主日礼拝

キリストの復活

「キリストの復活」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第49編1-21節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章12-19節
・ 讃美歌; 299、151、571

 
15章の動機
 本日の箇所の冒頭、コリントの信徒への手紙一の第15章12節に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあります。ここに、パウロがこの15章を書いている根本的な動機が示されています。11節までのところで彼は、自分が宣べ伝え、コリントの人々がそれを信じて教会が誕生した福音の内容を確認しました。それは、イエス・キリストが、わたしたちの罪のために死んで葬られたこと、三日目に復活したこと、多くの人々にご自身を生きた方として現わされたことです。キリストの十字架の死と復活の出来事こそ、パウロの宣べ伝えた福音の中心だったのです。「キリストは死者の中から復活した」と私は宣べ伝え、あなたがたはそれを信じたはずだ。それなのに、今あなたがたの中に、「死者の復活などない」と言っている人があるのはどうしたことか。それが、この15章が書かれた動機なのです。

キリストの復活はなかった?
 私たちは先ず、コリント教会に起ってきていた「死者の復活などない」という主張の内容を知っておかなければなりません。12節だけを今日の私たちの感覚において読むと、この人たちは「キリストの復活などなかった」と言っているのだと感じるかもしれません。「死んだ者が復活するなどということはあり得ない、だからキリストの復活も事実ではない」ということです。これは今日の私たちにおいては一つの重大な問いです。主イエスの復活は本当にあったのだろうか、現代のこの科学の時代にそんなことをなお信じることが果してできるのだろうか、という問いに直面しない人はいないでしょう。そしてある人々は、キリストの復活は教会が自分たちの教えを権威づけるためにでっちあげたものだ、と言います。そこまで行かなくても、キリストの十字架の死後、主イエスを慕いなつかしむ弟子たちの間に、主イエスは今も生きて共にいて下さると信じる思いが起ってきて、それが「イエスは復活した」という教えになったのだ、と言う人もいます。これらはいずれも、キリストの復活は事実ではあり得ないという前提に立っています。私たちは、このような考え方の方が「合理的」であるように思われる世の中、時代を生きていますから、この問いは繰り返し私たちの問題となるのです。

死者の復活などない
 けれども、パウロがここで直面している「死者の復活などない」という主張はこれとは違うものです。コリント教会の中に起ってきていたのは、キリストの復活はなかった、という主張ではありません。そう考えてしまうと13節とつながらなくなってしまうのです。13節に「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」とあります。ここから分かるように、パウロは「死者の復活」と「キリストの復活」とを区別して語っているのです。死者の復活イコールキリストの復活ではありません。コリント教会に起ってきていたのは、「死者の復活」を否定する主張です。それに対してパウロは、死者の復活を否定したら、キリストの復活もなかったことになるではないか、と言っているのです。つまり「死者の復活などない」と言っている人も、キリストの復活の事実を否定しているのではありません。ですからこの「死者の復活などない」という主張を、私たちの問題や関心に引き寄せて、キリストの復活など科学的に信じられない、という主張と混同してしまってはならないのです。パウロがここで対決している相手は、キリストの復活は事実として信じるが、死者の復活は信じない、という人々なのです。

神のみ心
 キリストの復活は信じるが死者の復活は信じない、とはどういうことでしょうか。その場合の「死者」というのは、キリスト以外の私たち一般の人間のことを指しています。今は生きている私たちも、いつかは必ず死者になるのです。本日共に読まれた旧約聖書、詩編第49編に語られているように、墓穴を見ずに永遠に生きることができる人はいないのです。そのように必ず死者となっていく私たちが、この世の終わりのキリストの再臨の時に、復活して永遠の命にあずかる、それが「死者の復活」です。キリストが復活したことは信じていても、この「死者の復活」は信じない、という人々がいたのです。彼らが言っているのは、キリストが復活することはあり得ても、私たちが復活することなどあり得ない、ということではありません。私たちはとかくそのように、復活はあり得るか、ということにひきずられて考えがちですが、ここで問題になっているのは、復活する可能性があるのは誰かではなくて、神様は誰を復活させようと思っておられるのか、です。神様が復活させようと思われた者は復活します。問題は、神様のみ心はキリストのみを復活させることなのか、それとも私たちをも復活させようとしておられるのか、なのです。

