくてはならないのです。しかしそれは私たちが聖書に書いてあることを否定するということではありません。むしろ科学的知見をないがしろにして病や障がいの原因を悪霊と考えるほうが聖書の読み方を間違えているのです。聖書は病や障がいの因果関係を語りたいのではありません。たとえ当時、それらの原因が悪霊であると考えられていたとしても、それは表層的なことです。私たちはより本質的なこと、つまりこの出来事において本当に見つめられていることを受けとめていかなくてはならないのです。

悪霊とは
悪霊とは、科学的な意味での病を引き起こしている原因ではなく、私たちが自分の力ではどうすることもできない現実を引き起こしている様々な力です。病や障がいというのは、そのような現実の一つであり、災害、戦争、貧困などもそうです。長きに亘る治療を必要とする病があり、生活が一変してしまう突然の怪我や病があります。いずれも私たちの力で防げるわけではありません。また、この三年に亘るコロナ禍や、まもなく一年になろうとするウクライナにおける戦争も、私たちが自分の力で立ち向かえることではありません。あるいは最近の急激な物価の高騰は、経済的に弱い立場にある方たちの生活と命を脅かしていますが、この急激な物価の高騰も私たち一人ひとりの力で食い止めることなどできません。私たちは誰もがこのような自分の力ではどうすることもできない現実、とりわけ不条理な苦しみの現実に直面して生きているのです。私たちの力を越えた、「悪霊」としか言い表せないような力が、それらを引き起こしているのです。ですから14節で語られているのは、主イエスが「口の利けない」という苦しみの現実を引き起こしていた力に打ち勝たれることによって、その力から口の利けない人が解放されて話し始めた、ということなのです。

群衆の中からの声
その様子を見ていた群衆は驚きましたが、その中には「『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」と言われています。ここで彼らは主イエスが悪霊を追い出したことそのものを問題にしているのではありません。主イエスが悪霊を追い出した力はどんな力なのか、ということを問題にしているのです。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った人は、「親分であるベルゼブルの命令であれば、子分である悪霊たちは従うに違いない。だからあの男は、親分ベルゼブルの力を使って口の利けない人から悪霊を追い出している」と考えたのです。これに対する主イエスのお答えが17節以下で語られているのです。
群衆の中には、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める」人もいました。「天からのしるしを求める」とは、この口の利けない人の癒しが、本当に神の力によるものだという保証を求める、ということです。これに対する主イエスのお答えは少し先の29節以下で語られています。ですから本日の箇所では、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という言い分に対する主イエスのお答えが中心となって語られているのです。

内輪もめすれば国は成り立たない
主イエスはまず17-18節でこのように言われています。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。国家のトップが自分の部下たちと争い、故意に部下たちを失脚させて追い出したりするようなことがあれば、その国家は正常に機能しているとはいえません。一時的に権力の集中が起こるかもしれませんが、いずれその国家は荒れ果てていきます。歴史を振り返ればこれまでもそのようなことが繰り返し起こってきたし、今も起こっています。それと同じように、悪霊の頭ベルゼブルがその子分たちを追い出すような内輪もめが起これば、サタンの国も成り立たなくなるのです。ここでサタンとベルゼブルは同じと見なして良いと思います。主イエスは、サタンの国も内輪もめが起これば成り立たなくなるのだから、悪霊の頭ベルゼブル(サタン)の力で悪霊を追い出すことはできない、と言われているのです。

あなたたちの仲間は何の力で追い出しているのか
また主イエスは19節で「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間はなんの力で追い出すのか」とも言っています。すでにお話ししたように当時の人たちは病の原因を悪霊と考えていましたから、病気を治療することは悪霊を追い出すことを意味しました。ですからユダヤ人の中にも悪霊を追い出して病を癒していた人たちはいたのです。主イエスは、自分がベルゼブルの力で悪霊を追い出しているなら、自分と同じように悪霊を追い出しているユダヤ人は何の力で追い出しているのかと言われ、彼らが言っていることの矛盾を突かれたのです。主イエスがベルゼブルの力を用いているなら、ユダヤ人のお仲間もその力を用いているはずであり、ユダヤ人のお仲間がベルゼブルの力を用いていないなら、主イエスもその力を用いていないはずだからです。とはいえここで主イエスは、あくまで相手の言い分に一貫性がないことを指摘しているだけであり、ご自身による癒しがユダヤ人による癒しと同じだと言っておられるのではありません。それは20節で「わたしが神の指で悪霊を追い出している」と言われていることからも分かります。主イエスの癒しはユダヤ人による癒しとは決定的に異なる「神の指」によるものなのです。

