主日礼拝

実のないいちじく

「実のないいちじく」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第5章1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第11章12-25節
・ 讃美歌; 314、122、442

 
時間調整
 今私たちは礼拝において、基本的にはコリントの信徒への手紙一を順番に読んでいます。しかし本日はそれを離れて、別の箇所を読むことにしました。それは何故かというと、理由は単純でして、順番に読んできた次の箇所を、再来週のイースターの礼拝において読みたいと思ったからです。そのために、本日は他の箇所を読むことによって、言わばちょっと時間調整をさせていただきたいのです。今読んでいるコリント第一の手紙の第15章には、主イエス・キリストの復活と、それによって約束されている私たち自身の復活のことが語られています。そういう意味で、主イエスの復活を記念するイースターに読むのに相応しい箇所に来ているのですが、中でも特にイースターの礼拝に相応しいのがちょうど次回の所なのです。それで、本日は少し時間調整をさせていただくことにしたのです。そのために選ばせていただいたのが、マルコによる福音書の第11章12節以下です。何故この箇所なのか。第一の理由は、ここのすぐ前の11章1節以下に、主イエス・キリストが、そのご生涯の最後にエルサレムに来られた時のことが語られていることです。十字架の死へと向かう主イエスの最後の一週間、いわゆる受難週が、11章から始まっているのです。その受難週における一つのエピソードを語っているこの箇所は、今、主イエスの苦しみを覚えつつ受難節、レントの時を歩んでいる私たちが読むのに相応しい箇所であると言えると思います。そして第二の理由は、この箇所は、多くの人々が、どのように理解したらよいのか分からない、という疑問を持つ箇所であるということです。昨年、教会学校の生徒の保護者の方々からもここについての質問があり、お話をしました。多くの方が疑問や関心を持っておられる箇所でもあるということで、ここを選んだのです。

呪いの奇跡
 さて、エルサレムに来られた主イエスは、夕方になると町を出て、夜をベタニアで過ごされたことが直前の11節に語られています。そして翌朝再びエルサレム市街へと入って行かれた、それが12節です。その時主イエスは空腹を覚えられ、いちじくの木を見て、そこに実がないかと近寄ってご覧になりました。しかし葉だけで実はありませんでした。それで主イエスはその木に向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたのです。そして20節には、その翌朝の話があります。主イエスの一行が同じところを通られた時、そのいちじくの木は根元から枯れていたのです。これは主イエスのなさった一つの奇跡です。しかしこれは、主イエスの他の多くの奇跡、病気を癒したり、悪霊を追い出したり、死んだ者を復活させたり、嵐を鎮めたりというのとは違って、言ってみれば破壊的な奇跡です。この出来事を見たペトロは21節で「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言っています。ペトロが言っているように主イエスはこのいちじくの木を「呪われた」のです。つまりこれは、呪いの奇跡です。しかもこのいちじくの木は、何か人間に悪さをしたわけではないし、人に害になっていたのでもありません。ただ、実がなかっただけです。それだけでこの木は呪われ、滅ぼされてしまったのです。しかも13節の終わりにはっきりと語られているように、この時は「いちじくの季節ではなかった」、いちじくの実が実る季節ではなかったのです。季節でもないのに実を求めても得られないのは当然で、それは木が悪いのではありません。ですからこの話は何だか、主イエスが、お腹が空いているのに実がないので腹を立ててこの木に八つ当たりした、という印象すら受けます。誰でもお腹が空いているといらいらするもので、主イエスもそうだったのだろうか、あるいは、さすがの主イエスも、十字架の苦しみと死を目前にして気持ちが荒んでしまっておられたのだろうか、などとも考えたくなるような話なのです。けれどもそれでは、何故マルコがわざわざこの話を福音書に書き記したのかを説明できません。マルコは、主イエスこそ神の子、救い主であられる、という信仰によってこの福音書を書いているのです。そのことを読者にもわからせたいと願いつつ書いているのです。このいちじくの木の話も、神の子、救い主としての主イエスのお姿を描くために語られているのです。そのことを読み取らなければ、ここを本当に理解したことにはならないのです。