再臨まで生き残る?
 神様はキリストを復活させたが、私たちを復活させようとは思っておられない、という主張が生まれる背景には二つのことがあります。第一は、初期の教会の多くの人々が、自分たちが生きている間にキリストがもう一度来て下さり、この世が終わる、と考えていたことです。パウロ自身も最初はそう考えていたことが他の手紙から分かります。その人々は、生きている間に世の終わりを迎えて、もはや死ぬことのない永遠の命を与えられる、だから自分たちは死ぬことはない、と思っていたのです。死ぬことのない者に復活は必要ありません。つまりこの人々は、自分たちの復活を信じないと言うよりも、生きて主イエスの再臨を迎える自分たちには復活はいらない、と思っていたのです。しかしこの時代、主イエスを信じて教会に加わった人々の中にも、次第に年老いて死ぬ者が出てきていました。その人たちはどうなるのか、という問いが生じてきていたのです。再臨まで生き残る者が永遠の命にあずかると考える人たちは、その人たちは残念ながら滅びてしまったのだと言いました。パウロはそれに対して、いや、その人たちは世の終わりに復活して、生き残る者たちと共に永遠の命にあずかるのだと語ったのです。パウロの語っている死者の復活の教えとは、一つにはこのように、キリストの再臨まで生き残っていなければ永遠の命にあずかれないのではない、信仰をもって死んだ人は、世の終わりに復活して、生き残っている者たちと共に永遠の命にあずかることができる、という教えなのです。

復活はもう起ってしまった
 しかしこれは時が経てば解決する問題です。再臨の時まで生き残ることはパウロ自身も出来なかったわけで、信仰者たちは皆、再臨を見ずに死んでいったのです。そういう事情の中で、生き残っている者だけが永遠の命にあずかるという主張は自然に消え失せました。けれども、「死者の復活はない」という主張の背景にはもう一つの、より深刻な問題があったのです。それはこの主張が、「私たちの復活はもう起ってしまった」という考え方と結びついていたということです。復活がもう起ってしまったとはどういうことかというと、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は、キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死に、キリストの復活にあずかって新しく生まれたのだ、このことにおいて私たちはもう生まれ変わった者、復活した者となっている、だから信仰者の復活は既に起っているのだ、ということです。これはある意味ではその通りであって、パウロも例えばローマの信徒への手紙の第6章などで、洗礼の意味を語る時にそのような言い方をしています。しかしこのことが、世の終わりにおける死者の復活を否定して、それはもう起ってしまったことだという主張の根拠とされてしまうのは問題です。何が問題かというと、そこにおいては復活が、心の中のみの事柄、内面の問題になってしまっていることです。「死者の復活などない」と言っている人々の最大の問題点は、この復活の内面化です。復活を心の中の事柄にしてしまうことによって、将来の具体的な希望として肉体の復活を待ち望むことがなくなってしまうところに、この主張の最大の問題があるのです。

