夕礼拝

人の子を裏切る者

「人の子を裏切る者」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第41編1-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章10-21節
・ 讃美歌 ; 297、456

 
ユダの裏切り
 本日の箇所には、イスカリオテのユダが主イエスに対する裏切りを企てたこと、そして、主イエスがそれを予告されたことが記されています。マルコによる福音書の第14章は、主イエスの十字架への歩みが本格的に始まる場面です。既に、祭司長や律法学者たちは主イエスを捕らえて殺そうと企んで時を伺っていました。14章1~2節にあるように、彼らは、人々が騒ぎ出すといけないとの理由で、祭の間は主イエスを捕らえるのをやめておこうとしていました。ここで祭とは、ユダヤ人の三大祭りの一つ、過越祭とそれに続いて行われる除酵祭のことです。そのような中、主イエスの弟子であるイスカリオテのユダが裏切りを企てていたのです。それによって、主イエスは、祭司長、律法学者たちの計略とは異なり、祭の間に十字架に付けられることになったのです。ここには大きな神様の御計画があったと言って良いでしょう。この出来事に記された救いの恵を示されて行きたいと思います。

主の御心としての裏切り
ユダというと一般的に、主イエスを裏切った悪者の代表とされています。しかし、ただユダを悪者にして、主イエスの弟子の中にはひどい人がいたものだ、自分だったら主イエスを裏切ることなどしないと考えてしまう訳にはいきません。ユダを十二弟子に選んだのは他でもない主イエスご自身です。そして、ユダの裏切りは、確かに、主なる神の救いの御計画の中にありました。ユダの裏切りによって主イエスは、祭において十字架に付けられることになるのです。この祭において主イエスが殺されることには意味があります。主イエスは、過越の祭の犠牲の小羊として、民の罪の贖いとして十字架につけられたのです。 聖書は、ユダの行為を「裏切る」と表現しています。しかし、この言葉は、「引き渡す」という意味を持つ言葉です。主イエスはこれまでに三度、ご自身の十字架を予告して来ましたが、その中で、人の子が「引き渡される」と仰っています。つまりユダの振る舞いは、主イエスによって成し遂げられる十字架のために不可欠な救いの御計画の中にあったことなのです。そのように考えて聖書を読み返して見ると、ユダがその行いによって神の定められた働きを全うし、神の御旨を遂行したかのように描かれているとさえ言えるのです。
直前の箇所には、一人の女が、300デナリオンもの価値がある香油を注いで、主イエスに仕えたこと、主イエスがその業を受けとめ、ご自身の十字架の備えとしたことが記されていました。ユダの裏切りは、この女の出来事とは対称的です。しかし、全く異なる形ですが、ユダの裏切りも、主イエスの十字架のために不可欠な出来事であったと行って良いでしょう。香油を注いだ女の行為が、主イエスの十字架に向けた備えとなったように、ユダの裏切りも又、主イエスの十字架を備えるものとなったのです。
もちろん、主イエスに対する裏切りが良いことであったと言うのではありません。14章の21節には、はっきりと「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とまで言われています。ここまではっきりと、主イエスから見放されたと言っても過言ではないような言葉を投げかけられた人はいないのではないでしょうか。わたしたちがユダの裏切りについての記事に触れ、驚かされるのは、主イエスにこれ以上がない程の呪いの言葉を投げかけられている裏切り者が、確かに主の救いの御計画の中で一つの役割を果たしているという事実です。

裏切りの企て
10~11節には、ユダの裏切りが記されています。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」。ここで、マルコは、ユダのことを改めて「十二人の一人」と記します。十二弟子とは、主イエスが選び、ご自身の傍に置き、ご自身の権威を授けて宣教の業に当たらせた弟子たちです。ユダは、少なくても、一度は主イエスを慕い、主イエスの教えに心酔し、主イエスのためにすべてを捨てたのでした。主イエスを裏切り、主イエスから見放されたかのような言葉を投げかけられたのは、主イエスから遠くにいる、主イエスに敵対する者ではなく、主イエスご自身の最も近い場所にい続けた人物なのです。主イエスは、ご自身に従う者の裏切りを見つめ、その者に対して、厳しい言葉をお語りになっているのです。
又、ここで、ユダの方から主イエスを憎んでいた祭司長の下に行ったことが記されています。ユダは、主イエスを殺そうと企んでいた祭司長や律法学者たちから唆され、報酬に目がくらんで主イエス殺害の計画に加担したというのではありません。ユダの方から祭司長の下に行ったのです。そのようなユダに対して祭司長たちは、「それを聴いて喜び、金を与える約束をした」のです。ユダは自ら決意をもって主イエスを裏切り、祭司長の下に行ったのです。

