「子供のように受け入れる者」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編36編1-11節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第10章13-16節
・ 讃美歌 ; 205、509
主イエスの時代の子供たち
本日与えられた御言葉は、一度でも読んだことのある人には、忘れられない御言葉の一つではないでしょうか。「子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはで きない」。心に残る御言葉です。けれどもこの主の御言葉の本当の力強さを知るためには、私たちは主イエスと同時代の人々が、幼児や子供をどのように見てい たのかということを知る必要があります。この時代のギリシャローマ世界では、子供は、一人の人格を持った人間とは考えられず、非常に低い存在と考えられて いました。健康な男の子でも、特に将来国家のために役立つ労働力、兵力として価値あるものとみなされていたに過ぎません。子供それ自身としては、何の価値 もなかったのです。事実、ローマの人々は女の子には、これといった教育を施さず、また、男の子でも第三子以後になると名前さえつけられなかったようです。 そのような中で、捨てられる子供も多かったようです。イスラエルの人々の間では、子供は神からの尊い賜物であり、祝福のしるしとして受け止められていまし た。しかし、一方で、未熟さ故に、律法を十分に守ることができなかった子供は、その点において、なにも特別に積極的な重要性を持つことはなかったのです。 事実、女性と子供は、人数を数えるときの対象にはされていませんでした。そのような中で、主イエスが語られた御言葉は現代の私たちが聞くよりもはるかに革 命的で驚くべき響きがあったのではないかと思います。
叱る弟子たち
13節には、「イエスに触れていただくために、人々が子供達を連れて来た」とあります。連れて来た人々が誰であったかは詳しく分かりません。おそらく 両親であったことが想像されます。この人々は、主イエスがどのような方なのか詳しくは知らなかったと思います。しかし、主イエスに、触れていただくこと によって、病を癒されたり、取りつかれていた悪霊から救われたりした人々の話を聞いていたのでしょう。主イエスが子供に触れて下されば、子供たちが、健 やかに成長し、祝福された歩みを送ることが出来ると考えたのです。しかし、子供を連れて来た人々を主イエスの弟子たちはしかりました。弟子たちの態度は、 大変冷たい態度であるように思われます。しかし、この時の弟子たちの態度は、当時の子供たちの置かれた立場を考えれば当然のことです。又、現代を生きる私 たちも、この時の弟子たちの気持ちが分かるのではないでしょうか。私たちも子供の相手を偉い先生等にしてもらっては失礼だと思うことがあります。日本にお いても子供は一人前の大人と同じようには扱われません。未成年は、親の承諾なしに、勝手に契約等の法律行為をしても、それは完全なものとは言えません。そ れは、子供が判断力において未熟で、自分だけでは、責任を持って行動出来ないという判断からです。そのような、責任をもって行動出来ず、親の保護のもとに ある子供によって忙しい先生をわずらわせては申し訳ないという思いになるのです。この時の弟子たちも、おそらく主イエスに気をつかってこのような態度に出 たのでしょう。弟子たちにとって、主イエスは、民衆に力強い御言葉を語るだけではなく、律法学者やファリサイ派と言った指導者たちとも神の国について議論 を交えることが出来る立派な先生でした。この時も、エルサレム入城を前にして、数々の教えを語っておられたのです。ですから、この忙しい時に、子供の相手 までさせてはならないと思ったのです。
憤る主イエス
しかし、主イエスはこのような弟子たちに対して憤ります。弟子たちが子供を連れてきた人々に対してしたように「叱った」のではありません。憤ったのです。 主イエスも、弟子たちを叱ることがありました。しかし、「憤る」というのはもっと激しいものです。聖書の中で、「憤る」という言葉が主イエスの感情を現す言 葉として使われるのはこの箇所だけです。マタイやルカにも、この子供を祝福する記事は記されていますが、そこには「憤る」という言葉は出てきません。聖書学 の説では、マルコによる福音書が一番古く書かれたものであり、マタイやルカは、マルコを参照しつつ、独自の資料を織り交ぜながら福音書を編集したとされてい ます。つまり、この説によれば、マタイやルカは、意図的に「憤る」という言葉を削除したのです。
「叱る」という動詞には、大人が子供に対してするように、事態を一段上に立って客観的に物事を把握して、理性的な判断で悪いことを見つめ、そのことをやめさせて、 善い方向へと導くという意味合いがあります。しかし、「憤る」という動詞には、抑えようにも抑えられない怒りの感情が噴出しているようなニュアンスがあります。お そらく、マタイやルカは、主イエスに対して、このような言葉を用いることを躊躇したのだと思います。激しい響きを持ったこの言葉と、日頃の主イエスの振る舞いが結 びつかなかったのでしょう。弟子や人々を愛された救い主である主イエスは、お叱りになることはあっても、憤るような方ではないと思ったのではないでしょうか。しか し、マルコははっきりと、憤る主イエスの姿を記しているのです。そして、この憤りにこそ、主イエスの弟子たちを思う気持ちや、弟子たちを支配している罪を憎む思い の激しさが現されているのです。
