夕礼拝

苦しむ裁き主

「苦しむ裁き主」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; ミカ書、第7章 1節-12節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第12章 49節-53節
・ 讃美歌21; 233、313、 聖餐式 74

 
1 (クリスマスのイメージ)
待降節第二の主の日を迎え、礼拝堂の入り口のクランツには二つ目のろうそくの明かりが灯っています。クリスマスに備えて、毎週日曜日にろうそくの明かりを一本一本ともしていくのは、楽しいものです。なんとなく心が少しずつ暖まっていくような気にもなります。私が学生時代に出席していた教会ではクリスマス・イブの夕べには、一人一人が蝋燭に火を灯して、それを持って礼拝をしました。その日には大学食堂も中を暗くして、机の上に置いたキャンドルを灯し、暖かな雰囲気を醸し出した中で、特別な料理が用意されるのです。クリスマスが近づく中で私たちが火を思い浮かべるのは、こうしたなにかロマンティックで心温まるようなイメージと結びついてのことであります。火の中に優しく包んでもらって、心も体も癒される。恋人と幸せな時を過ごす。そういう心弾むような思いと結びついたものとして、ともし火に灯る火も受け止められることになります。

2 (神の火)
ところが、そんなわたしたちの心に切り込んでくるような勢いをもって主が語られたお言葉があります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(49節)。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。主イエスはいつも私たちには驚くべきことをおっしゃいます。しかし今日のお言葉はその最たるものと言ってもいいかもしれない。主イエスに対する私たちのイメージをひっくり返し、ぶち壊すお言葉だからです。うっとりとしかけていた私たちの心をたたき起こすような激しさ、厳しさに満ちたお言葉です。私たちはこの御言葉を聴いてうろたえざるを得ない。戸惑わざるを得ない。いったいどうしたらいいのか分からなくなる。主イエスがこの世に来て下さった。それはこの世界に平和をもたらすためであった。この世に平安を与え、「大丈夫だ、わたしが来た。もう心配要らないよ」、そうおっしゃっていただくためであった。私たちはそう思ってきたし、またそういうふうにいつも聞いてきたではないか。いったいいつ、神様は御心を変えてしまわれたのだろうか。方針変更をしてしまわれたのだろうか。
そもそも、御子イエス・キリストがお生まれになった夜に、天使の大軍はこう歌ったのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2:14)!ほかならない、ルカが伝えている天使の歌です。「地上に平和がもたらされるためにこそ、わたしは来た」。私たちはそうおっしゃっていただきたいのです。なぜクリスマスを迎えようとするこの時に、こんな気分の重くなる御言葉を聴かなくてはならないのだろうか。クリスマスだというのに!それよりも、これぞクリスマスの聖書箇所、そう呼べるような、親しみ深いところをこそ聴きたいものだ。三人の博士が跪いて御子を拝んだとか、羊飼いが幼子に会いに行ったとか、そういう話をこそ聞きたいものだ、そんな思いも浮かんでこないわけでもない。けれどもそんな時、私たちの中で御言葉の選り好みが起こっていないか、私たちは自らを省みる必要があるのではないでしょうか。主イエスの御言葉が持っている鋭さ、激しさを弱め、柔らかにして、聞いても耳に痛くないものに変えてしまっているのではないか。あるいは聞きたくない時には、耳を閉ざしてしまっているのではないか。都合の良いところ、聞いても重苦しい気分にならないところしか聞かなくなってしまってはいないか。その時、クリスマスの本当の重み、そこに秘められた本当の恵みもまた聞こえてこなくなってしまうのではないか、よく思い見る必要があるでしょう。