キリストの復活と私たちの復活
 パウロはこの主張に対して、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と語ります。16節でも同じように、「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」と言っています。パウロはこれらによって、キリストの復活と私たちの復活とは切り離すことができないものであり、両者は神様のみ心において結び合っている、と言っているのです。つまり分かりやすく言えば、「神は私たちを復活させて下さろうというみ心の現れとして、キリストを復活させて下さったのだ」、ということです。キリストの復活はこのように、私たち自身の復活の先駆けであり、その根拠、約束、保証なのです。キリストの復活において示され約束されている私たちの復活にこそ、神様が私たちに与えようとしておられる救いの完成があるのです。14節と17節に、キリストの復活なしには、私たちの宣教も、信仰も、全ては無駄なことになると語られているのはそのためです。14節には「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。17節にも「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。キリストの復活なしには私たちの信仰が全て無駄なことになってしまうのです。何故ならば、キリストの復活にこそ、神様が私たちに与えて下さろうとしている救いの完成が、その最終的な姿が示されているからです。私たちはともすれば、キリストの十字架の死による罪の赦しだけで救いが実現しているように感じ、復活はなくてもよいのではと思ってしまうことがあります。あるいはさらに、十字架や復活よりも、キリストのご生涯に倣い、その教えに従って生きることの方が大事だ、と考える人もいるのです。しかし先週の箇所を思い出していただきたいのですが、パウロがここで「最も大切なこと」として、つまり私たちの救いに不可欠なこととして宣べ伝えたのは、神様の独り子イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そして多くの人々に現れて下さったことです。キリストの十字架の死と復活においてこそ、神様の恵みのみ心が現されているのです。そこに私たちの救いがあるのです。とりわけ復活はその救いが最終的に何をもたらすかを示しています。いつか必ず死んでいく私たちが、世の終わりに、復活の命と体を与えられる、それが神様の救いのみ業の完成なのです。キリストの復活は、私たちにこの救いの完成を約束し、保証しています。それゆえに、キリストの復活を抜きにした信仰は空しいものになってしまうのです。

肉体における救い
 キリストの復活と私たちの復活はこのように結び合っています。主イエス・キリストは肉体をもってこの世に来られ、肉体をもって十字架につけられて死に、そして肉体をもって復活されました。神様はそれと同じ恵みを私たちにも与えようとしておられるのです。この神様のみ心のゆえに、私たちは復活を内面の問題に解消してしまってはならないのです。復活は心の中で「もう起こってしまった」ようなことではなくて、私たちのこの肉体において具体的に起ることなのです。復活だけではありません。主イエスの十字架の死による罪の赦しも、単なる心の中の問題ではないのです。先程読んだ17節には、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたは今もなお罪の中にあることになる、とありました。キリストの復活なしには、私たちの罪の赦しもないのです。先程申しましたように、私たちはともすると、キリストの十字架の死と復活とを別のことであるように思ってしまいます。十字架の死だけでも罪の赦しはあるように思ってしまうのです。けれどもそうではありません。何故そうではないかというと、罪の赦しは、私たちの心の中で起ることではなくて、神様との生きた交わりの中で与えられる具体的な恵みだからです。罪の赦しというのは、私たちが心の中で自分の罪は赦されているんだと思うことによって安心や平安を得ることではありません。罪の赦しは、主イエス・キリストが私たちの罪をその肉体に背負って死んで下さったことによって実現しました。父なる神様はその主イエスを肉体をもって復活させて下さったのです。私たちも自分の肉体をもって、この主イエスとの交わりに具体的に生きていく中でこそ、罪の赦しの恵みにあずかることができるのです。神様が私たちに与えようとしておられるのは、単なる精神的、内面的な救いではありません。精神的、内面的な救いを与えるだけなら、主イエスが肉体をもってこの世に来られる必要はなかったし、十字架にかかって死ぬ必要もなかったし、復活も必要なかったのです。またこの後あずかる聖餐も必要ないのです。私たちは、肉体をもってこの世に来られ、十字架にかかって死んで下さり、そして復活された救い主イエス・キリストと、洗礼において肉体をもって一体とされ、そして聖餐において肉体をもってキリストの体と血にあずかり、それによって養われつつ、終わりの日に肉体をもって復活し、永遠の命にあずかる救いの完成を待ち望みつつこの世を生きるのです。