裏切りの理由
何故、ユダが、人から唆される訳でもなく自ら主イエスを裏切ったのでしょうか。考えられるのは、主イエスの姿が、自分の思っていた救い主の姿とは異なっていたからでしょう。主イエスは、ガリラヤで力強く教えを語り御業を行っていました。その姿を見て、ユダは、主イエスこそ自分たちを救う救い主だと思ったのです。そこには、この方こそ、自分たちを支配し苦しめているローマ帝国からの解放を実現してくれる力強い指導者に違いないという思いもあったでしょう。しかし、主イエスは徐々に、十字架に向かわれます。今ではユダヤの指導者である祭司長や律法学者から命をつけねらわれているのです。そこには、自分たちが望んでいた力強い救い主の面影はありません。ユダは、徐々に、主イエスのお姿が自分の思い描いていた救い主とは異なって来る中で違和感を覚えていたのかもしれません。又、その思いは、直前の箇所で、一人の女が300デナリオン以上の価値がある香油を主イエスに注いだ時にはっきりしたと言えるでしょう。その時、そこにいた人の何人かが憤慨したことが記されています。そんな無駄をするならば、貧しい人に施すことが出来たと言うのです。それに対して、主イエスは、「するままにさせておきなさい」と仰ったのです。マルコによる福音書は、この時憤慨したのが誰であるのかを記しません。しかし、ヨハネによる福音書では、ここで憤慨したのはイスカリオテのユダであったと記しています。もしユダが、ここで憤慨した人であるならば、もしくは、その人々の中にいたのであれば、ユダは、この出来事によって、主イエスの御意志と自分の思いの間に大きな溝があることを感じたことでしょう。ユダは、もうこの人について行っても無駄だと感じたのではないでしょうか。自分が是とすべきことを否定され、まるで自分自身が否定されたかのような思いになったかも知れません。今まで、何もかも捨てて、この方に付いてきたのは何だったのだろうかという思いになり、破れかぶれになって憎しみすら抱きながら祭司長の下に出かけて行ったのでしょう。すべてを委ね、すべてを託して来たその歩みが無駄であった。自分がこの方に裏切られたのだという思いすらあったかもしれません。弱々しい主イエスに対して、今にも主イエスを捕らえようとする祭司長や律法学者の方がはるかに力強く頼りがいがある者に見えるのです。

主イエスの予告
しかし、これはあくまで想像です。ユダが主イエスを裏切った理由は聖書からは知ることが出来ません。聖書が、このようにユダの裏切りを記すことによって何より伝えたかったのは、この裏切りの出来事が、主なる神の御計画の中にあったということです。12節以下に記された過越の食事の場面からも明らかです。「徐酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とあります。除酵祭とは過越祭の次の日から7日間祝われる祭です。しかし、ここに記されていることは、過越祭で祝われる過越の食事の準備の場面です。ですから、この時が果たして除酵祭のことであったかは定かではありません。 過越の食事というのは宗教上の儀式として守られる食事です。食事のために様々な決まりがありました。又、当時、この食事はエルサレムの市内で守られるべきものでした。ですから、これを守るためには、それなりに準備がいるのです。エルサレムにやって来た人たちは、食事のための場所を確保し、必要なものをそろえなくてはなりません。この時、主イエスと弟子も、過越の食事の準備に取りかかります。過越の食事のために、どこへ行って用意するのかを尋ねる弟子たちに対して、主イエスは次のようにお語りになります。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」。ここには、すべてを見通しているような主イエスの答えが示されています。ここから分かることは、この食事は、主イエスが整え、御計画されていたということです。十二人の弟子たちは、その食事に招かれるのです。夕方、主イエスと十二人の弟子たちは、そこに行きます。そして、この食事において、主イエスは、ユダの裏切りを予告するのです。主なる神がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことを覚える食事において、弟子の裏切りが語られるのです。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。主イエスは、ユダの企てをすべて知っておられるのです。