今日の箇所は待降節やクリスマスの時期によく読まれるわけではありません。けれども確かに、御子イエス・キリストがお生まれになったこととの深いかかわりの中で受け止められ、聴かれるべき御言葉なのです。なぜならば、主はここで、「わたしが地上に来たのは一体何のためだと心得ているのか」、そう私たちに問うておられるからです。「わたしがこの世に乳飲み子として生まれたのは何のためであったか」、そう問われているのです。私たちは当然の如く、「それはこの地上に平和をもたらすためです」、そう答えたいのです。そう答えながら、さらに「どうぞあなたの平和の下に私たちを憩わせてください」と付け加えつつ、主の下に擦り寄っていこうとする。近づいていきたい気持ちになる。ところが主はここで、私たちが主に触れようとするその手を「甘ったれるな!」といわんばかりに叩き払っておしまいになっているかのようです。「そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。
 主イエスがこの地上に来られたおかげで、むしろこのお方に対する態度の取り方を巡って対立が生じる。このお方を受け入れるのか、拒むのかによって家族の絆さえ揺るがされるような深刻な分裂、争いが生じるというのです。「地上に投ぜられる火」とは、こうした分裂を生じさせる神の怒りの火、裁きの火であります。聖書において「火」は神の裁きと深く結びついています。詩編の詩人はこう歌っています、
「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し
そのまぶたは人の子らを調べる。主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み
逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り
燃える硫黄をその杯に注がれる」(11:4-6)。
私たちがこの地上で、自分たちで掲げる火はすべて自分の選り好みに基づいて、つけたり消したりできる火であります。ろうそくの火、もしそれが気にくわなければふっと吹き消してしまいます。またこの火は私の心を温めてくれる明かりなんだ、と自分に都合よく解釈して受け止められてしまうものです。あるいは地上の争い、戦争の中で、今もあちらこちらで武器が火を噴いています。これもまた自分たちの正しさを主張し、相手を裁く火であります。私たちが自分の正しさを主張する時、それは自分の目から見て正しくない者を赦せない、不義を殺す思いと結びつきます。皆が自分の火を掲げて互いを裁きあい、傷つけ合っている。戦争ばかりではない。私たちの毎日の歩みは、このお互いの義の衝突のために人に傷つけられたり、また自分も知らぬうちに人の心を殺してしまったりしている、そういうことの繰り返しではないだろうか。
けれども、今主がこの地上に投げ入れられる火は、これら地上で燃やされているもろもろの火とは違うものです。むしろ人間が自分勝手にそれぞれ掲げている自己主張の火、自分の正しさを押し通そうとするための火、そういう火を飲み尽くし、滅ぼしてしまう「神の火」です。神の正しさをもって、私たちの独りよがりな自己主張の火を呑み込み、焼き尽くしてしまう火なのです。

