夕礼拝

祝福の手の交差

「祝福の手の交差」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第48章1-22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第19章23-30節
・ 讃美歌 : 14、437

ヤコブの旅路の終わり
 月に一度、旧約聖書創世記からみ言葉に聞いています。創世記は第12章から、神様の民イスラエルの歴史を語っていきます。その歴史の始まりは何だったかというと、アブラハムが、神様の祝福の約束を受けて、神様に示されるままに、行く先を知らずに旅立ったことでした。つまり神様の民イスラエルとは、神様の祝福の約束を担って、神様がお示しになる所へと旅する民なのです。神様がお示しになる所へということは、自分の行きたい所に行くのではないということです。「行く先を知らずに」とはそういうことです。私たちはこれまで、アブラハムが、その子イサクが、その子ヤコブが、さらにその子ヨセフが、神様によって、自分の思ってもいなかった道へと導かれていった、その旅路を見つめてきました。彼らはその旅路を歩み、そして死んでいったのです。本日の第48章は、アブラハムの孫でありヨセフの父であるヤコブの旅路の終わりを語っています。ヤコブが死に臨んで何を語り、何をしたか、ということです。このヤコブが、神様によってイスラエルという名を与えられたことを私たちは以前読みました。それゆえに本日のところでも、ヤコブと言われていたりイスラエルと言われていたりします。ヤコブに与えられたこのイスラエルという名が、この民の名となっていったわけですし、このヤコブの息子たちから、イスラエルの12の部族が興ったと語られています。ですからヤコブは、アブラハムから始まった一つの家族が、民族となっていく、その分岐点にある人だと言うことができます。

イスラエルの12部族
 ところで今、ヤコブの息子たちからイスラエルの12の部族が興ったと申しました。その通りなのですが、イスラエルの12部族の数え方はちょっと複雑な所があります。この後の49章28節に、「これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である」とありまして、その前の所には12部族のリストが語られていますが、そこにおいては、ヨセフが一つの部族となっています。しかし出エジプトの出来事を経てカナンの地に入り、土地の分配が行われたことを語っているヨシュア記においては、土地を与えられた12の部族の中に「ヨセフ族」というのはなくて、「マナセ族とエフライム族」が独立した部族となっているのです。マナセとエフライムはヨセフの息子たちです。カナンの地の分配においては、ヨセフ族だけは二つに分かれてマナセとエフライムが独立した部族となっているのです。そうすると全部で13部族になりますが、土地分配においては、レビ族は祭司の部族として土地を持たず、それぞれの部族の中からいくつかの町と放牧地を与えられて住むことになりました。それゆえに土地を与えられたのは12部族です。ですから、地図の上での12部族と、ヤコブの息子たちという意味での12部族とは食い違いがあるのです。本日の第48章には、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムが独立した部族となったいきさつが語られているのです。

神の祝福
 そのいきさつとは、ヤコブがこの二人の孫たちを祝福したということでした。年老いたヤコブは、自分の死を意識しつつ、この孫たちに祝福を与えることを願ったのです。子供や孫を祝福し、その健康や繁栄を願うことは私たちもします。人間だれしもそういう思いを持っています。けれどもこのヤコブの祝福は、私たちの祝福とは違うものです。なぜならこの祝福はヤコブが神様から受けて、伝えたものであり、つまりヤコブの祝福であると同時に神様の祝福でもあるからです。そのことをヤコブは3、4節で語っています。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう。』」。ヤコブはこの祝福をヨセフの子である孫たちに与えようとしているのです。私たちがする祝福は、祝福と言うよりも願望と言った方がよいものです。私たちが語る祝福の言葉が、その通りに子供や孫に繁栄や幸福を与える力を持っているわけではありません。けれどもこのヤコブの祝福は、神様の祝福であって、力を持ち、具体的な効果を発揮するのです。その効果とは、この祝福を受けたヨセフの息子たち、ヤコブにとっては孫であるマナセとエフライムが、ヤコブの子供となり、先程申しましたようにイスラエルの12部族の一員となるということです。5節でヤコブが「今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが」と言っているのはそういうことです。このような効果を伴う神様の祝福が、ヤコブからヨセフの二人の息子たちに与えられたのです。