「まさかわたしのことでは」
この時、ユダ個人はどのような気持ちだったのでしょうか。自分の悪事がはっきりと指摘されて、相当な焦りを感じたのではないかと想像することが出来ます。しかし、聖書は、そのようなユダの反応に注目していません。むしろ、他の弟子たちの反応を記すのです。弟子たちは、主イエスの力強い予告を聞いて、弟子たちは、心を痛めて「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。彼らは、ここで、自分は絶対裏切らないと主張し始めたのではありません。主イエスを裏切るのは誰なのかと議論したり言い争ったりしたのでもありません。皆、裏切るのが自分かも知れないと思ったのです。「心を痛めて」とあります。必死に主イエスを信じてついて来た自らの中に、主イエスを裏切ってしまう可能性を意識せざるを得ないことに対する痛みだったのでしょう。主イエスの言葉は、主イエスを裏切ってしまう可能性を否定出来ない、人間の弱さを明らかにする言葉なのです。
 マルコによる福音書が他の福音書と比べて特徴的なのは、この予告の場面では、主イエスを裏切るのがユダであることをはっきりと記していないことです。又、ここで主イエスは、ユダに向かって「あなたが裏切る」とは言っていません。「あなたがたの一人」と言っているのです。ここで、主イエスは、ユダ個人に向かってではなく弟子たちに向かって語りかけておられるのです。もし主イエスが、裏切り者を特定し、糾弾したかったのであれば、もっとはっきりとユダに向かって語ったはずです。つまり、主イエスに従って歩む弟子たちの内に、裏切りの可能性があることを意識させようとして語っているとも取れるのです。更に、自分ではないだろうかと話す弟子たちに、主イエスは、「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と仰っています。ここでもはっきりとユダのことが特定されている訳ではありません。聖書は、ユダ個人の罪を指摘するのではなく、主イエスに従う者たちすべてに向かってお語りになるのです。そして、ユダ以外の全ての弟子達が心を痛めたのです。ここから言えることは、主イエスの弟子の誰もが、この一人となり得るということです。事実、この後、他の弟子たちも十字架まで、主イエスと歩みを共にすることが出来る者はいなかったのです。ユダのような形で積極的な形ではないにしても、皆主イエスを引き渡したのです。すなわち、ユダは、弟子達の全体の罪を明確に示しているのです。

人の子を裏切る者
わたしたちは、ここで、主イエスの弟子たちはだらしないと思ってはなりません。わたしたちがこの世で、主イエスについて行くということも、このような不安を抱えて歩むことなのです。絶対に裏切らない信仰に生きるなどと言うのはあり得ないことです。それは迷信と言うべきものです。主イエスを疑い、主イエスの後について行くことに不安を感じ、主イエスに裏切る者がいると言われた時に、悲しみを覚えざるを得ないのです。そして、誰しも、この時のユダのように、主イエスを「引き渡す」者になり得るのです。主イエスに従って行って何の意味があるのだろうかとの思いを抱いたり、信仰を持って歩むことが世の力の前であまりに無力なものに見えることがあるのです。そして、信仰を揺るがす様々な世の力に妥協しつつ生きるのです。理由は人それぞれ様々ですが、誰しも、それぞれの仕方で、主イエスを引き渡しているのです。主イエスの前に立つ時、誰であっても、自らの罪、裏切りの可能性を認識せざるを得ません。自分以外の誰がユダなのかと議論することは出来ないのです。わたしたちは、誰しも「人の子を裏切る者」として主イエスの前に立つのです。
しかし、それは、裏切りの事実が、やむ終えないことであって、咎められるべきものではないということではありません。わたしたちは、主を引き渡す一人の弟子として、主の前に立ち、ユダに語られた、あの主イエスの叱責の言葉をも聞くのです。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。この言葉によれば、誰しも、主イエスを裏切らざるを得ない、生まれなかった方が良かった者なのです。しかし、そのような者を主イエスが、ここで過越の食事に招いて下さっているということこそ大切なことです。まさに、生まれなかった方が良い「人の子を裏切る者」のために、主イエスパンと杯を差し出して下さる。それはご自身の体と血を十字架で、生まれなかった方が良い者の罪のために差し出して下さっていることを示しているのです。

聖餐の食卓
この食事は、教会が守り続けて来た聖餐の食卓の起源となっている食事です。わたしたちは聖餐に与る時、復活の主イエスと共に囲む食卓を思い起こすと共に、この十字架の前の食卓をも思い起こさなくてはなりません。主イエスが、わたしたちにパンと杯を差し出している。そこで、わたしたちは、まさに、自分たちが主イエスを裏切る一人であることを自覚せざるを得ないのです。ここで、弟子全体が持っている罪がはっきりと示され、「生まれてこない方が良かった」とまで言われる見捨てられた者であることを示されるのです。しかし、そこで与るパンと杯が、そのような見捨てられた者の救いの出来事を記念しているのです。主の食卓が示していることは、主に選ばれた主に従う者も、主を裏切らざるを得ない見捨てられた者であり、また、そのような者として選ばれた者であるという事実なのです。主イエスは、「生まれなかった方が、その者のために良かった」とまでおっしゃった不幸な者のために命を差し出して下さっているのです。そのことを知らされる時、主が、私たちのために死なざるを得なかったことの意味と、そこで成し遂げられている救いの恵の奥深さを示されるのです。 この後、聖餐の食卓に共に与ります。ここで、人の子を引き渡してしまう一人のユダとして歩む自らの姿と、そのような者のために、自らを差し出して下さった主イエスの愛を示されたいと思います。その愛を深く知らされるところから、主に祝福された幸いな者として、主の救いの御業に感謝しつつ歩みを始めるのです。

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