サンドイッチ構造
 このいちじくの木の話によってマルコが語ろうとしていることを考えるための手がかりとなるのは、この部分の話の構造です。主イエスがいちじくの木を呪われたことが14節までに語られ、その木が枯れたことは20節に語られています。その間に、別の話が入ってきているのです。そういうサンドイッチ構造がここにはあります。こういう語り方をマルコはよく用いています。一番典型的なのは、5章の、会堂長ヤイロの娘の話と、12年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の話です。ヤイロの娘の話に挾まれて、この女性の話が語られているのです。こういう語り方には意味があります。それは、このサンドイッチのパンの部分、外側の枠となっている部分と、中味、内側に挾み込まれている部分とが、内容的に密接に結びついている、ということです。つまりこれらは二つの別々な話としてではなくて、両方で一つの話として読んで欲しいという著者の思いがこの語り方に込められているのです。ですからこのいちじくの木の話も、それだけで読むのではなくて、間に挟まれている15~19節とのつながりにおいて読む必要があるのです。
 15~19節に語られているのは、主イエスがエルサレムの神殿の境内で、売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたという、いわゆる「宮浄め」の話です。これもまた、主イエスの通常のお姿、イメージとはかなり違うことです。両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返すというのは、暴力的な、乱暴な、怒りを込めたお姿です。主イエスが怒って破壊的なことをなさったのです。いちじくの木に対する怒り、破壊的な奇跡と相通じるものがこの「宮浄め」にはあるのです。ですから、この宮浄めにおける主イエスの怒りを理解することによって、いちじくの木に対する呪いの意味をも知ることができるのです。

神殿に来られた主イエス
 11節によれば、エルサレムに来られた主イエスは、まず真っ先に神殿に入られました。神様から救い主、メシアとして遣わされた独り子主イエスが、エルサレムに来られて、最初に神殿を訪れるのは当然のことです。神殿は神様への礼拝の場です。神様の独り子であられる救い主イエス・キリストは、本来この神殿の主(あるじ)、ここにおいて礼拝されるべき方なのです。ですから主イエス・キリストが神殿に入られたのは、人々がそこで真実に神様を礼拝している姿を見ることを期待してのことです。しかし主イエスがそこで御覧になったのは、売り買いをしている人々、両替人や鳩を売る者たちの店であり、そこで騒がしく売り買いをしている人々の姿だったのです。そこに、主イエスの怒りの原因がありました。
 私たちはこの神殿の境内の様子を読むとすぐに、正月の初詣やお祭の時に、神社の境内に沢山の屋台が並んでいる、という光景を思い起こします。しかしこれはそれとは全く違うことです。エルサレム神殿の境内に両替人や鳩を売る者がいたのは何故か、その理由を正しく知らなければなりません。旧約聖書の時代以来、神殿における礼拝は、動物の犠牲を捧げることがその中心にありました。牛とか羊とか山羊とかを殺して、焼いて捧げるのです。そのような捧げものをたずさえて神様のみ前に出ることが礼拝でした。しかし、遠くから巡礼として礼拝に来る人々にとっては、それらの動物を自分の家からずっと連れて旅をしてくるのは大変なことです。しかも、神様に捧げる動物は、傷のないものでなければならない、とされているので、途中で傷がつくようなことがあったら、折角連れて来てもそれを捧げることができなくなってしまうのです。そういうわけで、神殿には、礼拝において捧げることができる動物を売る店が開かれました。自分の家から連れて来なくても、ここでお金を払って捧げる動物を買うことができるようになったのです。そして鳩というのは、羊や山羊などの大きな動物に手が出ない貧しい人々が、それに代わって捧げることを認められていたものです。そういう貧しい人の方が圧倒的に多かったのでしょうから、ほとんどの人はこの鳩を買い求めて捧げていたのでしょう。「鳩を売る者」とはそういう人々のことです。また、神殿に献金を収めることも礼拝をする者の大事な義務とされていましたが、その時には、当時一般に流通していたローマの貨幣ではなくて、献金用のユダヤの貨幣を用いなければならなかったのです。ですから人々は、普通のお金を献金用のお金に両替して捧げました。それが「両替人」です。ですからこれは私たちがよく目にするお祭の屋台や土産物屋とは全く違う、むしろ人々が礼拝をするための店なのです。もちろん鳩を売る者も両替人も、それによって手数料として利益をあげ、商売をしていたのでしょうから、これは言ってみれば礼拝ビジネスです。礼拝のための便宜を図ることによって自らも利益を得ていたのです。ですからそこで「売り買いしていた人々」というのは、物見遊山に来ている人々ではなくて、掟に従って神様を礼拝しようとしている人々なのです。

強盗の巣
 そのような礼拝に来ている人々、礼拝のための仕事をしている人々を、主イエスは追い出し、その店をひっくり返して、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われたのです。もう一度申しますが、礼拝が行われなくなっていたのではありません。毎日々々、沢山の動物が犠牲として捧げられ、沢山の献金がなされていたのです。そのように、形の上ではまことに正しい、立派な礼拝がなされていました。しかし主イエスはそれを「強盗の巣」と呼ばれたのです。それは、形だけで心が込められていないというだけのことではありません。「強盗」という激しい言葉は、それ以上のことを語っています。そこで主イエスが見つめておられるのは、人間の貪欲、貪りの罪です。礼拝が、貪欲、貪りの場になってしまっている、と主は言われるのです。それは、鳩を売る者や両替人が、礼拝をビジネスにして金儲けをしている、というだけのことではありません。人々の純粋な礼拝をこれら一部の者たちが利用している、というのではなくて、ここで行われている礼拝の全体が、礼拝している者たちみんなが、貪りの罪に汚されている、と主は言われるのです。主イエスは何をもってそのように言われたのでしょうか。