祝福の継承
 ヤコブが与えたこの祝福は、神様の祝福であると同時に、それはヤコブ自身が父イサクから受け継いだものだったことを私たちはこれまでの所で読んできました。ヤコブは父イサクの双子の息子の弟の方でした。ところが本来なら兄エサウが受けるはずだった祝福を、父を騙して受けてしまったのです。ヤコブはそのようにしてこの祝福を父イサクから受け継ぎました。そしてイサクも、その祝福を父アブラハムから受け継いだのです。このように、神様の力ある祝福が、人から人へ、父から息子へと継承されてきたのです。神様の祝福が人間を通して継承されていく、そのことを私たちも体験しています。私たちが神様から与えられている祝福、それは信仰と言い換えることができます。神様を信じる信仰をもって生きることこそが神様の祝福なのです。この祝福は私たちが自分で獲得するものではなくて、神様から与えられるものです。信仰者は誰でも、信仰という祝福を神様から与えられた、と感じているのです。しかしそれと同時に、私たちは振り返って見るならば、自分は信仰をあの人によって与えられた、あの人、あるいは人々がいたから、信仰を得ることができた、ということを誰もが体験しているのではないでしょうか。神様によって与えられる信仰は、同時に、人から受け継ぐ、継承するものでもあるのです。その人ないし人々は、決して完璧な聖人君子であるわけではありません。神様の祝福が、罪と欠けのある人間を通して継承されるというまさに奇跡を私たちは自分自身において体験しているのです。そしてそこに、私たちの伝道における希望があります。ある人を通して自分に起った信仰の継承という奇跡が、今度は自分を通して他の人に起るのです。自分に起った奇跡は他の人にも起り得る、と私たちは希望をもって信じることができるのです。

子孫に何を遺せるか
 さてヤコブは今年老いて、死を目前にしています。死を迎えようとする時に私たちは、自分の子供に、あるいは次の世代の人々に、何を遺すことができるか、ということを考えるのではないでしょうか。ヤコブが今、死を目前にして、子孫に遺そうとしているものは何でしょうか。彼は父イサクから神様の祝福を受け継ぎ、それを担って歩んできました。その祝福の内容は先程読んだ4節に示されています。「あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう」。これは神様の約束のみ言葉です。彼はこの約束を信じて、その実現を求めて歩んできたのです。この約束のみ言葉の中で、彼の人生において実現し、今彼が持っているものは何でしょうか。彼は12人の息子を与えられました。しかし今、その息子たちに遺してやることができるものが何かあるかというと、形あるものとしては何もないのです。「この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう」と神様が約束して下さった土地を、彼はただの一坪も所有していません。所有していないどころか、そこに住んですらいません。彼が今いるのはエジプトです。この約束を神様から与えられた時、彼はその約束の土地にいました。その土地を所有してはいませんでしたが、寄留者としてそこに住んでいたのです。だから神様の約束は、「この土地を」だったのです。ところがその後彼は、飢饉によって飢え死にするのを避けるためにその土地を離れてエジプトに下らなければならなくなりました。そこに、ヨセフの物語に語られていた神様の不思議な導き、摂理があったわけですが、それはそうとしても、彼は神様の約束の土地を離れて今遠く外国に身を寄せており、そこで死のうとしているのです。神様が約束して下さった土地を手に入れることにおいて一歩でも二歩でも前進することができたならともかく、これはむしろ後退です。「この土地」は今や遠くから思い見る「あの土地」になってしまっているのです。ヤコブは最愛の息子ヨセフを失う悲しみを味わい、しかし後になってそのヨセフが生きており、エジプトの総理大臣になっていることを知らされ、そのヨセフのおかげで家族全員が飢饉から救われるという恵みを体験しました。そういう意味では彼は今エジプトで喜びの内に安楽な老後を過ごしていると言えます。しかし神様の祝福の約束の実現という最も肝心なことに関しては、父イサクの時代よりもむしろ後退してしまっているのです。そのような中で、彼が子孫に遺すことができるものはただ一つです。それは、彼自身が神様からいただいた祝福です。死に臨んで彼が子孫に遺すことができるのはただそれだけなのです。しかし私たちはこの箇所を読む時に、それで十分なのだ、ということを教えられるのではないでしょうか。ヤコブは神様の祝福、もっと正確に言えば祝福の約束しか持っていません。この約束の実現においては何の成果もあげることができずに、むしろ初めよりも後退した状態のままで死んでいこうとしています。しかしそのヤコブが、15、16節のような祝福を与えることができるのです。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名と、わたしの先祖アブラハム、イサクの名が、彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように」。ここで彼は自分の生涯を振り返って、「牧者なる神が私の生涯を今日まで導いて下さった、御使いが私をあらゆる苦しみから贖って下さった」と語り、感謝しているのです。その神様のことが、「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神」と呼ばれています。アブラハムも、イサクも、主なる神様の御前に歩んだのです。「御前に」とは、「顔の前に」という言葉です。アブラハムもイサクも、主なる神様のみ顔の前を、主なる神様を見つめながら、主なる神様に見つめられながら生きたのです。それが、彼らに与えられた祝福でした。ヤコブもまた、神様の御前に歩んできたのです。人間の目に見える何の成果も上げることができなかったとしても、主なる神様のみ顔の前を、主なる神様を見つめながら、主なる神様に見つめられながら歩むことができたがゆえに、彼の人生は神様の祝福の中にあったのであり、そのことだけで十分なのです。ヤコブは人生の終わりを迎えようとしている今、この祝福を感謝をもって子孫たちに伝え、遺そうとしているのです。

