主日礼拝

使徒の誇り

「使徒の誇り」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第53章11節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第9章12b-18節
・ 讃美歌;1、51、394

 
使徒の権利
 先週の礼拝において、コリントの信徒への手紙一の第9章1~12節前半までを読みました。そこに語られていたのは、主イエス・キリストによって、福音を宣べ伝えるために立てられ、遣わされた使徒たちに与えられている権利、あるいは自由についてでした。そこで特に強調されていたのは、教会から報酬を受け取って、それで生活しながら伝道をしていくという権利、つまり、自分の生活のために何か他の仕事をしながらではなく、専心伝道のために、み言葉を宣べ伝える生活をしていくという権利です。そのことは、本日の箇所の13、14節にもこのように語られています。「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」。神殿で働く祭司たちは、人々が神様に献げる捧げものの分け前にあずかり、それによって生活していたのです。それはイスラエルの神殿においても、また他の神々の神殿においても同じでした。祭司は、人々と神樣との仲立ちをします。その働きをする者が、その恩恵をこうむる人々によって生活を支えられるのは当然のことなのです。それと同じように、福音を宣べ伝えている使徒たちが、そのことによって福音の恵みと喜びにあずかった人々によって生活を支えられるのは当然なのです。主ご自身がそのことを指示されたとあるのは、例えばマタイ福音書の10章10節で、主イエスが弟子たちを伝道へと遣わされた時に、「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」と言われたことを指しているのでしょう。

牧師就任式における教会員の誓約
 ちなみにこの「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」という言葉は、牧師の就任式において教会員に求められる誓約の言葉の中に引用されています。四年前にこの教会で私の牧師就任式が行われた時に、教会員の皆さんはこういう誓約をしているのです。「兄弟姉妹、主は福音をのべ伝える者が福音によって生活すべきことをお教えになりました。また聖書に『御言を教えてもらう人は、教える人と、すべての良いものを分け合いなさい』と書かれています。これは、主および使徒たちがねんごろに教会に教えたことであって、あなたがたもまたすでにこれを約束しました。あなたがたは、神の恵みによって、誠実にそれを守ることを約束しますか」。これはつまり、教会員が、献金によって牧師の生活をきちんと支えるという誓約です。皆さんがこの誓約を誠実に果して下さっているから、牧師、伝道師は他にアルバイトをする必要もなく、専心教会の働きをすることができているのです。

権利を用いないパウロ
 パウロが語っている使徒の権利はこのように、牧師、伝道者の権利へとつながっているわけですが、パウロはここで、自分がその権利を享受するためにこれを語っているのではありません。むしろ彼が語ろうとしているのは、12節後半の「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした」ということであり、15節の「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです」ということです。使徒たちに当然のこととして認められており、主イエスご自身も指示しておられるこの権利を、パウロは、またパウロと共に伝道していた何人かの人々は、全く用いないで、つまり教会から一切報酬を受けずに、自分の生活費を自分で働いて稼ぎながら伝道をしていたのです。しかもパウロは今読んだように、この権利を用いるぐらいなら死んだ方がましだとまで言っています。これはかなりヒステリックな言い方であると言わなければなりません。パウロはそこまで頑固に、依怙地になるようにして、使徒としての権利を用いまいとしているのです。それは何故なのでしょうか。12節の「かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」という言葉が、その理由を語っています。「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」ということが、パウロが使徒としての権利を用いない理由です。教会から報酬を受けて伝道していくと、そのことがキリストの福音の妨げになることがある、と彼は考えているのです。それは第一には、もともとはユダヤ教ファリサイ派の律法教師であり、教会の迫害者だったという彼の前歴によることです。そのために、当時の教会の中には、パウロの語ることをただでさえまともに聞こうとしない人々がいたのです。中には、パウロは教会からの金目当てに改宗したのだとか、教会を自分のために利用し、食い物にしている、と中傷する人々もいたようです。パウロは、自分の行動がともすればそのような誤解や中傷の種となってしまうことを意識していたので、それを極力避けるために、教会から報酬を受けないで伝道をしていったのです。キリストの福音が、お金のための手段のように思われてしまうのは悲しいことであり、福音の妨げです。今日の私たちの社会においてもそういうことは多々あります。確かに世の中には、お金もうけのためとしか言いようがないような宗教がいろいろとありますし、宗教団体が莫大な金を集めているという事実がありますので、意地悪な見方をする人は、宗教なんてどうせ教祖や指導者の金儲けのためのものだろう、と思っているのです。そのように思われてしまったら、福音は福音として伝わりません。大きな妨げを受けてしまうのです。