神の支配とサタンの支配のせめぎ合いの只中に
さて18節ではサタンの国について語られていました。それに対して20節では神の国について語られています。「国」と訳されている言葉は「支配」とも訳せる言葉です。この世には神の支配とサタンの支配のせめぎ合いがある。このことこそが本日の箇所で本当に見つめられていることです。最初にお話ししたように、悪霊たちは、私たちが自分の力ではどうすることもできない現実を引き起こしている様々な力です。しかし私たちはこれらの不条理な苦しみの現実の被害者であるだけではありません。なぜなら病、災害、戦争、貧困というような苦しみの現実の根っこには、私たち人間の罪があるからです。もちろんそれは、病気になるのはその人の罪のためだということでは決してないし、災害や戦争や貧困に直面するのはその人の罪のためだということでも決してありません。そうではなく、多くの不条理な苦しみの現実を生み出している根本的な原因は、私たち人間が罪にとらわれていることにある、ということなのです。そうであるなら悪霊とは、私たち人間を罪にとらえようとする力であり、神から引き離そうとする力です。私たち人間を神から引き離すことによって、この世に不条理な現実を生み出している力なのです。悪霊は私たちを神から引き離すことによって、神の支配に対立してサタンの支配を確立しようとしています。不条理な苦しみの現実は、サタンの支配の現れにほかならないのです。私たちはこの神の支配とサタンの支配のせめぎ合いのただ中にいます。ですから私たちは自分の力ではどうすることもできない不条理な現実をただ嘆いているだけではいられません。そのことを引き起こしている罪の力に、神から引き離そうとする力に私たち自身が絶えず脅かされているのです。私たちは神の支配とサタンの支配の対立の傍観者ではいられません。その当事者なのです。

真実の言葉を発せない者
「口を利けなくする」というのも、私たちを神から引き離すことの一つの象徴であると言えるかもしれません。口が利けないというのは、神との真実な対話が、また隣人との真実な対話が失われていることの象徴なのです。それは、口の利けない方は神や隣人と対話できない、ということではまったくありません。そうではなくたとえ言葉を発することができたとしても、罪の力にとらわれているなら私たちが語る言葉は真実の言葉にはならない、ということです。神から引き離されているならば、私たちは神と対話することができません。神との対話が失われているならば、隣人との対話においても、私たちは相手を愛し、大切にし、思いやる言葉ではなく、相手の悪いところを裁く言葉、あるいは相手の気を引こうとする偽りの言葉を語ってしまいます。このことを象徴的に言えば、神から引き離されるなら私たちは誰もが「口の利けない人」になる、いくら言葉を発しても、少しも真実の言葉を発せない者になるのです。サタンの支配は、私たちが隣人を裁く言葉を語り、隣人を欺く言葉を語るところにも現れているのです。

