夕礼拝

マリアへのお告げ

12月17日 夕礼拝
説教 「マリアへのお告げ」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 創世記第18章9-15節
新約聖書 ルカによる福音書第1章26-38節

クリスマスが近づいている実感を持てない
 アドヴェント(待降節)第三主日を迎えました。いよいよ次の主の日に私たちはクリスマス礼拝を持とうとしています。本日の主日礼拝では洗礼式が行われ聖餐にあずかりましたが、夕礼拝では次の主の日24日に、つまりクリスマスイブの夕べに聖餐にあずかります。指路教会では基本的に24日の夕方にクリスマス讃美夕礼拝を行ってきましたので、24日の夕べに聖餐にあずかることは、今まであまりなかったのではないでしょうか。そのことに感謝しつつ、間もなく迎えるクリスマスに備えていきたいと思います。しかしその一方でクリスマスが近づいているという実感があまりない、と思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。12月とは思えない暖かい日が多いからかもしれません。それだけでなく、今、この世界で戦争によって多くの命が奪われている現実を思うとき、とてもクリスマスを喜べない気持ちになるからでもあるでしょう。あるいは日々、心が暗くなる事件や事故、不祥事を耳にしているからかもしれません。私たちは日常の中ではなかなかクリスマスが近づいている実感を持てないように思えるのです。だからこの世界の現実から離れて、日常から離れて、クリスマスの気分が高まるような場所へ行こうとするのではないでしょうか。普段とは違う特別な場所で、特別な時間を過ごすことによって、クリスマスが近づいている実感を高めようとするのです。

日常のただ中で起こった出来事
 しかし聖書が語るクリスマスの物語に目を向ければ、主イエス・キリストの誕生は、世界の現実や人々の日常から切り離されて起こったのではないことに気づかされます。とりわけルカによる福音書はこのことを強調していると言えるでしょう。本日ご一緒に読み進めていくのは、クリスマス物語の中でもよく知られている、天使ガブリエルがマリアに聖霊によって身ごもったことを告げた、いわゆる受胎告知の場面です。降誕劇では欠かせない場面ですし、この場面を描いている絵画も多くあります。劇や絵画では特別な出来事が切り取られて描かれますから、私たちはこの場面を日常から切り離された出来事のように思いがちです。しかしそうではないと思います。この出来事は日常のただ中で起こったのではないでしょうか。本日、私たちはこのことに目を向けつつクリスマスへの備えをしていきたいのです。

田舎町ナザレで暮らすマリアの日常
 冒頭26、27節に「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」とあります。当時の世界の中心はローマでした。「すべての道はローマに通ず」と言われていたぐらいです。また当時のユダヤ人社会の中心はエルサレムでした。神殿のあるエルサレムこそが、ユダヤ人の信仰生活の中心であったからです。それに対して天使ガブリエルが遣わされたガリラヤ地方は、エルサレムから60キロメートル以上離れた北の地域で、ナザレはその南境にあった田舎町です。主イエス・キリストの誕生の予告は、世界の中心であるローマでも、ユダヤ人社会の中心であるエルサレムでもなく、何の変哲もない田舎町ナザレで告げられたのです。
 その田舎町ナザレで暮らしているマリアのところに天使ガブリエルは遣わされました。何の変哲もない田舎町ナザレに、やんごとなき少女が暮らしていたとか、特別な才能を持った少女が暮らしていたということであれば、そのコントラスが際立ったかもしれません。しかし本日の箇所はマリアについてそのようなことを一切語っていません。マリアは何の変哲もない田舎町ナザレで暮らす、何の変哲もない少女であったのです。マリアはナザレで暮らすほかの女性たちと同じように普通に婚約し、結婚しようとしていました。婚約者はダビデ家のヨセフです。このときマリアの年齢は12歳ぐらいだったようで、今の私たちの感覚からすると早すぎる結婚ですが、当時のユダヤ人社会ではごく普通のことでした。このようにマリアの日常は特別なものではなく、ナザレで暮らすほかの女性たちとなんら変わらないものであったのです。もちろんこのときマリアは、これから始まるヨセフとの結婚生活をあれこれ思い描いていたはずです。婚約期間は大体一年間であったようですが、マリアは間近に控えていた新しい生活を思い描き、楽しみにしつつ、いつもと変わらない日常を過ごしていたのではないでしょうか。新しい生活を楽しみにしているとは言っても、マリアはヨセフと結婚した後、自分の生活が劇的に変わるとは思っていなかったはずです。田舎町ナザレでヨセフと家庭を築き、一生を過ごすだろうと考えていたのではないでしょうか。