誇り、心意気、志
 パウロがこのように福音への妨げを取り除くために使徒としての権利を用いなかったのは確かなことです。けれどもそこには、もっと別の理由もあったのです。そのことが15節の終わりの言葉からわかります。そこには「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と言われています。「わたしのこの誇り」と彼は言います。パウロは、使徒としての権利を行使しないことに、誇りを持っているのです。彼は、誇り高く生きようとしているのです。先週は、パウロの使徒としての「心意気」ということを申しました。それはパウロ自身の言葉で言えばこの「誇り」です。パウロはキリストによって立てられた使徒としての誇りをもって、心意気をもって生きているのです。それは使徒である人々だけの話ではありません。キリストに召され、招かれて信仰者になった私たちは誰でも、このような心意気をもって、誇りをもって生きるのだし、生きることができるのです。明治から大正にかけての日本のキリスト教会の代表的指導者の一人であり、この教会が受け継いでいる長老教会の伝統の先達だった植村正久という人は、「志(こころざし)」ということを強調しました。この言葉も同じことを意味していると言ってよいでしょう。キリストを信じる信仰は私たちに、志を、心意気を、誇りを与えるのです。

倫理の土台
 今日の私たちの社会において、ということは私たち一人一人においてということですが、最大の問題は、この志、心意気、誇りが失われてしまっていることではないでしょうか。現代の日本人はどのような志をもって、どういう心意気をもって、何を誇りとして生きているだろうか。残念ながらそんなものはなくなってしまったと言わなければならないのではないか。戦前の日本人はそれを持っていたと思います。それが間違った方向に向けられてしまったために、大きな悲劇を生み、周りの国々の人々にも大きな苦しみを与えてしまったことは確かですが、戦前の日本人に、今日にはない活力があったということは言えるだろうと思うのです。志、心意気、誇りは、活力を生みます。目的に向かって努力し、困難を克服していこうとする力を生みます。またそのために自分を律して、我慢すべきことを我慢し、たとえ自分に損になってもなすべきことをなしていくという秩序と規律ある生活を生みます。言い替えれば、倫理が生まれるのです。今日の私たちの社会において最も失われてしまっているのがこの倫理です。政治家からも、官僚からも、全部とは言いませんが多くの企業からもそれが失われ、社会の至る所で、もはや倫理が崩壊し、消え失せてしまったと言わざるを得ない事態が生じています。どうしたら倫理を回復していけるのか、あるいは新たにそれを構築していけるのかが、私たちの重い課題だと言わなければなりません。「美しい国」などという抽象的なお題目を唱えていても何も変わりません。教育基本法を変えたり、教育の再生のための新しい法律を作ったり、公務員制度の手直しをしてみたりということによってどうにかなるものでもありません。倫理の喪失の根本にあるのは、志、心意気、誇りの喪失なのですから、それが回復されなければ問題は解決しないのです。いわゆる「自由主義史観」を主張している人々はその点を問題にしており、日本人が民族の誇りを回復しなければならないと主張しています。しかし誇りの回復は、彼らが言うような、戦前の日本をただ礼賛し、そこでの過ちに目をつぶるような仕方でなされるべきではないことは明らかです。新たに獲得されるべき志、心意気、誇りは、この国の殻の中に閉じ籠って、精神的鎖国状態の中でしか通用しないようなものであってはならないのです。それはもっと広く世界に通用する、他国の人々の理解をも得られ、共有していけるようなものでなければならないでしょう。