「既に」と「未だ」
 キリストの再臨によるこの世の終わりに与えられる救いの完成を待ち望みつつ生きるのが私たちの信仰です。そこが、「復活はもう起こってしまった」と言う人々との違いです。この人々は、復活の恵みは既に与えられている、だから、これ以上将来に復活を待ち望む必要はない、と思っているのです。つまり彼らは、死者の復活などあり得ない、と言っているのではなくて、そんなものはいらない、現在与えられている恵みで十分だ、と言っているのです。彼らは、罪の赦しにしても、復活にしても、その恵みを内面化し、自分の心の中の問題としてしまうことによって、もうその恵みを持っていると思っています。しかしパウロはそれに対して、今信仰において与えられている様々な恵みは、世の終わりの復活の時に与えられる恵みの、ほんの一部を、言わば味見しているに過ぎないと言っているのです。救いの完成は将来のことです。しかしその将来を希望をもって待ち望むことができるのは、現在既に恵みが与えられているからです。私たちは今、この人生において、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、その十字架の死と復活にあずかり、古い自分に死んで、新しく生かされるのです。ある意味では確かに、復活の恵みに今この地上の人生においてあずかるのです。けれどもその恵みは、地上の歩みの中で完成してしまうものではありません。既に恵みにあずかっているけれども、未だそれは完成していないのです。この「既に」と「未だ」との間を私たちは生きています。既に与えられている恵みによって生かされつつ、未だ完成していない恵みを待ち望みつつ、その希望に生きる、それがパウロの教える信仰です。「死者の復活などない」と言っている人々は、神様の恵みにおける「既に」の面だけを見ており、「未だ」という面を見ようとしません。だから、「復活はもう起こってしまった」と言い、将来の復活などいらないと言うのです。けれども彼らはそれによって、神様の恵みをちっぽけなものにしてしまっています。「未だ」を忘れて「既に」だけを見つめようとする時、既に与えられている恵みが全てになってしまうのです。しかし神様が私たちに与えようとしていて下さる恵みは、既に与えられている恵みをはるかに超えた、ずっと大きなものです。死者の復活を信じるというのは、今既に与えられている恵みをはるかに超えた、私たちの感覚で理解し尽くせない神様の恵みを信じて、それを待ち望むということなのです。

復活の希望によって
 死者の復活を否定することは、世の終わりに与えられる救いの完成を否定し、それを待ち望もうとしないことです。ということは、現在のこの人生、この世を生きている間のことだけを見つめて生きる、ということです。この人生を、キリストの恵みに支えられて喜びと感謝のうちに歩めばそれだけでよいではないか、死んだ後の復活とか永遠の命などということは考えなくてもよい、ということです。そのような生き方のことをパウロは19節でこう語っています。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。キリストに望みをかけ、信仰によって生きているとしても、そこで見つめているのが「この世の生活」のみであって、復活や永遠の命に望みを置いていないのだとしたら、そのような者は「全ての人の中で最も惨めな者」だというのです。何故ならば、この世の人生を充実させ、喜びを与えるものはこの世にいくらでもあるからです。世の中には、イエス・キリストを信じていなくても立派な人は沢山います。よい働きをしている人、人々のためになる有意義な生活を送り、喜びをもって生き、そして死んでいく人は大勢いるのです。信仰がなければそのような生き方ができないということはありません。もしも私たちがそういうことにおいて世間の人々と張り合おうとするならば、惨めなことになるでしょう。勿論世間の人々と十分張り合っていける人もいるでしょうが、皆がそうであるわけではないのです。その中で、「私は信仰者なのに、これもできない、あれもできない」という思いに捕えられることもあります。なまじ信仰があるゆえにかえって肩身の狭い思いをするようなことにもなるのです。しかし信仰はそんなことのためにあるのではありません。信仰において最も大切なことは、私たちが自分の人生をどれだけ有意義な立派なものとすることができるかではなくて、神様が独り子主イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さり、そして復活された、その事実です。神様が私たちの救いのために主イエスの十字架と復活を成し遂げて下さり、私たちの罪を赦し、復活の希望を与えて下さった。この神様の恵みのみ心の中に身を置くことが私たちの信仰です。そのことによって私たちは、どんな弱さや欠けを持っていても、失敗や挫折に苦しむことが多くても、そしてたとえ志半ばにして世を去らなければならないことになるとしても、復活の希望を抱いて、神様が約束して下さっている救いの完成を望み見つつ歩むことができるのです。

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