神の指によって悪霊を追い出す
このようなサタンの支配に対して、主イエスは20節でこのように言われています。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスが悪霊を追い出したことは、ユダヤ人が悪霊を追い出すこととは同じように見えてもまったく違うことです。主イエスは10章22節で「すべてのことは、父からわたしに任されています」と言われていました。神の独り子であるイエスだけが、「神の指」によって、つまり神の力によって悪霊を追い出すことができるのです。
この「神の指」はとてもめずらしい表現で、新約聖書ではこの箇所にしか出てきませんし、旧約聖書でもほとんど見られません。旧約聖書でまず思い浮かぶのは、出エジプト記31章18節の「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」という箇所ではないでしょうか。主なる神が、十戒の記された二枚の石の板をモーセに授ける場面ですが、その十戒は「神の指で記された」と言われています。「神の指」は「神の力」と言い換えてもなんら問題はありません。しかし神がイスラエルの民を想って、そして私たちを想って、その指で十戒の言葉の一文字一文字を記してくださったことに思いを馳せるとき、私たちは神の大きな愛、大きな配慮を感じずにはいられないのではないでしょうか。本日共に読まれた旧約聖書出エジプト記8章15節にも「神の指」が出てきます。この箇所は、イスラエルの民をエジプトから解放させるために、モーセとアロンを通してエジプトにくだされた十の災いの一つ「ぶよの災い」の場面です。主の言葉に従ってアロンが杖を差し伸べて土の塵を打つと、その土の塵はぶよに変わり、ぶよはエジプト全土に広がって人と家畜を襲いました。エジプトの魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしましたができません。そのため魔術師はファラオに、このぶよの災いは「神の指の働きでございます」と言った、というのです。神のみ業を目の当たりにした魔術師は「これは神の指の働きです」と認めることにおいて、神の支配をも認めたのです。

神の国は来ている
主イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われました。「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われたのであって、「神の国はあなたたちのところに来るだろう」と言われたのではありません。すでに神の国は来ている。すでに神の支配は実現している。つまり神の支配とサタンの支配のせめぎ合いは勝敗が決している、と主イエスは言われているのです。21-22節の譬え話もこのことを見つめています。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。「強い人」とは悪霊の頭ベルゼブル、サタンのことであり、「もっと強い者」が主イエスです。つまり「もっと強い者」である主イエスは、「強い人」であるサタンに勝つと言われているのです。それは、主イエスによってサタンの支配が滅ばされ、神の支配とサタンの支配のせめぎ合いに決着がつけられ、神の支配が実現したということにほかならないのです。

十字架の死による勝利
しかしこのことは主イエスが口を利けなくする悪霊を追い出したことにおいて実現したのではありません。主イエス・キリストの十字架において実現したのです。本日の箇所における主イエスの癒しのみ業は、ほかの主イエスの奇跡と同じように、主イエスの十字架の出来事を指し示しています。主イエスの十字架によって神はサタンに決定的に勝利しました。私たちも主イエスの十字架の死によって、私たちをとらえていた罪の力から解放されたのです。先ほどの譬え話で言えば、私たちは「強い人」の「持ち物」であり、「もっと強い者」の「分捕り品」です。私たちはかつてサタンの持ち物でしたが、主イエスはそのサタンに勝つことによって、私たちをサタンから分捕ってくださったのです。それは、私たちをサタンの支配から救い出し、神の支配の下へ入れてくださったことにほかなりません。サタンの持ち物として罪の力に振り回されていた私たちが、主イエスによって神のもの、神の愛のご支配の内に生きる者とされたのです。サタンは武装して自分の支配を守っていました。主イエスはそのサタンを襲い、サタンの頼みの武具をすべて奪い取って勝利しました。しかし主イエスは、サタンにまさる武装、サタンにまさる武具を身につけてサタンを襲い、その武具を奪い取ったのではありません。あらゆる武装と武具を捨てられ、みすぼらしい姿で、弱さの極みである十字架上の死によってサタンの支配に勝利し、私たちをその支配から救い出してくださったのです。私たちはすでにこの救いに与り、神のご支配の下に生かされているのです。