ゆだねられた務め
 パウロがここで語っており、彼自身がそれによって生きている誇り、心意気、志は、私たちがこのことを考え、自らに新たな誇り、心意気、志を獲得していこうとする上で、大事な導きを与えてくれます。パウロは誇り高く生きており、15節の後半では「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と言っています。しかし彼は次の16節ではこう言っているのです。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。使徒として福音を告げ知らせていることが彼の誇りです。しかしそのことは自分の誇りにはならない、とも言います。何故ならば、自分はそうせずにはいられないからだ、福音を告げ知らせないなら、自分は不幸なのだ、と言っているのです。それはつまり、彼は福音を宣べ伝えることによって、「自分はこんなにすばらしい、意味ある、良い働きをしている」という誇りを得ているのではない、ということです。彼は、伝道せずにはいられないから伝道しているのです。そのことが次の17節ではこう語られています。「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」。つまり彼が福音を宣べ伝えているのは、自分が、これは良いことだからいっちょうやってやろう、と思ってしていることではないのです。もしそうなら、報酬を得ることができる、つまり、そのことを誇ることができるだろう。しかし実際はむしろ「強いられて」しているのであり、「ゆだねられた務め」を果たしているにすぎないのだから、誇ることはできない、というのです。「強いられて」と言っているのは、「いやいやながら仕方なく」福音を宣べ伝えているということではありません。そうではなくて、これは自分が選び取ったことではない、むしろ自分は主イエス・キリストに捕えられて、この務めを与えられたのだ、ということです。だから、自分はこんなに立派なことをしているんだ、と言って自慢できるような事柄ではないのです。つまりパウロの誇り、心意気、志は、自分が何か意味あることをすることができている、という自負によって支えられているのではなくて、キリストに捕えられ、務めを委ねられたことによって与えられたものなのです。これはとても大事なことです。誇り、心意気、志は、自分の中に、自分はこんなに優れている、立派なことができる、という何かを見出すことによって得られるものではないのです。自分の中に立派さを見出して、それを誇りとして生きようとするときに、その誇りは虚栄となり、傲慢となり、人を傷つけ、交わりを阻害するものになるのです。主イエス・キリストと出会い、捕えられる前のパウロがまさにそうでした。律法を完璧に行っているという自分を誇りつつ生きていた彼は、迫害の先頭に立つ者だったのです。それは戦前の日本の姿ともつながるものです。天皇を中心とする日本民族こそ、大東亜の指導者たるべく選ばれた者だという誇りが、他の民族を支配し、その文化や言葉を奪い、神社参拝や日本語を強制していくようなことを生んだのです。今「日本人としての誇り」を強調しようとしている人々が主張しているのはそのような誇りであって、それは決して幸福な結果をもたらさないのです。

無報酬で
 私たちが新たに獲得していくべき誇りは、自分は立派だ、優れている、ということによって得られる誇りではなくて、主イエス・キリストに捕えられ、任務を委ねられるところに与えられる誇りです。その誇りによって私たちはどのように生きるようになるのかをパウロがここで示してくれています。18節に、「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです」とあります。自分が使徒として当然持っている権利を用いずに、無報酬で福音を告げ知らせていく、それが、パウロが主イエス・キリストによって与えられた誇り、心意気、志によって生きている姿であり、そのことを彼は、「これが私の報酬だ」と言っています。それはつまり、私はそのことを喜びとしている、そこに生き甲斐を、充実を見出しているということでしょう。教会からの報酬を受けることなしに、自分の生活の糧を自分で稼ぎながら伝道をする、そこには様々な苦しみがあり、不自由があり、忍耐しなければならないことがありました。しかしその苦しみ、不自由を自分から積極的に、喜んで背負っていく志、心意気に彼は生きていたのです。それが、使徒としての誇りに生きている者の姿なのです。