すべての国の人の祈りの家
 当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が長い年月をかけて改築をした大変壮麗なものでした。ここでその神殿の境内と言われているのは、「異邦人の庭」という部分のことです。この神殿は、中心である聖所を囲んで、幾つかの庭が設けられていました。その庭が礼拝の場所になるわけですが、一番外側にあるのがこの「異邦人の庭」です。ここまでは、異邦人、つまりユダヤ人以外の人々も入ることができたのです。異邦人はここで主なる神様を礼拝するのです。そしてその内側に、今度は「婦人の庭」というのがありました。そこは、ユダヤ人の女性がそこまで入ることができ、礼拝をする場所です。さらにその内側に「男子の庭」があり、ユダヤ人の男性はそこまで入ることができる。そして一番中心の聖所には祭司しか入ることができないのです。そのように、礼拝をする場が区別されていた。そして今問題となっている「異邦人の庭」は、主なる神様を礼拝するためにやって来た異邦人が祈るための場所なのです。ところがそこに、ユダヤ人の両替人や鳩を売る者が店を連ねている。そして売り買いする者たちの声や、動物たちの鳴き声でごった返している、さらには16節にあるように、境内を通って物を運ぶ者もいた、それは、ここが近道、通り道として利用されていたということでしょう。そのような人々の喧騒でこの異邦人の庭は満たされてしまっているのです。その様子を見て主イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という、イザヤ書56章7節の言葉を引かれました。「すべての国の人」とは、異邦人も含めてということです。異邦人も、主なる神様のもとに来て、礼拝をし、祈る、神殿とはそのような場でなければならないし、そこで行われる礼拝はそのようなものでなければならないのです。しかるにこの異邦人の庭の様子は何か。そこはユダヤ人たちが、自分たちの礼拝のために鳩を買い、両替をするための場になってしまっているのです。それは確かに、礼拝のためには必要なことです。しかしユダヤ人たちは、自分たちが正しい礼拝をすることしか考えておらず、異邦人が礼拝をする場を整えようとしていない。異邦人の礼拝と祈りを妨げるようなことを平気でしているのです。そこに主イエスは、自分のことしか考えない貪欲の罪を見ておられるのです。そのような礼拝は強盗の礼拝であり、そのような礼拝の群れは強盗の巣窟だとおっしゃるのです。つまり問題の根本は、神殿の境内で商売などするのはけしからんということではありません。ここに集まっている者たちが、どのような思いで礼拝をしているかが問われているのです。自分が神様の前に正しい礼拝を捧げ、自分が恵みと祝福を受け、自分が慰めと励ましを受けて帰っていくことだけのために礼拝がなされているならば、そして神様がその礼拝に共に招いておられる他の人々のこと、特により弱い立場にあり、軽んじられ、苦しみを負いながら集ってきている人々のことが見失われて、自分が正しい礼拝をして平安を得て満足して帰ることだけを求めているなら、そのような礼拝を主イエスは強盗の巣と呼ばれるのです。ユダヤ人たちは、律法に従ってきちんと正しい捧げものをして礼拝しているのだから、自分たちは神様をちゃんと礼拝している正しい者だと思っていました。しかし主イエスはそういう「正しい礼拝」を「強盗の巣」と呼ばれたのです。これは私たちに対する警告でもあります。礼拝は、それをきちんとしているから自分は正しい者だと主張できるようなものではないのです。いや私たちは自分は正しい者だなどとは思っていない、罪人である私が、主イエス・キリストによる罪の赦しをいただくために礼拝を守っているのだ、と思うかもしれません。しかしそうであったとしても、私たちが、主イエスによる罪の赦しをいただいて、自分が平安と安心を与えられ、慰められて帰っていくことしか頭になくて、この場に共に集っている他の人々のことを無視したり、軽んじたり、傷付けたりしているのならば、その礼拝は、神様を自分のために利用しようとする貪欲に支配されていると言わなければならないでしょう。礼拝をするとは、神様が私たちを招き、呼び集めて下さる、その招きと召しに応えて、神様に聞き従うことです。礼拝は私たちが神様に聞き従う民として歩むためにあるのです。神様はその礼拝に、様々な人々を呼び集め、共に救いの恵みにあずからせ、共に礼拝する者の群れを築こうとしておられます。神様に聞き従う民として歩むとは、神様が共に呼び集め、礼拝する群れに加えて下さっている他の人々との交わりに生きることです。そこには様々な人々がいます。以前から知っている人も初めて出会う人も、気心の知れている人もそうでない人も、同じような考えを持っている人もそうでない人も、自分にとって好ましい人も嫌いな人もです。神様がそれらの者たちを呼び集めて一つの民としようとしておられるのですから、私たちはその一人一人を尊重し、大切にしなければならないのです。誰と共に礼拝を守り、神様の民として歩むかは、私たちが自分の好みで決めることではなくて、神様がお決めになることです。私たちはその神様のみ心に従って、神様が呼び集め、群れに加えて下さっている様々な人々と共に礼拝の群れを築いていくのです。そうでなければ、私たちの礼拝は「すべての国の人の祈りの家」にはなりません。しかし私たちはともすれば、気の合う仲間だけの、人間的な交わりによる群れを築こうとしてしまうのです。そして自分の気に入らない人をそこから閉め出すようなことをしてしまうのです。そこに生まれるのは、神様を自分のために利用する貪欲による交わりであり、それは主イエスによれば強盗の巣です。礼拝が行われていても、そこにあるのは神様ではなく自分を主人とする者たちの貪欲による集まりだ、ということだって起り得るのです。
 このことは、主イエス・キリストによって与えられる様々な恵みにもあてはまります。主イエスによる罪の赦しの恵みも、お守りを買うことによって与えられるご利益のようなものとは違って、それを自分の一人の懐に入れて平安を得ることができるようなものではないのです。主イエス・キリストの招きと召しに応えてみ言葉に聞き従う者となり、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員となり、そこに共に集められている人々との交わりの中で生きるところでこそ、私たちは自分の罪の赦しを本当に確信することができるのだし、それが私たちを本当に新しく生かす恵みであることを体験することができるのです。