日常に介入する神
 そのようにいつもと変わらない日常を過ごしていたマリアのところに、天使がやって来て、このように言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。「おめでとう」と訳された言葉は、「喜びなさい」とも訳せる言葉です。「恵まれた方」とは、「神から恵みを与えられた方」ということですから、天使はマリアに「喜びなさい。神から恵みを与えられた方」と告げたのです。天使のお告げを聞いたマリアは「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と語られています。マリアが戸惑ったのも無理はありません。「喜びなさい」と言われても、何を喜んだら良いのか分からなかったからです。「恵まれた方」と言われても、神様がどんな恵みを自分に与えてくださったのか分からなかったからです。戸惑いはマリアに恐れを生じさせたに違いありません。だからこそ続く30節で天使は、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と告げたのです。神様は何の変哲もない町に天使を遣わし、何の変哲もない少女であったマリアの日常に介入されました。日常から離れたところではなく、日常のただ中で、神様は天使を通してマリアに語りかけられたのです。
 私たちの日常はマリアの日常と同じではないでしょう。ここに集っている私たちの多くが田舎ではなく都会に暮らしているからだけでなく、そもそも2000年前と今では生活が大きく異なっているからです。とりわけこの100年ほどの間に人類の技術が飛躍的に進歩し、それに伴ってグローバル化が進むことによって、私たちはマリアよりもずっと広い世界で、より多くの人たちと関わりつつ生きています。しかしそれにもかかわらず、私たちが自分の日常を生きていることに変わりはないとも思います。どれほど技術が進歩しても、グローバル化が進んでも、リアルとバーチャルで多くの人たちと関わっていても、私たちの日々の歩みはそう特別なものではなく、私たちは昨日も今日も明日も変わらないように思える日常を生きているのです。この点において私たちとマリアはなんら変わらないのです。マリアの日常に介入された神様は、同じように私たちの日常にも介入されます。そのとき私たちは、マリアがそうであったように、喜ぶよりも戸惑い、恐れるのです。私たちは自分の日常を退屈に感じ、特別なイベントや刺激を求めますが、本当は自分の日常が揺さぶられ、脅かされることを恐れています。神様が私たちの日常に介入するとき、まさに私たちが恐れていたことが起こるのです。神様が私たちの日常に突入してきて、私たちの日常を激しく揺さぶり、脅かすことによって、私たちは戸惑い、恐れを抱かずにはいられないのです。

神から使命を与えられている
 28節で、天使はマリアに「主があなたと共におられる」とも告げていました。神様が私たちといつも共にいて守ってくださる。私たちはこのことを信じ、このことに支えられて生きています。しかし「主があなたと共におられる」とは、ただ神様が私たちといつも共にいて守ってくださる、というだけではありません。神様がいつも共にいてくださる「私」とは、神様から使命を与えられている「私」にほかならないからです。神様は、神様から使命を与えられて生きている私たちといつも共にいてくださるのです。私たちは神様がいつも共にいてくださることには心を向けます。しかしその私たちに神様が使命を与えてくださっていることは忘れがちです。神様は私たちの人生に介入して私たちの日常を揺さぶり、私たちに使命を与えてくださるのです。

神の約束を実現する子を身ごもる
 マリアに与えられた使命は驚くべきものでした。天使はマリアにこのように告げます。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。「いと高き方」とは神様のことですから、マリアから生まれ、イエスと名づけられる男の子は偉大な人となり、神の子と言われる、と告げられたのです。かつて旧約の時代に預言者はイスラエルの王ダビデに「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエル記下7章16節)と預言しました。ダビデの王国は永遠に続くという約束が与えられていたのです。しかしその後、王国は滅亡し、この神の約束は守られなかったように思えました。それでもイスラエルの人たちは、ダビデの王国を再興するメシア(救い主)が現れ、イスラエルを支配するようになることを待ち望んでいたのです。マリアのところにやって来た天使は、かつてイスラエルの人たちに与えられたこの約束が、マリアから生まれイエスと名づけられる男の子において実現する、と告げました。マリアに神様の約束を実現する男の子を身ごもるという使命が与えられている、と告げたのです。