主イエスの恵みに応えて
 パウロのこの喜びと生き甲斐は、どこから来たのでしょうか。それは、彼が出会い、捕えられた主イエス・キリストご自身のお姿からです。主イエス・キリストは、神の独り子であられ、まことの神としての権威と力とを持っておられたのに、それを捨てて一人の人間となられたのです。しかもあのベツレヘムの馬小屋で、誰からも顧みられない弱い貧しい姿でこの世に来て下さったのです。そしてそのご生涯は、弱い、貧しい、苦しんでいる、悲しんでいる人々を、何の報酬をも求めずに助け、癒し、彼らに、神様の恵みのご支配を宣べ伝える歩みでした。そして最後には、人々の罪と苦しみをご自分の身に背負って、十字架にかかって死なれたのです。それらのことを主イエスは何の見返りをも求めずになさいました。自分の周囲に支持者を集めて一つの勢力を結集することすらなさらなかったのです。弟子たちは、主の十字架の時にはみんな逃げ去ってしまい、主は一人で、孤独の内に十字架の苦しみと死をとげられました。全く報われることのないその死が、しかし実は、私たちの罪の赦しのために父なる神様が備えて下さったことだったのです。父なる神様はそのことを示すために、主イエスを復活させて下さいました。主イエスの死と復活によって、私たちは罪を赦され、神様の祝福の下に新しく生きることができるようになったのです。それが私たちに与えられている救いです。これは全く無償で与えられる恵みです。この救いにあずかるために私たちは、お金を払わなければならないわけでもないし、特別に何かよい行いをしなければならないわけでもありません。主イエス・キリストによる救いを信じて受け入れるだけで、それにあずかることができるのです。それがキリストの福音、喜びの知らせです。パウロはこのキリストの福音を否定し、神様に敵対し、この信仰を撲滅しようとしていたのに、神様が彼を選んで下さり、捕えて下さり、救いにあずからせて下さり、この福音を宣べ伝える使徒として立てて下さったのです。主イエス・キリストによって与えられたこの神様の恵みこそが、パウロが無報酬で伝道をすることを喜びとし、生き甲斐とした心意気の源です。主イエス・キリストの、報酬を求めない恵みによって救われ、新しく生かされているがゆえに、自分も報酬を求めずにその福音を宣べ伝えていくことを喜びとすることができるのです。主イエス・キリストが神としての当然の権利や権威、誉れを放棄して人間となり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったがゆえに、自分も、自分の当然の権利を放棄して様々な苦しみを忍耐して生きることに生き甲斐を感じることができるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書53章11節には、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」とあります。パウロは、これが主イエス・キリストの思いであり、主イエスの苦しみの実りとして今自分が福音を委ねられ、立てられていることを知ったのです。そしてそれを知った時に、この言葉は彼自身の思いにもなった。彼もまた、自らの苦しみの実りを見て満足し、喜ぶ者となったのです。 ヴォランティアの志  主イエス・キリストと出会い、その恵みに捕えられることによって、私たちはこのような、新しい誇り、心意気、志を与えられます。パウロにおいてはそれは、無報酬で福音を宣べ伝えるということでした。私たち一人一人が、それぞれの生活の中で、同じような誇り、心意気、志に生きる者となるのです。それは、皆がパウロと同じような伝道者になる、ということではありません。神様はそれぞれに違った働き、違った使命を与えていて下さるのです。しかしどのような働き、使命を与えられているとしても、そこで私たちはこの、報酬、見返りを求めずに奉仕していくという心意気、志に生きるのです。それはヴォランティアの志と言ってもよいでしょう。私たちが、またこの社会が獲得していくべき新しい誇り、心意気、志の方向性はまさにここにあるのではないでしょうか。報酬を求めず、ヴォランティアで様々な奉仕を、国の内外において行っていく、そういう動きは、既にいろいろな仕方で始まっています。繰り返し起る地震などの災害の被災地に出向くヴォランティアの活動、また国内外のいろいろなNGO活動などに、この社会の新しい誇り、心意気、志の胎動があると言ってよいでしょう。それは、戦前の日本をなつかしみ、天皇を中心とする国家への愛国心を養おうとする人々とは全く違う、希望のある歩みだと言えると思います。私たちが与えられている主イエス・キリストの福音は、そのような心意気と志を私たちに与えるものなのです。そもそも教会は、全く無報酬の、ヴォランタリーな群れです。毎週礼拝に行ってお金がもらえるわけではありません。むしろそこでは献金をするのです。教会員であることは、自分の時間と、様々な力と、またお金を、要するに自分自身を神様に、教会に献げていくことです。目に見える形での見返り、報酬は何もありません。しかし私たちは喜んで礼拝に集い、時間と力とお金を献げていくのです。そのような歩みを支えているのは、神様の独り子主イエス・キリストが、私たちのために、ご自分の権利を捨て、何の見返りも求めずに、命を献げてくださった、そのようにして与えて下さった救いの恵みに感謝し、それに応えていこうとする思いであり、そのように生きることを喜び、誇りとする心意気、志なのです。教会こそ、私たち信仰者こそ、この誇り、心意気、志をもって生きる者の先頭に立つことができるはずなのです。

伝道献身者が起されるように
 私たちがそのような誇り、心意気、志をもって生きていく者とされていく中で、キリストの福音を宣べ伝え、教会に専心仕える牧師、伝道者となろうという志を与えられる者も私たちの中から豊かに起こされていくことを祈り求めたいと思います。先ほども申しましたように、それだけが信仰の心意気をもって生きることではありません。しかしそれも、主イエスの恵みに応えて自分を献げていくための大切な道です。それを、自分とは関係がないこと、と思ってしまってはならないのです。そして教会は、そのような志を与えられ、献身した者を、パウロも語り、何よりも主イエスご自身が命じておられるように、その生活をきちんと支えていく必要があります。牧師の就任式においてなされる誓約はやはり大事なことです。パウロは無報酬で伝道をしたということが、伝道者の生活をきちんと支えないための口実に用いられてはならないのです。しかしまた、牧師、伝道者は、生活の保証がなされていればなる、というようなものではありません。やはりまず第一には、主イエス・キリストがその命を、何の報酬も求めずに与えて下さった、その福音の恵みに応えて、それを宣べ伝えるために生涯を捧げるという志、心意気がなければならないのです。その志に応えて、教会はその生活を精一杯の努力をもって支えていくのです。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていく伝道のために苦労を負い、時間と力とお金を、つまり自分自身を献げることを喜びとする誇り、心意気、志が、私たちのこの群れに満ち、その中から、新しい伝道献身者が、また様々な形で神様と教会に仕える人々が起こされていくことを、祈り求めたいと思います。

関連記事

TOP