3 (主が受けねばならない洗礼)
聖書を読む時、御言葉を聴く時にさえ、自分の好みに合うように、神の言葉を捻じ曲げてしまうような頑なな私たちを、神の火が裁き、滅ぼされる。私たちを恐れさせ、不安に陥れる御言葉です。けれども、その後に続く主のお言葉は不思議です。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(49-50節)。私たちはこう思うかもしれない。もしこれが裁きの火であるならば、主のお言葉はこうなるはずではなかったか。「さあ、この火の中で苦しむがよい。あなたたちのなしてきた自分勝手な行い、自分の正義を立てようとする傲慢の火を、わたしの怒りの火が飲み尽くし、焼き尽くすのだ!御言葉の前でも自分を甘やかしているようなあなたたちは苦しみが足りない。痛みが足りない。悲しみが足りない。この裁きの火の中でそれをとことん味わい尽くすがよい」。ところが、主はそうはおっしゃらなかった。主は御座にお座りになって私たちを裁かれ、私たちが苦しめられるのを高みから見物しておられるお方ではないのです。「その火が既に燃えていたら」と嘆き、この裁きが今まさに降されようとしていることをご自身の痛みとしてくださっている。「わたしはどんなに苦しむことだろう」と恐れを味わい、ご自身苦しまれているのです。
ここで主が受けねばならない「洗礼」とはいったい何なのでしょうか「洗礼」とは、もともと「どっぷりと浸す」という意味です。水にどっぷりと浸され、洗い清められるのです。私たちの教会においては、水に濡らした手を頭に置くことによって洗礼が授けられますが、そこで象徴的に表現されているのは、この「どっぷりと水に浸されること」なのです。しかもこの水に沈められ、どっぷりと浸される中で、私たちは古い自分に死ぬのです。罪にまみれ、神の正しさを前にしてもなお自分の義をふりかざしてやっていけるものと思い込んでいる自分はここで死に、新しい命に生かされてこの水の中から立ち上がらせていただくのです。その意味では洗礼は、それまで生きてきた自分にとってみれば、試練であります。人生の危機です。しかしここで主は、この私たちが新しく生まれ変わらせていただく道を切り拓くために、ご自身が最大の試練を覚悟されている。私たちに救いの道を拓くためにまずご自身が最大の危機を担うことを思い定めておられるのです。これも詩編の詩人の叫びにあります。
「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く」(42:8)。
主イエスは、神の怒りの裁きを行うお方として、この地上に裁きの火を投げ入れるために来られました。けれどもまた、この裁き主はご自身が自ら、その裁きを身に受け、苦しまれる、そういう裁き主なのです。「それが終わるまでわたしはどんなに苦しむことだろう」。この言葉はこうも訳すことができます。「それが成し遂げられるまでわたしは心配でたまらないのだ」。「苦しむ」という言葉はまた、そのことで心がいっぱいいっぱいになっている。他のことにかかずらわっている余裕などないほどに、そのことばかりで心が占拠されているという意味でもあるのです。聖書のほかの箇所では「専念する」とか「駆り立てている」とか訳されてもいます。主イエスのご生涯はご自身が受けるべき苦しみ、担うべき裁きに、すべての思いを集めていく、そのことに「専念する」、そのことに思いが「駆り立てられないではおれない」、そういうご生涯でした。それはほかでもない。私たちが受けるべき裁きを免れさせていただき、私たちが主イエスと結ばれ、父なる神との生き生きとした交わりに生かされるようになるためなのです。