神の御前に歩む
 神様の祝福が、言い換えれば信仰が、人間から人間へと継承されていくという奇跡は、このようにして起るのです。信仰は、目に見える成果によって量ることはできません。信仰とは、成果をあげることではなくて、神様の御前に歩むことです。自分の人生の歩みの全てが神様の御前での歩みとなることこそ信仰に生きることであり、そこに神様の祝福があるのです。私たちは、信仰の先輩たちから、信仰者としての歩みの成果を受け継いだのではありません。信仰に生きるところには確かに、様々なよい実りが与えられます。そういう意味で目に見える成果も伴います。しかし、信仰を受け継ぐとは、その実りや成果を受け継ぐことではないし、私たちが他の人に継承するのもその実りや成果ではありません。本日の箇所におけるヤコブの姿から私たちはそのことをはっきりと知ることができます。人生において、しかも、神様の祝福の約束を受けて生きるというまさに信仰の人生において、目に見える成果を何も得ることができなかったヤコブが、自分の人生は神様の御前を歩んだ人生だったと、喜びと感謝をもって振り返り、その祝福を継承することができたのです。神様の祝福は、即ち信仰は、このようにして継承されていくのです。

祝福の手の交差
 さてこのヤコブの祝福の継承において、不思議なことが起りました。ヨセフは、自分の二人の子、マナセとエフライムがヤコブの祝福を受けてヤコブの子となり、イスラエルの12部族に名を連ねる者とされるのに際して、13節に語られているように、長男であるマナセがヤコブの右側に、次男エフライムが左側に来るように立たせたのです。それは、右手による祝福が左手による祝福より上位の、長男が受けるべき祝福だからです。年老いて目がかすんでいるヤコブが間違えないように、という配慮から彼はそうしたのです。ところが、いざ祝福を与える時に、ヤコブ、すなわちイスラエルは、14節にあるように、「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである」。イスラエルは、祝福の手を交差させ、右手を左側にいるエフライムの頭の上に、左手を右側にいるマナセの頭の上に置いて祝福したのです。この祝福の手の交差は何を意味しているのでしょうか。17、18節には、ヨセフがこれを見て不満に思い、ヤコブの右手をマナセの頭の上に移そうとしたことが語られています。しかしヤコブはそれを拒んで、19節、「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」と言いました。ここに示されているように、この祝福の手の交差は、後のイスラエルの民の歴史において、マナセ族よりもエフライム族の方が数も増え、力を持つ部族となった、という事実を反映しているようです。あるいは私たちはここに、ヤコブの個人的な思いを読み込むことができるかもしれません。つまり彼は自分自身が双子の兄弟の次男だったのに、長男エサウをおしのけて父イサクの祝福を受けたのです。それゆえに次男に対する思い入れ、贔屓の気持ちを持っていたのではないか、とも考えられます。