主イエスはどうして憤られているのでしょうか。14節の後半で、主イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者 たちのものである」と言われています。ここで、主イエスは神の国とは、子供のような者たちのものであることを語られ、それ故に子供たちを妨げてはならないと言われ ます。子供のような者こそ、神の国を与えられるべき者であるにもかかわらず、その子供を弟子たちが妨げたことに憤っているのです。
妨げとなる弟子たち
この箇所を読んですぐに思い出すのは9章33節に記されている出来事です。主イエスがご自身の十字架と復活を予告された時、弟子たちが「誰が一番偉いのか」 ということを議論していたのです。そのような弟子たちに対して主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」 と言われました。そして、一人の子供の手を取って真ん中に立たせ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と 言われたのです。この時、弟子たちは、主イエスに仕えるということにおいて、何か自分が偉い者になったかのように錯覚していました。そして、そのように主イエスの 側にいることによって自分が偉くなることを求めて行くことの背後で子供が脇へ押しやられてしまっていたのです。本日の箇所にも同じような弟子の態度が表れています。
ある人が、ここでの弟子たちを「主イエスのマネージャーになったつもりでいる」と言いました。13節のところで、「弟子達はこの人々を叱った」と言われている時の 「叱る」という言葉は、「値踏みする」という意味が込められている言葉です。そこから、「評価する、非難する、勧告する、叱る」という意味が派生してきたのです。 つまり、この時弟子達は、子供達を連れてきた一団をとっさのうちに値踏みし、主イエスにふさわしくないと判断したのでしょう。弟子たちは、この時、子供は、主イエ スのもとに来るべきではないと考えました。キリストに合わせる資格のある者とそうでない者を自分が前もってより分けているのです。この世では、自分こそ正当な神の 恵みの管理者だと考えているのです。
弟子たちは、すべてを捨てて主イエスに従って来ました。しかしそのような主に従う熱心さが、勘違いを生むきっかけになったのです。主イエスについても良く知って いるという思いがあったことでしょう。主イエスのことを大切に思っていたに違いありません。しかし、そのように大切にしている、自分の人生の中で重大なこととし ている所で、自分自身を誇り、偉くなろうとする思いが生まれるのです。そして、知らず知らずの内に、神様の救いに与るべき、「子供のような者」が、主イエスのも とに来ることを妨げてしまうのです。そのような救いに与る人、主イエスの救いの御支配自体を値踏みする態度に対して、主イエスは憤られているのです。
子供のように神の国を受け入れる
本日の箇所は、9章33節以下で言われていたように子供の一人を受け入れるようにとか、又、子供が来るのを妨げるなということだけ言われているのでは ありません。15節には「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われています。 「はっきり言っておく」とは、主イエスが強調して語られる時の表現です。子供を受け入れるとか、子供を妨げないというだけではなく、誰しも、「子供のように 受け入れる者」でなければならない。「子供のようになれ」と言われているのです。ここで「子供のように神の国を受け入れる」とはどのようなことでしょうか。 それは、子供のように純粋な心で、素直に御言葉を聞くようにと言うことではありません。子供のように素直な心を持ちましょうということを教えているのでは ないのです。子供には、素直で純粋というイメージがあります。確かに子供特有の、素直さ、純粋さがあります。しかし、ただ素直で、純粋なだけではありません。 一方で、子供は、自分の我が儘を通そうとする頑固な一面を持っています。又、大人であれば決してしないような行動に出て、自分の欲求をストレートに表現しよう とすることもあります。大人になっても我が儘で、強情な人を子供みたいな人だと揶揄することもあります。
ここで見つめられているのは、私たちが持っている子供の積極的なイメージで捉えられるような側面ではありません。むしろ、子供の無力さが見つめられているのです。 子供は、生きていくことにおいて全く無力で、何も出来ない者です。親や周囲の人々の世話にならなくては生きていけません。又、主イエスとの関係においても、 自分を誇る業績のようなものも持っていません。更に、信仰における自分の立場や主張もありません。熱心に主イエスに従う弟子たちに対して何かを主張することが 出来るのでもありません。そのような、子供の、自分では生きていくことが出来ず、信仰生活においても何の誇るものも持っていない姿が見つめられているのです。
連れて来られる子供
