夕礼拝

神の前での豊かさ

「神の前での豊かさ」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 出エジプト記、第2章 11節-15節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第12章 13節-21節
・ 讃美歌21; 378、361、 聖餐式 73

 
1 (ちょっと拍子抜けする訴え)
 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)。主イエスのお話を聞いていた群衆の一人が声を上げました。きっと遺産の相続に関する問題で、心がいっぱいになっていた人なのでしょう。これは私たちが日常、よく見聞きする問題であるし、また自分自身がその問題で本当に苦労させられたという経験のある方もいらっしゃるかもしれません。けれども、12章の初めから読んできた私たちにとりましては、この人の主への嘆願は、何か唐突な感じがいたします。突然飛び出してきた話題のような印象を受けます。ここに至るまで主イエスがお語りになってこられたのは、人々の前で主イエスについてどのような態度を自分が取るのか、そのことが持つ決定的な意味でした。人々の前で公に主に対する態度を明らかにする、そこで主イエスの仲間と言い表すのか、それともいや主イエスなんて知らないと言うのか、どちらであるかによって、私たちが終わりの日、裁きの時に再び来られる主イエスに何とおっしゃっていただけるかということもまた、違ってくるということでした。 そこで迫害によって命を失うことを恐れるのか、それとも本当に恐れるべきお方、まことの主なる神を恐れるのか、どちらの道を歩むかによって、私たちの生き方がまるっきり変わってくるということでした。ここに語られているのは、この世に生きていながら、終わりの時を見つめつつ歩む心の姿勢です。
 ところが、この遺産相続をめぐる訴えは、私たちを突然、この世の毎日の煩わしい営みの中に引き戻してきてしまったような印象を受けるのです。ちょうど教会で説教を聴いている最中に、家のローンの問題が気にかかる、買い物や、仕事上の取引で損をさせられた時の苦々しい思いがふと思い出されてくる、それと同じであります。主イエスが、神が、お語りになっておられる時に、心がふいとどこかに飛んでいってしまう。日々私たちをとりこにし、煩わせている、生きるために必要な問題、お金の問題が、説教のただ中においてさえ、神の言葉を聴いているただ中においてさえ、頭をもたげてくる。いつものもろもろの問題がむっくりと起き上がってきて、まさに今語りかけられている神の言葉さえも聞こえなくしてしまう。「心ここにあらず」のような状態になってしまう。それが私たちの抱えている弱さです。

  2 (主イエスは私たちに奉仕する僕ではない)
 この人もまた、きっとさっきまで兄弟と遺産相続の問題を巡って言い争いをしていたのでしょう。その心が静まらないような中で、自分の思い通りにならないことへの苛立ちを押さえきれないまま、今ここにいるのです。当時守られていた掟によれば、親が亡くなった場合、その財産の多くは長男に受け継がれました。きっとこの人は弟で、兄の方にがっぽりと遺産を持って行かれてしまったのでしょう。「たとえ兄ほどではなくても、自分にもしかるべき取り分はあるはずではないか」。この人の心の思いが聞こえてきそうです。はっきり言ってこの人にとっては、これまで語られた主イエスのお話は、あまり心に入ってきていないのです。むしろあの財産相続の問題をどうするか、そのことで頭がいっぱいなのです。そこでこの主イエスをも、この自分が抱える問題の解決にどうにか役立てることはできないだろうか。この人はそういう見方でしか、主イエスを見てはいないのです。「人を殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさい」と主がおっしゃった。そこでこの人はこう思 う、「ようし、それじゃあ、そういう権威を後ろ盾にしているこの人に頼んで今の自分の問題を解決してもらおう。この人が神の権威を後ろ盾にして、兄に財産をきちんと分けるように迫ってくれれば、兄は恐れをなしてすぐに自分の分け前をくれるはずだ」、そう思ったのであります。
 ところが主のお応えは、実にそっけないものでありました、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)。この主の御言葉は、先ほど読まれました出エジプト記2章の言葉を思い起こさせます。けんかをいさめたモーセに向かって、ヘブライ人がこう言い返したのです。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」(14節)。これは将来、神から遣わされた者として、イスラエルの民を導く者となるモーセを全く理解していない言葉です。まさに神の裁きと導きを担う者となる人だということに、このヘブライ人は全く気づいていません。
ところで今主イエスは、あのモーセのように、ご自分から財産相続の問題に介入されたわけではありません。そうではなく、群衆の一人から呼び出されて、無理矢理、裁判官あるいは調停人として引っ張り出されようとしています。自分からけんかに割って入ったモーセと立場はちょうど逆であります。けれども、人々に本当の自分の姿を理解してもらえなかったという点では、両者は共通しているのです。主イエスは、この財産相続の問題で心を煩わせている人が、自分に有利な解決に至る、そのお手伝いをするために来られたわけではありません。そうではない。まさに、「本当に恐れるべきお方」、主なる神を人々が知るために来られました。本当に恐れるべきお方を知ることによって、他の何ものをも恐れない、真に自由で大胆な歩みを、主イエスに従う者たちの中に形づくるために、このお方は来られたのです。「このわたしの仲間であると公に言い表して、わたしに従って来るのか、来ないのか」、この中途半端な姿勢を許さない、明確な問いかけを、真正面から受け止めることなしで、 主イエスの権威を自分の利益に奉仕するもの、役立つものとして利用しようとする、その心を主イエスは「貪欲」だとおっしゃり、退けられたのです。