恐れを抱かずにはいられない現実の中で
 イスラエルの民の一人としてマリアがこの神様の約束を知っていたとしても不思議ではありません。しかし自分がこの約束の実現に関わるとは夢にも思わなかったでしょう。そもそもマリアは自分が身ごもるはずがないと思っていたはずです。だからマリアは天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言ったのです。先々週もお話ししたように、当時のユダヤ社会では、婚約期間の間は別々に暮らし性的な関係を持つことはありませんでした。マリアが「わたしは男の人を知りませんのに」と言っているのはそのためです。しかしことはそれだけの問題ではありません。このこともお話ししたことですが、当時のユダヤ社会で婚約は法的には夫婦となることを意味しました。別々に暮らしていても法的には夫婦として扱われたのです。ですから婚約期間中に子どもを身ごもったとなれば、姦通の罪を犯したことになり、律法によれば石で打ち殺されるかもしれなかったのです(申命記22章23-24節)。天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」、「恐れることはない、あなたは神から恵みをいただいた」、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。しかしマリアにとって、自分が身ごもることは決しておめでたいことでも、喜べることでも、神様から恵みを与えられたと思えることでもなかったのです。もしそんなことが起これば、マリアが思い描いていたヨセフとの結婚生活はあきらめるしかありません。田舎町ナザレでヨセフと家庭を築いて一生を過ごすという人生設計は崩れ去ってしまうのです。それどころか自分の命すら失うかもしれない、殺されてしまうかもしれなかったのです。昨日も今日も明日も変わらないように思えたマリアの日常に、神様が介入することによって、マリアの人生は一変してしまうのです。それは、マリアにとって人生の転機が訪れたとか、人生に良い変化がもたらされたと言って済まされることではありませんでした。しかしマリアの人生の計画が崩れ、夢や理想が潰えたように思えるところで、恐れを抱かずにはいられない現実のただ中で、神様はマリアに、神様の約束を実現する男の子を身ごもるという使命をお与えになったのです。

まことの神でありまことの人
 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言うマリアに、天使はこのように答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」。天使はマリアに、「あなたは聖霊によって、神様の力によって身ごもったのであり、だから生まれてくる子どもは、聖なる者、神の子と呼ばれる、と告げました。そして天使は、マリアの親類エリサベトが高齢にもかかわらず男の子を身ごもっていることをも告げたのです。エリサベトが高齢にもかかわらず身ごもったことは人間の可能性の外にあることでした。人間の力ではどうすることもできない状況で、神様の力によってエリサベトとその夫ザカリアの間に子どもが授けられたのです。それ以上の出来事が、今、マリアの身に起こっています。聖霊によって、神様の力によって身ごもるとは、生まれてくる子どもが「まことの神」であるということです。同時にマリアから生まれてくるとは、生まれてくる子どもが「まことの人」であるということでもあります。「まことの神」であり「まことの人」である方がお生まれになるという驚くべき出来事が、神の独り子であり、ご自身も神である方が人となってくださるという驚くべき出来事が、今、マリアを通して、マリアを用いて起ころうとしているのです。

自分の人生を神に委ねる
 38節でマリアはこのように答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。「はしため」とは女奴隷、僕のことですから、「わたしは主のはしためです」とは「私は神様の僕です」という信仰を告白しています。それは、自分自身が自分の人生の主人であることをやめて、神様を自分の人生の主人として生きることにほかなりません。マリアには思い描いていた将来があり、人生の計画があり、夢がありました。しかしそれらを手放して自分の人生を神様に委ねたのです。「お言葉どおり、この身に成りますように」と、これからの自分の人生を神様に委ねたのです。マリアが神様を自分の人生の主人とし、自分の人生を神様に委ねることができたのは、天使の告げたことをすべて理解できたからでも、納得できたからでも、あるいはより良い将来が提示されたからでもありません。むしろこれから何が起こるのかまったく分からない、殺されてしまうかもしれないという恐れの中で、自分の人生を手放して神様に委ねたのです。生まれてくる男の子が、どうやって神様の約束を実現するかも分からない中で、マリアは神様の約束を実現する子を身ごもるという使命を受け入れたのです。