主イエスに味方する
そうであるならば、これまでお話ししてきたこの世には神の支配とサタンの支配のせめぎ合いがあり、私たちはその対立の傍観者ではなく当事者であるというのは、どうなってしまうのでしょうか。すでに私たちが罪の力から解き放たれ、サタンの支配からも解放されているなら、あるいは神の支配とサタンの支配のせめぎ合いに決着がついて神の支配が実現しているなら、私たちはもはやこの対立の当事者ではなくなってしまっているのでしょうか。しかしそうではないのです。確かに神の国は私たちのところに来ています。将来来るのではなく、すでに来ています。神の国は主イエスの十字架と復活によって実現したのです。しかし神の国はまだ完成したわけではありません。その完成は世の終わりを待たなければならないのです。神の国、神の支配が完成していないとは、この世にはなお神の支配とサタンの支配のせめぎ合いがあり続けるということです。ですから私たちはなおこの対立の当事者であり続けているのです。今も続いている神の支配とサタンの支配のせめぎ合いの只中で、私たちがなすべきことは主イエスに味方することです。言い換えるならば、「神の国はあなたたちのところに来ている」という主イエスのお言葉を信じて生きることです。23節で主イエスは「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われています。対立のただ中で中立を装うことはできません。主イエスに味方しないなら、神の支配がすでに実現していることを信じ受け入れないなら、主イエスに敵対していることになるのです。ぶよの災いを目の当たりにしたエジプトの魔術師は「これは神の指の働きでございます」と言いました。しかし「ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった」と言われています。私たちはファラオのように心をかたくなにして主イエスの言葉を聞こうとしなかったり、神の支配の実現を拒んだり、あるいは神の支配とサタンの支配の対立の只中で、傍観者であり続けたり、中立を装い続けたりしてはならないのです。

目に見えない神の支配の実現を信じて生きる
神の国が完成していないとは、神の国は目に見えるような形で現れているのではないということです。ですから私たちが主イエスに味方するとは、目に見えない神の国の実現を信じ受け入れることにほかなりません。私たちは起こってもいないこと、ありもしないことを信じるのではありません。実現しているけれど目に見えない神の国と神の支配を信じるのです。確かに私たちの目に見える現実は、自分の力ではどうすることもできない不条理な出来事で溢れています。病があり、災害があり、戦争があり、貧困があり、犯罪があります。それだけでなく私たち自身も、度々罪の力に、神から引き離そうとする力にとらえられそうになります。そうであったとしても「かつて」と「今」は違います。主イエスによる救いに与った「今」は、「かつて」とは決定的に違うのです。なお罪の力にとらえられそうになっても、私たちはもはやその力に翻弄されることはありません。なお不条理な苦しみの現実に直面していても、私たちはその現実に押し潰され、絶望してしまうことはありません。なぜなら主イエス・キリストの十字架と復活によって、すでに神の支配とサタンの支配のせめぎ合いに決着がついているからです。なおサタンの力は残っています。しかしどれほどその力が猛威を振るっているように思えたとしても、すでに決着はついているのです。どれほど不条理な苦しみの現実の中にあったとしても、キリストの十字架と復活によって約束されている世の終わりの救いの完成の希望が私たちに与えられ続けています。だから私たちはその苦しみの現実に押し潰されることも絶望することもないのです。私たちが神の支配とサタンの支配の対立の当事者であるとは、私たちが自分の力でサタンの力に対抗するとか、不条理な苦しみの現実に打ち勝つことではありません。そうではなくすでに主イエスによってその対立に決着がつき、目に見えなくても神の支配が実現していることを信じて生きていくことです。私たち一人ひとりを知っていてくださり、繊細で細やかな「神の指の働き」によって、それぞれが本当に必要としているみ業を行ってくださる神の支配の下で生きていくことです。そして、目に見えなくても実現している神の支配へ、一人でも多くの方を招くために用いられて生きていくことです。それが、私たちが主イエスと一緒に集めるということにほかなりません。神から引き離され、散り散りになって孤立している方たちを、神にも隣人にも真実の言葉を語ることができず、本当の交わりを持てずにいる方たちを、神の支配のもとへと招き集めていくために、私たち一人ひとりが用いられていくのです。

聖餐において目に見えない神の支配を実感する
これから私たちは聖餐に与ります。目に見えない救いを、目に見えない神の支配の実現を信じられなくなってしまう私たちのために、主イエスは聖餐をお定めくださいました。この聖餐に与ることによって、主イエスが言われたように神の国が私たちのところに来ていることを、私たちは体全体で実感します。聖餐において神の支配の完成を僅かばかり味わった私たちは、なお不条理な苦しみの現実が溢れている世界にあって、目に見えない神の支配を信じ、そのご支配のもとへ世の人々を招きつつ歩んでいくのです。

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