3 (貪欲では満たされない人の命)
 「貪欲」、それは自分に必要な限度をはるかに越え出て、もっともっと欲しがる欲望です。また自分と同じようにさまざまな必要を抱えているはずの周囲の人の状況をも無視して、自分の欲望を満たしていこうとする衝動です。これは誰の中にもある、侮ることのできない力です。私の妻が妊娠してつわりに苦しんでいた時、気分転換のつもりで二人に散歩に出たことがありました。商店街でユーフォー・キャッチャーと呼ばれるゲーム機の一回無料券が配られていました。これはレバーを操作して箱の中にあるかわいらしいぬいぐるみを取り出すゲームです。見事つかみ出すことに成功すれば、そのかわいいぬいぐるみは自分のものになりますが、これがなかなか簡単にいきません。失敗すれば得られるものはなにもありません。無料券をもらったから一つ慰みにやってみるか、ということになりましたが、案の定、失敗です。それで終わってしまうにはあまりにも虚しい。一回100円だから、とコインを入れてもう一度やってみる。これまたうまくいかない。だんだん興奮してくる。気が滅入っている妻を喜ばせてやりたい、 そんな思いも手伝ってもう一回だけ、それでも駄目。そのあたりでやめにしておくのに結構苦労したのを覚えています。何気ない、日常の中にあるたわいもない話ではありますが、まさにそういうささいなことの中に貪欲が働くきっかけが、「もっと、もっと」、と欲望を駆り立てる力が忍び込んでくることを思いました。実際、それがとどまらなくて、大変な額のお金を賭け事やゲームですり減らすことも起こってくるのです。
 そこに主は語りかけられる。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15節)。「たくさんのお金をつぎ込んで高価な物を買いそろえていっても、あるいはお金そのものをどんどんため込んで富を築いていったとしても、そこであなたの命は、あなたの生活は本当の充実を味わうことができるのか。そういうところで味わうのがまことの命なのか。そこにあるのはとめどもない欲望の渦であり、まだ満たされない、まだ足りないとうめき苦しんでいる、欲求不満の固まりになっているあなたの姿だけではないか」、これが主イエスの問いかけであります。自分の欲望のために、神の権威さえも役立て、奉仕させようとする、私たちの中にある貪欲が問題とされているのです。「このお方は自分にどんないいことをしてくれるんだろうか?」、神をさえもそういう見方でしか見ることのできない私たちの心の頑なさが問われているのです。

4 (ある金持ちの福音)
 そこで主が話されたのが、ある金持ちの話です。ある年にこの人の畑が大変な豊作だった。そこで作物を倉にしまおうとしたが、充分な場所が確保できない。思い巡らした末に、この金持ちは考えつきます。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」(19節)。
 ある人は、ここでこの金持ちは自分に向かって説教をしている、と言っています。この金持ちは自分自身にこう語っているのです、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。口語訳ではこうなっています、「たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」。ここで金持ちが自分自身に語っているのは、この金持ち自身が造り出した福音、自分で築き上げた「喜び」です。福音とは「喜びのおとずれ」のことですが、この金持ちはその喜びを自分自身で造り出すことができると思い、今まさにそれが造り出せたと思って喜んでいるのです。ここには主なる神の眼差しは全く意識されておりません。そればかりでなく、この人が共に生きているはずの人々、隣り人、その中には苦しんでいる人、悩んでいる人、助けを必要としている人もいるに違いないであろう、一緒にこの地上で生きているはずの人間が、全く意識されておりません。この金持ちが語る福音は、自分だけの福音です。自分で造り出した喜びですから、「喜びのおとずれ」 ですらない。外から喜びが訪れる、その喜びに心を開くという話ではない。自分で自分がこれだと思う喜びを造り出している、自己満足の福音、モノローグ(独り言)の福音であります。「食え、飲め」、そこで見つめられているのも、自分が一人でこの蓄えを消費している姿だけです。主が備えてくださった喜びの食卓、主が分け与えてくださる命の糧に共に与り、喜びを共にする、そういう食卓ではないのです。自分で築き上げ、自分で消費するだけの世界なのです。