このような子供の姿は、子供たちが、自分から主イエスのもとにやって来たのではなく連れてこられたというところにも表れています。主イエスの周りには、 自分から主イエスの下にやって来る人々が大勢いました。直前の箇所には、ファリサイ派の人々が登場します。しっかりとした信仰生活を送り、自分たちこそ、 神の国を受け継ぐ者だと自負していた人々です。この人々は、主イエスを試そうとして、聖書は離婚を許しているかどうかについて議論を仕掛けて来たのです。 自分たちは、神様の救いが良く分かっていて、その救いに与ることが出来ると思っていました。そのため、主イエスが聖書についてどのような解釈をするか試し たのです。
又、この出来事の直後には、金持ちの青年の話が出てきます。主イエスに永遠の命を受け継ぐには何をすればよいかと問かけます。「殺すな、姦淫するな、 盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という十戒の後半の掟を語る主イエスに対して、青年は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」 と言うのです。それに対して、主イエスは、欠けているものが一つあると語って、財産を売り払い貧しい人に施せというのです。それを聞いて、青年は主イエスの もとを去って行くのです。聖書の御言葉に生きながらも、主イエスに従うことよりも、自分が所有する財産を優先したのです。財産にこそ、自分が生きる基盤が あると思っていたからです。ここで主イエスは、托鉢して生きる修道士のようになれと命じているのではありません。主イエスは、この青年が、何に信頼して いるかを見抜いておられたのです。この青年は確かに子供の時から律法の掟を守って来たのでしょう。又、この人はそれなりにまじめに生き財産を蓄えて来たので しょう。しかし、そこで、本当に主イエスを受け入れることによって救いにあずかるのではなく、自分の持っているものや、自分の業に頼って歩んでしまうのです。 自分が所有しているもの、教えに従っている歩み、自分が蓄えてきた財産を持って、自分の力で生きていこうとしているのです。そのために主イエスのもとを 自ら立ち去ってしまったのです。
ファリサイ派の人々にも、金持ちの青年にも共通しているのは、自分の持っているものに頼って生きていこうとする態度です。主イエスのもとに自分から やってきますが、そこで本当に自らの無力さを、主イエスの前にさらけ出していないのです。主イエスが語る神の国、神様の救いの御支配とは、そのような 者のためにあるのではないのです。
一方で、子供というのは、誇るにたる徳もなければ、潔白なものでもありません。子供はしばしば利己的で、衝動的です。しかし、子供達は親の助けなしには、 大人の助けなしには生きて行けない。まったく、他者に依存し、従属しているものです。しかし、そのような者こそ神の救いの御支配に与るのです。主イエスは、 自分で自分を救うということにおいて全く無力で取るに足らぬ小さな子供を、ただ、その無力さ故に、主イエスは、喜んで子供たちを抱き上げ、祝福して くださるのです。
主イエスの祝福
「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」とあります。主イエスはただ手を置かれたのではありません。抱き上げて祝福されたのです。子供たちは、 主イエスの下に連れてこられました。そして、されるがままに、主イエスの手に抱き上げられたのです。そこに主イエスの祝福が与えられたのです。私たちが 全く無力な所において、主イエスは救いの御業を行って下さっているのです。主イエスが世に来て下さり、十字架に架かられたというのは、主イエスが私たち が何も出来ない所で、私たちの罪を贖い、救いを成就されたことを意味しています。私たちは自らの罪に対しては決定的に無力な者です。しかし、私たちが子 供のように自分が持っている力や、財産、人に誇ることが出来る歩みを主張するところではなく、何も出来ずただ、与えられるものを受け入れることしか出来 ない所に、罪の赦しという主イエスの救いがもたらされるのです。「子供のように神の国を受け入れるとは」、神の助けなしには、主イエスの愛なくしては、 自らの罪を前にして、自分自身で自分を救う手立てをまったくもたない、無力で弱い存在として、神の前に自らを差し出す者となるということにほかなりませ ん。そのような者のためにこそ、主イエスの十字架があるのです。
私たちは自分の持っているものによって救いを得ようとしている時、主イエスのもとにやって来てもそこを立ち去ってしまいます。主イエスの側にいることで、 自らを誇ろうとする時、主イエスのもとに連れてこられる者の妨げとなってしまうことがあります。自分を頼って、神様の豊かな救いを値踏みしているのです。 ただ、連れてこられる一人の子供のように、自らの罪に満ちた歩みの前で何も出来ずに、この方に委ねる時、祝福と共に、十字架で死んで下さったキリストの救 いが与えられるのです。
本日、共に聖餐に与ります。このことを通しても主イエスは、私たちに対する救いを示しておられます。私たちの持っている何かが、この聖餐に与る相応しさ ではありません。一人の幼子のように何も出来ない者であっても、抱き上げて下さる主イエスに委ねて、これに与るのです。そこに満ちあふれている救いの恵を 受け入れることによって、神様の救いの御支配の下を歩むのです。