先行する神の恵み
 天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みをいただいた」と告げました。しかし私たちは勘違いしてはいけません。天使がマリアにそのように告げたのは、マリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白した後ではないのです。自分は神様の僕として生きます、神様に自分の人生を委ねます、とマリアが告白したから、神様はマリアに恵みを与えられたのではありません。そうではなくマリアの信仰の告白より先に、神様の恵みがマリアに与えられていたのです。マリアにとっては神様の恵みが与えられたとは到底思えない現実の中で、マリアはすでに神様の恵みの内に入れられていたのです。だから天使はマリアのところに来ると、最初に「あなたは神様から恵みをいただいたのだから、喜びなさい」と告げたのです。マリアはこの神様の恵みを受け入れました。すでに与えられていた恵みを受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白したのです。

神の言葉は必ず実現すると信じる
 神様の僕として、神様に自分の人生を委ねて生きるとは、天使が告げた「神にできないことは何一つない」ということを信じて生きることにほかなりません。「神にできないことは何一つない」は、直訳すれば「神からの言葉に不可能なことはない」となります。それは、神様の言葉は必ず実現するということです。「神にできないことは何一つない」と信じて生きるとは、神様の言葉が必ず実現すると信じて、神様の約束が必ず実現すると信じて生きることなのです。共に読まれた旧約聖書創世記18章で、サラは神様の約束を信じられず、自分に男の子が生まれるという主の使いの言葉を聞いてひそかに笑いました。「年をとった自分に子供が生まれるはずがない」と思ったからです。人間の可能性の外にあることを信じられず、神様の約束が必ず実現することを信じられなかったからです。しかしマリアは信じました。神様の言葉は必ず実現すると信じたのです。信じる準備が整っていたからではありません。神様は突然マリアの人生に介入され、その日常を揺さぶり脅かしました。信じる準備などなにもできていないときに、それどころか戸惑いと恐れのただ中で、マリアは「神にできないことは何一つない」と、神様の言葉は必ず実現すると信じ、神様の僕として、神様に自分の人生を委ね、神様から与えられた使命を受け入れたのです。そのマリアの歩みに神様がいつも共にいてくださるのです。

神の約束を信じて
 神様は私たちの人生にも介入されます。一度きりではありません。繰り返し介入されます。私たちが昨日も今日も明日も変わらないように思える日常を生きている中で、神様は私たちに出会ってくださるのです。その度に、私たちは「神にできないことは何一つない」と信じることを求められ、神様の約束を信じて生きることを求められます。ときに私たちはサラのように神様の約束を信じられずにひそかに笑ってしまうことがあるかもしれません。しかし神様はそのような私たちを見捨てることなく、繰り返し私たちの日常のただ中で出会ってくださるのです。神様の約束を信じて生きるよう求めてくださり、神様の僕として、神様に自分の人生を委ね、神様から与えられた使命を受け入れて生きるよう招いてくださるのです。自分の日常が揺さぶられ脅かされるただ中で、戸惑いと恐れのただ中で、私たちは自分の人生を神様に委ね、自分の可能性の外にある神様の約束を信じて生きるよう導かれるのです。
 私たちはアドヴェントを過ごしてきて、間もなくクリスマスを迎えようとしています。御子キリストはこの世に来てくださり、十字架の死によって私たちを救ってくださいました。そのキリストが終わりの日に再びこの世に来てくださり、救いを完成してくださるという約束が、私たちに与えられています。私たちはこの約束が必ず実現すると信じ、神様の僕として、自分の人生を神様に委ね、神様が与えてくださった使命を担い、希望を持って歩んでいきます。その私たちの歩みに神様がいつも共にいてくださり、導き、支え、守ってくださるのです。クリスマスにこの世に来てくださった御子キリストによって実現した恵みと喜びは、私たちの日常から離れたところではなく、私たちの日常のただ中に満ち溢れているのです。

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