5 (神ご自身を喜ぶ)
考えてみれば、私たちの生きる世界は、そうやって、神なしで、自分で自分の人生を築き上げることができる、自分だけで自分の喜びを造り出すことができる、そう思いこみ、それを前提として営まれてきた世界なのではないでしょうか。そういうふうに生きるようにと、けしかけている世界なのではないでしょうか。「神の前に」あなたは本当に豊かと言えるのか、神も隣人も見失った自己満足の世界で、あなたは本当に満たされていると言えるのか、本当に充実した人生を歩んでいると言えるのか、鋭い問いかけの前に私たちは立たされているのです。
この問いかけの中で響き渡るのは、神の厳しいお言葉です。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20節)。「あなたがそうやって自分で楽しませようとしている命、それがもともと誰のものであるのか、あなたは分かっているのか」、そう神はおっしゃる。アダムにご自身の息を吹き入れて、人を生きる者としたのは主なる神です。その命を自分勝手に扱い、神に心を閉ざし、自分のいいようにしているならば、あなたの命は返してもらうぞ、というのです。「取り上げられる」という言葉は「返却を求められる」、「取り返される」という意味の言葉です。神からの命の返却要求、回収要求がつきつけられるのです。
 あなたが自分で営々と築き上げてきたと思いこんでいるその富は、その喜びは、今夜にも命が取り去られるであろう現実に堪えることのできる豊かさ、喜びなのか。私たちも自分自身に問うてみなければなりません。主はここで、富を積むことそのものを攻撃しておられるのではありません。そうではなく、富があるかないかに関わりなく、あなたがたを本当に生かし、本当に豊かにする主なる神の恵みに心を開くようにと、私たちを招いておられるのです。「神の前に豊かになる」ことへと招いておられるのです。ご自身の独り子をさえ、この世に降し、私たちの身代わりとして十字架につけられた、神の驚くべき愛の大きさ、豊かさにこそ与ってほしいのです。主が甦られたのと同じ、復活の命に、私たちも与ることを望んでおられるのです。この生ける主なる神との交わりに生きること、ここにこそ、本当の豊かさがある。ここにこそ本当の喜びがあるのです。ウェストミンスター大教理問答は、「人間の第一の、最高の目的」についてこう語りました。「人間の第一の、最高の目的は、神に栄 光を帰し、永遠に神を限りなく喜びとすることです」(問1)。他の何ものでもない、ただ神にとらえられ、神のものとされていること、この恵みの中に生ききることが、私たちを本当に豊かにするのです。死にさえも立ち向かえる喜び、死ぬことによってさえも損なわれない豊かさが与えられるのです。この神を、私たちはこの上ない富、かけがえのない財産とすることができるのです。だからこそ、私たちはこの世の財産についても、自由に関わることができます。それを自由に用いて、人を助けるため、支えを必要とする人に手をさしのべるために用いることもできるのです。財産を巡る思い煩いから解き放たれます。神の恵みにこそ心を開き、思いを集めることができるのです。
たとえこの世における財産がなくても、土地や家がなくても、名誉や名声がなくても、何一つ持っていなくても、私たちは死に打ち勝つ豊かさを与えられています。たとえ今晩命が取り去られようとも失われない、神の前で生き続ける喜びを刻み込まれているのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、この世の富の問題に思い煩い、その結果あなたの眼差しが見えなくなり、あなたのみ声に心を閉ざしてしまうことたびたびの私どもであります。どうか今、あなたを喜びとするこの歩みの中で与えられている本当の豊かさに、心の目を開かせてください。今日もここにあなたが恵みの食卓を備えてくださっています。あなたを喜びとする歩みをまた一歩刻む時です。本当の豊かさに与らせていただく食卓であります。「食べたり飲んだりして楽しめ」と虚しい自己満足にふけるのではありません。あなたが招いてくださり、「取って、食べよ。この杯から飲め。罪を赦すためのわたしの体であり、わたしの血だ」、そう語りかけてくださる豊かな食卓です。何があっても、どんなことがあっても決して失われない、損なわれることのない、「神の前での豊かさ」に、私どもが与らせていただいていることを、今腹の底から味わわせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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