4 (苦しむ裁き主) 
不思議なことです。裁き主としてこの世にやって来られながら、主はその裁きを真っ先にご自身の身に負ってくださっているのです。それはなぜでしょう。裁きがこのようにして貫かれなければ、罪人である私たちが、本当の意味で神に近づくことはできないからです。主イエスと結ばれることはできないからです。自らが裁かれねばならない存在であることを適当に誤魔化して、主イエスは優しい、いいお方、何をしても赦してくださる私たちには都合のいいお方、その程度の思いでもってなれなれしく主イエスに擦り寄ろうとするならば、この御言葉が私たちの甘ったれた信仰をたたき起こしてくださるのです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。私たちを本当に神に近づくことのできる者としてくださるために、私たちを本当に主イエスに結ばれた者としてくださるために、主は自身の命を注がれ、私たちの受けるべき裁きをその身に負ってくださったのです。裁き主が私たちに代わってその裁きを受け、苦しんでくださったからこそ、今のキリストに結ばれた私たちがある。神のものとされた私たちがいる。だとしたら、裁きを見つめないで、恵みや赦しのみを見つめるなどということはあり得ないではないか。裁きを重く受け止めることなしに語られる愛などは、安易で安っぽい愛でしかないではないか。それが私たちへの主の問いかけであります。
 主が裁きの火をこの地上に投げ入れ、分裂をもたらされるのは、むしろ私たちが本当に神に近づける者とされるためにこそ、必要なことであったのです。
主イエスがこの世に来て下さった。それは確かにこの世界に平和をもたらすためなのです。神は御心を変えてしまわれたり、方針変更をしてしまわれたりしたのでは決してない。むしろ私たちをご自分のものとしてくださるために、最後までその決意を貫かれたがゆえに、独り子であるキリストは裁きを担ってくださったのであり、この世は救いの完成に先立って分裂を通っていかねばならないのです。
5 (分裂を越えて-裁きを通じて貫かれる愛)
主が来られたがゆえに、私たちはこのお方に対して、どのような姿勢を取るのかが問われます。苦しむ裁き主を本当にこの私の主人とするところに立つのか、それともこの主が身に負われた裁きをあたかもそれがなかったかのごとく歩み続け、ついに自分の身にまともにその裁きを受けることになる道を歩んでいくのか。旧約聖書のミカ書は、家族の中にさえ生じる、主イエスを巡る分裂を語っています。「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にもお前の口の扉を守れ。息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(7:5-6)。ここが主イエスによって引用されているのです。本当に主に結ばれる者とされるためには、家族の間の絆さえ、一度は振るい払わなければならない。主の愛に生かされた者として、この家族をも、新しく神の御手から受け取り直すことができるようになるためです。主が来て下さった、それゆえに生じる分裂があるのです。主が来なければ、この地上に生じなかったであろうような分裂を、私たちは主を知ってしまったばかりに通っていかなければならないこともある。しかし、この主の下に立つがゆえにこの世で対立や分裂を経験することになっても、私たちは次のことを魂に深く刻み込んで、望みを新たにするのです。今の苦しみや分裂、対立を何よりも主イエスご自身が先んじて体験され、苦しまれ、嘆きと悲しみもろとも、その身に負ってくださったことを、です。主が先んじてすべての悩みと苦しみを身に負ってくださっているから、私たちも自分に与えられた分を主と共に担い歩ませていただけるのです。この分裂の彼方で、主が私たちを神のものとし、神との間に平和を得させてくださったように、やがてこの家族もまた、主との間に平和を得るように主が導いてくださる。それゆえ家族とこの私との間にも神の平和を満たしてくださる、そのことに望みを置いて捧げる私たちの祈りを聴いてくださっているのです。  主が私たちのところへ来てくださったのは、裁きを通じて、私たちに対する愛の真実を貫かれるためなのです。私たちが受けるべき裁きをご自身が身に受けて苦しまれる、という驚くべき仕方で、私たちを救い、愛の真実を貫かれる、それが私たちの主です。「苦しむ裁き主」が、私たちの主なのです。この主の愛の真実を信じたからこそ、神の裁きの中でどちらに立つのかを巡って、家族の間に分裂が起こっている最中でも、預言者ミカは祈ることができたのです。7節、「しかし、わたしは主を仰ぎ わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」。さらに神がお与え下さった新しい約束に望みを置いて歩み続けることができたのです。18節、19節、
「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる」。この預言を実現させるために独りの幼な子として来られた私たちの主、このお方こそ「苦しむ裁き主」なのであり、またそのことを通してまことの平和を実現してくださる「平和の主」なのです。

祈り
 ご自身の独り子をお与えになるほどまでにこの世を愛し抜いてくださっている父なる神様、あなたはこの愛を貫くためにこそ、独り子を通してこの世に分裂をもたらす火を投げ込まれました。しかしこの火によって私たちの不義の炎が呑み込まれ、燃やし尽くされ、ただあなたの恵みのみによりすがる命の道を新たに切り拓いてくださったことを感謝いたします。独り子がこの世に降すべき裁きを、ご自身がその身に負われる、そのような仕方で裁きが貫かれることなしに、あなたの愛の真実もまた貫かれなかったことを、深く魂に刻ませてください。あなたの側につくために、この世にあって家族をはじめ、さまざまな人々からの無理解や非難、分裂や対立にぶつかる時、あなたが最後にはすべての分裂を、愛によって癒してくださることを信じ、願わくは私たちもまたあなたへの真実を貫くことができますように。何よりも主が先立ってすべての裁きをその身の上に全うしてくださっている。そこから今日という一日を生きる力を得させてください。今あなたがここに備えてくださいました主の食卓に与ることによって、聖霊の火を私たちの内に燃え立たせ、救いの完成を待ち望む思いを、ここに新たにすることができますように、 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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