先の者は後に、後の者は先になる
 このようにいろいろな説明が可能ですけれども、私たちはここに、もっと深い意味を読み取っていくことができるだろうと思うのです。この祝福の手の交差が示していることは、本日共に読まれた新約聖書の箇所であるマタイによる福音書第19章の最後の30節で主イエス・キリストがおっしゃった、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」ということではないでしょうか。神様の祝福を継承する、それは先程から見ていますように、神様の御前を歩むという信仰を受け継いで生きることです。それはマタイ福音書のこの箇所の言葉で言うならば、主イエス・キリストに従って生きることです。信仰とは様々なものを捨てて主イエスに従っていくことであり、そのように歩んだ者たちが、捨てたものの百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ者となるのだ、ということが語られています。そしてそこにおいて、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と主イエスは言われたのです。これは、信仰の歩みにおいて、目に見える実り、成果を沢山生み出すことができたからといって、その人が必ずしも優先的に救われるというわけではない、逆に、そのような目に見える成果は何一つあげることができずに、しかしただひたすら神様の御前を、その憐れみと救いを求めつつ歩んだ者が、神様の救いの恵みに先にあずかるということが起る、ということでしょう。神様の祝福は、目に見える成果で量ることはできないのであって、時としてこのような交差が、「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」という順序の逆転が起るのです。しかしそういうことを通して、神様の祝福のみ業は確実に前進していくのです。それゆえに私たちは、目に見える成果に一喜一憂することなく、先になるか後になるかに捕われずに、自分に与えられている歩みを、神様の御前で誠実に歩み続けることが大切なのです。

十字架の印
 しかし私たちはそこにさらにもう一つのことを見つめていくことが許されるのではないでしょうか。祝福の手の交差によってできる印は、十字の印です。私たちはそこに、主イエス・キリストの十字架への指し示しを読み取ることができます。私たちが神様の祝福を受け継ぎ、神様の御前を生きる、その信仰の歩みを支えるのは、主イエス・キリストの十字架です。私たちが神様の御前で歩むことができるのは、神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様が私たちの罪を赦して下さったからです。このことのゆえに、私たちがその御顔の前を歩む神様は、私たちを監視して、罪を見つけ出してはそれを裁くような恐ろしい方ではなくて、むしろ神様の祝福に全く価しない、目に見える成果をひとつもあげることができない私たちを、愛によって赦し、恵みによって新しくし、常に神様の御前を歩ませて下さる方であることを私たちは知ることができるのです。この神様の御顔の前を、そのまなざしの中を生きる私たちは、人間の思いにおける人生の成功や失敗、目にみえる成果をどれだけあげることができたか、というようなことを、もはや一切気にしなくてよいのです。自分がどのような実りや成果をあげることができているか、ということによってではなくて、ただ主イエス・キリストの十字架の死による神様の救いの恵みによって、私たちは神様の御前を歩むことができるのです。交差する手によって継承される祝福は、この主イエスの十字架によって与えられている神様の祝福を指し示しています。私たちはこの主イエスの十字架による祝福を受け継いでいるのです。そしてその祝福が、私たちを通して、他の人々に、家族に、友人に、継承されていくのです。私たちが自分で得た実りや成果を継承するのではありません。神様が、弱く、欠けの多い罪人である私たちを用いて、主イエス・キリストによる祝福をその人々にも与えて下さるのです。この神様のみ業を信じて、希望をもって祈り、伝道に励みたいのです。

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