主イエスの怒り
 エルサレムに入られた主イエスは、神様に聞き従うまことの礼拝を求めて神殿に来られました。しかしそこにあったのは、貪欲に支配され、神様を自分のために利用し、自分と気の合う仲間たちのことしか考えない、形ばかりの、礼拝とは言えない礼拝でした。その偽りの礼拝に対して、主イエスは怒りを爆発させたのです。そのような礼拝を破壊しようとされたのです。それが「宮浄め」であり、そこにおける主イエスの思いが、あのいちじくの木の話に象徴的に表されているのです。主イエスがいちじくの実を捜された、それは神様がイスラエルの民に真実な礼拝を求めておられることを表しています。しかし民は神様の求めておられる真実な礼拝という実を実らせていないのです。それと同じことが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第5章に、「ぶどう畑」のたとえによって語られています。その7節にこうあります。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)」。これがここでの主イエスの思いなのです。

まだ季節でない?
 しかしこの時はまだ、いちじくの実る季節ではありませんでした。このことは何を意味しているのでしょうか。これは、神様がまことの礼拝を、つまり本当の信仰を私たちにお求めになる時に、私たちがよく言う言い訳ではないでしょうか。まだその時期ではありません、もう少し待って下さい、もう少し自分の生活が整ったら、心配事や気掛かりなことが片付いたら、もう少しちゃんと勉強して理解してから、あるいは、もう少し暇になったら…などと言って私たちはいつも逃げようとするのです。しかし神様がまことの礼拝を求めておられるのは、いつも「今」です。「そのうち、時期が来たら」と思っている間は、いつまでたっても時期は来ないのです。神様が「今」私たちに真実の礼拝を求めておられる、そのみ心に今しっかりと応えることが大切なのです。

まことの礼拝に生きるために
 実のないいちじくは、主イエスの呪いによって枯れてしまいました。そこに、神様の招きと導きに従ってまことの礼拝に生きようとしない者への神様の怒り、裁きが暗示されています。しかしその神様の怒り、裁きは、私たちに向けられているのでしょうか。そうではない、ということを私たちは知らされています。まことの礼拝に生きることができず、貪欲に支配され、強盗の巣になってしまっている私たちの罪を、主イエスが全てご自身の身に負って、強盗たちと共に十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスが呪われたいちじくの木は枯れましたが、神様の怒り、裁きによって、あのいちじくの木のように呪われ、枯れたのは、私たちではなく主イエス・キリストご自身だったのです。この主イエスの、私たちのための犠牲の死によって、私たちは、呪われて枯れるのではなくて、赦されて新しく生きる者とされたのです。今私たちは主イエスの十字架の苦しみと死を特に覚える受難節を歩んでいます。主イエスの苦しみを覚えるとは、主イエスが私たちの身代わりになって、罪人が受けるべき呪いを引き受けて下さったことを覚えるということです。このことによって神様は、呪われるべき罪人である私たちを赦して下さり、神様の民として召し集めて下さっているのです。この神様の召しに応え、み言葉に聞き従って、神様が共に礼拝の群れへと集めて下さった一人一人との交わりを大切にしていくことによって、私たちは、すべての民の祈りの家の一員として、主の求めておられるまことの礼拝に生きる者となることができるのです。

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